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【自伝】生と死を見つめて(9)自殺未遂

異変が起きたのは27歳の頃。留学中に住んでいたシェアハウスで、死ぬことばかり考えるようになった。

私の部屋は半地下で、天井が高くて配管がむき出しになっていた。「あのパイプにロープをぶら下げて、首を吊ったら死ねるかなぁ」毎晩寝る時に天井を見上げて、そんなことばかり考えていた。

「次のテストが終わったら死のう」、「今度のリサイタルが終わったら死のう」、それの繰り返しだった。「でもルームメイトに迷惑をかけてしまう」、そう自分に言い聞かせて、なんとか自殺を思いとどまっていた。

その時の自分はまだ、精神の病に侵されていることに気がついていなかった。


アメリカから帰国後、29歳の頃、「うつ病」と診断されて精神科クリニックへ通院していたが、一向に良くなる気配がなかった。当時私は、自分の病気のことを、うつ病ではなく「境界性パーソナリティ障害」なのではないかと疑っていた。

そこで、クリニックの先生と相談して、他の病院でセカンドオピニオンを受けてみることになった。

県立の大きな病院に行ってみたが、そこでは境界性パーソナリティ障害だとは診断されなかった。その病院は統合失調症の患者が多く、パーソナリティ障害の治療はあまり行なわれてはいないようだった。

次に行ったのが大学病院だった。この時はオーバードーズをした直後だったので、つらくて苦しくて、診察の順番を待つのが苦痛で仕方なかった。オーバードーズの副作用のせいか、この時の言動は明らかにおかしくて、待合室で待っている人達に向かって「私のようにはならないでください!」と叫んだり、診察室に入るなり、医師に向かって「助けて下さい!」と叫んだり、当時は必死だったけれど、今思えば、頭が完全におかしくなっていた。

大学病院の医師の発言は厳しいものだった。「その病気を治せるのはあなた自身しかいないんですよ」、「10年かけて病気になったのなら、治すのにも10年はかかります」等、なんとかして「楽になりたい」と思っていた私にとって、絶望的な言葉ばかりだった。

でも、何故かそこで突然、「逃げてはいけない。病気に立ち向かわなければ」と決心がついた。「逃げたり、誰かに頼ったりしていても治らない。自分で努力しなければ」と思ったのである。

最後には、「先生、ありがとうございました」と言って、医師に握手してもらった。そういうことに応じてくれるのは、珍しいことなのだと後から聞いた。この病院でようやく「境界性パーソナリティ障害」との診断が下った。

大学病院からの紹介で、パーソナリティ障害の患者を多数受け入れている、A病院へ行くことになった。同時にカウンセリングにも通うことになった。

しかし、境界性パーソナリティ障害の治療を受けても、なかなか回復には向かわなかった。それもそのはず、私の本当の病名は、境界性パーソナリティ障害ではなく「双極性障害(躁うつ病)」だったからである。その事実が判明するのは、これから12年も先のことだった。


30歳の頃、地元で音楽活動を再開した。

精神病が悪化し、一年ほど休養をとっていたのだが、だんだん回復してきたので、再び歌の活動を始めたのだった。

ライブハウスで開催されているジャムセッションに積極的に参加して人脈を広げたり、片っ端から色んな所へデモテープを送ったり、様々なオーディションを受けたりした。

活動の範囲は順調に広がっていった。ジャズバーで定期的に歌ったり、ボーカルレッスンや専門学校の講師を勤めたり、自分のライブだけではなく、他のミュージシャンのライブにも参加したり、色々な所で歌った。

自分のライブも毎回大盛況だったし、オリジナルCDもよく売れた。しかし、それでも私は幸せではなかった。

忙しくなればなるほど、「私は一体何でこんなことをやっているのだろう」と自問自答するようになった。とにかくがむしゃらに予定を入れて、知り合いを増やして、立派な「プロシンガー」にならなければいけない、という強迫観念に陥るようになっていった。

また、アメリカで通っていた音大が有名大学だったことで、それが自分にとって激しいプレッシャーとなっていた。「卒業生の名に恥じぬよう、実力派シンガーでいなければならない」と、いつもそう思い込んでいた。上手に歌わなきゃ、仕事をきちんとこなさなきゃ、そう思えば思うほど、歌うことが苦痛になり、あまり声も出なくなっていった。


