アナログ派の愉しみ/本◎『金槐和歌集』

阿鼻地獄
ゆくへもなし


・箱根路を われ越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ
・大海の 磯もとどろに 寄する波 破(わ)れて砕けて 裂けて散るかも

 
『金槐和歌集』(1213年)は、鎌倉幕府第三代将軍の源実朝が手ずから編んだ家集だ。「金槐(きんかい)」とは鎌倉右大臣を指す美称で、本人の没後に冠せられたものらしい。武家政権のトップの座にありながら、また、ようやく20代に入ったばかりの年齢で、全663首におよぶ自撰歌集をものするなど他にまったく類例のない事績だろう。そんな孤高のアンソロジーのいちばんの特色は、同じ作者の筆になりながら、真っ向から趣の対立する歌がさりげなく並んでいる、その極端なまでの落差ではないか。

 
冒頭に掲げたのは、いずれも実朝が目の当たりにした伊豆の海の情景だが、前者が箱根の山から遠望する大らかな気分を湛えているのに対して、後者は大海原と対峙して波濤とともに砕け散りたいといった激しい心境を伝えてくる。そこに窺えるのは、おのれの血筋がもたらす底知れぬ虚無感なのかもしれない。

 
・うはのそらに 見し面影を 思ひ出でて 月になれにし 秋ぞ恋しき
・わが宿の ませのはたてに 這ふ瓜の なりもならずも ふたり寝まほし

 
実朝は12歳で後鳥羽院のいとこにあたる貴族の令嬢と婚儀をあげている。文字どおりの政略結婚であり、京よりやってきた妻には頭が上がらなかったろうから、いまさら気ままな恋をするなど許されない身の上だったはずなのに、この歌集にはいくつも恋の歌が収載されているのだ。果たして無事に済んだのか、と他人事ながら心配してしまう。

 
前者は、かつてうわの空で眺めた女人へ、いまでも秋の月を見上げては懐かしい面影を慕っていると告げたものだが、これは現実のエピソードではなく、お手本とする『新古今和歌集』にちなんだフィクションだろう。その点、後者では、わが家の垣根にまとわりつく瓜の実が結ぼうが結ぶまいが、とにかくあなたと寝てみたい、と生々しいばかりの真情が吐露されている。つねに衆人環視のもとにあって、やり場のない性欲を反映したものと受け止めたら穿ちすぎだろうか。

 
・世の中は 鏡に映る 影にあれや あるにもあらず なきにもあらず
・炎のみ 虚空に満てる 阿鼻地獄 ゆくへもなしと いふもはかなし

 
当時は日本仏教史においてもとりわけエポックメイキングな時代だった。幼くして将軍職に就いた実朝は、血なまぐさい権力闘争の渦中にわが身を置いていただけに、仏教への傾倒にもひとかたならぬものがあったようだ。

 
大乗、中道観を作る歌、との詞書が添えられた前者は、世の中は鏡に映る影なのだろうか、存在するわけでもなく存在しないわけでもない、といやに悟りすましたような境地をうたっている。それが、罪業を思ふ歌、との詞書を添えた後者となると、息苦しいまでの切迫感が伝わってくる。紅蓮の炎が燃えさかる阿鼻地獄のほかにおのれが行き着く場所はない――。その思いは、実兄の頼家のあとを襲って将軍となったことで、最も近しい肉親を悲惨な死に追いやった過去への罪悪感からか、あるいは、おのれもやがて甥の公暁の手により、わずか26歳で人生を終える宿命を見越してのことだったか。

 
   黒
・うばたまや 闇のくらきに 天雲の 八重雲がくれ 雁ぞ鳴くなる
   白
・かもめゐる 沖の白洲に 降る雪の 晴れゆく空の 月のさやけさ

 
この黒、白の詞書を持つふたつの歌はわたしを粛然とさせる。ひたすら闇の深さを積み重ねていく前者と、光の虚しさを積み重ねていく後者は、どちらもすでに目の前の阿鼻地獄の光景だったのかもしれない。実朝はここに残した歌の他には心底の本音を口にすることもなく、「金槐」の美称とはうらはらに、ただひとりじっとモノクロームの世界を生きていたのだろう。

 
凄絶な歌集である。

 

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