ルサンチマンとモラトリアム
※「悲しい/辛い記憶」を取材するというテーマで書いた作品です。
電話を切って、話を聞いたことを後悔した。
私は、母が苦手だ。幼い頃から「何の取り柄もない子」と罵られたことはあれど、褒められた記憶はほとんどない。躾として叩かれたり、家から追い出されたり、車で置き去りにされたりしたことが何度もある。母は私にとって悪い魔女で、その言葉は呪いだった。魔女の苦労話を聞いたからって、彼女が善い魔女になるわけではない。
半生を語る母の語り口は、意外にも軽やかだった。
*
辛い記憶なあ。あんたも知っとるやろけど、顔のアザやな。十八の時に就職して、その年の夏頃やったかな、朝起きたら顔に青アザができてて。それが毎日どんどん大きくなっていくんよ。朝お化粧して会社行って、帰って鏡を見ると朝よりアザが大きくなっとるん。すごい恐怖やったな。いったい私の顔に何が起こっとるん?って。
色んな病院に行ったけど、治りませんって言われた。あのな、お母さん、二十歳から三年間で五十回お見合いしたんよ。婚約までいった人もおった。でもいざアザのこと打ち明けたら破談になったん。ショックやったわ。ほんとにショックやった。会社休んで、布団かぶって毎日泣いた。そしたらそれを見たお母さん…あんたのおばあちゃんが、東京の病院を見つけてきて、一緒に行こやって言ってくれた。それが二十三の時。
月に一回、夜行バスを使って、当時飯田橋にあった東京警察病院に通ったわ。お母さんのアザは太田母斑っていう病気で、当時は電気カンナみたいな機械で顔のアザを削いでいく治療法しかなかった。それを三回やったら、次はドライアイスで顔を焼くん。三年間東京に通って、三十六回その手術を受けた。めちゃめちゃ痛いよ。麻酔はするけどそれでも痛いし、何より怖かった。今でも手術の夢を見るわ。
何回死のうと思ったか。でも、嫌なことばっかりじゃないんよ。病院からは、仕事辞めて東京に住まんと治療は無理やって言われたけど、当時の上司が「通えばええ。病院に行った次の日は休んでいい」と言ってくれた。同僚も友達もお客さんも、それぞれの距離感で気遣ってくれた。治療費は四百万以上かかったけど、ぜーんぶおばあちゃんが出してくれた。結婚も諦めてたけど、お父さんと出会って、あんたらが生まれて…色々あったけど、今が幸せやから、いいんよ。それに誰だって、人に言えやん辛いことって経験しとるもんやろ。言わんだけでみんなそうよ。お母さんは結果的に幸せになったから、恵まれとるん。ほんとにそう思うんよ…
*
母と暮らした十八年間を思い出していた。あれは高校三年、実家で過ごした最後の夏。銀行員として外回り営業をしていた母は、昼休みに帰宅して仮眠をとる習慣があった。居間で受験勉強をしていた私は、シャーペンを握ったまま眠る母の顔を見ていた。桜色の頬、薄い唇に乗った鮮やかな紅、淡く紫に色づいた目元。厚くファンデーションを叩き込むせいで、アザの痕が残る右頬はいつも少しヒビが入っていた。よく見ると青いアザが少し透けていて、私には、それがかえって神秘的に見えた。きれいな顔。そう思った。
でも、それを伝えたことはなかった。
再度、通話ボタンを押そうとして思いとどまる。
伝えたところで……
……母娘の関係が改善するわけではないだろうけれど、でも、向こうは話してくれた…。
『もしもし?何か話し忘れた?』
「ううん、違うの。そうじゃないんやけど…」
あたし、そのアザ、きれいやと思うで。
そう言ったら、母はなんて言うだろうか。私たちの呪いも、母のアザのように薄くなる日が、いつか来るのだろうか。
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