ある日突然、仕事に行くことが出来なくなってしまった。

仕事に出かける前に化粧をしていた時、どうしてもアイブロウで眉毛を描くことが出来なくなった。自分でも「おかしいなぁ」と思いながら、なんとかメイクを完了させて家を出たのだが、なぜか仕事先とは正反対の方向に向かっていってしまった。「今日はもう仕事を休もう」そう思い、仕事先に連絡もせずにあてもなく車を走らせた。

仕事を無断欠勤して、ただではすまない。このまま家にも帰りたくない。もう終わりだ。そうだ、アメリカに行こう。そこで拳銃を手に入れて、ピストルで自殺しよう。一気にそこまで考えが飛躍してしまった。完全に重度の抑うつ症状に陥っていたのだと思う。

車で空港まで行き、飛行機で成田に着いたのだが、その日のアメリカ行きのフライトはもう終了したとのことで、近くのビジネスホテルにチェックインすることにした。

母に電話をかけて、仕事のスケジュールを全てキャンセルしてもらうようにお願いした。今日無断欠勤してしまった仕事先にもお詫びの連絡を頼んだ。これで私の仕事は全部なくなってしまった。母には、今どこにいるのか、この先アメリカに行くつもりだということなどは、教えなかった。

しかし、夜中になって、突然過呼吸の発作に襲われた。このまま死ぬんじゃないかと思うくらい、激しい息苦しさと死の恐怖に襲われた。フロントに電話したら、すぐに救急車を呼んでくれた。

後から思えば、過呼吸で命を落とすことはないし、そもそも「死のう」と思っていたのに、いざとなると助けを求めてしまった。そんな自分が滑稽で、本当に何もかもが嫌になった。

結局、搬送された病院に母が来てくれて、家に帰ることになった。それから数日後、A病院へ行き、そのまま入院することになった。

何もかもを失い、振り出しに戻ってしまった。しかも、仕事を始めた頃よりも、はるかに病状が悪化してしまっていた。私は絶望感に打ちひしがれ、日常的に希死念慮に襲われるようになっていた。

精神病のリハビリを終えてから、再び就労に復帰する際には、仕事の負担を少しずつ増やしていかなければならない。しかし、私の場合、急激に仕事を増やしてしまったので、それが病気が再び悪化した原因の一つなのかもしれない。

こうして、せっかく復帰した音楽への道は、再び遠のいてしまった。


32歳の冬、一人で温泉ホテルに宿泊した。自殺を決行するためだった。

この頃は、音楽の仕事ではないものの、再就職して社会復帰を果たしていた。しかし、仕事や人間関係が上手くいかず、一年ももたずに退職してしまった。音楽の仕事もそれ以外の仕事も出来ない、そんな自分には生きる価値がないのではないか。そう思い詰め、希死念慮が悪化し、自殺を図ろうと考えたのだった。

フラフラになりながら車を運転して、なんとなくたどり着いた温泉地の大きなホテル。ここを自分の最期の場所だと決めた。

今思えば、もしも自殺をやり遂げてしまえば、ホテルの方々に多大なる迷惑をかけてしまうことになっただろうが、この時の私は、そんなことを考える心の余裕もなかった。

夜になり、いよいよその時がきた。ドアノブに浴衣の帯を括り付け、輪っかを作り、そこに首をかけて体重を沈めた。

でも、いくら体重をかけても、意識が遠くなることはなかった。とにかく痛くて苦しくて、ぼろぼろ泣きながらその作業を繰り返した。

「お母さん…」心の中で母のことを思った。ただひたすらに悲しかった。自分が哀れでならなかった。

あと一回、次で必ず死のうと覚悟を決め、思い切り体重をかけた。

その時、携帯の着信音が鳴った。

母からだった。

「温泉楽しんでる?」母は優しくたずねてきた。私は自殺をしようとしていたことを正直に話した。

母は驚いたり責めたりはしなかった。なんとなく気づいていたようだった。

それから母はホテルまで来てくれて、泣いている私の頭をずっとなでていてくれた。

翌日、先に起きていた母が「温泉気持ち良かったよ。しばらくここでのんびりしていったら?」と言った。せっかく温泉に来たのに、まだ全然温泉にも入らず、部屋にこもりきりだったからだ。私は数日間このホテルに滞在することにした。

