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心震える1冊「そだつのをやめる」

 それなりに本は読んでいるはずなのに「好きな本はなんですか?」と聞かれたら毎回困る。生来の移り気のため好きなものがころころ変わるせいだろう。でも助かったことに、与えられたお題は「心震える一冊」だ。これなら思い当たる節がある。著者の主義主張が肌に合わなくとも心は好き勝手に震えたり、跳ねたりするもので、それは半ば物理現象に近い。じっさい体がぶるっと震えたこともある。『そだつのをやめる』という詩集を初めて読んだときも体は震動し、口は「おー」と言う声をあげた。
 俺が初めて買った詩集だった。別居している父が住む山口には中原中也記念館があり、そこを訪れた際第28回中原中也賞を受賞したこの本が置いてあるのを見かけた。厚紙に黄色いマッキーのような線で天使に見える絵が描かれているというミニマムなデザインに目を惹かれた。本そのものの作りも変わっていて、まず黄色い紙の表紙があって、その上から更にかたい薄茶色の厚紙を貼り付けて表表紙、裏表紙にしているというものだった。父に「装丁がいいね」と言ったところ「買ってあげようか」とのことだったのでそうしてもらった。だから正しくは初めて買ったのではなく、初めて買って貰った詩集だ。
 父が運転する車の助手席でめくった最初のページにはエピグラフのように短い詩が載っていて、ぶっちゃけこの時は読み飛ばした。でもあとになって読んだらこの本のなかで最も好きな文章が書いてあるところだった。

”「鳴くことは喋ることじゃない」
だから尺度を探してぼくを見てほしい“

 おお、引用してみたらやっぱり良い。この本が好きなのかもしれない。とてもいい文章なのでこれ以上つけ足したいこともないが、そういうわけにもいかないのでなにか言おうと思う。インパクトがあるのはやはり引用した部分なのだけど、引用の前ではセミが精一杯鳴く声を聴いている。「精一杯」という語感からは鳴くということに否定的な印象は受けない。だからここは「虫や動物のように鳴くのではなく人間として喋りなさい」という意味ではない。そういう本ではぜんぜんない。この詩は「喋る」「鳴く」などの擬人的な比喩が基調としてあり、「雷が息を殺」したり、「アプリが30分後にぼくは眠ると言った」り、「雷が鳴いた」りささやいたりする。そして「声がセミから」する。むしろ鳴くことと喋ることの区別は曖昧だ。それどころか声と体の主従や道具と身体の主従も逆転している。まるですべてを逆さに振ったみたいにあべこべだ。周囲にあるさまざまなものが発するお喋りに耳を澄ませたら、声が体を追い越してしまうことがあるのかもしれない。そしてその際注意したいのが「鳴くこと」と「喋ること」の混同なのだろうか。

 どこを読んでいる時に震えたかはよく覚えていない。ただ本の作りとか構成を含めてひとつの主張というか声を持っている本なので、抜き出してここと言うのが若干難しく感じる。著者の青柳菜摘さんはコ本やhonk booksというインディペンデントな書店の主催をしている。詩集で自費出版というのは珍しくもないのだが、装丁など含めてここまでこだわっているものはもちろん数多くあるわけではないと思う。ある意味、実物を目で見て触ってしまえば結構直接的に伝わるものがあるので、今よりもずっと詩に疎かった当時の自分でも読んですぐぴんとくるものがあったのかもしれない。
 いま改めてページをめくってみたらこの本を読んで体が震えたという事実はでも、不思議ではないように思う。例えば

“どうする
一一好きにすれば
妹はいつもぼくに厳しい
話すときくらいスマホから目を離してこっちみろよ
こっちを見てくるとそれはそれで困る
ー一じゃあ言うなよ
鏡にうつった妹が言った”

といった部分は文章自体が震えを持っているようなかんじがするからだ。なのでこちらも読んでいて自然と共振してしまう。「ー一じゃあ言うなよ」は恐怖で震え上がるし、他にも「体育座りの水が空気をみつめる」といった一文は空気や水の微振動が伝わってくる。この詩集はそういった世界にある震えを、声を、いちいち拾い集めているようなのだ。ただ、震えるという現象以上に、震えるような直接的な表現を露骨ではなくフォーマルに仕上げているところがこの本の魅力だ。改めて読んでみてやっぱり良い本だと思った。

 思えば父も俺もあまり喋らず車内はずっと静かだったので、音の震えが響くのには適した環境だったのかもしれない。

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