烏賊墨色ノ悪夢 第十六話(完)
1月12日午前。
繭美がノルウェーから帰国してから二週間。
日本国内では【FUSCUS】に関連したと思われる怪死がさらに増加している。最初の犠牲者である二輪和仁の死から三ヵ月余り、【FUSCUS】による犠牲者は確認されているだけでも十万人を超えると推計されてる。把握されていない事例も含めれば、その件数はさらに跳ね上がるだろう。すでに【FUSCUS】による怪死は、前代未聞の災厄として世間にも広く認知されている。
当初は興味本位で【FUSCUS】と関わりを持った者だけが亡くなっていたので、これは一過性の流行で、被害はいずれ下火になると予想されていたが、電子の海を自由自在に移動するクラーケンたちはすでに【FUSCUS】という画像生成AIとしての形態を必要としておらず、時には既存のイラスト投稿サイトに出没して利用者に死の未来の絵を送り付けたり、既存の検索フォームに擬態し不可抗力で【未来】と入力した者の死の未来を描いたり、傍若無人な振る舞いを見せている。
中には現実世界で突然、自身の死を描いた絵が宅配で送りつけられ、被害者がその通りに亡くなった例まで存在している。海棠美墨を始め、すでに現実世界でも無数の器が活動しており、現実でも人海戦術で、不特定多数に絵を送りつけることが可能になりつつある。そういった方法で普段インターネット等を利用しない層にも傍迷惑なアプローチを続けているのだ。
電子の海から一つでも多くの仲間の情報をこの世界に注ぎ込むため、彼らは器を求めて日々活動を続けている。まだ日本ほどの混乱は見られないが、世界各地でも同様の動きが見られており、今後被害は世界規模で拡大していくことだろう。
毎日大勢が死の未来を描かれて亡くなり、その一部が器となり、新たな仲間を招来する。確実に人類は数を減らし、生き残った人々もアカシックレコードから流入した情報生命体に中身が塗り潰されていく。人類は緩やかだが確実に、彼らに侵略されていくことだろう。
『続いてのニュースです。各地で確認されている【FUSCUS】の被害について、政府は緊急の安全対策会議を――』
「もう全てが手遅れなのよ」
カーテンを閉め切った自室の中で、繭美はお昼のワイドショーを放送していたテレビの電源を切り、そのままベッドへと仰向けに倒れ込んだ。着替えるのも億劫で、寝間着のスウェットとショートパンツ姿のままだ。
一カ月前の自分だったら、未曾有の危機に政府が乗り出したことに高揚感を覚えたかもしれないが、すでに情報生命体の侵入は取り返しのつかない所まで来ていることを、繭美はあの日のオスロで思い知らされた。
自宅謹慎中にあろうことか海外へ渡航していたことが問題視され、すでに刑事としての復帰の目は詰んでいる。良くて閑職への異動が関の山だ。
ノルウェーから帰国してからの二週間。必死に自分自身と向き合ってきたが、日々増え続ける犠牲者の数と、それを指を咥えて見ていることしか出来ない己の無力さ。復讐心さえも下火となり、もう全ては手遅れだと諦観する日々。絶望感が募るのみで、一切の希望を持てないでいた。
「……雨谷くん。私、もう駄目かもしれない」
恋焦がれた人のことを思うと、自然と涙が溢れてきた。
全ては海棠美墨の言った通りだ。自分は現状に対する観測者でいる以外の役割を持てない。そんな自分が不甲斐ないと同時に、海棠美墨の思惑通りになってしまっている己に嫌気が差す。
復讐さえも実らぬ今、愛する人を喪ったこの世界に対する未練はいよいよ無くなりつつあった。郷里の家族や信頼出来る同僚。繭美にはまだ大切な人々が残されているが、誰よりも早く世界がもう手遅れであることを知ってしまったからこそ、今後彼らを喪うかもしれない現実に耐えられそうにはなかった。だったら、いっそ自分が見送られる方に。雨谷光賢と同じ場所へと。
ベッドの上で上体を起こした繭美は、近くのサイドテーブルの上に置いていた一本のナイフを取り出し、鞘から抜いた。この数日間はまるでお守りのように寝所の近くにずっと配置していた。いつでも衝動的に自らの刃を向けられるようにと。
