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2月のベランダ〜私と宝塚の出会い〜

——2016年2月某日。AM1時。
寝室のドアが開く気配で目が覚めた。布団は人肌で心地よく温まっている。
時計で時刻を確認して、諸々の記憶を掘り返して私はため息をついた。
(またやってしまった……)
子どもを寝かしつけてそのまま寝落ちしてしまったのだ。
そして夫が寝室に入ってきた気配で目を覚ます。
(何も……できてない)
保育園の着替えの洗濯、皿洗い、水筒洗い、お茶を作る。
明日を迎えるための準備は何もできていない。
(起きないと……)
横ですよすよ眠る子供を起こさないように配慮しながら、
ゆっくり身を起こす。
身体は重い、頭は靄がかっている。
とりあえず洗濯機を回す。
洗うということは干さないといけないということだ。
待っている間にダイニングテーブルに乗ったままの皿をシンクにはこんで、
洗っていく。
夫が食べ散らかしたスナック菓子の袋がことさらイラっとさせてくるが、
こちらも夕飯の片づけをしていないのでどっこいだ。
子どもがまとわりついてこないこの時間の家事ははかどる。
というか、2歳を目前にした自我大爆発中の子どもをなだめながら
家事をするよりはるかにいい。
そう思っているから、こんな真夜中に洗濯機を回すことを見直す気になれないんだろう。
明日のお弁当のために米を研いで炊飯器をセット。
そうこうしているうちに洗濯終了の電子音が鳴る。
私は、もこもこのフリースを羽織ってため息をついた。
2月の深夜、外は真っ暗。
寒風吹きすさぶ中での洗濯物干しはなかなか堪える。
ベランダの柵も芯からひえている。
サンダルをつっかけただけの足先が切るように冷たい。
1歳児のお着替えは頻回だ。1日3セットぐらい。
それをちまちまとピンチに止めていく。
きっと効率化する方法はいろいろあるのだと思う。
けれどいったんルーティンが確立されると、それを変えるのも面倒だった。
寒い、歯がガチガチ震えた。
(今日はまだ水曜日……)
恐ろしいことに週の半ばだ。まだまだ週末は遠い。
昨年10月に職場復帰してから、約半年。
子どもは毎日泣きながら保育園に通っている。
手足口病、胃腸炎、○○ウィルス、インフルエンザ……。
一通りもらって帰ってきて、もちろん私にもプレゼントされた。
インフルエンザなんて久しくかかっていなかった。
最近は吸入型の特効薬があるから熱はすぐ下がったが、
鼻水がおさまらず、そこから副鼻腔炎を起こした。
鼻水でおぼれるんじゃないかと思ったし、鼻が詰まって顔が痛くなるという
貴重な経験をさせてもらった。
週末のたびに誰かが発熱し、けれど月曜日には不思議と体調が整い、
出勤して、ここぞというときに発熱して休む。
何も当てにならない日々だった。
(もう、疲れた)
仕事に追われ、時間に追われ、子供の泣き声に追われ。
何一つ満足にできない自分が愚鈍に思えて、情けなくて。
「消えたい」
思わず口からその言葉が漏れていた。
ここは寒くて、とにかくつらい。毎日誰かが責めてくる。
仕事をすることも、子どもを持つことも、子どもを産んでから仕事を続けることも全部自分の選択のはずなのに辛くてたまらない。
(逃げたい)
全部捨てて、逃げたい。
その時、ひときわ強い風が吹いた。
ベランダの柵が目に入る。転落防止のため1メートル以上の高さはあるけれど、その気になれば乗り越えられるだろう。
(飛びたい)
逃げたい、飛びたい、ここから。
真夜中のベランダで、不意に生まれたこの思いを
私は卵のように胸に抱えて温めることになった。

