【短編小説】普通の汗

 夏、外は、うだるような暑さだった。教室の中は陽光に照らされているが、冷房のおかげで暑さは感じない。いやむしろ少し冷たいくらいだ。僕の席は、一番廊下に近い列の前から三番目。冷房の風がそれなりに当たる位置。この席は壁にもたれかかることができるからお気に入りではある。いや理由はこれだけではない。隣の席が左側にしかない。こちらの理由の方が僕にとっては重要なのだ。
 僕は座学が好きだが、体育は嫌いだ。しかし、サッカー部だ。しかもキャプテン。なぜこんなみょうちくりんな状態なのかにも理由がある。
 その日の体育の授業はサッカーの日だった。外は頭がおかしくなるくらいの暑さでみんなやる気はない。僕も例に漏れずそうで、適当にこなしてチャイムが鳴るのを待った。その間にも流れる汗。汗。汗。僕はこれが嫌いだった。
 体育の授業が終わると、教室に戻りもそもそと着替える。
 「お前、今日もすごいシュートだったな。」
 そりゃどうも、と言う前に小西は肩を叩く。
 「それにしても、すごい汗だぞ。これ使うか?」 
 小西が渡してきたのは薬局によく売っているデオドラントのシート。うちの校則では持ち込みは禁止だ。
 「校則なんてあってないようなもんだろ。」
 たしかにな。僕は貰ったシートで体を丹念に拭いた。
 「これで大丈夫だろ。」
 小西はいわゆる悪い奴だ。校則は破るわ、喧嘩はするわ、二股はするわ、先生からの評判はすこぶる悪い。でも僕にとっては良いやつだった。
 「汗のことはそんな気にすんな。こんだけ暑ければみんなかくだろ。」
 そうだ、暑ければ汗はみんなかく。しかし、僕の場合はどうもその量が異常なのだ。
 どのくらい異常かと言うと、上半身は当然びちょびちょ、ズボンから汗の汁が滴り落ちるのはいつものことで、ひどいときは歩くたびに靴から汗が飛び出るくらいだ。ちょうど、理科の授業で両生類の特徴を学んでいたおかげで悪意のある奴らからは「カエル」呼ばわりだった。
 その日の体育のあとの授業は理科だった。大柄のそいつが壇上に現れる。彼は、いわゆる恐い先生だった。しかし、なぜか一部の生徒には狂信的な信者がいて、他の生徒も彼には従うほかなかった。今思えば、彼は恐怖政治を実践し、この学年を統治していた。
 この日も前回に引き続き、授業の内容は生物について。爬虫類やら両生類やらの特徴の復習から授業が始まった。両生類の特徴は?という学年の統治者による質問に佐藤くんは、皮膚がヌメヌメしています、と答える。僕は後ろの方から小さい笑い声が聞こえた気がした。カエル野郎と言う門部の声もした気がする。その後も僕はこれが気になってまったく授業に集中できなかった。
 「普通のレベルを上げよう。」これが学年の統治者の口癖だった。普通は廊下に落ちているゴミを拾う、普通は授業を真面目に聞く、といった具合だ。いかにも良い風に聞こえる言葉だ。今日の授業中も統治者は2回言った。当時の僕はやめておけばいいのにちゃんと実践していた。
 チャイムが鳴る。理科の授業が終わった。やっと両生類の範囲が終わる。といっても、授業で出てきたのは前回と今回だけだが。そんなことを考えていると、後ろからニヤニヤしたあいつが歩いてくる。門部だ。このニヤニヤ顔をみると殴りたくなるのだが、ぐっとこらえる。なんせ普通のレベルを上げなくちゃいけないから。
 「くっさ、お前納豆の臭いするぞ、納豆塗りたくってんの」
 門部は教室にちゃんと響くように言った。僕は言い返そうと思った。だが、やめた。押し黙った。
 「ちゃんと、親に洗濯してもらえよ。あ、洗濯してもらっても臭いか。お前、多汗症だもんな。」
 我慢の限界だった。でも僕は言い返さずその場を離れた。もちろん、心の中で、お前は洗濯してくれる親すらいないだろ、という捨て台詞を唱えて。彼は児童養護施設にいる両親がいない子どもだった。なぜ直接言わなかったかって?当時はビビったからだと思っていたが今思えば違う。僕は、普通のレベルを上げようという標語を実践したのだ。だってそうでしょ?罵詈雑言を浴びせられたからといって差別的な言葉を言い返したら普通のレベルが下がってしまう。だったら、我慢して黙っておいた方がいい。これで普通のレベルが下がらなくて済む。
 ところで、適量の汗をかくことが“普通”であるならば、汗というステージで僕はどうやって普通のレベルを上げればいいのだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?