アナログ派の愉しみ/音楽◎『サッチモ・シングス・ディズニー』

1901年生まれの
ふたりの巨人が紡いだ夢


手元の『サッチモ・シングス・ディズニー』の日本盤CDのライナーノーツには、ウォルト・ディズニーがルイ・アームストロングにミッキーマウス像を手渡すツーショットの写真が掲載されている。実は、両人は同じ1901年生まれだ。アニメとジャズという芸術の新天地で巨人の足跡を残したふたりがともに20世紀最初の年に誕生したことは、偶然というにはできすぎの、わたしには天の配剤のような気がする。

 
シカゴ生まれのウォルト・ディズニーは、父親が仕事を転々とする貧しい家庭に育ちながら、マンガの勉強を重ねて、第一次世界大戦に衛生兵として出征したのち、友人とアニメーションの制作会社を設立する。再三にわたって経営的危機に見舞われたものの、1928年にミッキーマウスをスクリーンデビューさせて空前の成功を呼び、以降、アニメ映画の古典ともいうべき傑作を続々と世に送り出す。また、1955年にはカリフォルニア州アナハイムに念願のテーマパーク、ディズニーランドをオープンさせた。

 
一方、ニューオーリンズの黒人居住区に生まれたルイ・アームストロングは、少年院のブラスバンドで楽器と出会ってめざましい才能を発揮し、「サッチモ(がま口)」の愛称で親しまれる。やがて、シカゴやニューヨークに進出して本格的な演奏活動を繰り広げ、1925年に初めてみずからのジャズ・バンドを結成して、超絶技巧のトランペットとしわがれ声の歌唱で幅広い人気を集めた。第二次世界大戦中は慰問公演にも取り組み、戦後の1950年代以降『バラ色の人生』『ハロー・ドーリー!』などの大ヒットを放つ。

 
ウォルトは、サッチモがディズニーランドのイベントへ出演したのを機に、1966年にディズニー映画のナンバーで構成したアルバム制作を依頼するが、間もなく肺がんで世を去ってしまう。その遺志を受け継いで2年後に完成されたのが『サッチモ・シングス・ディズニー』だ。ジャズの最前線での長らくの演奏を経て、60代後半に差しかかり酸いも甘いも噛みわけたサッチモが、ここでは「ハイ・ホー」(『白雪姫』)、「チム・チム・チェリー」(『メリー・ポピンズ』)、「ビビディ・バビディ・ブー」(『シンデレラ』)などのヒット・ナンバーを天真爛漫にうたいあげていく。まるで童心に返ったかのように。そして、最後は「星に願いを」(『ピノキオ』)の絶唱で結ばれるのだ。

 
 星に願いをかけるとき
 きみがだれでもかまわない
 きみの心が望むなら
 どんな夢でもかなうだろう

 
このアルバムは世界じゅうの子どもたちをどれほど慰めたことだろう、どれほど励ましたことだろう。これらの歌を前にして、だれもがいっしょに口ずさみながら、たとえ自分がどんな肌の色であっても白雪姫やピノキオとひとつになって寂しさや喜びを分かちあうことができたはずだ。アメリカ公民権運動でノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キング牧師の、有名な『私には夢がある』演説(1963年)にはこんな一節がある。

 
「今日は、神の子みなが、新しい意味を込めて歌うことができる日です。『わたしの国、それは汝の、自由の甘美な国、わたしは汝を歌う。わたしの父親たちが死に、巡礼者が誇りに思う国、あらゆる山あいから、自由を響かせよ』」(荒このみ訳)

 
ここに力強く語られた夢のひとつの結実が、20世紀初年生まれのウォルトとサッチモの共同作業による『サッチモ・シングス・ディズニー』であったろう。だがしかし、アルバムが発売された1968年は、キング牧師が39歳の若さで暗殺者の凶弾に斃れた年でもある。この世界じゅうのだれもが微笑まないではいられないディズニー・ソングの記録は、人間同士が自然に手と手を取りあう時代の産物ではなく、たがいの尊厳をめぐって熾烈なせめぎあいが行われている暗黒のさなかでつくりだされたからこそ、半世紀を経た現在もなお聴く者の胸を強く打ち続けるのだろう。
 

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