批評「全部を賭けない恋がはじまれば」稲田万里 著

まずはじめに、すみません。。。
辛口になります、、、

一言で言うと
「内容はツイッターやインスタの裏垢そのもの」

あくまでもこの書評をしているのは、
この本の登場人物のようにギラギラしたものがなくて、しがない定年を迎えても住宅ローンを払い続けないといけいないサラリーマンで、既婚子供3人の40代陰キャの何の面白みもないおじさんです。

そんなおじさんに若者の世界の小説を書評されると思って頂いて、厳しくはなりますがどうか気になされないでください。

文章は特に中盤まで、歳をとった僕にとっては脂っこいカルビ焼肉を食べるような内容。

この小説でたまに出る「ちんちん」ですが、
(ちんちんなだけに玉に出る)

僕自身が、女性の言う「ちんちん」に何にも感じなくなってしまったのもありますが、

この作品において「ちんちん」と女性が言う=「かまって」の意
と言う単純な構図にしか思えなくとてもチープに受け取ってしまいます。

終章にて子供が大人に振り向いてもらうために事件を起こす。
今度は大人になったら保護してもらう対象である異性に振り向いてもらうのに性の部分を出す。

意中の男性にかまってもらいたいから「ちんちん」と言う。

つまり、女の下ネタを武器にかまってもらう。

「その虚しさ」

それが初めから終章に向けて描かれているのがこの小説のフレームではないでしょうか?

本当は、
誰だって本音を言える環境で
かまって欲しい時に「かまって」と言った時にかまって欲しい。
寂しい時に「寂しい」と言った時に誰かにそばにいて欲しい。

この物語の登場人物たちはそうではなかった。

その空いた部分を埋めるように「事件」=「下ネタ」を用いて自己存在を相手の中で確立する。

そして、打算的な「下ネタ」は全てに皮肉や影がある。

国(故郷)を取り入れた影のある夜の女性の描写は桜木紫乃さんの方向性ではあるけど、そのレベルまで到底この文章は文学的ではありません。
厳しいですが表現の方法に光るものが見当たりません。(おじさんなので若い子の話しには心が震えないというのもあると思いますが)

著者はどちらかというと詩の表現の方がいいがしれませんね。

例えば、

〝彼のために愛情込めて唐揚げに下味をつける私と他の女の下味をつけてきた彼の唐揚げ″

とか、

伝えたい内容を短文で表現された方が、内容的にも若者向けなので本を読まない人たちが読むと思います。

以上から、一言で言うと良くも悪くもSNSの裏垢止まりです。

恋愛強者の若者は共感し、おじさんのほとんどはピチピチな女の子のエッチな内容に喜ぶと思いますが、この内容を見て子を持つ親のように心を痛めるマイノリティ(?)な陰キャの私もいます。

そして陰キャが小説の楽しみ方の一つである没入感があって追体験できる主観的なアドベンチャー感も表現しきれていないように思えます。

繰り返しますが、文章がありふれている若者のインスタの裏垢を見てる感じなのです。

ただ、それを赤裸々に書くのも文学であり勇気だとも思います。

著者はぜひ若い女性の下ネタに喜ばない男の人を観察して下さい。
「流浪の月」や「正欲」のように人間の性の部分は実に厄介です。

「性欲を含めてあらゆる欲が各々人生において何をしたら満足するか?」

その可能性や難しさ、やるせなさをもっと深掘りして目を向けなければ書物としてエンターテイメント性を見出せないのではないでしょうか?
つまり、SNSのバズった文章では出来ない小説としての強みを魅せなければいけません。

最後になりますが、女性が言う「ちんちん」は若い頃に女性と2人きりで飲んでいる時が僕にとって一番最高にドキドキする「ちんちん」でした。

処女作お疲れ様でした。
コロナ禍やSNS、マッチングアプリによって人間関係が軽くなってしまっている現代を色濃く表現する次回作を勝手に期待しています!

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