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読後までビールを開けないで(小説)


 カリッと焼き上げた手羽先に、気持ち多めの塩をふる。粗挽きのブラックペッパーも少々。皿に盛る。付け合せはない。ただ味の濃い骨付きの肉だけが、俺の目の前にある。
 冷蔵庫を開けると、そこにはカキンと冷えたビールの缶が五本ある。俺はそのうちの一本を優しくつかみ取り、手羽皿の横にコトンと置いた。スマホを操作し、テレビに芸人のコント動画をセットする。
 準備は万端。何にも邪魔されない環境は整った。
 これから俺は、一人大宴会を始めるのだ。

「私、お酒絶対無理だから。あなたが飲むのも無理」

 先日まで同居していた彼女は、付き合い始めて三ヶ月経った頃に、きっぱりとそう言い切った。一方の俺は非常に酒が好きで、依存こそしていないものの、ストレスが溜まって来たら飲んで発散するのがルーティンだった。
 そんな俺に突如言い放たれた禁酒法だったが、実はそこまで辛いものではなかった。当時の俺は「彼女さえ居てくれれば、酒くらい我慢できる」と考えていた。事実、彼女と過ごす日々は俺にとってかけがえのないもので、酒で発散するはずだったストレスは、今では彼女と過ごす日々が和らげてくれていた。酒に頼らなくても、彼女さえ居てくれれば俺の心は安泰だ。だから、禁酒法も別につらくはない。
 彼女とはマッチングアプリで知り合った。
 趣味が合っていたわけでもないし、なにか共通項があったわけでもない。ただなんとなくマッチングしたので会ってみると、不思議と話が合ったので、そのまま同棲する事になっただけだ。ロマンチックなことは何もない。
 彼女は優しく、包容力があり、ちょっとしたことでは怒らない温厚な性格だった。専業主婦をしたいと希望したので、同居し始めてからは家事全般を任せるようになった。一方の俺は、より多く働いて生活費を稼いだ。ストレスは前よりもぐんとたまったが、その分、彼女がぐんと減らしてくれた。家に帰ると温かい料理ができていて、「おかえりなさい」と言ってくれる。これがどれほど心の支えになっていたことか。
 しかしそんな幸せは、緩やかに終焉を迎える事になった。
 どうやら物事は諸行無常らしい。状況は常に移り変わっていく。
 ある日家に帰ってみると、彼女が全く家事をしていなかった。「まぁ、人間疲れている時もあるし当然か」と何の疑問も持たず、俺は彼女の代わりに家事をした。
 それからというもの、三日に一回は彼女が家事をしなくなった。理由を聞いてみると「だるいから」との言葉が返ってくる。本当にこの一言だけだった。そういえばこの頃から、俺に対する扱いはぞんざいになり始めていた。が、当時の俺は気にもとめずに「俺、やっとくよ」と家事をした。すると、三日に一回だったはずの何もしない日は、二日に一回になり、ついぞ毎日になった。

「酒が飲みたいな……」

 俺はついに、そうぼやくまでになってしまった。
 というのも、彼女が家事をしなくなってからは、夕飯をコンビニで買うことが多くなったのだ。コンビニ飯は味が濃くてうまい。味が濃いと、酒が飲みたくなる。揚げたてのチキン、レンジで作る餃子やハンバーグ、唐揚げがもりもりと入った弁当。そのどれもが、俺の酒欲を刺激した。
 勿論、理由はそれだけではない。この頃になると、彼女の愛がすっかり抜けきってしまっていて、仕事から受けるストレスはもはや発散場所を失ってしまっていたのだ。「おかえりなさい」ともついぞや言われなくなってしまった。家に帰ると彼女は寝ているか、暗い部屋でスマホをいじっているだけ。何をしているのかも教えてくれない。
 行き場を失った俺のストレスは、自由に、何も考えず、ただ酒を飲みたいという欲望に変換されはじめていた。そしてついに、ぼやきが出たのだ。
 有りていにいって、俺は限界だった。

