きっと、みんなが通過点
先日、ある友人がnoteで書いた連作小説をまとめて読み返した。
その豊かな表現力と気品すら感じさせる文章の構成力の高さに改めて舌を巻いた。
というか、ぶっちゃけ、激しく打ちのめされた。
そして、改めて、
「創作なんか一生手を出せないなあ」
と思った。
もちろんその人の才能は他の多くの人たちにもしっかり認知されていて、そんな彼女の周りには創作を志す他の才能豊かな人たちが集結していた。
好敵手であり、友人でもある彼ら、彼女らは、その存在や作品で互いを刺激し合いながら、よりよい表現を生み出そうとする同志や戦友のように見えた。
その様子を僕はずっと遠巻きに羨望のまなざしで見つめていたけれど、いつの間にか、その瞳には嫉妬の炎がメラメラと燃えていた。
そんな僕はいつしか、彼らが私設の賞レースやインタビュー形式の音声配信等で無邪気に互いの才能を称え合う姿を見ながら、
「しょせん「趣味の文芸」に過ぎない連中が何いっぱしの作家を気取ってやがんだ」
などとひとりで毒づくようになっていた。
我ながら本当にダセえヤツだったなあ
と思う。
でも、今は違う。
正直、他人のことなどどーでもいいのだ。
というか、圧倒的な才能の差を見せつけられたあのときに、自分に対して
こいつ、全然、諦めてねえなあ
ってことにちゃんと気がつけたんだよね。
だから、30年だ。
30年、僕に時間をください。
30年後に、僕は誰にも何も言わせないくらいの傑作を書くから。
だから、そのための準備期間として、
今日も明日も明後日も僕はただひたすらに
まるで標準レンズ一本で自分の周囲1メートルの世界をざっくり切り取っただけのような、
この雑駁なスケッチを描き続けていくだろう。
そんな今の僕の記事にはもちろん万人受けするキャッチーな面白さも読書マニアを唸らせる気の利いた描写も皆無だ。
そして、何より、この落ち着きやデリカシーの欠片もないクズでガサツでコンプライス違反な人間性に冷ややかな視線を送ったり、憤懣やるかたない人たちがいることにもちゃんと気づいている。
でも、やはり今の僕は文章の表現力を磨いたり、他人に嫌われないような言葉の選び方を学ぶより先に
今しかいない自分を全力で生きること、
そして、その自らの有り様を
そこに変な意味付けなどすることなく、
できるだけ忠実にトレースすることに専念したいんだよね。
だって、何かを美しく表現するには、まずは
自分自身がちゃんと汚ならしく泥臭く鼻水垂らしながら生きなきゃいけないと、少なくとも今の僕はそう信じているから。
そんな僕はまだまだ通過点にいるに過ぎないって思っている。
というか、本当は、僕に限らず、きっとみんなが通過点なんだよね。
だから、誰かと仲良くしようがしまいが、 それぞれがそれぞれの高みを目指して頑張ればいいだけの話なんだろう。
ああ、オラ、めちゃくちゃワクワクしてきたゾ!
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