民主主義について考えたこと他、雑記


祭りと伝統に関して、ここ数日賛否を聞くようになった。大変興味深いテーマなので、私なりに考えてみることにした。

※寄り道ばかりの雑記なので、軽い気持ちで読んでいただきたい。高校ないし大学の政治学レベルの話もしたが、なるべく分かりやすい説明を心がけた。


伝統の破壊的変更をどう考えるか、急速に変化する時代においては難しい。伝統への敬意は勿論必要だが、時代に合わせて変えていく柔軟性も時に必要だという意見も一定の説得力はある。

私の意見としては、結局は当事者達が決めることであり、主催者ないし当事者が決めたなら、賛否の程はともかくとして、一つの決定として尊重されるべきと思う。

正直言って、祭りや伝統については、それ自体に興味の尽きないところではあるが、私の専門外ということもあるので、今回は議論の一つでもある「決定プロセス」について、私個人の意見として、思考実験も兼ねて、長々とまずは一般論的に考えたいと思う。大学でちょっと勉強した程度なので、一般市民の考えであり、研究者の意見ではありません。批判は当然あろうかと思います。ただ、市民レベルでの民主主義の理解を深めようとする試みそれ自体に、私は意味があると思う。

勝手に作った用語(説明が面倒なので、勝手に作った)
民主主義的プロセス
問題に直面した際に行われる当事者間の議論と、それを通じた意思決定のこと。最終的な多数決による意思決定も民主主義において重要なプロセスではあるが、ここではあえて議論という点に主眼を置きたい。

①意見と感情
まず、意見について。
あくまで個人の意見としての賛否というのは、感情の介入が許されるし、往々にして賛否の意見は個々の感情と密接に結びついている。
しかし、公的ないし社会的な決定において、感情は極力排除せねばならないと私は考えている。理由は後から述べる。
また、論理的議論の末の決定、民主的プロセスを媒介とした公平なコンセンサス(合意)こそ今の日本には相応しい。これについても私の意見を述べたいと思う。

近頃、インターネットやSNSが持つ問題(私の個人的な肌感に基づく見解ではあるが)として、私的かつ感情的・非論理的意見が、共感という曖昧模糊なるモノを媒介にして支配的空気を生み出す問題が露骨に表出している。これはインターネットやSNS出現以前からも、人間社会においては往々にして行われてきたことである。
政治史の例ばかりで恐縮ではあるが、近世アメリカにおける魔女裁判や、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺、大日本帝国による大陸征服、中国における文化大革命など、規模の大きなものだけでも枚挙にいとまがない。
しかし、インターネットないしSNSが持つ強さは、国境や地域、コミュニティを超越した不特定多数への拡散力。そして共感をどれだけ集められかによって、その投稿や言論への支持が決まってしまう。
音楽やダンスなどのような芸術やコメディ的な投稿においては、これは大変良い使われ方だと思う。

しかし、ことに対象が政治的な問題(あるいはそれを内包する問題)は質が異なる。これらの問題においては、学識者による論理的な意見を通じ、特に注意を払って論理的結論を出す必要がある。この点で言えば、感情や共感という尺度によって、あらゆる事象が評価され、時に断罪されてしまう事象が、最近の日本ではあまりにも多い。

私は社会的合意や決定の最終局面において、感情は不要だと思う。私的部分と公的部分の同一化は、凡ゆる場面で現代社会の病理だとも思う。
こう書くと、感情を軽視する向きと捉えて反論したくなる方もいるかもしれない。
しかし、これは断じて感情の軽視ではない。問題に対する解決策を探る局面において、感情と論理は役割が全く異なるのだ。


②感情と論理(あるいは理性)には、それぞれ社会的問題の中で役割がある

例え話をしよう。「可哀想」「悲しい」というのは人間が持つ最も強い感情だ。行動の端緒としてはアリだと思う。というよりむしろ、人間の行動原理は感情が多くを占める。
「可哀想」「悲しい」「嬉しい」「羨ましい」「嫌だ」など、多くの感情が人間には生来備わっている。

感情から問題意識を持つことは、人間の営みとしてごく普通のことだ。

例を挙げてみよう。
ヴィーガン諸氏の「肉食を否定」は動物に対する憐憫。その延長線上に、動物にも人間と同程度の権利保護を求める主張がある。

フェミニスト諸氏の「女性の権利向上」は女性が近代までの社会において、男性に対して不平等な立場に置かれたことに対する怒りや義憤。その延長線上に、社会をいかにして変化させるかという論理的主張がある。

