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【自伝】生と死を見つめて(8)アメリカでの手術

「1000万円…とてもじゃないけど払える金額ではない…」手術費の明細を見せられて、諦めにも似た絶望感が私を襲った。

当時、私の足の病気を手術することができる医師が、日本では見つからなかった。東京の大きな病院に何ヶ所も行ってみたけれどダメだった。音大を卒業した私は、アメリカで手術してくれる先生を探すため、現地で様々な病院に足を運んだ。

最終的に私は、手術をしてくれる医師に巡り合うことが出来た。しかし、冒頭の通り、手術には莫大な費用がかかるということが分かった。私は「お金がないので手術は諦めます」と医師に告げた。

それからほどなくして、州の制度で、治療が必要だが金銭的に苦しい人に、治療費を援助してくれるシステムがあると病院から言われた。半信半疑で申請してみたら、なんと手術にかかる費用の全額を援助して頂けることになったのだ。

帰国前、最後の診察の日、ナースがそっと教えてくれた。「治療費が全額援助されることになったのは、ドクターのおかげなのよ」と。

病院の通訳の方が言っていたのだけれど、通常外国人である留学生が援助を受けられるパターンは非常にめずらしいのだそうだ。「あなたはラッキーね」と言われていた。

でも、実は、ドクターが支援金制度の事務局に直接働きかけて、私が手術を受けられるようにしてくれたんだとナースから教えられた。

ナースは「ドクターは態度はぶっきらぼうだけど、心はとても暖かい人なのよ」と笑っていた。

信じられないほどラッキーな話なのに、心の底から喜べない私がいた。無償で手術を受けられて、手術前と比べて格段に足の具合が良くなったのに、私の心は、自死への思いに囚われたままだった。


手術の待合室は、花や絵画が飾ってある広い部屋で、立派なソファーもあり、手術前に患者がリラックス出来るような環境になっていた。

ふと見ると、家族みんなで手を繋ぎ、熱心に神に祈りを捧げる光景。そんなファミリーが何組かいた。

でも、私はひとりぼっちだった。

全身麻酔にかかったら、そのまま眠ったきり二度と目が覚めないことを本気で祈っていた。

手術は6時間で終わると事前に聞かされていたが、実際には手術に6時間、全身麻酔から目が覚めるまで6時間、合計12時間もかかっていた。

手術が終わる頃、友達に来てもらうことになっていたのだけれど、予定時刻を大幅に越えてしまい、待たせて申し訳ないことをした。

あまりにも遅いから、友達2人で泣きながら待っていたのだと後から教えてもらい、胸が痛んだ。

そういう役割は、本来なら家族がやるべきなのではないかと、暗い気持ちになった。


大手術を受けた後、体力が回復するまでの間、それから受けた過酷なリハビリ、これらが本当に大変だった。

手術を受けた日の夜は、足が物凄く痛くて、ほとんど眠れなかった。一時間位ウトウトしてから激痛に起こされる、一晩中これの繰り返しだった。

次の日の朝は、ドクター達が集団で私のベッドのところに訪れ、日本語で「具合はどうですか?」、「足の調子はどうですか?」等と話しかけてきた。あらかじめ用意していたと思われる原稿を読んでいたみたいだった。その心遣いは嬉しかったけど、それに反応するほどの元気もなかったので、「はい」、「はい」とだけ答えた。

手術を終えてから数日間は、意識が朦朧としていて殆ど眠っていた。あとは、気持ちが悪くて何回も吐いてしまい、せっかく飲んだ薬を吐き出してしまうこともあった。「吐かないように我慢してね」とナースに何度も言われた。

日本の病院とは違って、アメリカの病院は、まさに「スパルタ」だった。日本では、とにかく安静にしていることが優先されたが、アメリカでは全く違っていた。

まず、手術して数日後、まだフラフラしているのに、ベッドの上で起き上がるように言われた。「そんなの無理だ」と思ったけど「You Can!」と明るく力強く言われてしまい、死ぬ思いをしながら従う他なかった。

それから2日後、今度は廊下を歩けと言われた。それこそ「ホントに無理、不可能だ」と思ったが、また「You Can!」が出てきた。立ち上がると頭がクラクラして、吐き気を堪えられず吐きながら歩いた。その時、丁度実習生が見学に来ていて、吐いている私を無言で見ていた。「助けてはいけない」という決まりでもあったのだろうか。吐いている所を見られて恥ずかしかった。

アメリカの病院は食事も凄かった。日本では手術の後には重湯などが出されるが、アメリカで手術後、一番最初に出された食事は、なんとターキーのサンドイッチだった。隣のベッドにいた、私と同じ日に手術を受けたお婆ちゃんは、元気にパクパクと食べていたので、日本人とアメリカ人では根本的に何かが違うのだろうと思った。

だんだん回復してきた頃、手術を受けた病院からリハビリセンターに転院し、本格的なリハビリが始まった。

回復してきたとは言え、まだ食事はまともに食べられなかったし、吐き気も治まっていなかった。薬を飲むためには何か胃に入れないといけなかったので、味無しのクラッカー1枚と少量の水を口にして、それから薬を飲むやり方を教わった。

だんだん動けるようになってきたので、部屋を一通り見回してみた。私の部屋は個室で、テレビやトイレ、洗面台もついていた。絵画も飾られており、豪華な病室だった。

箪笥の中には、タオルや着替え、ボディーローションまで揃えてあり、凄いなぁと思った。デイルームには自由に使えるパソコンがあり、冷蔵庫の中にあるジュースやゼリーは好きなだけ食べられた。

リハビリも順調に進んでいた。座ったままで体操をしたり、両松葉杖で歩行したり、調理室で自炊の練習なんかも行なった。

アメリカの手術では、合計3週間の入院生活で済んだ。日本で手術を受けた時は3ヶ月半もかかったので、手術を受けた時期が違うとはいえ、「やはりアメリカは医学が進んでいるのだ」と思った。

あんなにスパルタだったのも、「早く回復させるためのものだったのだな」と退院してから実感した。退院するまではその後の生活が心配だったけど、実際は不自由なく生活を送ることが出来たからだ。

アメリカでは、文化の違いなどで苦労することが多かったが、医療に関して言えば、誠に素晴らしいものだったと思う。アメリカで手術を受けることが出来て、本当に良かった。


手術を受けた後、精神科医の診察を受けた。

この時はまだ歩けるような状態ではなかったので、医師が直接病室まで来てくれた。そこで「どんな症状がつらいのか」等を訊かれた。私は「自殺したいという思いが止まらない」と答えた。

この時の診断名は「うつ病」だった。やはり精神の病にかかっていたのだ。ここで初めて抗うつ薬を処方された。「これで少しは楽になれるかな」と思った。しかし、精神病の闘病がこの先20年も続くなんて、この時は全く予想ができなかった。

退院した後、しばらく病院に行くことが出来ず、抗うつ薬が切れてしまったことがあった。その時、頭が「シャンシャンビリビリ」という感覚に襲われ、目眩や吐き気が止まらなくなった。

脳が「シャンシャン」と細かく揺れているような感覚がして、「ビリビリ」とした振動を感じた。まるで脳に電流が流れているような感じで、非常に気持ちが悪かった。調べてみたところ、抗うつ薬の禁断症状で、このようなことが起こることがあるのだそうだ。

少し断薬しただけでこんな症状が現れるなんて、「精神科の薬は怖い」と思った。でも薬を飲まないと、抑うつ症状が治まらない。一度服薬を始めたら、自分の判断で薬をやめることも出来ない。出口が見えないトンネルに迷い込んだ様な気がして、先の見えない不安感に襲われていた。



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