それからというもの、「ベランダから飛んで逃げる」という計画は
私の中で決定事項となった。
飛ぶ、飛ぶしかない。問題は日時だ。いつやるか。
2月は子供の誕生日がある。
2歳のお誕生日は盛大に祝ってあげないといけない。
ひとまずそれまでは延期だ。お祝いの翌日もよろしくない。
そんなことをしたら毎年誕生日を楽しめなくなってしまうだろう。
死ぬのは決定事項としても、私は人の親になったのだからちゃんと
子どものことを考えなくては。
そう思うと、”後妻を探さなくては”という考えが浮かんできた。
そうだ、仕事だって後任に引き継がないとやめられない。
子育てもしかるべき後妻を探してからにしないと。
すると運のよいことに、夫の幼馴染が同県にいることがSNSで判明した。
独身だし、年もほぼ変わらないし、何なら出身大学も一緒だった。
よし、この人にしよう。
あとは丁寧な文章をしたためて、快く後妻になってもらわないと。
候補者が見つかったことで前進した感じがあり、
当時の私は割と真剣に、自己紹介と事情説明と後妻になってもらいたい旨をいかにスマートに抵抗なく依頼できるかを自分の文章力にかけて挑んでいた。
不思議と、目標が定まったのである意味メンタルは落ち着いた。
仕事も何とか回せるようになったし、子どもの誕生日を祝うべくいろんなものを買いそろえた。
見ようによっては生き生きしているように映ったと思う。
全ては悔いなくあのベランダからジャンプするためだった。

子どもの誕生日祝いはつつがなく終わった。
水族館で大きなサメを見てほーっとなっている姿は可愛かった。
よかった、いい思い出を残せた。
2月中旬、仕事の月次締めも終わった。
年度末に欠員が出るのは心苦しいが、
あとひと月ぐらいはどうにかなるだろう。
因みに職場の人たちに不満があるわけではなかった。
皆黙々と仕事をしている。子持ちの人も多い。
皆は私がつまづいている職場復帰を乗り越えられたのだ。
それだけで尊敬のまなざしで見れてしまう。
私だけが、みなが普通にやれていることができない。
だから逃げる。あのベランダから飛ぶんだ。それしかない。
その思いを新たにした時、ふと手帳に書かれていた予定が目に入った。
【2月13日、Oさんと宝塚】
(うん?)
時を同じくして、Oさんからメールが入る。
「13日やけど、8時に〇〇駅でいい?」
(あれ、こんな約束してたっけ?)
Oさんは大学時代の友人だ。
そのころから宝塚が好きで授業と授業の合間に立ち見で鑑賞をしていたと聞いたことがある。
そういえば年末に忘年会をした時に、「2月にるろ剣(るろうに剣心)の舞台があるからよかったらいかない!?」と熱量高めに誘われて「いいよ~」と気のない返事をしたことを思い出した。
(まじか、じゃあ金曜日の夜には飛べないな)
約束を反故にするのはよくない。
ヅカ鑑賞なんてすぐにかわりはみつからないだろう、
不義理はよくないからここは付き合おう。
私はなんとなく、最高の計画に水を差されて不貞腐れた気持ちで、
待ち合わせのメールに「了解です」と送った。

宝塚観劇は初めてだ。ドレスコードも観劇のマナーも何も知らない。
そもそも何組あるんだっけ?というまったく興味関心のない状態でのスタート。
「拍手の時に『よっ、雪組!!』とか叫んだ方がいいの?」
「歌舞伎じゃないんやから絶対やめてほんま辞めて拍手も周りの人がやってる時だけでいいから」
「『ブラヴォー!!』とかもいらない?」
「オペラちゃうねんおとなしく座っといて」
Oさんに言われるまま、宝塚駅から劇場までの道のりを歩く。
通称”花のみち”がこんなにきれいに整っているとは知らず、
まるでテーマパークのようだなと思いながら歩いた。
いそいそそわそわと浮足立つ妙齢の女性(大体2人組)の姿が目に付いた。
「私、雑魚やからいい席は取れへんかったんやけど」
「え、全然いいよありがとう」
と当時は軽くいなしたが、伝説の”ちぎみゆ”コンビを擁する雪組の目玉公演の土曜日マチネを非・友の会会員がゲットするのがどれだけ大変か今ならその苦労がしのばれる。
初めて訪れた劇場、当時はいろんな会のスタッフさんがチケット出しや
お茶会のための受付をしていた(と思う)。
キャトルや殿堂、宝塚大劇場にしかない卵型の舞台出演者のポートレートコーナーも、当時の私は無関心だった。
携帯の電源を切り、ふかふかの座席に腰かける。
産後、映画も見ていなかったのでこの感覚は新鮮だった。
緞帳にクレジットされた「るろうに剣心」のタイトル。
(いや、別に”るろ剣”もそこまでファンちゃうねんけど)
漫画は全部読んだし、アニメも見たけれどそこまでドはまりしているわけではない。ただ、話の筋を知っているから楽しめるだろう。
途中で寝たらどうしようOさん気を悪くするよな、と心配する私をよそに、
やたらいい声の開演アナウンスが流れて幕が上がる—————。

