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市場価格、自然価格、必要価格、それらの違いを追求する①〜経済学原理第二章第三説について〜

 この節の最初のページでマルサスは、この世に存在する数々の商品の価格は、2つの体系で説明されると述べている。すなわち、一つは商品にかかる生産費のそれ、もう一つは需要と供給の釣り合いで考えるということである。この2つの体系は、マルサスが主張するように、互いの関連性を避けられないものでありながらも精緻な区別が必要である。
 おそらくその区別をより正確なものに近づけることが、恐慌や不適切に過熱したバブル景気等のない、健全な経済の実現に繋がるであろう。

 最初のページで興味深いのは、生産費の構成要素に対するスミスとリカードの見解の違いである。リカードは、「生産費とは賃金と利潤でできており、スミスはこれに地代を追加している」と述べている。これに続けてリカードは地代について自分の見解を書いてるのだが、それは「最悪の耕作地(地代の価格が0の耕作地)で栽培された麦から作られたパンは地代は、全く含まれておらず、それにあるのは賃金と利潤だけなのだ」というものだ。数々の耕作地は優劣があるので、地代は様々である。問題はなにを標準とするかであるが、リカードは、数々のパンの価格を規制して標準とすべきものは、地代の価格が0の耕作地が作られたパンの塊と考えたのである。だからリカードは生産費から地代をあえて省き、スミスとは異なる見解になったのだ。

 マルサスは市場での取引は全てにおいては、その原価と労働と資本の数量から、完全に影響を受けない原理が絶えずに機能しているという。それは独占価格の商品に限らず、この世のあらゆる財貨や祖生産物が該当するらしい。問題はその原理は何かだが、おそらくは買い手の意思だろう。その商品を欲しがる者たちが、生産費を大きく上回る価格で買うこともあれば、大きく下回る価格でなければ買わないこともある。
 前の節でマルサスは、需要の強度(高くなってもその商品を購買しようする意思をより引き出せられる強度)という概念を記したが、生産費に全く影響を受けない購買者の意志は、確かに絶えず存在していると思う。そういう意思が全て消失したことが仮にあったとしても、極めて希少なことだと考えるべきだ。マルサスがいう「祖生産物」が、なにを意味するのか正確にはわからないが、私は例えば小麦粉の原料である脱穀した小麦などだと考える。マルサスは祖生産物のなかでも、季節が影響する商品の価格は、売り渡される瞬間は必ず市場の駆け引きで決まると主張する。市場というのは基本的に、売り手はできるだけ高く売りたいし、買い手はできるだけ安く買いたいものだ。市場において生産費(原価)に縛られない人間の意志を、完全に払拭することは不可能だというのが、マルサスの見解なのだろう。
 この考え方に基づくなら、市場が健全に機能しなかった場合は、生産者の多くが赤字に陥って、商品の供給が相当減少することもあり得る。リカードはマルサスの原理に対して異論を述べている。彼は商品の価格により供給量が決まるのは、あくまでも生産費のせいであるとした。イギリス国内の穀物価格が、フランスのよりも高額である理由は、イギリスの方が需要が強いのではなく生産費が高いからだと主張した。

 私が思うに、マルサスもリカードも間違ってはいないはずだ。マルサスのいう原理はミクロ的なもので、一つの市場取引を調べればよく見られる現象だ。それはフランス国内の市場でもおきていたとしか思えない。一方のリカードが例に挙げた2国の差異は、マルサスのそれと比較すればマクロ的な見解なので、ある意味では正しいとはいえ、マルサスの理論を否定せずに共存は可能だろう。その意味ではリカードはマルサスの原理を受け入れても、取り敢えず矛盾はないといえる。