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Laugh≒LOVE理論

お笑い芸人やお笑い番組がテレビのメインのポジションを占めるようになって久しい。

それに伴い、僕が若い頃に比べると、お笑い好きを公言する人の数も本当に天文学的に増えたような気がする。

このような状況をみると、一見、世界は笑いに溢れている、ようにすら思える。

でも、みんなの熱中するお笑いはあくまでブラウン管の中(今は液晶の中か)のものであって、実は僕らの日常に笑いが満ち溢れているわけでは決してなかったりする。

というか、そもそも実際のところ、普段の生活において僕らはそれほどには笑いを求めていないのではないだろうか。

もっと言ってしまうと、笑いというものはともすれば、生活や仕事のリズムを乱すノイズと見なされているようにすら思うこともある。

だから、みんなテレビの中という『対岸の笑い』が人畜無害で丁度よい塩梅であり、これが今現在、お笑い芸人がテレビ界を牛耳っている、ある種、逆説的な理由なのではないだろうか。

なんて、ちょっと捻くれた見方をしてしまうのは、僕がいわゆるすべり芸マスター(略してスベラー)のせいかもしれない。

自分の日常に苦笑や失笑のエッセンスをばらまくことを至上命題と考える僕のようなスベラーにとって、プロの人達の笑いは確かに完成度が神レベルに高いとは思うけど、それはあくまで僕らにとってはバーチャルなものに過ぎず、その一点において、どんなに完成度が低くても、普段の生活の中で気心の知れた仲間たちと共に分かち合える寒いギャグの方が

すてきやん

とついつい思ってしまうのだ。

そして、両者の決定的な違いは何かというと、

不意にスベラー達から提供される白銀のゲレンデを滑る覚悟が自分にはあるのかどうか、ということだ。

もっとシンプルに言うと、

そこに愛があるかどうか

という風にも言えるかもしれない。

そんな僕にとっての新春初笑いももちろん大好きな友達から偶然、提供されたものだ。

その日、有楽町のMUJICAFEで彼はカレーとプリンのセットを食べていた。

僕は彼と対面に座ってはいたけど、コーヒーを飲みながらパソコンで仕事をしていたので、彼の姿はほとんど視界に入らない状況だった。

すると数十分後、そろそろ彼が食事を食べ終わる頃かなと思っていたら、その彼が突然、叫びだした。

「なんか全然カレーが減らないと思ってたら、これ、プリンのスプーンやん!」

皆さん信じられないだろうが、そうなのだ。

彼はなんとあのプリン用の小さなスプーンでずっとカレー(しかも大盛り)をすくい続けていたのである。

おそらく最低でも百回くらいはスプーンをすくっていたのではないだろうか。

カレーと言えば、ヒンズー教や仏教の国だから、ひょっしたら、昔、そんな修行もあったのかもしれないけど。

しかし、それでいったい何が鍛えられるというのだろうか・・。

僕は思わず修行僧姿でカレーを食べてる彼の姿を想像して、失礼ながら涙が出るほど笑ってしまった。

同時に客観的に見れば単なるアホ以外の何者でもない彼のことを僕はますます好きになったのだった。

そして、その僕の感情の根っこにあるものにあえて名前を付けるとすれば、それはやはり愛って奴なのかもしれない。

Laguh(ラッフ)とLove(ラブ)

なんとなく響きが似ていることに今更ながら気がついた。

そして、たとえそれが他人から見たら何の価値もない無意味なノイズだったとしても、そんなLaugh≒Loveになるべくたくさん囲まれて生きていけたらいいなあ

そんなことをふと思ったのだった。
 


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