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【自伝】生と死を見つめて(5)障害者

私が10代の頃は、障害者に対する世間の理解があまり進んでおらず、あからさまに差別を受けることが多かった。

子供が松葉杖をついている私を見て、「ママ、あの人なんであの棒みたいなもの持ってるの?」と聞くと、一緒にいた母親が「しっ!見るんじゃありません!」と言って、子供を連れて足早に立ち去っていった。普通に「あの人は足が痛いのよ」と教えてあげればいいのに。それに、「見るんじゃありません」って…。あんまりだと思った。

このような経験を多数繰り返す中で、私の中で心境の変化が訪れていった。それは「足が悪いことを気にしていないように振る舞うこと」というものだった。

特に思春期の頃は、人の目をものすごく気にしていて、ジロジロ見られたり、「あんたその杖何なの?」などと不躾な言葉を投げかけられたりしても、ただ萎縮するばかりで、何も出来なかった。惨めな思いを堪えるだけだった。

でもそのうちに、「こんなにビクビクしているから馬鹿にされるんじゃないのか?」、「足が悪いのは何も悪いことではない。だから堂々と振る舞っていればいいのではないか」と思うようになった。それからというもの、失礼な態度をとってくる人に対しては、毅然とした態度で臨むようになった。

そう考えるようになったのが21歳の頃、ちょうど上京した頃だった。10代の頃とは違って、差別的な言葉を投げかけられることは激減した。でもそれは、私の態度が変わったおかげなのか、都会が田舎よりも障害者に対する理解が進んでいたからなのか、どちらなのかは分からない。

しかし、差別を受けなくなったのはいいけれど、今度は、自分が足のことでつらい思いをしている時、それを人に言いづらくなってしまった。いつも明るく元気に振る舞っていたので、「足が悪いといってもそんなに大したことはないのだろう」と思われるようになってしまったのだ。その結果、健常者の社会の中で、彼らと同じような生活を送り、不便なことがあっても我慢して、つらいことは一人で抱え込むようになってしまった。

その結果、無理をしたせいで足の病気が悪化し、再手術を受けざるをえないことになってしまった。また、長年様々なことを我慢してきたせいで、精神のバランスを大きく崩し、精神病を患う原因の一つになってしまったのではないかと思っている。

現在では、夫の助けや行政のサポートもあり、平穏な日々を送ることが出来ている。特に、自治体の福祉制度には本当に感謝している。この時代、障害者に限らず、ありとあらゆる立場の人達への理解が呼びかけられている。このまま「みんな違ってみんないい」という社会へと発展していってくれたら、幼い頃の私のような思いをする人がいなくなったら、何よりだと思う。


私はよく「足が不自由だから」、「精神疾患だから」という理由で、他人から何かしらのカテゴライズをされてしまうことがある。

例えば、足が悪いから「パラリンピック観てるんでしょう?」と言われたりする。申し訳ないのだけれど、正直私はそこまで興味がない。健常者のオリンピックと同じように、ニュースで観たりする程度である。地元出身のパラリンピック選手なら応援することもあるけれど、別に自分が障害者だからといって、障害者スポーツに強い関心を持っている訳ではない。

また、精神病を患っている代わりに、「普通の人にはない、何か才能があるのではないか」みたいなことを言われたりする。いわゆる「ギフテッド」という存在だ。

私はこの「ギフテッド」という言葉が好きではない。身体や精神に障害をもっているからといって、それだけで皆が皆、秀でた才能に恵まれているとは思えない。

今まで沢山の心身障害者と触れ合ってきたが、よくも悪くも皆普通である。もちろん私自身もそうだ。

「ギフテッド」という考え方こそが、障害者を特別視して、逆に差別につながっているのではないかと思ってしまう。

障害者を健常者と同じように扱えと言っているわけではない。障害者には色々な助けが必要だし、福祉制度は本当にありがたいと思っている。

ただ、「変な”特別扱い”はどうかなぁ」と感じるだけだ。

映画やドラマで障害者が登場する時は、ほとんどの場合、主役や重要な役どころだったりすることが多い。そうではなく、通行人役の障害者がいても良いのではないかと思うのだ。


私は特定の宗教を信仰してはいない。神社仏閣に行くのは好きだし、クリスマスには必ずホームパーティーを開く。神社でお守りを買ったり、お寺で祈祷してもらったりもする。そんな多神教的とも言えるようなゆるい信仰心を持つ、ごく一般的な日本人なんだと思う。

でも、何か特別な一つの宗教に属している人のことはあまり好きになれない。なぜならば、そのような人々から足のことで声をかけられる機会が非常に多いからだ。

「神様に祈ればあなたの足も必ず治る」、「たとえ治らないとしても、それは神様があなたに与えてくださった試練なのだから」こんな言葉を投げかけられたりする。人の気も知らずに、ずいぶんと勝手な言い草だなぁと思う。

また、街中で一日に4回も「あなたの幸福を祈らせてください」と声をかけられたことがある。足が悪いということは、そんなにも不幸そうに見えるものなのだろうか。

「あなたの足が治る薬があるよ」といきなり言われたこともある。「結構ですから」と冷たくあしらうと、「あなたはそんなだから足が悪いのよ!」と急に怒鳴られた。理不尽極まりない。

どの人がどんな宗教に入信しているのかは分からない。良かれと思ってやっているのかもしれないし、そのような行動自体がその人達にとっての修行か何かなのかもしれない。

でも、足を悪くした子供の頃から、今現在までずっとそんな調子なので、宗教というと、どうしても懐疑的な見方をするようになってしまった。

どんな宗教を信仰していても、それぞれの自由だが、人のことを勝手に決めつけたり、その人の考えを押し付けたりするのは本当にやめて欲しいと切に願う。



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