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【短編】嬬恋

「いま、なんと仰せになりましたか」
 動揺を隠しきれず、愕然とした面持ちで大海人皇子おおしあまのみこはそう聞き返した。
 彼を混乱に陥れた張本人は、もの憂げな表情をして淡々と告げる。
額田王ぬかたのおおきみをわたしにくれ」
 聞き間違いではなかったのだ、と大海人皇子は言葉をうしなう。
「無論、ただでとはいわぬ。代わりにわたしの娘をおまえに嫁がせよう」
 中大兄皇子なかのおおえのおうじはそういうと、憂いを帯びた表情のまま、呆然と立ち尽くす同母弟おとうとに視線を向ける。気だるげなたたずまいとは裏腹に、その眼差しは冷たく、鋭い。この兄が烈火のごとく激しい気性の持ち主であることは、弟である大海人皇子がいちばんよく理解している。目的のためならば血を流すことを厭わない。目障りなものはすべてその手で斬り捨てる。それがたとえ血を分けた同母弟であろうとも。
「いやか」
 ぽつりと、つぶやく。大海人皇子は背筋がひやりとするのを感じた。
 いなはない。それを口にしたが最後、中大兄皇子はここぞとばかりに刀を抜くであろう。いや、すでに、抜き身の刀を喉元に突きつけられたも同然だった。
 否はない。だがうなずくこともできない。なすすべのない絶望と、怒り。大海人皇子は拳をぐっと握りしめる。弟に最愛の妻を譲れと、ぬけぬけと口にする眼前の男にはらわたが煮えくり返る。しかしそれでは相手の思うつぼだということも、頭では理解している。
 そんな内心の葛藤を知らぬはずがない中大兄皇子は、相変わらずもの憂げな表情のまま黙って弟の苦悩を観察していたが、やがてそれも飽いたのか、眼差しのきつさをいくぶん緩めて口を開いた。
「おまえがいまここで応えられぬなら、額田に決めさせよ」
 それはより残酷な申し出であった。大海人皇子にとっても、そして額田王にとっても。中大兄皇子が額田王を望む以上、これまでのように仲睦まじい夫婦として暮らすことはもうできない。大海人皇子は目を伏せると、ぎり、と血がにじむほど唇を噛む。それでも、自分を取り巻く一族郎党を思えば、ここで怒りにまかせて兄に歯向かうことはとうていできないのであった。

 額田王は中大兄皇子のもとへと向かった。
 大海人皇子が苦渋に満ちた面持ちで告げた言葉は、いかに巫子であった額田王にとっても思いもかけないものであった。
「来たか」
 まるで、額田王が訪れることを予期していたかのように、中大兄皇子はあっさりと彼女を招き入れた。人払いをすませると、脇息きょうそくに肘をのせて視線を向ける。
「説教はいらぬ」
 そう、いった。出鼻をくじかれたかたちで額田王はしばし戸惑う。
「わたくしは説教など」
「なにをいう。そんな恐ろしい顔をして乗り込んできて」
 思わず頬を押さえる。そのような恐ろしい顔をしているのであろうか。無論、憤ってはいる。大海人皇子が逆らえないのをいいことに無理難題をいうこの男に対して。
「気にするな。そなたは怒っていてもうつくしい」
 さらりと、そんなことをいう。
「またそのようなお戯れを」
「戯れではない。本心からいうておる」
 出会い頭から、どうも調子を崩されっぱなしである。このかたは、このようなことを口にされるかたであっただろうか、と額田王は違和感を覚える。
「わたしのもとへ来るのはいやか」
 単刀直入に問われて額田王は目を見開く。鷹揚な物腰とは裏腹に、額田を見つめる眼差しは鋭い。
「中大兄皇子は、それほどまでに大海人さまを憎らしくお思いですか」
 いまこの場で斬り捨てられてもおかしくない発言だった。
「わからぬ」
 しかし、彼は淡々と答えた。
「愛しくもあり憎らしくもある。ただ、わたしが他人を信用できないだけだ」
 額田王は息を呑む。これほどまでに率直な答えが返ってくるとは思わなかった。おそらくそれは中大兄皇子の本心であろう。
「大海人さまは弟君です。他人ではありません」
「そう、だな」
 すこしの間があった。
「わたしは大海人がうらやましいのかもしれぬ」
「葛城さまが、大海人さまを?」
 思わずつぶやいてから、はっとする。
「申し訳ございません」
「懐かしい名を聞いたな」
 中大兄皇子はふっと微かに笑う。すぐに笑みを消すと、彼は冷ややかな顔つきをして告げた。
「大海人には断れぬ。そなたはどうする? わたしは欲しいものはかならず手に入れる」
 額田王にも断ることなどできない。この男の不興を買うことは、すなわち死を意味する。額田だけではなく大海人にもそれは及ぶ。ならばせめて。
「大海人さまを、どうか苦しめないでくださいませ」
「約束はできぬが、心得た」
 あまりにも正直な答えである。おそらくこれから先も、中大兄皇子はことあるごとに大海人皇子を試そうとするだろう。このたびのように。
 気がつくと、目のまえに中大兄皇子の姿があった。思わずあとずさる額田王の手をとらまえて彼はささやく。
「額田、そなたを粗末には扱わぬ。大事にする。わたしのものになれ」
「中大兄皇子」
「葛城でかまわぬ」
 額田王はうつむいて目を閉じる。脳裏に浮かぶのは愛しいかのひとの姿であった。


 

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