ベッドに横になりながら、私は大好きな植木等さんの「チビ」という曲を、繰り返し繰り返し聴いていた。

この曲は、娘が大好きなパパの歌で、娘のためならいつも一生懸命、娘のことをどんなに愛しているか、コミカルに、ハートフルに歌った曲だった。植木さんの朗々とした歌声が、心に沁み渡った。

何度も何度もこの曲を聴きながら、「私のお父さんはなぜこのような人じゃなかったのだろう」と思った。私は父に「愛されている」と実感したことはただの一度もなかった。

悲しくて悲しくて、嗚咽しながら、ひたすらこの「チビ」を繰り返し聴いていた。これは一種のグリーフワークだったのかもしれない。自分の中のインナーチャイルドを癒していたのかもしれない。

私が求めていた「お父さん」は、現実には存在しない。幻だったのだと悟った。


33歳の頃、ひどい不眠症を患ったことがあった。

毎晩毎晩、一睡も出来ない。日中に少しだけまどろむことはあるけれど、眠るまではいかない。この頃は、常に意識が朦朧として、フラフラしながらなんとか生活していた。

やがて、眠れないこと自体がトラウマとなり、「ああ、今夜もまた眠れないのか。つらくて長い夜を過ごすのか」と思うと、ベッドに入ること自体が恐怖と感じるようになってしまった。

少しでも眠れるようにと、寝る時にヒーリングミュージックのCDをかけていたのだが、それも逆効果だったみたいだ。その音楽を聴くだけで「眠れない」という記憶が蘇って、かえって苦しくなってしまうのだ。

A病院に入院してからも、この不眠症はしばらく治らなかった。病院には同じような不眠症の患者さんがいて、真夜中のデイルームで、一緒に過ごしたりおしゃべりしたりしていた。自宅で眠れなくて苦しんでいた頃よりは幾分ましだった。


33歳の夏、A病院の主治医が代わった。

周りの評判は良い医師だったが、とにかく患者をコントロールしたがるような人で、強い違和感があった。二言目には「グループミーティングに行きなさい」とばかり言う先生だった。

グループミーティングとは、「言いっぱなし・聞きっぱなし」のミーティングで、自分のつらい気持ちや経験などを話し、他の参加者の話をただ黙って聞くというものだった。他の人の話に意見を言ったりしてはいけなかった。

ミーティング中に参加者から聞いた話は「他言厳禁」というルールだったが、守ってる人はほとんどいなかった。個人のプライバシーが筒抜けで、これでは意味がないのではないかと思っていた。

それでも頑張って一年ほどグループミーティングに通った。始めの頃は新鮮な体験だと思っていたけど、だんだん慣れてくるに従って、「果たしてこれは治療として効果があるのだろうか」と疑問に思うようになった。一年経っても、同じ人達が同じ話を繰り返している。まったく進歩がない。「こんなことに時間を浪費したくない」と強く感じるようになった。

主治医の方も不信感だらけで、診察の時も「最近どう?」と訊かれても、本当は調子が悪いのに、めんどくさいから「調子は良いです」と答えたりしていた。なのに「いいね、今までと違って表情がいきいきしてる」なんて言われたりして、「ダメじゃんこの医者」と呆れ果て、とうとうA病院への通院をやめてしまった。


41歳の秋、新しく通い始めたB病院で、現在の主治医の先生に出会った。この病院で、ようやく「双極性障害」との診断が下ったのだ。

とても優しい先生で、いつも丁寧な診察をしてくれる。夫もうつ病なので、二人一緒に診察を受けているのだが、いつも和やかな雰囲気で、リラックスしながら話をすることができる。

「食事、睡眠どうですか」「何か楽しめていることはありますか」毎回必ずこうたずねてくれる。精神疾患の様子だけではなく、体調の良し悪しや、日常生活で困っていることなんかも話したりする。

