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【自伝】生と死を見つめて(6)東京

20歳の頃、国立高専を卒業後、上京して音楽の専門学校に入学することを考えていた。

両親に「東京の専門学校へ行きたい」と相談しても、どうせ反対されるだろうと思い、両親に内緒で東京に出向いては、体験入学に参加して学校選びをしていた。

ある学校の説明会の時、思い切って気になることを担当の人に聞いてみた。「足が悪くてもシンガーになることは出来るのでしょうか」と。

その人はこう言った。「スティービー・ワンダーも目が見えないけど歌っているだろう。あなたの気持ち次第だよ」と。

今になって思えば、「そりゃスティービーのような素晴らしい才能を持っていれば、成功出来るに決まってるよ」と考えてしまうけど、当時の私は、その言葉に感銘を受けた。

教育内容がしっかりしていると感じたこと、奨学金制度があること、アメリカの音大と提携していて、留学のサポートを受けられることなどから、その学校に通うことに決めた。事実そこはとても良い学校だった。

最終的には、両親に何も言わないまま、貯金をはたいて入学金を支払い、「支払った入学金は返金してもらえないから、東京に行くね」と言って、半ば無理矢理東京行きを決めてしまったのだった。


21歳の春、私は上京し、音楽の専門学校に入学した。

専攻はボーカルコース。歌のレッスンだけではなく、音楽理論やイヤートレーニング、アンサンブルクラスなども受けた。

後から知ったことだけれど、この学校は厳しいことで有名だったらしい。東京の専門学校の中でも、トップクラスのレベルの学校だったのだ。

だから必死に勉強して、何時間も歌の練習をした。授業と宿題をやっている時間以外は、ずっと練習室にこもっていた。高専でぼーっとしていた頃が信じられないくらい、ものすごく頑張った。

個人レッスンでは、歌の練習以外にも、歌う曲の英詞の意味や、英語の発音も習った。私はアフロアメリカンミュージックが好きで、そればかり歌っていたので、それらの音楽が持つ独特のグルーヴ感も、徹底的に叩き込まれた。

学校の仲間とバンドを組んでライブで歌ったり、レコーディングをしたりもした。そのうち、学校外でも活発に活動するようになり、CMソングのジングルを歌う仕事が舞い込んできたり、ボサノバのコンピレーションアルバムに参加したり、活動が本格的なものになっていった。また、学内外の活動の傍ら、様々なオーディションに挑戦した。

2年生の夏休みには、学校の研修旅行でロサンゼルスとサンフランシスコへ行った。そこで歴史あるレコーディングスタジオを見学した際、スタジオの方に誘われて、即興でセッションを行なった。「君にはガッツがある!」と褒めて頂き、とても楽しく印象深い体験となった。

入学した頃には一学年に500人もいた生徒が、卒業時には50人にまで減っていた。それだけハードな学校だったのだ。無事に卒業出来た自分が誇らしく思えた。


23歳の春、アメリカの音楽大学から奨学金をもらえることが決まった。

私が通っていた専門学校は、その音大と提携していて、専門学校から推薦をされると、その音大から奨学金を得られる、という制度があった。

その年は、私が推薦を受けることになり、ありがたいことに、奨学金を頂けることになったのだ。これは一般的な奨学金とは違い、返済する必要がないお金だ。

2年間、専門学校で精一杯頑張った努力が認められたような気がして、本当に嬉しかった。「米国で本場のアフロアメリカンミュージックを勉強したい」という夢が叶ったのだ。これでまた、新たな一歩を踏み出すことが出来たのである。


東京の専門学校を卒業した後は、都内でプロシンガーとして活動していた。

主にジャズクラブやバーなどで歌っていた。当時はまだ23歳で新人だったので、至らないことも多く、ベテランのミュージシャンと共演する時には、あからさまに馬鹿にされたりしたこともあった。

それでも一日に3〜4時間練習し、ジャズについても色々と勉強し、ステージでは毎回精一杯歌った。集客も頑張った。ジャズだけではなく、ソウルやポップスなども歌い、とにかくお客様に楽しんで頂けるようなステージ作りを心がけた。

その甲斐もあって、お客様の数は少しづつ増えていった。「楽しかったよ」、「元気が出た」等、嬉しい感想を言って頂けるようになった。私のライブは「ハートフル」と称されるようになり、お店が満員で、座席の数が足りないといったことまで起こるようになった。本当にありがたいことだった。

私がジャズの中で一番好きな曲は、「スマイル」だった。チャールズ・チャップリンが映画「モダン・タイムズ」のために自ら作曲し、その後、ナット・キング・コールが歌って有名になった曲である。お客様からも、これが一番好評だった曲で、私の十八番だった。

「つらくても泣かないで、笑って。そうすれば、”人生には価値がある”ということに気づくから」このような内容の歌詞で、私は今でもつらい時には、一人この曲を口ずさんでいる。私の人生のテーマソングだ。


この頃の私は、ゴスペルが大好きで、ゴスペルにどっぷりとハマっている生活を送っていた。クリスチャンになった訳ではないけれど、音楽としてのゴスペルに魅了されていたのだ。パワフルでソウルフルなそのサウンドに、強い憧れを抱いていた。

当時は、40人程のメンバーが所属するゴスペル聖歌隊に参加していた。週一回の練習の他、ライブハウスやコンサートホールで歌ったり、CDをレコーディングしたりしていた。聖歌隊には、コーラス隊をバックにしてソロで歌う「ソリスト」がいるのだが、私も時々ソリストになって歌ったりした。ソリストに任命された時は、本当に嬉しかった。

また、上記の聖歌隊から有志が集い、少人数のゴスペルコーラスグループを結成した。私はソプラノ担当でそのグループに加入した。ライブハウスへの出演の他、イベントやパーティー、結婚式などで歌ったり、クリスマスシーズンには色々な会場でゴスペルを歌った。当時はゴスペル音楽が大流行していたので、次々と歌の仕事が舞い込んできた。

しかし、私には悪い癖が一つあった。それは、足が不自由なのに、ステージに立ってエキサイトすると、足のことをすっかり忘れて、踊ったり飛び跳ねたりしてしまうことだった。普段は絶対にそんなことはしないのに、ステージに上がると、我を忘れて暴れまくってしまっていた。そういった無理がたたって、足の病気の悪化につながっていってしまったのかもしれない。


25歳の頃、留学のためにアメリカへ渡る時、大切な友達が成田空港まで見送りに来てくれた。

何度もステージで共演した大事な音楽仲間。キャロル・キングの「君の友だち」を一緒に歌ったりした。

見送りの時、搭乗口で、姿が見えなくなるまでずっと、両手で大きく手を振り続けてくれた。遠くまで離れても、振り返ると、まだ手を振り続けていてくれた。涙が止まらなかった。

あの日の感動的な光景を、私はずっと忘れないだろう。



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