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まつとはなしに

天井がきらきらと光りながら波打っているのは、どこかに水溜りがあって、昼過ぎの強い日差しが反射しているからだろう。隣家のガレージの隅に積み重ねられた段ボール箱には青い防水シートが被さっていて、そのてっぺんの窪みに昨日の雨水が溜まっているのに違いない。緑色のワンボックスカーはたいてい夜まで帰らないから、色褪せ、砂埃をたっぷり被った青い防水シートは通りから丸見えで、いい気分はしない。そういえば帰り際に見た電柱の根元には、二日後の回収を先取りしたゴミ袋が一つか二つ、生意気ざかりの少年のように、開き直って転がっていた。

一五年ほどまえ、大手鉄鋼メーカーがこのあたりにあった社宅を土地ごと売り払った。マッチ箱のような平屋住宅はすぐに取り壊され、代わりに建ったクリーム色の庭付き一戸建て十戸は、幸福な家族の夢と抱き合わせで販売された。引越しの段ボール箱が大方片付いてからも、生活臭のするものは通りから見えないところに引っ込めるとか、ゴミ出しルールを守るとか、そんなことはあたりまえ、車は二年ごとに買い替えたり、休日になれば庭に出て犬と遊んだり、家族でバーベキューをしたり、開発業者が描いた小市民的な幸福を具体化すべく、住民たちは努力を惜しまなかった。といっても、各戸の庭はガレージより一回り広いぐらいだったから、父が会社の同僚を呼んでバーベキューをしたときは、ガラス戸をすべて外して、リビングを庭の延長のようにしなければ、窮屈で仕方なかった。そういう実際の不便を想像力で補っていられるのはほんの数年のことでしかないのだろう、いまでは家族で焼肉を食べたくなれば国道沿いの大型店に車で出掛けるのがあたりまえだし、同僚と交流を深めたければ会社のそばの居酒屋へ行けばいい。ともかくそのとき、ひどく酔っ払った父の友人たちは、炭になった肉を、家の裏側にある雑木林にぽんぽんと放り投げていた。猫でもいたのか、笑いを含んだ声で、にゃあにゃあと叫んでいるのが聞こえる。その声を、幼い自分が薄暗い部屋でベッドに横になったままで聞いていた。大人が集まれば、必ずそこに、飾り物のように置かれていたのに、その日は、学校から帰るなり、部屋に閉じ込められていた。学校には行かなくていい、と言われたときは、お仕置きなんだかご褒美なんだかわからなかった。

久し振りに会った父がいくらかやつれて見えたのは、関西弁の男から家に電話があったせいに違いない。京都に単身赴任中の父は、水商売の女を助手席に乗せて運転中に追突事故を起こし、怪我を負わせたということだった。関西弁の男は、その女の友人を名乗っていた。しかし、冷静に見れば、父の精悍な顔つきは昔と少しも変わっていない。ゴルフ焼けした艶のある肌は、慌しい帰宅の疲れなど微塵も感じさせない。やつれて見えるのは、粘着質な男の声によって掻き乱された自分たちの気持ちを重ね合わせているからだ。しかし、そうわかっていても、足を組み、肘掛に心持ち体を預けてソファに腰掛け、軽く握った左手の拳で頬をしごくときに見せる悲しげな目を見ると、それ以上の攻撃をする気力が萎えてしまう。悪戯を隠し通せないと気付いた優等生が見せる、狡猾な泣き顔と同じなのに。母は、父を許そうとしている。もう少しで許すだろう。そしてたぶん、それが母を苛立たせている。宏美は、父が土産に買って帰った生八つ橋を口に入れた。リビングには、鉢植えのポトスが飾ってあるコーナーテーブルを挟んで、一人掛けのソファと、三人掛けのソファが、L字型に並んでいる。父は一人掛けのソファに座り、母は三人掛けの、父に一番近い場所、宏美は遠い場所に座っていた。母は身を乗り出しているが、宏美は肘掛と背凭れのあいだに嵌め込まれるように座り、中立の位置を保って二人の様子を見ている。はっきり口にしているわけではないが、関西弁の男から金銭の要求があったのは確実だった。

お父さんがかわいそうだと思ったことはない?と、女はメールに書いて送った。

かわいそうなことがあったときにはかわいそうだと思うこともあった、と宏美は返した。

かわいそうな人よ、あなたのお父さんは。そのうちあなたにもわかるわ。

誰かを指してこういう人だと決め付けるような考え方はできないので、あなたとの話はずっと噛み合わないままだと思います。

わたし、あなたみたいな理屈っぽい子は嫌いじゃない。理屈っぽい子って、世の中信じてないんだよね。世の中信じてないから、理屈で武装するんだ。あたしもそう。あ、信じてないでしょ。あたしオミズだけど、四大出てるのよ。オミズだから軽蔑しないでね。だって、女でしかできない仕事があるのに、しないのは勿体無いと思わない?でもこれは別の話ね。またメールするね。


宏美は、数分前に尿意で目を覚ましていた。ごまかして眠りたい気分だったが、下腹を指で押さえると、鈍い痛みがする。一度目が覚めてしまうと、眠気は消えてしまった。それに、寝ているあいだにかいた汗でシーツが湿っていたから、いつまでも寝転がっていたくはなかった。

二階のトイレにも熱気がこもっていて、扉を開けてなかに入っただけで、額に汗が滲んだ。トイレには、二年前のカレンダーが貼ったままだった。胃弱気味で、朝はいつもトイレを占領する父がいなくなってからは、二階のトイレを使うこともほとんどなくなっていた。腕を伸ばして内倒れ式の窓を開けると、熱い空気のかたまりはそこから吸い出され、代わりに、賑やかな声が聞こえてきた。門のまえには、青い車を囲んで、三人の男と一人の女が談笑している。男たちは一様に浅黒く、剥き出しにした肩と、肌に貼り付いたようなタンクトップが、日を浴びて艶やかに光っていた。肩甲骨を剥き出しにした黄色いチューブトップの女が、二人の男のあいだにいて、形のいい胸を突き出しながら、交互に愛想を振りまいている。彼女は話に夢中な様子で、吸っていた細いタバコがいつのまにか灰だけになっていることに気付くと、それを足元に落とし、踵の高いサンダルで揉み消した。すると、青いシルビアのボンネットに軽く尻を乗せていた、肩まである金髪の男が、なにか言った。女はちらっと金髪の男を見て、頬を膨らませ、吸殻を拾った。男が指で運転席の辺りを指し示すと、女は、吸殻を指先につまんだまま車のなかに上半身を突っ込んだ。そのとき、そばにいた男が、踝を掴んで持ち上げた。女は、バランスを崩して、ひょろ長い足をばたばたさせながら喚いていた。ホットパンツの裾が食い込み、ほとんど剥き出しになった女の尻を叩いて笑っている金髪の男は、隣家の長男だった。

東京の真ん中にある私立高校への通学は一時間以上かかり、陸上部にも入ったため、帰宅が九時過ぎになることも珍しくなかった。中学生だった隣家の長男は、宏美が家に着く時間に必ず、門のまえで素振りをしていた。荒い息遣いのあいまに、バットが空気を切る音が聞こえる。街灯の明かりはわずかにしか届なかったから、あたりはほとんど暗闇に近かった。バットの音はすぐ耳元で聞こえる。少年は歩行者のために道をあけるどころか、素振りを止めようとさえしない。だからいつも、歩道から車道に下りて大きく回り込んでから、自分の家に入らなければならなかった。鉄扉を閉めてから、真っ暗闇でそんなものを振り回したら、危ないじゃない、と言った。少年は、構えたバットを肩にかけ、ぎょろりと光る目で宏美を見ていた。相手ベンチの野次が許しがたいものだったとか、監督から不本意な指示が出たのか、そんな表情だった。次の日から、少年の姿は消えた。

