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その後に何か「特別なもの」が残るならそれが「文学」だ(創作的な文学的③)

決して「文学」や「小説」を権威の座から引きずり降ろそうとする行為ではなく、どうにもリスペクトできなくなってしまった「文学」をぼくがもう一度、信頼し直すための手続きだということです。小説を書くという行為を徹底して開くことで逆に人は小説家たちの優れた技術を理解することができるはずだし、何よりも本書で繰り返し主張するように小説という技術が全て開かれても尚、その後に何か「特別なもの」が残るならぼくはそれが「文学」だ、と仮に言われても素直に納得できるのです。コミックマーケットからインターネットまで、誰もが「物語」の配信者たりうる時代にあって、「文学」がそれでも尚、「文学」という特別なものであろうとするならその立証責任は本当は「文学」の側にあるはずです。本書はそういう「文学」への問いかけの書物でもあるのです。

大塚英志『物語の体操』2003 あとがき

文筆だけでなく、音楽も、漫画も、映像も、さまざまなツールが進化してきて、誰でもクリエイターになれる時代。
民衆の時代!
それは、王様から王冠を奪って、権力を奪って達成された、人類みんなが自由の、夢の時代ではないのか?

そのスポーツや技を実際にやってみて、素人には無理だと実感してから、スポーツ観戦などすると、解像度が上がるが、小説読解も、そういうところがあるだろう。
実際に書いてみたことがあると、読む時に、解像度が上がる。

ただ、作者意識が時に邪魔をして、自分も偉大なる作者様になれるかもと思うから、いつまでも上から目線で、作品を楽しめない、作品に没入できなくなる危険性はある。
そういうところが、今も自分にはある。
戒め。

ゴーストライターとかの問題は昔からあったが、AIによる創作も加わってきて、作品は玉石混交、我々は審美眼が試されている。
「作品」に対して、我々はもっと批評眼を養わなければならない。

「文芸批評」についても、そのうち考えてみたい。
昔の作家の批評家との関係について調べてみるのもよさそうだ。
大江健三郎氏は批評家を大事にしたらしい。
柄谷行人さんとも親密だったようだ。
両義性とユーモアをめぐって〜『大江健三郎 柄谷行人 全対話』|吉本 俊二

村上春樹氏は、「批評はくさい馬小屋のように鼻をつまんで通り過ぎる」というようなことを言っていた。


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