以前は「普段どんなことをして過ごしてますか」という質問に「YouTubeを観ています」とだけしか答えられなかったのだが、最近では「自伝を書いています」、「マインドフルネスやアロマテラピーをやっています」と答えられるようになった。

精神科に通うようになって早20年。これまで何人もの精神科医に診てもらってきたが、今の主治医が、今までで一番良い先生だ。自分と相性が合っていると思う。

双極性障害は薬を飲み続けなければならない病気なので、これからもずっと通院は続くとは思うけれど、先生と一緒に、のんびりと治療を続けていきたいと思っている。


私の親族には、精神病を患っている人が多い。

私自身は「双極性障害」にかかっているが、他にも、血縁関係者で精神病に罹患している人が沢山いるのだ。

姉は「うつ病」、従姉妹は「境界性パーソナリティ障害」、叔父は「妄想性障害」。他にも飛び降り自殺で亡くなった従兄弟もいる。

これらの事実は「精神病の発症が遺伝と関係している」ということを表しているのだろうか。

一般的に、生まれつき精神疾患になりやすい「脳の脆弱性」を持っている人がいて、その人に環境や人間関係など様々なストレスがかかると、精神疾患を発症するのだと言われている。そういう意味では、精神病は遺伝性の病気であると言える。

でも、必ずしも皆が精神疾患を発病する訳でもないし、遺伝が全ての原因という訳でもない。

私の場合、脳の脆弱性を持って生まれ、機能不全家族の元で育ち、足の障害、音楽活動に対するプレッシャーなど、様々な要因が重なり合って精神病を発症したのではないかと思う。

ただ、双極性障害は、他の精神疾患よりも遺伝しやすいという説もある。

昔は、精神病にかかってしまったことで両親を恨んだ。生まれつきの性質と、ストレスフルな環境で育てられたこと、そのせいでこんな目にあわされているんだと思うと、両親に対する憎しみで気が狂いそうだった。

今はもう、そのような強い感情に振り回されることは少なくなった。以前のように怒りで我を忘れるといったことはほとんどなくなった。自分の精神疾患に対しても、粛々と治療を続けるだけである。

私には大切な夫がいる。血縁なんかよりも、ずっとずっと信頼できる関係だ。夫と二人で、平和に人生を全うしようと思っている。


精神病の症状で私が一番つらかったのは、「希死念慮」だった。

「死にたい」と強く願うこと。「自分は生きている価値がないから、死ななければならない」という強迫観念。「もし死ぬことができたら、このとてつもない苦しみから逃れることができるんだ」という「死」に惹かれる気持ち。

私が死んだ後、周りの人達はどんな反応を示すのだろうか、悲しんだり泣いたりするのだろうか。そんなことを想像しては、一人涙を流していた。自分に酔っていたのだと思う。

もちろん頭では「自殺は良くない」と理解していた。他人に「死にたい」という気持ちを打ち明けて、非難されたことも沢山あった。でも、希死念慮だけは、理屈ではどうしようもない、自分では完全にコントロール不可能な感情だったのだ。

自殺未遂も沢山やった。首吊り、大量服薬、凍死…。何度救急車で運ばれたか覚えていないくらいだ。特に「致死率が高い」、「楽に死ねる」ということがネットに書いてあったので、首吊りは何度も何度も繰り返しやった。

苦しまず、すぐに意識を失うことが出来ると言われている角度にロープを当て、足の踏み台を蹴飛ばそうとする。全身がガクガクと震えて、どうしても最後の一歩、ロープにぶら下がることが出来なかった。中途半端に体重をかけたせいで、首がものすごく痛くて息が苦しかった。ロープの痕はしばらくの間、首に残った。

実際には、どの自殺方法も全然楽じゃなかったし、痛いし苦しいし副作用はあるし、ひたすらつらいだけだった。こんな自分が惨めで哀れで、いつも泣きながら死のうとしていた。

人間というものは、死と直面した時、なんとしても生きのびようとするものなのかもしれない。いくら心は死を願っていても、体は生を願っているのかもしれない。だから生き永らえたのだろうか。そんなことを考えた。

後から知ったことだけど、双極性障害は精神病の中でも、特に患者の自殺率が高い病気なのだそうだ。双極性障害と診断されて、気分安定薬を服用するようになってからは、希死念慮はあまり起こらなくなった。