戦争反対派諸氏の「ウクライナ支援」は、当該地域の市民の置かれた過酷な状況への憐憫や加害勢力への怒りが元になって、論理的主張としてウクライナ支援が叫ばれている。

これらの例は、人間が生来持つ感情から発展した論理的意見である。
これらの感情は決して否定されるべきではない。人間が本来持ち得た生きる為のエネルギーとして、感情は必要不可欠だ。この感情こそが、我々を現代の地球上最も繁栄した生物の一つへと進化させた。
まず前提として個人的意見の範囲内において、その感情は尊重されるべきであるし、日本のような自由主義国家では内心の自由が保障されている。


③個人的意見と他者の意見は違う

では、その個人的意見を、他者に対して啓発したり強要したりするのはどうか。
本人にとっては、感情から来る問題意識であり、自明の理であるだろう。ただ、それは他者にとって全く同じとは限らない。感情は曖昧なモノなので、同じ事象について、同じ感情や同じ意見を持つとは限らないからだ。
私がまず一つ問題だと思うのは、意見を持つ諸氏が、インターネットやSNSにおいて、他者に対し攻撃的な言論を通じ、自分の意見を抱くことを強要しようとすることにある。
ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、権力の定義を「社会関係の中で、抵抗を排除し てでも自己の意志を貫徹しうる可能性(つまり他者に対して意に反する行動をさせる行為)」とした。

他者に意見を強要する行為、あるいは本人にその気がなくともそう捉えられる行為には、権力に近い暴力性が伴うことを、まずモラルの問題として意見の発信者は認識すべきである。

日本国憲法では、基本的人権として内心の自由、表現の自由を保障している。しかるにこれは、各人が自由に意見を考え、感情を抱き、それを表現する自由を保障されていることである。しかしながら、その自由は当然意見を受け取る人間の自由であることは自明である。

いくら自分と違う意見が気に入らなくとも、自分の意見を強要しようとする行為には、何の正当性も持たないのである。
もしそれでも尚それを望むなら、それは何らかの方法で権力を持ち、日本国憲法を破壊して、表現の自由を制限するしか無い。ヒトラーや中国共産党、プーチンなどのように。

私は、現代のネット社会においてこれらの行為が平然と行われる前提として、学校教育において教員による生徒に対する意見の強要という事象が大きいのではないかと考えている。


④意思決定過程における感情の使い方

では、社会的問題において、この感情というものをうまく使う方法について、考えてみよう。

政治的問題の表出においては、感情は確かに重要だ。
数年前に「保育園落ちた日本死ね」という投稿が話題になった。
この怒りを込めた意見の表明が端緒となって、日本政府における待機児童問題は大きく前進したとされる。
怒りやそれに対する深い共感が、確かに社会を動かしたのだ。

しかし、この感情というものは、凡ゆる場面で重要かというと、そうでもない。集団の社会的政治的決定の最終局面で感情の占める割合が大きいままだと、重要な判断を誤る。しかしこれが難しい。

ここでいう社会的政治的決定というのは、どんなものでも構わない。
国連安保理事会や、日本の国会のような大きな場面から、町内会や家族や友人同士など小さく身近な場面まで、凡ゆる場面が想定され得る。

個人レベルの意見を複数人(集団)共通の意見として纏め、集団として一つの行動指針とする際(たとえば政策として反映するなど)において、その意見は(ほぼ必ず)多くの対抗意見を乗り越えなければならない。

それは国会のレベルならば、リソースの取り合いとして、人的資源、経済的資源、時間という資源などのパイを奪い合うことであったり、あるいはその行動を起こすために反対意見(多数派との対立なら尚更)を説得するという壁、他にも伝統や信仰、文化などの壁を突破する必要がある。


⑤意思決定プロセスについて

この行動を決定する際、これまでの人間社会においては多くのプロセスが考えられてきた。
まず一つは、トップダウン型の王制、寡頭制、王侯貴族による会議のような一部の特権階級や指導者が検討や決定を一手に担うプロセス。紀元前3,000年の古くからあり、人間社会においては最も歴史があり、スピード感のある決断が可能(もちろん時に特権階級のみに有利で非合理的)なプロセス。

