アナログ派の愉しみ/音楽◎『ヨウラ・ギュラーの芸術』

美貌のピアニストが
最後に辿り着いた境地


われわれオトコには想像の外にあるのだが、一体、女性にとって顔かたちとは人生にどれだけの価値を意味するのだろう? ふとそんな疑問が浮かんだのは、ヨウラ・ギュラーという存在を知ったからだ。ことによったら、これまでクラシック音楽界に現れたなかで最高の美貌を誇るピアニストだったのではないか。いま手元に彼女のCDがあるのだけれど、そのジャケットには20代から30代のころと思われるポートレートがあしらわれていて、まったくもって女優と見紛うばかりの美しさなのだ。実際、映画草創期のハリウッドから出演のオファーがあったのを断ったところ、それはもともとあのグレタ・ガルボのための役だったというエピソードも伝えられている。

 
この『ヨウラ・ギュラーの芸術』というアルバムは、ヨウラが最晩年の80歳のときに録音されたものだ。J・S・バッハのオルガン曲『幻想曲とフーガ ト短調』『前奏曲とフーガ イ短調』をフランツ・リストがピアノ用に編曲した大作からはじまるのだが、その演奏はあくまで毅然として姿勢がよく、艶のある音響を積み重ねていく打鍵には老いの陰りなど微塵も感じられない。わたしは息をするのも忘れて惹き込まれてしまった。

 
ヨウラ・ギュラーは1896年、フランスの港湾都市マルセイユでユダヤ系の亡命ロシア人の父親とルーマニア人の母親のあいだに生まれた。幼くして神童ぶりを発揮して、5歳で初のリサイタルを開き、12歳で名門のパリ音楽院に入学し、2年後の卒業公演ではベートーヴェンの変奏曲を演奏して一位を獲得するが、このとき二位だったクララ・ハスキルもまた、のちに喜劇王チャップリンに「私が生涯で出会った3人の天才のひとり」と言わせた大ピアニストだ。こうして華々しいキャリアを歩みだした彼女は、プロコフィエフ、ストラヴィンスキー、フランス六人組といった当代一流の作曲家や、エネスコ、シゲティ、カザルスら名演奏家と親しく接し、さらにはアルベルト・アインシュタイン、ロマン・ロラン、アンドレ・ジッド……といった各界の文化人とも交流するようになるのだが、そこには音楽的才能に加えて、たぐい稀な美貌も与って力あったことだろう。

 
くだんのアルバムでは、バッハのあと一転して、スペイン古典派のマテオ・アルベニスと、フランスのバロックからロココの時代にかけてのフランソワ・クープラン、ジャン=フィリップ・ラモー、ルイ=クロード・ダカン、クロード=ベニーニュ・バルバトルの知られざる小品を鮮やかな手並みで弾き分けていく。そのありさまは、昔日の音楽の美がふんだんに咲き乱れる花園のようだ。

 
ヨウラは20代で国際的な名声を獲得する一方、多忙をきわめた演奏活動が祟って心身の不調に悩まされるようになる。やがてスイスで知り合ったユダヤ系ロシア人の出版業者と結婚して落ち着きを得たのも束の間、第二次世界大戦が勃発してナチス・ドイツがフランスに侵攻してくると、そのユダヤ人迫害の魔手に脅かされる一方、ロシア出身の作曲家ニコラス・ナボコフ(作家ウラジーミル・ナボコフの従兄弟)と不倫関係に陥り、終戦を迎えたときには公私ともに破綻して餓死寸前の状態だったという。そんな彼女が演奏活動を再開させたのはようやく1950年代のなかばになってからのこと、当時のラジオ番組でステージから遠ざかっていた時期の感想を問われて、こう言葉少なく答えた音声記録が残っている。

 
「長かった。長すぎたとも思います」

 
だが、それ以降もヨウラの人生は激しい浮き沈みをきたす。しばしばコンサート会場からの失踪も繰り返して、ピアニスト仲間のニキタ・マガロフには「最善にして最悪のホロヴィッツ」と苦言を呈されもしたが、また、マルタ・アルゲリッチはそんな彼女の演奏を高く評価してレコーディングの機会を提供したことから、最晩年のいくつかの貴重な録音が実現するに至ったのだ。

 
最後の一枚となったこのアルバムでは、ついで、ヨウラがとりわけ得意としたフレデリック・ショパンのレパートリーから『練習曲 ヘ短調』と『バラード第4番 ヘ短調』が孤高の気品をもって奏でられ、あたかも聴き手と告別の挨拶を交わす趣があり、さらにリサイタルならアンコールにあたるだろう、結びのエンリケ・グラナドスの『スペイン舞曲集』第5番〈アンダルーサ〉と第2番〈オリエンタル〉では、一抹のユーモアを含みながら底知れぬ寂寥感を湛えて、みずからの死後の闇を覗き込むかのようなたたずまいにわたしは眩暈を覚える。それはピアニストの天才に併せて、絶世の美貌を持って生まれついた自己の運命に立ち向かい、たとえいかに苛烈であったにせよ顔を背けず、最後に辿り着いた境地ではなかったろうか?
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?