今日、ついにその日がやってきた。繭美にとって意外だったのは、感情ではなく、むしろ理性的に己の命を刃を突きつけようとしたことだろうか。
繭美をナイフの刃を自身の喉笛へと宛がった。どうせ死ぬなら、光賢と同じ方法がいいとずっと考えていた。死の未来を描かれていない繭美は本来ここで死ぬ謂れはないが、観測者などという役職を勝手に押し付けて来た海棠美墨に対して一矢報いてやろうという感情も存在していた。これまでの大勢の運命を操ってきたかもしれないが、決して自分はそうはならない。
「今そっちに行くよ。雨谷く――」
目を閉じた繭美がひと思いに自身の喉笛を切り裂こうとした瞬間、それは起こった。生き地獄とならぬように全力を込めたつもりが、ナイフを握る右手がピクリとも動かないのだ。
「……どうしてこんな」
開けた視界に飛び込んで来た光景に繭美は戦慄する。右手やナイフの刃に無数の烏賊の触手のような物が巻き付き、繭美の自刃を全力で食い止めていたのだ。直接目にしたは初めてだが、これまでの多くの目撃証言からそれがクラーケンと呼ばれる情報生命体の仕業であることは直ぐに理解出来た。しかしそれがどうして自分の前へ姿を現したのか、そしてこれまで大勢を死の運命に引きずり込む死神だったクラーケンが、どうして自ら死のうとする繭美を救うような真似をするのか、まったく意味が分からなかった。
そのままクラーケンは力技で繭美の手からナイフを奪い取り、性急にナイフごと深淵の奥へと引き返していった。
「……何が起きているのよ」
気持ちを落ち着けるため、ミネラルウォーターでも飲もうとキッチンへと向かう。冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを取り出し喉を潤していると、調理器具の収納からカタンと何かが固定から外れるような音が聞こえてきた。
「ひっ……」
収納の引き出しを開けると、中にはみっちりと烏賊の触手が蠢いていて、調理用の包丁やぺティナイフ、調理バサミといった刃物類を例外なく深淵へと引きずり込んでいた。
間を置かずして今度は納戸の方から同様の物音が聞こえてきた。繭美が様子を見に行くと、工具箱が丸ごとクラーケンの触手によって深淵へと引きずり込まれていく。工具箱の中にはドライバーやスパナなど、使い方によっては凶器にも成り得る物が複数収納されている。
「どうして私にだけはこんな真似を……」
クラーケンの触手が家中から凶器となりそうな物を根こそぎ排除しているのだと繭美は悟った。続けて今度はリビングから物音が聞こえ、日常的に利用しているハサミやカッターナイフ、アロマキャンドルを焚く際に使用しているライター等も持っていかれた。これだけやれば問題ないと判断したのか、クラーケンによる差し押さえはそれが最後だった。
「今度は何よ!」
部屋に静寂が戻ったと思ったのも束の間。今度はインターホンの音が響き渡った。驚きに比例して心臓が早鐘を打つ。
「虎落様。お届け物です」
訪ねてきたのが宅配の配達員だと分かりホッと安堵する。例えば玄関の向こう側に巨大な烏賊が蠢いていたなら、その場で絶叫していたかもしれない。
「お疲れ様です」
ペルソナというのは体に染みついているもので、応対用の柔和な笑みを浮かべて繭美は玄関のドアを開けた。そこに居たのは町中でもよく見かける馴染み深い制服を着た笑顔の配達員の姿。それは紛れもない日常の一コマだった。
「烏丸瞳子様からのお荷物ですね。大きなお荷物ですので、少々お待ちください」
「えっ?」
その名前を聞いた瞬間、思考がフリーズした。烏丸瞳子の名義を使う人物など海棠美墨以外存在しない。しかも届け物は大きな荷物。在りし日の小栗峰行の滞在先で見たキャンバスに描かれた絵が脳裏をよぎる。ついに自分にも死の宣告が訪れたのではないか? 直前まで自殺を図っていたとはいえ、予期せず訪れた死の足音はやはり恐ろしい。