しかし、欧州をはじめとする各国の市民革命を経て、我々は民主主義を勝ち取ってきた。
これまで数千年に渡り多くの思想が考え出され、多くの血が流れたことにより、我々は市民でありながら意見を表明し、時に政治に意見を反映できる。


⑥功利主義との関係

民主主義の出現によって、決定のプロセスにも変化が生じた。多くの場合スピード感に欠け、時に非合理ではありながらも、より多くの当事者にとって最大の利益を追求することが可能となった。
ここで忘れてはならないのが、イギリスの哲学者ジェレミ・ベンサムに代表される功利主義だ。社会の幸福の総量を減らしてでも、各人の幸福の総量が増えるならば、その行為は適合するという考え方(=人々の幸福の総量が最大になるようにすべき)
これを「最大多数の最大幸福」という。
これは資本主義に対する意見だが、私は民主主義においても適用し得ると思う。


⑦民主主義による失敗

民主主義に関する失敗も数え切れない。代表的なのは第二次世界大戦直前のナチス・ドイツのホロコーストや大日本帝国の大陸征服などは、民主主義や大衆の煽動が生み出した悲劇である。民主主義というプロセスがあっても、時に多数派にとってより大きな利益(それすら誤解であることもある)を追求するあまり、少数派が合法的に生命や財産の危機に晒されたり、他国に侵略するという非合理的な決断を惹起してしまうことは、歴史を知る者として忘れてはならない。

翻って、現代はどうだろう。
多くの失敗を経て、今の民主主義が整った。
経済的自由や、言論や思想の自由などの政治的自由など、凡ゆる国民に対する基本的人権の保護が付与されている。
プロセスとしての役割で見ても、より多くの人々が利益を享受できるようになっている。


⑧弱者救済

弱者の救済も主眼である。これは自由主義においてなお生じる社会的弱者、あるいは資本主義において必ず生じる経済的弱者などを、可能な限りにおいて救済しようとするプロセスである。
この弱者は、社会のリソースが大きくなり、余裕が出れば出るほどに救済可能な範囲が広がる。(もちろん弱者は元から不利な状況ではあるが、より未熟な社会的政治的状態において、社会自体の救済能力はより低いのが現実であり、このような表現としている)

ここで大切な視点は、民主主義は多数派の合法的弾圧からの弱者救済手段ではあるが、しかしそれは弱者の全体的かつ絶対的な権利保護ではないことだ。
あくまで、凡ゆる当事者がそれぞれ少しずつ譲歩や合意を重ねるプロセスこそが、民主主義の価値を高める。社会全体として、妥協は損失だとしても、各当事者が譲歩の上で十分なリソースを得られるならば、それは民主主義が機能していると考えるべきだと思う。
先述したベンサムの「最大多数の最大幸福」が好例。
よく、弱者的立場にある(とされる)諸氏が、自分の意見や感情が完全に受け入れられない、社会に反映されないことを憤る場面をSNSで目にするが、そもそも絶対的な権利保護など不可能なのである。

ナチスドイツにおけるユダヤ人虐殺は、一当事者の権利を著しく毀損しており、極端で典型的な悪例ではあるがしかし、現在における性的マイノリティや、ヤングケアラー、障害者福祉など、多くのの問題についてはどうだろう。

これはそれぞれの問題や当事者によって異なるだろう。現在の制度で十分だと言う人もいるし、まだまだ足りないという声だってもちろんある。
ただ、ここで重要なのは、それぞれの当事者にとっては、時に苦痛を伴う譲歩が必要なのである。
もちろんここで言う譲歩とは、凡ゆる当事者が均等な量の譲歩をすることを意味しない。
残念ながら、当事者それぞれの権力性によって譲歩の度合いは決まる。社会や集団内部における当事者の人数やパトロン(社会的経済的にバックアップしてくれる人々)の政治的立ち位置や経済力、問題が議論された時期における政治の優先課題として扱われるか否かという、タイミングとしての問題など、譲歩は往々にして理不尽なまでに強いられるものでもある。

