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サバと僕

「母ちゃん!もう泣くなってばー!」
息子のジョーが、左手で母の肩を揺さぶった。右手は、自分の服の胸の辺りを握っている。不安なのだろう。母親はちゃぶ台の前に力なく座り、つっぷすようにして泣いている。泣き続けている。
2日前からそんな調子だから、ジョーはどうしていいかわからなくて、でも自分だって悲しくて、なんだか怒るように言ってしまったのだ。
「ジョー…ごめんなぁ」
母親はジョーの方へ顔を向け、力無く謝った。
「そうじゃなくてさー…そうじゃないんだよ」
ジョーの泣き腫らした目にも涙が浮かび、こぼれそうになって視界が滲んだ。

そう、あれは数日前のこと。
「おーい、ニャーが来てるぞ。アレあったろ、アレ」
帰宅するなり、父親が玄関から声をかけた。
「おかえりなさい。はいはい、コレね」
と母親が渡したのは、サバの缶詰。
父親は蓋を開け、足元に擦り寄る1匹の猫に、それを与えた。飼い猫ではなく、最近ここいらに居着き始めたノラだ。
するといつもは上手に食べる猫が、「ギャッ!!」と歪な声を発っし、サバ缶から飛び退く。
「おい、どうした?」
父親が駆け寄ると、頬の辺りがスッパリと切れて血が出ている。
「あー、缶の口で切ったのか。大丈夫か?」
心配して猫に手を伸ばした。
すると猫は、父親の手めがけて飛びつき、鋭い歯でガブリ!
「あっ、わっ、痛て!何すんだ!?」
驚く父親をよそに、猫は一瞬で走り去った。
その夜だ、父親の様子がおかしくなったのは…。

「だからー、母ちゃんは悪くないだろ?あの後父ちゃん、いきなり高熱出て、それから今度は急に冷たくなって…ひっく…なんか知らないけどヌルヌルして…青光りし始めて…ひっく」
ジョーは涙をこらえるようにギュッと目をつむり、しゃくり上げながら言った。
すると母親が、
「そうだよね、噛まれてから変になったもんね。だから猫が居着かなきゃ良かったって、思ってしまうんよ。だってさ…だって初めにサバ缶やったの、母ちゃんだもんでさぁ」と言って、大声を上げて泣き始めた。
いよいよジョーは困った。
(どうにか母ちゃんに泣き止んでもらわないと、僕も頭が変になっちゃう。考えなきゃ、どうにかしなきゃ)
そして閃めき、叫んだ。

「母ちゃん!サバ、悪くなっちゃうよ!もったいないよ! 」

母親の肩がぴくりと動き、泣き声が止む。
「悪く……。そうね...悪くなっちゃ、傷んじゃったらもったいないわ」
母親は静かに呟くと、すっくと立ち上がり台所へ向かった。冷蔵庫を開ける。中には何も入っていない。目一杯に詰め込まれた、サバ肉以外は。

青光りし始めた父親はあの日、だんだん姿を変えていった。
(どんな姿かって?言わなくてもわかるだろ?)
そして澄んだ目でジョーを見つめながら、息絶えだえにこう言った。
「こんな…姿じゃ、葬式は無理だ。どこも…受けちゃ...くれない。腐っちまったら…臭くも…なる。だから…」

ジョーが父親の最後を思い返していると、どん!とちゃぶ台に大皿が置かれた。
「はいよ、できたよ〜」
「あ、母ちゃんそれ…」
「そう、サバのサラダ!大根があれば卸して、焼きサバにしたんだけどねぇ。カイワレとモヤシ、余ってたからさ」
(あの時、父ちゃん言ったんだ)
「だから…食べて…成仏させてくれ。できれば、サッパリしたのが…いいなぁ、俺は…メタボだから」
最後のはジョークだったのか、頭が混乱していたのかはわからない。
「母ちゃんて、ほんと︎︎ ︎︎ ︎︎"︎︎︎︎もったいない ︎︎"︎︎に弱いよね」
鼻をすすりながら、ジョーが言った。
「どこのお母さんもそうよ。特に母ちゃんが子どもの頃は、ほんと貧乏でさぁ。それこそ、サバ缶なんて贅沢品だったんだよ」
そう言って、ふふっと笑う。もう先程までの涙は無い。いやよく見ると、泣き続けていた割には、目が腫れていない。
(あれ?そういえばあのサバ缶、おかずに出てきたこと、あったけ?父ちゃんと母ちゃん、ずっとケンカばっかりだったけど、猫が来て、母ちゃんの機嫌が良くなって…)
何かおかしい。きちんと考えようとするのに、考えなきゃいけないのに、頭にモヤが架かる。
サラダを取り分ける母親の後ろで、ジョーはその背中を見つめた。
それからおもむろに、自分と母親の箸を持ってきて、母親の向かいに座る。
窺うように母親を見る。
表情は穏やかだ。けれど、目が笑っていない。
その目を見て、ジョーは考えるのをやめた。
母親が言う。
「はい、いただきます」






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