久しぶりに少年を見たのは、陸上部の練習も休みがちになっていた七月の初旬だった。友達と夜までマクドナルドで時間を潰して、少し後ろめたさを抱えながら帰ると、少年は、宏美の家のまえに立っていた。白いTシャツと黒い短パン姿の少年は、片手にバットを持って、歩いてくる宏美をじっと見ていた。ぶんぶんバットを振り回す音から想像していたのとはまるで違い、ずいぶん華奢な体つきをしていて、素足に履いた黄色のスニーカーが、やけに大きく見える。仕返しをされると思い、身構え、大声を出すために唾を飲み込んで、いつものように大回りをした。すると野球少年は、ちょっと待ってください、と、声変わりの途中の、ラジオのチューニングがうまく合わないときのような声で叫ぶ。驚いて立ち止まると、野球少年は直立不動のまま、大会があるから、見に来て下さい、と、選手宣誓のように一言ずつ区切って叫んだ。いつ、どこで試合があるかも知らせなかったのは失敗だったが、仮に知らされたとしても、応援に行く気はなかった。

家に帰ると、玄関に立っていた母親が、大きな声がしたけど、なにかあったの、と言った。母はいつも、神経を尖らせていた。宏美は、隣の子が、友達と騒いでる、とだけ答え、母親の横をすり抜けて階段を上がった。なんでこんなに人に迷惑ばかり掛けるのかしらあの子は、と言っているのが聞こえた。まだ家にいた父は、例の困ったような表情を浮かべて、もう何度も読んだ朝刊を広げながら、母の苛立ちが治まるのを待つだけだろう。

隣家の少年は、野球の応援が駄目となると、別の手を考えてきた。夏休み明け、郵便受けに手紙が入っていて、これから高校受験の勉強をしなければならないが、自分は英語が苦手なので、ぜひ教えてくれ、と書いてあった。

一年のときはだいたい四か五だったんですが、二年のときに三になって、四は一度だけで、三年の一学期は、三でした。体育と音楽はいつも五で、理科と数学は、いつも四でしたが、三年では三か二です。あとはだいたい三です。一年とか二年のときは、四のほうが多かったです。三年になると、塾に行く人が多くて、部活もやめる人が多くて、それで勉強ができるようになった人が多いみたいです。僕は部活をやっていたので、塾には行きませんでした。

拙い字が並ぶ手紙の文面を、いまもはっきりと記憶している。それを無表情で眺める母親は、これからはいちいち報告しなくてもいいからね、と言い、宏美の手に押し付けると、こういうことばっかりは一人前なのに、と小声で呟いた。

しかし、その頃はまだ、一人前になりかけだった。確かに、自分が他人の視線を常に身にまとっていることは、小学校を卒業する頃には自覚していたが、中学生の恋愛感情なんて出鱈目で好きも嫌いもあってないようなものだから、自分が特別な存在だとまでは思わなかった。しかし、高校の通学のため三つの路線を乗り継ぎ、匿名の海に呑み込まれていくようになると、自意識と他者の視線がうまい具合に噛み合い始めた。視線が新たな視線を呼んで増幅し、ぱんぱんに膨れ上がっていく感覚は、初めてなのに、馴染み深いもののように思われた。野球少年からの告白があったのは、そういう時期だった。一方で、ありとあらゆる男の視線を平然と身にまとったまま家に帰るせいか、母の自分に対する憎悪も、日増しに露骨になっていった。しかし、他者の視線というものはまとったまま放置しておくと、次第のその中心が虚ろになっていくようで、母の癇症を気に病むこともなかった。

宏美の助力が得られなかったからかどうかはわからないが、野球少年は新設の私立高校に、野球推薦で進んでいた。伝統のある強豪校からも声がかかったが、レギュラーになる保証はないと言われたので、確実に試合に出られる高校を選んだということだった。ネーム入りの大きなバッグをぶら下げて歩いているところを、自宅の周辺で何度か目にはしたが、遠目に視線が合っても素っ気なく通り過ぎるところを見ると、バットをいくら振り回しても消え去らなかった淡い思いは、もう過去のものになっているのだと思っていた。ところがそれは思い違いだった。少年は、高校最後の夏の大会のまえ、新聞に西東京地区有望選手の一人として取り上げられ、近所の住人が勝手に盛り上がって、応援団を作ったのだが、知らないあいだに、宏美はその一員に加えられていた。野球少年が自分の母親を通じて頼んだとのことだった。あの素っ気なさは、幾度の失敗を経て彼が身に付けた擬態だったのかもしれない。彼の一途さというか執念深さに驚くよりは、野球漬けでほかの世界が広がっていない生活を、かわいそうだと思った。宏美は大学の学期末テストとレポートを理由に応援団への参加を断っていたが、新興チームながら準々決勝を突破し、破竹の快進撃と地元マスコミでも騒がれ始めると、母や近所の人たちの誘いも異様な熱を帯び、頑なでいても居心地が悪くなるだけだ、と心を決めた。宏美ちゃんきれいになったね、と褒める近所の人たちのまえで、母親は有頂天になり、宏美にも、優しかった。三塁側の最前席に陣取ったご近所応援団は、試合開始から、一斉に立ち上がって声援を送った。宏美も立ち上がってメガホンを叩いた。三番センターの野球少年は、以前と同じように華奢な体つきをしていた。黒光りするヘルメットが、やけに大きく見えた。しかし、七月の日差しはことのほか強く、遮るものもない炎天下、テストとレポートで徹夜を繰り返した体がもつかどうか考えると、目のまえが暗くなり、プラスティックのシートにぺたりと座って、愛想程度にメガホンを振っていた。そのとき、まだ野球少年がバッターボックスに立っているにも関わらず、ご近所応援団の目が、自分に注がれていることがわかった。三年越しの恋物語は、その場にいる全員に知れ渡っているようだった。ご近所応援団は、目のまえで行われている試合の応援にもまして、ひたむきな少年と美しい少女が登場する、ありふれた青春ドラマを完成させることに執心していた。困ったことに、なかでも一番熱心だったのは、宏美の母親だった。ピンチになれば強く手を握って、大丈夫だからね、と言い、得点が入れば、宏美をきつく抱き締めて、やったね、やったね、と喜ぶ姿は、ご近所の手前、やる気のない娘と自分たちの温度差を補っているのとは、明らかに違った。それにしても、試合の長さも、日差しの強さも、暴力的だった。頭からミネラルウォーターをかぶっても、ピッチャーがマウンドを降りてまた上るまでには、すっかり乾いていた。ブラスバンドの演奏は、熱でぐにゃりと歪んだレコード盤を再生しているみたいだった。しかし、宏美のぐったりした表情は、幼馴染の勝利を願うあまり、満足に寝ることもできず、試合前にすっかり体力を使い果たしてしまったようにも見える。試合は、地方局が中継していたので、自宅のリビングとなると少数派だろうが、客の年齢層の高い喫茶店とか定食屋のテレビ画面には、ぼんやりとグラウンドを見つめる宏美が何度か映し出され、ご近所応援団の共犯者を作り出していたかもしれない。試合は投手戦のまま進み、相手チームの一点リードで、待望の最終回が訪れた。野球少年は先頭バッターでヒットを放ち同点のチャンスを作ったが、あとが続かなかった。試合終了と同時に、安堵の溜息とともにへたりこんだ宏美を、汗だくの母が強く抱き寄せた。ご近所応援団が集まってきて、口々に慰めの言葉をかけた。すっかり、野球少年の恋人扱いだった。その夜、隣家では残念会が催されることになっていた。焼けた砂のうえで少年たちが転げまわっているのを見ながら、これならフライパンのうえで爆ぜているソーセージでも見ていたほうがましだと思っていたぐらいだから、なんとか口実を作って、断ろうと思っていた。隣家の野球少年本人が嫌いなわけではなかったが、ご近所に祝福されて後戻りできない雰囲気になるのは、向こうも望まないだろう。頭痛がすると言って部屋にこもっていたが、母は一五分に一回、どたどたと音を立てて階段を上り神経質な声で具合を聞きにくるし、いつご近所応援団が神輿を担いでドアを突き破ってくるかと考えると、いても立ってもいられず、父の車に乗り込んで、奥多摩湖まで逃げた。駐車場は閉まっていたので、路肩に停めてシートを倒し、ぼんやりと天井を見ていた。古い型のフォルクスワーゲンゴルフが、数メートル後ろに停車していた。消しゴムをカッターナイフで切って作ったような車だと思っていた。その車は、球場を出るときにもいたし、家を出たからずっと、あとをつけていた。その日は、家に帰らなかった。

