アナログ派の愉しみ/映画◎増村保造 監督『妻は告白する』
女性の本能、
男性の本能
法廷ミステリーの醍醐味は、容疑者の白黒をめぐって繰り広げられる詭弁ギリギリの弁舌の応酬にあるだろう。そうしたなかでも、わたしの知るかぎり、増村保造監督の『妻は告白する』(1961年)の裁判における弁護士の論述はひときわアクロバティックなものではなかったか。
事件の内容はシンプルだ。被告の滝川彩子(若尾文子)28歳は、大学薬学部で助教授の地位にある夫・亮吉(小沢栄太郎)と、製薬会社の営業マン・幸田修(川口浩)の3人でザイルを組んで北穂高の第一尾根岩壁を登攀中、先頭の夫が足を滑らせて宙吊りになると、自分のナイフでザイルを切断してあえて転落死させたという容疑で告発されていた。彩子はかつて亮吉の研究室で助手をしていたときに肉体関係を求められ、そのまま結婚に至ったものの、夫の横暴な態度はやむことなく家政婦代わりにこき使われたり、妊娠しても堕胎を強要されたりして夫婦愛が育つことはなかった。そこに現れたのが若い幸田だった。かれは製薬会社の担当として亮吉と接するうちに彩子とも親しくなり、亮吉はふたりの関係を疑って責め苛んでやろうと目論んで、自分が趣味とするロッククライミングに誘って奇禍に見舞われたのだった。
したがって北穂高の岩壁で起きたことは明白で、そこに彩子の夫に対する殺意があったかどうかが争点となったわけだが、刑法では現在の危難を避けるための行為は罰しないとする「緊急避難」の条項が定められているため有罪の立証は困難と見られた。しかし、大学助教授と妻、若い愛人という三角関係をマスコミがスキャンダラスに報じ、さらに死んだ夫に多額の生命保険が掛けられていた事実も判明して、激しい逆風が吹き荒れるなか、大勢の野次馬が詰めかけた法廷では葛西検事(高松英郎)がさかんに彩子の不道徳を糾弾したのに対し、杉山弁護士(根上淳)はつぎのような最終弁論を行った。それこそがわたしの関心を掻き立てたサーカスさながらの論理なので、いささか煩わしくともできるだけ語調も再現する形で引用したい。
「もし被告人が夫のザイルを切らずして自分のザイルを切り、夫婦揃って谷底に落ちて幸田君を助けたならば、それは美談であります。死なばもろともという夫婦の美徳であります。しかし、それはあくまで美談であり美徳であって、人間の本能ではない。人間だれしも自分が可愛い。世の人の妻にして、果たして何人が助かる命を夫のために捨てるか、おそらくほとんどの妻が被告人と同様の行為に出るでしょう。検察官は人間の本能を無視して、不当に妻に犠牲を強いる者であります。よって、弁護人としてはあくまで無罪を主張します」
まさに詭弁と紙一重の論理と言うべきではないか? なぜなら、この弁論の前段では「夫婦」を主語として、死なばもろともという美徳が人間の本能とは相容れないと論じておきながら、それが後段では「世の人の妻」が主語にすり替わり、助かる命を夫のために捨てる妻などほとんどいないと断じて、彩子の行為の正当性の根拠としている。その論理のおかしさは、弁論中での問いかけの妻と夫の位置を置き換えるとはっきりするだろう。世の人の夫にして、果たして何人が助かる命を妻のために捨てるか、と――。実のところ、決して少なからぬ夫たちが妻のために自己犠牲を選択することは、タイタニック号の例にも明らかなとおり古今東西に広く見受けられるのではないか。たとえ、それが妻への愛情ではなく世間への体面から出たものだとしても。ならば、弁護士が主張する「人間の本能」とは正しくは「女性の本能」であるはずだ。
それだけにとどまらない。実は、この作品にはかねてファンのあいだで語り継がれてきた伝説的なシーンが存在する。裁判の結果、彩子が無罪を宣告されて晴れて自由の身となったしばらくのち。これまでの人生をやり直すかのごとく、亡夫の保険金を使って贅沢三昧の暮らしをはじめたありさまに、幸田が嫌悪して別れを告げると、彼女は土砂降りの雨のなかを製薬会社まで押しかけてくるのだが、濡れた黒髪と上目遣いのまなざしの艶めかしさといったら! それは増村監督と若尾文子がおりなした、おそらく日本映画史上屈指の魔性の美の瞬間だったろう。
いざとなればみずからの美しさによって法律や道徳さえ超越しようとするのも「女性の本能」なら、それを差しだされては相手の計略を重々承知したうえでも抱きしめずにいられないのが「男性の本能」なのかもしれない。その危うさを教えてくれたのがこの映画だとわたしは思っている。