 いよいよその欲望が大爆発したのは、深夜残業が一週間も続いた日の明けの事だった。同僚が言った。
「こんなに疲れてるんだから、今酒を飲むと馬鹿美味いぜ」
 俺は答えた。
「でも、彼女が酒、だめでさ……」
 同僚は肩を落としながら言った。
「あのな。普段我慢してるんだから、今日くらい許してもらえよ。たった一日だぞ? 毎日地獄の苦しみを味わってだ。たった一日のご褒美もないなら、そりゃお前生きてないのと同じだぜ。亡者だ亡者」
 ここで俺は「でも、俺は彼女が嫌がることはしたくないんだ!」なんて言えれば、世界から絶賛されるイイ男だったに違いない。だが俺は残念ながら凡人だったらしい。気がつけば俺の口は勝手に動いて、音を出していた。
「じゃあ、今日はビール缶一本だけ買って帰ろうかな……」
 俺はコンビニで、味の濃い弁当とビールを一本買った。

 その日、家に帰った俺は、彼女から烈火の如く怒られた。
 いや、怒られたというより泣かれた。本気で泣きじゃくられた。

「私よりお酒のほうがいいんでしょ!!」

 なんて暴言を吐かれ、俺はもうどうしていいのか分からなくなった。ビール缶のタブにかけていた指は、まるで金縛りにあったかのように動きを止めていた。
 そこまで拒絶されるのか。俺は正直ビビった。
 結局、俺は買ってきたビール缶を、飲む前に捨てた。

 日々から彩りが消えていくある日、深夜残業続きで死んでいく身体と心を引きずって、やっとの思いで家に帰ってみると、不思議な事が起きていた。
 部屋が綺麗に片付いている。
 彼女が家事をしなくなってからというもの、部屋の中は荒れ放題だった。生ゴミを三週間に一度出すほど適当だったし、自炊をしなくなった炊飯器はすっかり埃を被っていた。床にもゴミが散乱し、中身のないペットボトルは山積み。……である、はずだった。
 部屋が片付いている。綺麗に。ゴミはだされているし、埃はしっかり払われている。まるで、誰か大事なお客さんがくるから急いで掃除しました……と言わんばかりの変わりようだった。
 その日彼女は、やけに機嫌がよかった。
 俺は嬉しいという気持ちより、「そういうことなのかな」という不思議な確信が、胸中を埋め尽くしていた。

「だってあなたが構ってくれなかったから!!」

 と、逆ギレされたのがつい先先日の事だ。
 あれからも一週間に一度だけ、家が綺麗に片付いている事件が起こっていた。決まって同じ日、俺の帰りが特に遅い日の事だ。
 胸中の確信を元に、近隣の探偵に依頼を投げてみたら、案の定だった。あっさりと浮気の情報が明るみに出た。いよいよ疲れ切っていた俺は、彼女にその証拠をすぐに叩きつけた。「さぁどうしようかな」と頭を悩ませていると、彼女はひどい逆ギレをし、ついぞや浮気相手の家へと退避していってしまった。とんでもない風速だった。
 諸行無常。世は常に移ろうものである。俺の心を癒やしてくれていた彼女はもういない。俺はどうしようもない気持ちを「勝手にしてくれぇ~!!」という言葉として吐き出し、落ち着いた心でため息をついた。

「……酒、飲みたいな」

 ふとついて出た言葉は、青天の霹靂となった。
 そうか。彼女がいなくなったということは、酒をいくらでも飲めるということではないか? 俺の胸中にたまった鬱憤を、思いっきりアルコールで流し込めるビッグチャンスが到来したのだ。
 諸行無常。世は常に移ろい、そして俺は酒を飲める。それに気がついた時、俺はただ、とてつもない開放感と、夏の真っ青な空を自由に泳ぎ回っているかのような高揚感を、抑えきれずにはいられなかった。

 カリッと焼き上げた手羽先を、俺はいよいよ口に運んだ。カリッ。じゅわ。スパイシーな濃い味が口いっぱいに広がる。美味い、美味すぎる。しかし、濃すぎる料理だけでは舌も喉も疲れてしまう。ここはお茶で少し舌を休めて……と普段ではなるところだが、なんと今日はそうではない。
 酒だ。
 酒を飲むのだ。ここで。舌が濃い味を感じきって、水分がほしい!と訴えているまさにこの場面で、俺はいよいよ缶のフタに指をかける。
 彼女と同棲しはじめてから、一度も引っ張る事が出来なかった天国への扉。それがようやく開け放たれる。
 テレビに映るお笑い芸人が何か面白いことを言って、ひな壇の芸人達がたくさんの笑い声と拍手喝采を送っている。
 俺はその祝福を受けながら、缶ビールのタブを思いっきり手前に引いた。

 カシュッ。

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