翌日の夕方に、車と一緒に帰宅した。すっかり動転してしまったらしい母は、おなかすいてるでしょ、これ食べなさい、と言いながら、野球少年とその応援団が食べ残したフライドチキンやピザを次々と食卓に並べた。球場に入るまえに、ご近所応援団と定食屋に入って山菜蕎麦を食べてから、なにも口に入れていなかったせいか、油が浮き出たジャンクフードたちを見るなり吐き気を覚えて、トイレに駆け込んだ。空っぽの胃を抑え、数分おきに訪れる波を待ち受けていると、ドアの外で、心配そうな声がする。ペーパーで口を拭って外に出る。母のほかには誰もいない。母はほっとした表情を浮かべている。根はいい人なのだ、素直なぶん、ストレスを受け流す術を知らないだけだ、と思う。


野球少年は、いまでは大学生になり、伸ばした髪を金色に染めている。胸や肩には隆々と筋肉がつき、野球をしていた頃より逞しくなった。青梅が生んだ期待の星よ、と美容室の店長が言った。もともと整った顔立ちをしていたから、大学に入ってからは、ファッション雑誌にちょくちょく顔を出すようになり、このあたりではちょっとした有名人だという。この人は未来のアイドルの初恋の人なんだから、下手なことしたらあとが怖いよ、と、新入りの美容師を脅しながら、宏美の髪を指で何度か梳いた。彼は、産毛を撫でるように、指先を首周りに這わせたと思うと、顎のところでふいに力を入れ、少し俯き加減だった宏美の顔を上げさせた。憂鬱そうな自分の顔のすぐ横に、こわばった顔の若い美容師と、無精ひげの生えた口元を歪ませた背の高い男がいた。この話はあまり楽しくない?と男は言う。そんなことないです、と宏美は作り笑いをした。男は色の薄い瞳で、鏡のなかの宏美に笑みを返す。たまにはウェーブにしてみない?ふわっとさせたら気持ちも明るくなると思うけど。うん、もう少ししたら、秋になったら、しようかな、それまでは、ストレートでいたい。

なんで野球を続けなかったんだろう、と宏美は思った。それとも、あれは見た目だけで、大学で野球を続けているのかもしれない。金髪の男に見られた気がして、小窓から離れ、便器に座った。

部屋に戻ると、携帯電話の着信を示す赤いランプが点滅していた。着信は二件あった。新しいほうの番号は、父親の愛人からだった。もう一件を表示する気は失せた。

シンクに置きっぱなしにしてある汚れ物を洗い、埃が目立ったキッチンとリビングに掃除機をかけ終え、額に滲んだ汗を拭いながら時計を見ると、起きてからもう一時間ぐらい経っていた。洗濯籠がいっぱいになっていることには気付いていたが、午後も遅くなってから洗い物を庭に広げたことを誰かに見られたとしたら、わたしが家事をさぼってるって、ご近所に言いふらしたいんでしょ、と母に詰られる気がした。かといって、乾燥機で乾かしたところで、皺になるとか匂いがつくとか何とかいって、難癖を付けれらると思った。勝手にしてよ、と呟きながら、洗濯籠をひっくり返した。饐えた匂いのするベッドカバーが、底の方に丸められていた。たぶん、昨日の夜、吐いたのだ。吐瀉物は、なにかで拭き取ったようで、染みだけが残っていた。宏美は洗濯機のスイッチを入れると、母の寝室に行った。ドアを開けたとたんに、ベッドカバーと同じ匂いがした。カーテンは閉ざされ、薄暗い。剥き出しのマットには、黒い染みがあり、消臭スプレーが転がっていた。

しばらくソファに座ってテレビを見ていたが、カーテンやじゅうたんに染み付いたタバコの匂いに我慢ができなくなった。父の件があって以来、母が毎晩、タバコを肴にして、喉を鳴らして酒を飲んでいることは知っている。あまり酒を飲まない父宛に、お歳暮だとかお中元だとかで贈られてきたまま、飾り物になっていたウイスキーやバーボンのボトルは、目に見えて減っていた。デパートの催事場で間に合わせたようなものが中心だが、年代もののスコッチも無造作に並んでいたのを、母は端から順番に開けていく。あんなふうに飲むようなお酒じゃないのに、と、知ったふうなことを考える自分に腹が立つ。窓を開け放ってから、シャワーを浴びに行った。時間をかけて体を洗った。

リビングに戻ると、タバコ臭さはいくらかましになっていた。洗濯物をどうしようか迷ったが、母と自分の下着は部屋に干し、あとはハンドタオルや肌着ばかりで型崩れしそうなものはなかったので、乾燥機に放り込んでおいた。洗濯物が乾くまで、外に出ることにした。

宏美が車のキーを持って玄関を出たとき、隣家の長男とその友人たちは道端に車を停めたまま、まだ賑やかに、話を続けていた。宏美に気付いた長男が頭を下げると、隣にいた若い女まで一緒になって頭を下げたのが、おかしかった。

ガレージに行儀よく収まった日産ローレルは、家族が買い物に使うだろうと父が置いていったのだが、母はわざわざ駐車場を借りて、鮮やかな赤色のオペルヴィータを中古で買った。バッテリーが上がってしまわないように、定期的に車を走らせることにしていた。母は、父が置いていった日産ローレルを、暴走族崩れが乗る車じゃない、と言って、嫌っていた。母のオペルの灰皿には、セイラムとマルボロの吸殻がいっぱいに溜まっていた。車のキーはマルボロと一緒に、母が勤める保険代理店のバックヤードにぶら下がった、男物の背広のポケットに収まっているはずだった。

青梅街道から狭い脇道に入り、横田基地が見えてきたあたりで国道一六号に入ると、そのまま下って家に帰ってくるのがいつものコースだった。途中で大型の書店に寄り、雑誌を立ち読みすることもあった。車の中では、FM放送を聴くようにしていた。質の悪いスピーカーだったせいもあって、ポップスが続くと気が滅入ることもあったし、リスナーから届くなんの捻りもないメッセージと上っ面のやり取りを続けるDJにはうんざりしたが、車は決まったコースを走るだけだから、音楽は、次に何がかかるのか、わからないほうが良かった。


だって写メみたら超かわいい子がいたからこれ誰って聞いたら娘だっていうの、すげえ美男美女の親子だねって言ったら嬉しそうに、奥さんの写メも見せてくれたよ。奥さんもきれい。ちょっと怖そうだけど。ねえ思ったんだけど、お母さんハーフ?