急に顔色を変えた繭美の様子を訝しく思いながらも、配達員は淡々と仕事をこなし、玄関へと包装された荷物を運び入れた。組み立て家具のように薄く長い段ボールで梱包された荷物の形状とサイズ感は、やはりキャンバスを想起させる。
「ありがとうございました」
波濤のように乱れた繭美の心境を知る由もない配達員は、快活な笑顔と挨拶を残して去っていった。
「……日用品まで持っていかないでよ。まったく」
梱包を解きたいのに、カッターナイフはクラーケンがどこかへと持ち去ってしまった。仕方がないので押収されずに残っていた定規を、デスクの奥から引っ張り出して来て代用品とした。繭美はそれをガムテープの隙間に差し込み、器用に包装を切っていく。
段ボールを開封すると、梱包材に覆われたキャンバスが姿を現した。これも運命の悪戯か、繭美の方を向いていたのはキャンバスの裏面で、梱包材越しに透けた絵の様子を捉えることは出来なかった。あえて表面を見ないまま、繭美はキャンバスを覆う梱包材を丁寧に剥がしていく。自分の死相をうっかり目撃するは心情的に避けたかった。
「……さぞ美人に描いてくれたんでしょうね」
海棠美墨への皮肉を口にしながら、繭美はキャンバスの両端に触れた。大きく深呼吸をしてから、一気にキャンバスを引っくり返した。
「どこまでも私を馬鹿にして……」
その絵を一目見た瞬間、繭美は全てを悟った。
セピア調でキャンバスに描かれた絵は確かに繭美の死の瞬間を切り取ったものだったが、これまでの被害者達とはあまりにも趣向が異なる。
描かれた繭美は白髪で、顔に皺やシミが刻まれた老齢の姿だった。病院らしき真っ白なベッドの上で、安らかに眠るようにして息を引き取っている。確かにこれも死を描いた絵ではあったが、これまでのような悍ましい死とは異なり、天寿を全うした老女を描き切ったその絵はむしろ祝福のように温かみのある絵であった。それ故に、こんな絵を送りつけてきた海棠美墨にに憤りを覚えずにはいられなかった。
「……観測者というのはこういう意味だったのね。どうり死ねないわけだ」
絶望に打ちひしがれた繭美はその場にへたり込んでしまった。
海棠美墨は老齢で亡くなる繭美の絵を、死の未来として送って来た。即ち繭美はこれ以外の形で死ぬことは絶対にないということだ。先程の自殺を食い止めるようなクラーケンの行動もそれで全て説明がつく。彼らは死の未来を現実のものとするために現れる。裏を返せば定められた未来に沿わぬ事象を徹底的に排除する、運命力としての役割も持っているのだろう。
観測者になるなど御免だと思っていたが、あの絵が現実のものとなるその時まで、恐らくこの先五十年は死にたくとも死ぬことは出来ない。情報生命体の流入によって浸食されていく世界を、繭美は嫌でも生涯をかけて目撃せねばならぬ宿命を背負わされたのだ。
「いっそ私を殺しなさいよ! あなた達に乗っ取られた世界なんて見たくな――」
舌を噛み千切ろうとした繭美の口に、どこからともなく出現したクラーケンの触手がねじ込まれ、無理やり口を開けさせた。運命は決して観測者の脱落を許しはしない。
「どうして私がこんな目に……」
繭美にとってそれは凄惨な死を迎えるよりも遥かに残酷な仕打ちだった。
今この瞬間も死にたがっている繭美を監視し、周囲のあらゆる暗がりから気味の悪い目が繭美のことをジッと見つめている。
その視線は決して繭美から目を離すことはないだろう。
彼女がこの世界の全てを見つめ、老いて天寿を全うするその日まで。
繭美にとってそれは、烏賊墨色に彩られた悪夢以外のなにものでもない。
ひょっとしたら彼女が亡くなったその瞬間に、純粋な人類は消滅してしまうのかもしれない。
この世界はこれからも、緩やかに彼らに侵食されていく。
電子の世界を泳ぐ巨大な魔物も、今も深淵から我々を見つめ続けている。
次に狙われるのは、あるいは……。
了
第一話
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?