その後に何か「特別なもの」が残るならそれが「文学」だ(創作的な文学的③)
文筆だけでなく、音楽も、漫画も、映像も、さまざまなツールが進化してきて、誰でもクリエイターになれる時代。
民衆の時代!
それは、王様から王冠を奪って、権力を奪って達成された、人類みんなが自由の、夢の時代ではないのか?
そのスポーツや技を実際にやってみて、素人には無理だと実感してから、スポーツ観戦などすると、解像度が上がるが、小説読解も、そういうところがあるだろう。
実際に書いてみたことがあると、読む時に、解像度が上がる。
ただ、作者意識が時に邪魔をして、自分も偉大なる作者様になれるかもと思うから、いつまでも上から目線で、作品を楽しめない、作品に没入できなくなる危険性はある。
そういうところが、今も自分にはある。
戒め。
ゴーストライターとかの問題は昔からあったが、AIによる創作も加わってきて、作品は玉石混交、我々は審美眼が試されている。
「作品」に対して、我々はもっと批評眼を養わなければならない。
「文芸批評」についても、そのうち考えてみたい。
昔の作家の批評家との関係について調べてみるのもよさそうだ。
大江健三郎氏は批評家を大事にしたらしい。
柄谷行人さんとも親密だったようだ。
両義性とユーモアをめぐって〜『大江健三郎 柄谷行人 全対話』|吉本 俊二
村上春樹氏は、「批評はくさい馬小屋のように鼻をつまんで通り過ぎる」というようなことを言っていた。