違います。

そうなんだー、絶対ハクジン入ってると思うんだよねーだってあのぐらいのおばさんであんなに目がおっきい人っていなくない?でさーそれであたし、家族でCM出れるよシャンプーとか?そんなの、って言ったら、宏美が嫌がるよだって、つーかおまえは出る気満々?みたいに思ってそれで超かわいいーって思っちゃった。

父はいまなにをしてるんですか?

ん?聞きたい?あのねいま、シャワー浴びてるの。

そうなんですか。

ねえ知ってる?リュウくんね、シャワー浴びるときも、きちんとあのお風呂の椅子あるじゃん、あの穴開いてるやつ、ていうかあれ、なんで穴開いてんだろね、あたしはおならするためだと思うんだけど、でも、一回もやったことないんだけど、あの椅子に座っておなら、宏美ちゃんはある?

ない。

あってもいわねえっつーの。ねえ?あはは。とにかくあれに座ってね、それで足の指をさ、一個ずつ開いて、きれいに洗うんだよ、そんとき背中丸めてるのが超かわいいんだよ?

足の指をきれいに洗うのは知ってます。

へえそおなんだ、ねえ、ひょっとしてまだ一緒にお風呂入ってる?ヤバクない?

入ってない。

あ、ごめん怒った?

べつに。

あ、リュウくん出てきそう、っていうのはウッソー。ほんとはね、なんか気まずくなってきたから、切るね。ねえ、メールならしてもいい?あたし宏美ちゃんと友達になれそうな気がするよ。

なんであたしに電話してきたんですか?

だって宏美ちゃんかわいいんだもん。あたしかわいい子大好きなの。女の子としたこともあるんだよ。

わたしも、ある。

え、ウソ?マジで?あ、ちょっと切らないで……

なに。

ねえ、その話はまた今度ゆっくりしようね。やっぱり切るよ。またねー。


宏美はまっすぐ家に帰らず、アルバイト先の喫茶店クレッセントに向かった。仕事があったわけではないが、家に帰っても、口を開けば愚痴しか言わなくなった母の相手をするのは気が進まなかった。

クレッセントへの道は本道から右折で入れないので、駅前のロータリーを一周して方向転換してから、左折する。宏美のローレルを先頭に、四台が連なってロータリーに進入した。

駐車場は二台分のスペースがあるが、車は一台も停まっていなかった。宏美は、いつもは店長のフォルクスワーゲンゴルフが停まっているスペースに、ローレルを入れた。轍にタイヤを取られて、車が大きく揺れる。昨日の雨でぬかるんだ地面が、今日の強い日差しで固められていた。

店の扉を開けたとき、今西は、カウンターに頬杖をついていた。スポーツ新聞を読んでいる常連の老人がときどきなにか言うのに、適当に相槌を打っているようだった。午後四時、買い物帰りの主婦か、夜勤に入るまえの工場労働者がぽつぽつと来るほかは、閉店を待つだけの時間帯だった。その日も、客は老人一人、あとは窓際の席で、今西の息子が難しい顔をしてマンガを読んでいるだけだった。以前は宿題を手伝ったりもして懐いていたが、六年生になって、一人前に異性を意識するようになったのか、最近は宏美に対して無視を決め込んでいる。箪笥くらいの大きさのある業務用クーラーが、ごうごうと唸り声を上げていた。正面の窓とガラス戸から西日が差し込むので、いくら冷房を強くしてもじっとりと汗が滲む。宏美は大きく息を吸い込んだ。窓枠の陰が長く延びて白壁に格子模様を作り、テーブルクロスやカーテンに染み込んだ油の匂いを嗅ぐと、世界がいつもこうであればいいのに、と思い、ほんとうにこうであったときが一瞬訪れて、からだを縛っている重力が頭のてっぺんから抜けていくような気がすることがあった。しかしその瞬間は、気まぐれに訪れた。

今西は、入り口で微笑んでいる宏美に気が付くと、あら、という形に口を動かした。そしてカウンターから手を離し、背筋を伸ばして、笑みを作った。

「今日は出る日だったっけ?」

「ううん、違うけど、ヒマだったから」

カウンターの老人が、ゆっくりと顔を向けたが、視線は宏美まで届かないうちに、スポーツ新聞のうえに力なく落ちていった。

カウンター席を挟んで立つ宏美に、今西は、暑かったでしょ、と言って、おしぼりと水を差し出した。宏美はそれを笑顔で受け取る。常連の老人が何事か唸っている。顔を向けると、最近の子は野球なんて見ねえか、と言い、スポーツ新聞をばさばさと折り畳む。唸っているように聞こえたのは、まえの日の試合結果について、宏美に意見を求めていたらしい。

「そんなことないですよ、でもあんまり詳しくないかな」

老人は緑茶を啜ると口をもぐもぐさせ、震える手でタバコに火をつけた。

「若い子はほかにいろいろ楽しみがあるのよ」

「坊主は野球やんねえのか」

やらない!と今西の息子が叫ぶ。バスケットボールよ、雄太は、と今西が腕組みをして笑う。ときどき、今西の笑顔には、艶かしさを感じる。若い頃に水商売をしていたのはほとんど間違いないと、宏美は思っている。老人は火をつけたばかりのタバコをすぐにもみ消し、大きなあくびをした。

「宏美ちゃん、お願いがあるんだけど」

「なに」

「あのさ、加藤のバカなんだけどさ、急に練習が入ったから、仕事行けないとか言って。最後までいるつもりだったんだけど、帰っていいかな」

「いいよ」

「ありがと。ほんとにあのバカ、もうすぐ三〇だっていうのに、バンドだかなんだか知らないけど、いつまで夢見てるんだろうね。そうだ、ご飯まだだったら作っといてあげようか?」

「ありがとう。でも、さっき食べたばっかりだから、自分で適当に作って食べるよ」

宏美は、今西が作ってくれたアイスカフェオレを飲みながら、しばらく話をしていた。時間潰しの営業マンが来て、ホットコーヒーを舐めながら、ふた月まえの週刊誌にざっと目を通し、水を三杯お代わりし、タバコを五本吸って、出ていった。空気を察したのか、老人も席を立った。二人のぶんの食器を洗い終えると、福西はエプロンを外した。

「じゃあ、あたしはあがらせて貰うよ。ほら、行くよ」

今西は長男の背中を乱暴に叩いた。長男は、何すんだよ、と金切り声を上げて、読みかけの漫画を手放そうとしない。その様子がおかしくて、宏美は声を掛ける。

「雄太くん、それ持って帰ってもいいよ。明日返してね」

「ホラ、じゃあ持って帰りな。お礼言うんだよ」

今西に背中を押された長男は、上半身を捩って母親の手から逃れると、漫画を棚に戻し、母親を残して店を出てしまった。

「コラ、ちゃんと挨拶しなさい。もう、本当にしょうがないねえ」

今西と息子が賑やかに出て行ったあと、店の中はしんと静まり返った。

バッグの中の携帯電話が光っていた。京都の女から、メールが来ていた。

ねえ、なんでさいきん電話でてくんないの?ねえ、今度シカトされたら、あたしすっごいやなこといっぱい送っちゃうよ?