あとは、やはり夫の存在が大きい。「夫を残しては死ねない」と思うようになったからだ。

何故あんなに自分の心身を痛めつけて、あれほどまでに死のうとしていたのだろうか。私は小さい頃から、大切に育てられたという記憶がない。大事にされた経験がないから、「大事にする」ということが分からず、自分のことも大事に出来なかったのかもしれない。


私の精神疾患の病名は「双極性障害2型」である。

双極性障害(躁うつ病)とは、躁状態とうつ状態を繰り返す、気分の浮き沈みが非常に激しい疾患である。

躁状態になった時には、「自分は偉い」、「自分は凄い」といった過剰な自信に満ち溢れ、不自然な程のポジティブさとエネルギーを感じるようになる(※参考文献「双極性障害(躁うつ病))。

こうなると、睡眠時間が少なくても平気だったり、やたら上機嫌だったり、お金を浪費したり、ギャンブルで散財したりする。また、「自分には何でも出来る」と思い込んで、会社を起こしたり、返す当てのない借金をしたりすることもある。

この躁状態の後に、非常に苦しいうつ状態が待っている。何も出来ずにひたすら寝込み、躁状態の時にやったことを後悔して自分を責める。周りもこの浮き沈みの激しさについてゆけず、人間関係に支障が現れたりする。躁状態の時に起こした会社や借金が上手くいかず、社会的な信用を失うこともある。

上記のような双極性障害は「1型」と呼ばれるが、最近では「2型」という別の疾患があることが分かってきた。私が罹っている「双極性障害2型」とは、普段はうつ状態が続き、たまに躁状態が現れる疾患のことをいう。

私の場合、躁状態の時には、3日間徹夜しても平気だったり、片付けに夢中になって断捨離を始めたり、ネットで沢山買い物をしたりする。この自伝を書き始めたのも躁状態の時だったし(うつ状態になっても執筆は続けられているが)、とにかく普段では考えられないほど活動的になる。

でも、1型程の重篤な躁状態になることはない。だから、周りから見ると「今まではうつ状態だったけど、うつが治って元気になったのね」と勘違いされやすい。なので、「これは”2型”という病気だ」と判断されることが非常に少ないのだ。

2型の場合、躁状態になるのはたまにしか起こらず、普段はずっとうつ状態だから、本人も2型とは気づかず、病院でも通常の「うつ病」と間違われて診断され、適切な治療を受けることが出来ないケースが少なくない。

私も長年「境界性パーソナリティ障害」や「うつ病」と診断されてきたが、ネットで「双極性障害2型」の記述を読んで、「私はもしかしたらこの病気なのではないか」と思うようになった。それで、今まで通っていた精神病院とは別のクリニックに行ってみたところ、そこでようやく「2型」との診断を受けたのである。

今では気分安定薬(双極性障害に処方される薬)との相性も良く、落ち着いた生活を送ることが出来るようになった。今でもうつ状態の時間は長いけれど、例えば、朝はうつ状態だが、夕方になれば気分が明るくなったりする。うつ状態の時はやっぱりつらいけれど、それでも昔と比べたら随分改善された。

また、少しでもテンションが高い時には、「自分は今躁状態なのではないか」と気をつけるようになった。夫にも「私、躁かな?大丈夫かな?」と訊いて、躁状態なのか、ただ調子が良いだけなのか、判断してもらうようにしている。躁状態が現れた時には、その度に主治医に相談して、薬を調節してもらっている。

「双極性障害2型」は、薬を一生飲み続けなければならない慢性疾患だが、規則正しい生活を送り(一日でも寝不足になると、それがきっかけで躁転してしまうことがあるから)、自分に合う薬を処方してもらっていれば、平穏な日々を送ることは可能である。

毒親がいる実家を出て、夫と平和に暮らしていること、なるべくストレスがかからない生活をしていること、良い医師に出会えたこと、マインドフルネスを続けていることなどが、精神の病に良い影響を与えているのだと思う。これからも、病気と上手く共存し、無理せぬよう、この穏やかな生活を大切に守っていきたい。



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