「どうだった?」
「完成度たけーなオイ」
「それは銀魂や」
幕間休憩、食堂でカツカレーを食べながら一幕の感想を語り合った。
「とにかくビジュアルの再現度が高すぎる。弥彦の子とかほんとに子役じゃないの?」
「あれは娘役さんや膝を折ってはんねん」
「膝を、折る……??」
折ったひざは元に戻るのだろうか。
べこべこ赤べこソングがかわいかった、あのオリキャラの人は誰なんだと
やんや言いながら、あわただしくトイレを済ませて座席に戻る。
2幕、御庭番衆の捕り物が始まった。
その時、すぐ近くを美しい人が駆け抜けていって、
その波動の風が私に届いた。
その人が、四乃森蒼紫役で後に月組トップとなる月城かなとさんだった。
「ひゃ~~!」と叫びたいのを声を殺しながら仰け反る。
一瞬のことだったのに、駆け抜けていく後ろ姿にキラキラとした光の軌跡が見えた気がした。

結論から言うと、その時点ではまだまだ宝塚にハマったとは言い難かった。
るろ剣の世界の再現度に感心していたので、
むしろフィナーレが興ざめにすら感じられてしまった。
(今思うと本当にこれだから素人はと言いたくなる)
ただ、現実から完全に離れて何かに没頭できる3時間はとても貴重で、
当時、仕事でいわれのない罵倒を受けて人間というものにほとほと嫌気が
さしていた私には、ジェンヌさん達のきらめきがとてもまぶしかった。
(あまりはまっていない”るろ剣”でこんなに感動できるなら、
ハマってる漫画の舞台ならもっと感激できるかも?)
そう思って、その夜に当時ハマっていた「弱虫ペダル」の舞台DVDをAmazonで発注した(これはまた別の話)。
それを見るまでは飛べない。
そうこうしているうちに2月末、年度末進行の始まりだ。
年に一回の監査も始まってしまった。
それが終わるまでは飛べない。
——相変わらず、寝落ちして真夜中に洗濯機を回している。
真夜中の夜空に星々の光が冴えている、
周りのマンションの明かりも灯っている。
——あの、蒼紫役の人の残していった光は何だったんだろう。

少しずつ和らいでいく寒さ。
週末に寝込むことも気づけば3週間ほどなくなって。
代わりに花粉症でぐずぐず鼻を鳴らしながら、
今日も体を引きずって通勤電車に乗り込む。
(職場、爆発しないかな)
そんなことを願いながらも、淡々と出勤して仕事する。
気づけば、春はもうすぐだった。

後妻候補の人に送るつもりだったメッセージを改めて読みかえして、
出来の悪さに悶えて。
わが子はいつの間にか自分で登園のお着替えができるようになって。
真夜中のベランダから聞こえていた声は、ほんの少し遠のいた。
なんとなく、自分は一番の窮地を脱したのだと悟った。

それから、Oさんとは度々宝塚の観劇をするようになった。
劇場ではなく、配信を一緒に見ることもよくあった。
Oさんは漫画好きな私のために、「天は赤い河のほとり」
のDVDを見せてくれた。
——そう、これが私と宙組との出会い。

私があの時、本当にベランダから飛べるほどの蛮勇があったかどうかは
わからない。けれど当時は本当にそうすることが正義だと思っていた。
周りに不満があったのかと聞かれると、なかったわけではないけれど、
それを訴えて改善を求めるつもりもなかった。
ただ私は周囲についていけない、至らない自分を恥じて、
これ以上生き恥をさらしたくなくて、消えたかった。
宝塚は踏みとどまることになったきっかけの一つに過ぎない。
けれど、同じ人間でもあんなに煌めくことができるんだ、
あんな世界があるんだと気づけたのは僥倖だった。

この私小説もどきで私が伝えたいことは何か。
人が死ぬことを選ぶときに明確な原因はないと言いたいのかもしれないし、
周囲は意外と気づいていないということを言いたいのかもしれない。
ただ、私は生きながらえた。
きっと私のように、舞台を明日の糧にしている人はほかにもいる。
彼女たちの評価は舞台上でこそなされるべき。
だから私は、幕が上がることを心から望んでいる。
ただそれだけを言いたくて、古い手帳を引っ張り出して
当時をなぞりながら文章をしたためた。

——あの2月のベランダの底冷えする冷たさを、
私はまだ思い出すことができる。
私を現世にとどめてくれたあの煌びやかな世界が、どうかこれからも幾久しく続いて、誰かをつなぎとめる光となりますように。

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