送ってよ、興味あるから。と返信を打ったあとで、これではシカトしたことにならないから送ってもらえない、と思って、舌打ちをした。


喫茶店クレッセントは、駅から少し離れた住宅街の中にあった。店長の平瀬が妻と離婚するまえは、自家製のケーキとストレートコーヒーが売りで、そのほかにも、近所の主婦を集めてケーキ教室をやっていた。平瀬の父親は西多摩にチェーン店をいくつか持つ中古車販売店を経営していて、銀行を辞めた平瀬に、開店資金をぽんと出した。平瀬自身も中古車販売店の社員として月々給料を貰っていたから半分道楽みたいなものだったが、それでもクレッセントは、郊外のベッドタウンに移り住み、新居と新車のローンで苦しい家計をやりくりしながら、少しでも豊かな生活を演出しようとする若い夫婦たちを相手に、それなりに繁盛していた。宏美の母もその一人だった。小学校の五年生になったばかりの宏美は母に手を引かれて、毎週クレッセントを訪れた。

あれはあいつが勝手にやっていたことだから、僕は奥に引っ込んでいたし、だから当然、君のお母さんのことも覚えていない、平瀬は言った。平瀬の印象は、その頃とあまり変わっていない。さらさらの黒髪を目が隠れるぐらいまで伸ばして真ん中で分け、口元には、絶えず笑みを浮かべている。ひょろひょろと伸びた、針金のような手足。あれから十年経っているが、学生のような風貌はそのままだった。

喫茶店には、白い大きな犬がいたと記憶している。しかし、平瀬は、そんなものはいない、たぶんどこかのペンションと間違えているのだろう、と言う。確かに、今でこそ古びて、すっかり周りの住宅と馴染んでしまい、かつての常連たちがそばを通り過ぎても、新しい生活を夢見ていた頃の気持ちを思い出して胸の中に小さな漣を起こさせることもないだろうが、その頃のクレッセントは、切り妻の大きな屋根や、水色に塗られた壁が、平板な二階建て住宅の中で際立って、高原に建つペンションを思わせた。小学生の頃は、夏になると家族で信州に出掛けていた。そこのペンションに犬がいたのかもしれない。ともかく、時間が止まってしまったようなこの喫茶店で、犬のぶんだけ、ぽっかりと穴が開いた。

クレッセントは小学校の近くにあり、登下校時間はたくさんの子供たちで店のまえの歩道が埋め尽くされる。学校の帰り道、花壇に植わった色とりどりの花や、コーヒーの香りがかすかに漂う店を指差して、土曜日、学校が終わったら、お母さんと一緒にあそこに行って、おいしいお菓子を食べるんだよ、と言った。同級生たちは、ぴかぴかの家に住む、垢抜けた転校生を、羨望の眼差しで見つめていた。宏美は、彼らを置き去りにして、長い手足を大きく振りながら、走り出す。白い大きな犬が、尻尾を振って、宏美を待っている。

宏美は、ケーキができあがるのを待つあいだ、店のまえの駐車場で、その犬と遊んでいた。たぶん、柔らかい部分をうっかりつねってしまったとか、何かの拍子に、砂利のうえに寝そべっていた犬が、とつぜん体を起こして、一つ吠えた。驚いた宏美は車道に向って駆け出した。するととつぜん目のまえが真っ青になった。ドアにつけた鈴が鳴り、女たちが店からぞろぞろと出てくる。宏美はふらふらと歩き出すと、母親ではなく、鼻先だけ突っ込んで停まった車の運転席から降りてきた男の足にしがみついて、大声で泣いた。ひょっとしたら、自分の命を奪ったかもしれない男だった。

「あのとき、なかなか泣き止まなくて、あなたを困らせたのはわたしです」

二階のリビングルームで、平瀬は、さあ、知らないねえ、と首を傾げ、にやにやと笑っていた。

部屋の中央に、黒い革張りの二人掛けソファが、ローテーブルを挟んで、対面に並んでいる。むかしと同じだった。宏美は、窓に向かって右側にあるソファに座ったが、左半分のスプリングのほうが心持ち固く、肘掛は、角が剥げている。去年帰ってきて店を再開したという平瀬は、いつもここに腰掛けて、肘掛に凭れながら、窓から見える空を見ていたのだろうか。部屋の明かりは付いていなかったが、すぐ外にある街灯の光が差し込んで、正面に座る平瀬の顔に陰影を作っていた。窓から見える駐車場には、平瀬のゴルフに先導されて奥多摩から戻ってきたローレルが、少し斜めに停まっていた。

今日は大雨になるから、このままここにいたら帰れなくなりますよ、と、後ろに停まったゴルフから降りてきた平瀬が言った。ありがとうございます、と宏美が言った。この時間から、ここらの住民しか通らなくなるから、スピードをがんがん出すし、よその人が走るのは危ないですよ、僕は慣れてるから、先導しますから、ついて来て下さい。なに、心配いりません、僕はずっとまえを走るだけだから、不安になったら、市内に入ったところでどこへでも消えてくれて結構。それにしても、あなたはとてもきれいな人だ、こんなきれいな人に会うのは初めてですよ。

「知らないなんて、嘘でしょう。野球場からずっとつけていた癖に。なんでわかったの?」

宏美がきっぱりと言うと、平瀬は秘密の玩具を見つけた子供のように笑った。

「店でテレビを見ていたんだ、じいさんのリクエストで、見たくもない高校野球をね。そうしたら、むかしむかし大好きだった子が、泣きそうな顔で童貞坊主を応援してるじゃないか」

「それで、わざわざ球場に来たのね」

「遠くから見るだけでよかったんだが、奥多摩なんかに行って、君が僕を誘ってたんじゃないのかい?」

「そんなわけないじゃない」

「思い出したよ。全部、たったいま思い出した」平瀬は、突然手を叩いてソファから跳ね上がった。「犬の名前はポーギー。離婚した妻が連れて行った。だからもういない。そして君のお母さんはとても、いやな感じの人だった」

平瀬は、いやな感じ、という言葉を、舌のうえで飴玉でも転がすように、言った。

「だってあのときだって、君にたいした怪我がないってわかったら、店から追い出しちゃったんだよ、うるさいからって。君は僕に押し付けたら、自分はおケーキ作りの続きにさっさと戻っちゃってね。僕は大変だったんだよ、子供をあやしたことなんてなかったからね」

平瀬はソファに飛び乗ると、前髪をかき上げ、タバコに火をつけた。余裕ぶった口振りとは裏腹に、終始落ち着きがなかった。深々とソファに腰掛けていたかと思うと、ふいに身を乗り出し、手をもみしだいた。灰皿には、吸殻が山のように溜まり、重厚な作りのローテーブルには、細かい灰が散らばっていた。壁のほぼ中央にある窓の下には、オーディオセットの青白い光が点滅し、左右の隅に置かれた背の高いスピーカーから、遠近法が狂ったような甘い声の男性ボーカルが流れていることに、そのとき気付いた。