しかし、前提として譲歩を強いられるとしても、あくまで譲歩とは内在的決定としての譲歩ではない。外在的決定であるべきである。
意見をぶつけ合い、議論をして、どちらの意見を採用すれば、全体ないし凡ゆる当事者の利益を最大化しうるか、妥協点を探る作業である。
主張することは大切なのだ。しかし、他者に強要するには、個人の感情や意見では足りない。論理が必要だ。
論理的な議論によって、本来自分と同じ意見を持ち得なかった人間に、自分と同じ意見を持たせること、または理解を得ることができれば、それは民主主義的プロセスとして、尊重されるべきだ。

この議論が不断に、より公平に行われ、社会において最大多数の最大幸福が追求される状態は、より健全と言えようか。

逆にいうと、議論をして論理的意見を通じた説得が出来ないのであれば、それはどんな理由であれ民主主義的プロセスを通じた意見の反映は難しいだろう。権力者や社会が気まぐれで援助してくれるのを永遠に待つしかない。
残酷なようだが、公平を期するには、今のところ民主主義的プロセスしか存在し得ない。

不平等というものは付きものだ。これは人間社会が続く限りにおいて、決して終わることはない。
生まれついた門戸や地域、経済的状況、性格や性別、性癖、あるいは時代によっても多くの不平等が必ず生じる。
私はこれらの不平等が正当だとは思わない。必要であり、かつ可能ならば、公平な議論を通じて、社会全体として解決を探ることが望ましい。
しかし、現実的問題として全ての問題を解決することは不可能だ。
我々に求められるのは、自分の意見を時に譲歩する忍耐と寛容さ、他者に対する理解や行動だろうか。


⑨伝統は変更しうる?

話がだいぶ飛んでしまったので、今回問題とされていた祭りと伝統の話をしよう。

私自身の意見として、当事者間の合意があるならば、伝統の変更は可能であると考える。

その前提として、祭りにおいて考えられる当事者とは何かを考えよう。
まず祭りの主催者。これは有志や町内会だったり、実行委員会や役所などが考えられる。
次に後援者。祭りに必要な場所や時間、経済的支援や人的支援を行う当事者。
地元企業や地元の有志、土地の管理者など。
次に参加者。これは祭りの参加者。地元の有志だったり、他の地域から参加する有志など。

これらがまず当事者であり、この当事者間の合意が必須だ。
逆に言えば、当事者でないならば、無闇に口を出すべきではないとも思う。もし意見を述べたいならば、当事者としてその決定プロセスに加わるしかない。
この視点は、今世間で騒がれている多くの「炎上」案件に常々思うことである。
当事者ならば決定プロセスにおいて意見を述べ、合意に至らないならば、裁判や行政への訴えなど、何らかの方法で解決法を探ることになる。
しかし、当事者でない人間がSNSに自分の意見を投稿するだけならならともかく、当事者に対して直接意見を言ったり、攻撃・口撃を加えることに、何の正当性があるのか。
個人として感情を抱く、SNSに自分の意見を投稿するだけならば、何の問題もない。
(公人に関しては、発言に権力性が伴うこともあるので、時に例外とせざるを得ない場合もある)

しかしながら、当事者に対して苦情の電話を入れるとか、SNSのアカウントに直接書き込んで攻撃するとか、そのようなことは許されないと考える。
それは相手が役所だろうが、公人や有名人だろうが、変わらない。
いかにその事象によって、当事者に対して強い怒りや嫌悪感を抱いたとしても、当事者ではない外部の人間が、当事者を正当なプロセスなしに意見を強要する権利はないのである。攻撃となれば尚更である。


雑記

自分と他人の境界線を意識できない人が増えたように思う。あるいは、元からそんなものなのかもしれない。
私は常々多くの炎上や問題(とされる事象)について、やはり上記のような感情を抱かざるを得ない。
そして思うのである。なぜこのように炎上するのに、政治的無関心が叫ばれて久しいのか。
無気力などというのは、言い訳に過ぎない。そして、日本に民主主義が向いていないとも思わない。アニメやゲーム、ネット社会など、日本の自由な表現は、世界でも評価されているところで、それは民主主義が産んだ副産物に他ならないからだ。

だからこそ、自分が当事者であるならば、政治的事象については声を上げるべきだと思う。
日本では悪とされがちなデモもストライキも、政治的活動も、市民に認められた権利だ。
行動しなければ変わらない。
だから当事者として行動してほしいと思う。もちろん民主主義的プロセスの前提として、法律の範囲内で。

以下の点をカイゼンできるかもしれません。
- 特に私が気になる箇所はありませんでした!


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