僕には人をワクワクさせるような文才なんてないけれど…
ある人が自分の推しの人の文章のことを絶賛されていて、僕はその人の本当に興奮を抑えられないといった様子を目の当たりにしながら、
「ああこーゆーのが本物の文才っていうヤツなんだろうなあ」
と妙に納得したのだった。
人間性がどーのとか、考え方が素晴らしいとか、本人のキャラクター云々とかで勝負するんじゃなくて、
本当に文章の力だけで誰かをワクワクさせたり、幸せにできる人たち
そんな眩いくらいの文才に溢れた人たちは確かにこのnoteの中にもたくさんいるような気がする(それこそ性格のいいヤツ悪いヤツに関わらず)
一方で、僕がこーやって、ほぼ毎日飽きもせずに公私に渡る、まるでストリーキング=露出狂みたいな駄文を量産しているのは、はなから文才では彼らに勝てっこない凡人の単なる悪あがきのようなものなのかもしれない。
なんて、こんな言い方をしたら、また勝ち負けじゃないよ、とか毒にも薬にもならない正論で励ましてくれる人とかが出てきて、もちろんその優しい気持ちには感謝の言葉しかないけれど、
負けをちゃんと認めることで初めて見える世界だってあるんだよ
って今は胸を張って言える自分がちゃんといるのだ。
才能は決してそれを欲する者に与えられるものではなくて、そして、自らの才能の多寡が他人にジャッジされた結果、
選ばれる人と選ばれない人が共存する
そんな残酷な世界に僕らは平等に生きているわけだけど、たとえ永久にスポットライトが当たらない人生だとしても、いや、そんな人生だからこそ
自分の生き様だけは誰かの選択に委ねるのではなくて、自分自身で選んでいきたい
という強い意志が芽生えたのだと今の僕が言い切れるのは、確かに自分の才能のなさにちゃんと打ちひしがれた経験の副産物(side effect)だと言う風にも言えるかもしれない。
その羨望の眼差しの宛先が、どうして僕じゃなくて、アイツなんだ!
というこの月並みな悔しさ(ジェラシー)には、きっと意味があるのだろう。
そして、ここで話は突然変わる。
昨日、息子とアマプラで映画版のピンポンを一緒に観た後、彼に一番好きなキャラは誰かと尋ねてみたところ、
「アクマかな…。」
という予想外な回答が返ってきた。
「え〜!お父さんと一緒やん!」
嬉しくなった僕は、思わずペコみたいなおかっぱ頭の彼の頭をくしゃくしゃになるまで撫でていた。
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