「君の母親が初めて君を連れてきたとき、ほかの奥さん方がきれいな子ね、お人形さんみたいね、なんて褒めてさ、それで上機嫌だったのに、君があんまり無愛想だから怒って、ひっぱたいたんだ、こうやって、ばちーんってね、それがさ、やけに力が入っててね、君の、ひょろっと長い首が折れちゃいそうなぐらい曲がって、君は両手をばたばたさせてどたどたって後ずさりしてね。それがおかしくて、申し訳ないけど僕は笑ってしまった。そしたらウチのが、あなたは向こうに行っててって、僕を店から押し出すんだな。僕はもう笑いが止まらなかった。それに君のお母さんは、そんなことがあったあとでも、平然と君を連れてきて、毎度同じことをするんだよ、おかしくて仕方ないだろう?それで僕はまた笑うから、妻に背中を押されるんだよ」

携帯電話が鳴った。もうこれで何十回目かわからない。平瀬は話を中断して、電話に出るように促した。宏美は首を振った。友達の家に泊まるから安心して、とメールを送っておいたのに、たぶんご近所応援団は、ショックで失踪した美少女と慌てふためく母親という物語の続きを、隣家のリビングで楽しんでいるのだろう。着信メモリーはすべて、母の一文字で埋め尽くされていた。こうして見ると、母という字は、太った女が両手を広げて、慌てて走っているように見えなくもない。母母母母母母母……。宏美はくすっと笑った。つられて笑った平瀬は話を続ける。

「こんなこと言っていいかわからないけど、妻、えっと、あの頃の奥さんはね、君のこと、可愛くない子供ねって言ってたよ。だから僕は言ってやったよ、十歳かそこらで愛想を覚えてる子の方がよっぽど気持ち悪いじゃないかってさ。それにあの子は美しい。美しさは絶対的なものだ、なんてね。ただ、正直言わせてもらうと、君はあの頃、ちっとも可愛くなんてなかった、だって、青白い顔で、目はぎょろぎょろしてて、鼻も口もちんまり小さくて、首も手も足もひょろひょろ細長くて、ホラ、ちょうどあの、漫画とかに出てくる火星人みたいだったんだ。だけどね、大人はわかっていたんだ、君はこれから時間をかけて、確実に、完成に向かって行くってことをね。小さい頃に可愛い子っていうのは、たいていブサイクになるだろ。そういう子の場合、ていうか、だいたいの子はそうなんだけど、遺伝子が、迷ってるんだ。ほんの少しでもましな人生を送るためには、いったいどんな目鼻立ちにすればいいのか、迷って、試行錯誤して、それで、結果としてとんでもない代物ができ上がる。だけど、君を含めて、本当に美しい人間っていうのは、迷わない。いいかい、並みの人間だったら、クラスの悪ガキから、火星に帰れとか言われて、苛められたら、迷うんだ。このままじゃまずい、なんとかしなくちゃ、あたしの人生は台無しだって。それで、ほっときゃいいのに、まだ柔らかいうちに、力ずくで、目先のことだけ考えて、目をもうちょっと小さくしようとしてみたり、鼻をもうちょっと大きくしようとしてみたり、いろいろいじくる。ああ、まだ精通もしてない洟垂れの言葉に惑わされて、せっかくの美しさを台無しにしちゃうんだ。でもね、何度でも言う、君は、誰にも惑わされずに、まっすぐ完成に向かっている。それが僕にはわかった。いや、誰よりもそれをわかってたのが、君の母親さ。だから君を嫌っていた。君は孤独だった。だろう?でも、僕はあのときから、君の味方だった。君の美しさゆえに。わかってただろ?」

平瀬が離婚し、ケーキ教室は自然消滅したが、宏美は毎週土曜になると、クレッセントに出掛けた。準備中の札がかかっていたが、ノブをひねればドアは開いた。平瀬はたいてい、奥の四人掛けの席に一人で座って、本を読んでいて、ベルの音に顔を上げると、にっこりと微笑んだ。

しかし一ヶ月ほど経って、宏美は父親から、クレッセントに行くことを禁じられた。そして、その日から一週間、部屋に閉じ込められた。罪と罰のアンバランスさに関する謎が解けたのは、高校生のときだった。両親は、妙な噂を立てられることを恐れて、平瀬に金銭を支払っていた。父の単身赴任が決まったときのことで、母と二人きりになるのに、隠し事があるのはよくないという配慮だったのかもしれないし、母が宏美に辛くあたるのを見兼ねて、理由がわからないままよりはわかったほうがいいという気遣いだったのかもしれない。ローンの頭金を払ったばかりだったから、田舎のお爺ちゃんにもお願いして、大変だった、と父は力なく笑う。新築の家はそのままだし、車も手放さなかったし、たいした苦労があったわけではないだろうと思うのだが、父の表情は、散々辛酸を舐めてきた人のそれだった。それはともかく、宏美はそのとき支払った額を、少しずつでも両親に返そうと思っている。


クレッセントに行くことを禁じられてからしばらくして、中学受験のための勉強をするように言われた。受験勉強をしているクラスメートは多かったから抵抗はなかったが、ほとんどの友人が通っていたのとは違う、電車で二駅隣の学習塾に通わされることになったのは、少し不満だった。しばらくして、友達ができた。歩いて十分ぐらいの近所に住んでいたが、学区の境界で、小学校は違ったので、顔は知らなかった。カナという名前だった。カナは、休み時間、平べったい顔をいきなり寄せてきて、いつも電車同じだよね、と言った。頷くと、隣の椅子を乱暴に引いて座り、塾にいる男の子で誰がかっこいいかとか、そういう話を、頼んでもいないのに、ぺちゃくちゃとしゃべり続けた。宏美ちゃんは、彼氏いるの、と聞かれた。まだ小学生だから、と真面目に答えた。カナは、なにそれ、宏美ちゃんって面白いね、と、癇に障る口調で言い、あたしはね、いたんだけど、夏休みに別れちゃった、と溜息をつく。カナは、ファッション誌のモデルやブランド名をよく知っていた。子供向けの化粧品をいつも持ち歩いて、暇さえあれば、手鏡で自分の顔を覗き込んでいる。カナは、勉強など二の次にして、同じ教室の男子を追い掛け回していた。カナに誘われて、男子二人と、日曜日に出掛けた。おしゃれで明るいカナは、男子にももてるのだろうと思っていた。しかし実際、一緒にいた男子二人は、宏美ばかりを見ていた。最後には、カナをうるさがって、ヒラメとかなんとか言ってからかっているうちに、泣かせてしまった。カナを慰めながらの帰り道、宏美は、自分の容姿が、相手の視線のうちに羨望や嫉妬などの強い感情を掻き立てるということを教わった。思い返してみると、カナは、宏美と並んで歩くとき、どこか誇らしげで、そして卑屈だった。何度か、カナの家に、食事に呼ばれた。宏美の家よりは少し大きいという程度の、こじんまりとした一戸建てだったが、ガレージには外車が停まっていた。ボルボっていうんだ、宏美ちゃんちの車はなに?カナは無邪気に聞く。宏美は、自分の家の車の名前を知らなかった。ナンバーは覚えていたので、白い車で、六一五七、と言うと、カナは、それじゃわからないよ、宏美ちゃんって面白いね、と、また癇に障る声で笑う。入り口で、両親に出迎えられた。母親はすぐに引っ込んでしまったが、父親は、宏美をじろじろと見回して、なかなか家に上げてくれようとしなかった。ようやく許しを得て食卓に通されると、正面の席に並んだカナの両親が見せる表情に、クレッセントで大人たちに見つめられたときの、奇妙な感覚の意味がわかったような気がした。カナの父親は、メタルフレームの奥から、鋭い視線を投げかけていた。額が眉間に向けて雪崩れ落ちてきて、半分塞がってしまったような細い小さな吊り目が、娘にそっくりだった。父親の職業と役職、両親の学歴と出身地、祖父母の職業と学歴、家族構成、習い事、車のブランド、受験勉強を始めた時期、最近の模擬試験の成績。友達の父親は、単刀直入に聞いてきた。食事ではなく、尋問を受けに行っているようなものだった。父親は、すべてにおいて娘に劣っている、平凡な宏美の回答を、平凡にも及ばない娘の顔のうえに空しく積み上げていた。

ある日、大事な話があるの、と言うので、ほかの子が帰り支度を始めている教室を抜け出し、けばけばしい貼紙をしてある廊下では秘密の話をできないからと、狭いトイレに二人で入った。ほかの子と話しているのを強引に引っ張ってきたのを、一方はうんざりし、一方は気後れを感じていたから、しばらくは、どちらも話をしなかった。カナが話しかけるとき、昨日見たテレビの話でも、洋服の話でも、最近ではいつも、大事な話、だった。しかし、大事な話がある、と言ったはいいものの、宏美が続きを促してくれなければ、言葉を継ぐことができない。カナは、宏美の許可を待っていた。カナにとって、話の内容が大事なのではなく、宏美と話すことが大事だった。だんだん、そういうふうに変わりつつある関係を、宏美は疎ましく思い始めていた。教室にも慣れて、もっと気楽に話ができる友達がほかにもでき始めていたが、カナは、宏美を独占しようとした。横に並んで壁に寄り掛かったカナは、それがなにか解決をもたらしてくれるものであるかのように、象牙色の洋式便器を見つめていた。カナは、宏美にしがみついている。便器を舐めろと言えば、カナは舐めるんじゃないか、と思った。そのときカナが、意を決したように、大袈裟に深呼吸してから、声を顰めた。

「あのね、変な人が、駅からついて来るの、知ってた?」

「知らない」

本当に大事な話だ、と宏美は思ったが、いつもの癖で、素っ気なく答えてしまった。口をぎゅっと結んだカナは、覆い被せるように言った。

「あのね、いつもずっと後ろを、歩いてるんだ。それでお母さんに言ったら、お父さんが捕まえるから、普通にしてなさいって。それで、その人がいたら、電話かけろって、ほら、これ」

カナは、ポケットから、黒い携帯電話を取り出して見せた。宏美はそれをまじまじと見詰めた。カナは、少し得意げな顔をした。その頃はまだ、携帯電話を持っている小学生は、それほど多くなかった。しかし、それで宏美との関係が逆転する可能性は皆無であること、そういうものを積み重ねれば積み重ねるほど宏美の心が離れてしまうことに気付く程度には悧巧だったから、自分の迂闊さに苛立つように、すぐにポケットにしまった。そして、こんなものを持っているのは、あくまで実用的な目的があるからだ、と言わんばかりに、昨日の夜、何度も電話をかける練習をしたことを強調した。携帯電話はつねにポケットに入れておき、駅で男を見つけたらワンコールする。ただし駅前では人が多すぎるし、シラを切る可能性があるので、家に近付くまで引き付けておく。宏美は胸騒ぎを覚えた。

「捕まえたら、どうするの」

「わかんない。でもお父さん、柔道やってるから、大丈夫だよ」

汗ばんだ手を繋ぎ、カナは、自分の父親がどれぐらい強いか、ずっと話していた。宏美と並んで座らせた日いらい、父親は、自分の娘を溺愛しつつ、同じぐらいの深さで憎んでいるに違いなかった。それに気付かず、父親はただ無条件に自分を守ってくれるものと思い込んでいるカナは、かわいそうだと思った。あとから考えれば、警察を呼ぶなり、駅に迎えに来てもらうなりすればよかった。宏美の両親にも、話は伝わっていなかった。それはそうだ、と宏美はあとで思う。カナの父親は、変質者が自分の娘を素通りするのが、許せなかったのだ。被害者を見比べれば、どちらが狙われていたのか、誰の目にも明らかだろう。そんなことは、到底許されない。カナの父親は、すべて自分で決着をつけなければならなかった。

改札を出ると、駅前のロータリーに車を停め、ガードパイプに腰掛けて、タバコを吸っている平瀬が見えた。客待ちタクシーの流れが、平瀬のワーゲンゴルフのあたりで澱んでいる。平瀬は、宏美に気付くと、目を伏せて、少し笑った。たぶん誰にも気付かれていない、もし気付かれたとしても、飲み屋の女のまえで口にしたジョークでも思い出しているようにしか見えないだろう。宏美にとって、それはあたりまえの光景だった。しかし、父は、平瀬を悪い人だ、と言った。あのおじさんの奥さんも、お母さんも、もう会わないって決めたんだ。だから、おじさん、とかなんとか言って駆け寄ることは、遠慮していた。しかし、あとをついて来るぐらいなら、なんの問題もないだろう、と思っていた。とにかく、平瀬と話さなければいいのだ。工場の送迎バスが来て、工員たちを吐き出すと、平瀬の姿が見えなくなった。

送迎バスが、ロータリーの中心に移動して、停まった。駅に上がる階段の下で営業している立ち食いそば屋には、部活帰りの高校生がたむろしていた。交番には、警官は不在だった。CDショップから人が出入りすると、流行のポップソングが漏れ出た。

帰宅する人たちの波に揉まれ、ロータリーを迂回しながら、宏美は、顔をこわばらせているカナに、いるの、と聞いた。カナは、薄い唇をぎゅっと結んで、頷いた。そして、ポケットのなかで携帯電話をいじり始めた。

「捕まえるの?」

「まだしない。雑木林を過ぎてから」

「お父さんは、どこ?」

「いるよ。後ろにいる」

宏美はそっと振り返った。カナの話の影響で、メガネの小男はアクション俳優並みの肉体を備えた精悍な男に変わっていた。そのせいかどうか、どこにいるのか、よくわからなかった。平瀬の姿は見えなかった。宏美が探そうとすると、強く手を引かれた。

「わかっちゃうよ、ダメだよ」

ロータリーを抜け、国道を渡ると、とたんに人影が少なくなり、青と黒、二色の世界に変わる。煮物の甘い匂いがする窓から滲むオレンジ色は、ブロック塀によってくっきりと切り取られている。角の家の、砂利を敷き詰めた殺風景な庭には、小さな鉄のブランコがあった。ここを通るときはいつも、あのブランコがあればどんなに楽しいだろうと、考えていた。家に帰れば真新しい赤いブランコが待っているような気がした。それで、いつもここを通ると、今日こそは、今日こそは、と足取りが軽くなった。もちろん、ブランコはいつまでも手に入らなかった。

角を曲がるときに、宏美はそっと後ろを見た。ジーンズのポケットに親指を引っ掛けた平瀬が、少し猫背で、長い足を持て余すように、がにまたで歩いている。そのすぐ後ろに、スーツ姿の男が一人いるのが見えた。あまり長く見てはいけないので、細かいところまではわからないが、たぶんあれはカナの父親だろう。雑木林が見えてきた。宏美たちは、いつもその雑木林の中の、付近住民が踏み固めた小道をを横切っていた。学校帰りに、友達と遊んだこともあった。いまは単身者向けのアパートと駐車場になっているが、平地にして見ると、拍子抜けするぐらいに狭かった。だから、幼い子たちが遊び場にしていても、大人があれこれ言わなかったのかもしれない。しかしその頃は、絵本に出てくるような、広大な森そのものだった。

手を握る力が強くなった。すぐそこに見えているはずの林まで、なかなか辿り着けない。買い物袋を提げた原付と軽トラックが、通り過ぎた。車が行ってしまうと、あたりは急に静かになる。後ろを歩く男たちの足音が、大きくなった。足音は重なり、心臓の鼓動と混ざる。雑木林は、いまや目のまえにあった。そこに足を踏み入れる気になれない。二度と戻って来られなくなるような気がする。それは横にいるカナも同じようで、少し足が止まったが、彼女は自分を励ますように、いつもどおり、と言うと、宏美の手を引いて雑木林に入っていった。なかほどまで来たとき、枯葉を踏む音が増えた。宏美は思わず振り返った。スーツ姿の男は、いつ平瀬を追い抜いてもおかしくないぐらい、すぐ後ろに張り付いて、少し浮かせた右手は、その肩を掴もうとしていた。宏美と目が合った平瀬は、おどけた顔で、笑ったように見えた。宏美は、後ろにいる男を指差した。そのとき、カナが、宏美の手を振りほどいて、お父さん、と叫んだ。一瞬、何が起こったのかわからなかった。男が一人、喜びに我を忘れて踊り狂っているように見えた。最後に、サッカーボールのように頭を蹴り上げると、男は闇のなかに消えた。あとは、友達の叫び声と、それを聞きつけた人たちのざわめき、怒号が、自分を包んでいた。あんなに静かだったのに、こんなに人がいたんだ、なんでもっと早く出てこないんだろう、と宏美は思った。

カナの父親は、背骨や腰骨が何ヶ所か折れていて、後遺症が残るのは免れないだろうということだった。宏美は両親に、喫茶店の人だ、と言ったが、平瀬と宏美とのことが知られることを恐れた両親は、あの人はそんなことをする人じゃないの、それは絶対言っちゃだめ、と、きつく口止めした。両親のただならぬ剣幕をまえに、宏美は言いつけに従ったが、いつも夕方になると駅前にいた不審者を覚えていたタクシーの運転手がいて、事情を聞かれた平瀬は、すぐに罪を認めた。宏美とのことは、一言も話さなかった。宏美が母に連れられてクレッシェンドに通っていたことと、平瀬がそこで見た宏美を気に入っていたこと、幼児趣味があった平瀬を嫌って妻が家を出たこと、それで平瀬の欲求に歯止めがきかなくなったこと、しかし実際に行為に及ぶまえに、英雄的な中年男が身代わりになったこと、すべては宏美が与り知らぬ、宏美の外側できれいに完結したことで、宏美と平瀬のあいだに何かがあったのではないか、と疑う者は、逆にそのゴシップ趣味を笑われることになった。銀行員時代に横領に関わって前科があった平瀬には、傷害罪で執行猶予なしの実刑判決が出た。カナは塾をやめ、宏美は中学受験に失敗した。


平瀬が、珍しく店に現れたのは、夜の六時になった頃で、まだ外は明るく、窓から見える市営団地が夕日を浴びてオレンジ色に染まっていた。今西が帰ったあとで、宏美はカウンターのうえにあるテレビのスイッチを入れ、ニュース番組を見ていた。九州に台風が上陸し、画面には、よこなぐりの雨に濡れた白いブラウスと黒いミニスカートを体にぴったりと貼り付け、もはや用をなさなくなった傘にしがみつきながら、どこかはしゃいだ様子で歩く女子高校生が映っていた。人にはそれぞれ与えられた役割がある。女子高生は何があってもただはしゃいで、無邪気を装った性的メッセージを送っていればいいし、サラリーマンは雇用や年金の不安をしかつめらしく語っていればいい。

店はだいたい七時に閉めるので、いまから片付けを始めてすぐに帰り、母の相手をしてやらなければならないと思っていた。とにかく、酒を飲むのはやめさせよう。絨毯に吐かれでもしたら、たまったもんじゃない。客はまだ二人残っていた。夕方に現れた男たちは、ときどき宏美を盗み見しながら、小声で話をしていた。タバコの吸いすぎなのか、頻繁に咳き込みながら、底のほうにちょっとだけ残った液体をちびちびと舐めている二人の様子に気が付いてはいたが、頼まれるまで、水のお代わりは持っていかなかった。宏美が一人でいるときは、二人組みを見かけることが多くなっていた。たぶん大学生だろう、と思う。宏美は、二人ならまだましだ、と思った。どちらかが馬鹿なことを考えても、もう片方が歯止めになる。二人で馬鹿なことをやるのは、よっぽどの度胸が必要だ。しかし、見るたびに、二人組みの顔が違うような気もする。一度は、これは中学校の同級生に違いないと思って、家に帰ってアルバムを見て確信したのだが、翌日に現れた二人組みはまったく違う顔をしていた。しかし、どの二人組みも、注文の仕方は「ホット」だったり「ブレンド」だったりしたが、来るたびにコーヒーを注文し、タバコを吸いながら、ひそひそと話をしていた。

おはようございます、と言うと、平瀬は軽く顎をしゃくってから、今日はもう閉めよう、と言った。二人組みは完全に無視されていたが、平瀬の声に慌てて立ち上がると、会計を済ませた。彼らは、店を出るときも、宏美を盗み見ていた。宏美は二人が店から離れた頃を見計らって外に出て、閉店の札を出した。右後ろのバンパーが凹み、ところどころに引っ掻き傷がある平瀬のフォルクスワーゲンゴルフは、店の入り口に突っ込むようにして、停めてあった。車道から侵入して、切り返しもせずにそのまま停めたようで、斜めになった車が通路を塞ぐかたちになっているので、二人組みはからだを横にして道路に出なければならなかった。

平瀬は、大橋さんに呼び出されてたんだ、と言った。テーブルを濡れ布巾で拭いていた宏美は体を硬くした。それを見て、平瀬は笑いながら言う。

「心配しないでいいよ、クレームじゃない。上機嫌だったよ」

平瀬は、小さな赤い箱を差し出した。カルティエのリングだ、と言った。

「出張でしばらく会えないからって。欲しがってたらしいじゃない」

宏美はそれを受け取ろうとせずに、拭き掃除に戻った。塵一つでも残っていれば、今西は容赦しない。

「別に欲しくないよ、そんなの。話の流れでそうなっただけなのに」

「貰っておいたら」

平瀬がぐいと突き出すので、宏美は濡れた手でそれを受け取った。平瀬は二人組が残した吸殻をゴミ箱に捨て、残った灰を水で流すと、その灰皿をカウンターに置いてタバコに火をつけた。投資会社を経営しているという男と寝たあとで、家の近くまで送ってもらったときと同じ、青い色のシャツを着ていた。顔が、少し脂ぎっているように見えた。宏美を送り届けてすぐ、大橋から呼び出しがあったのだろう。髭はきれいに剃ってあった。

昨日大橋と二人でいた銀座の寿司屋は、カウンターはもちろん、壁も床も隅々までつるつるに磨き上げられていて、プラスティックでコーティングしたようだと思った。大橋は熱燗を飲みながら話すほうに熱心で、寿司には余り手をつけていなかったのが、気になっていた。大橋の言葉が途切れたので、これ食べていい?と甘えた声を出して、手付かずのシャコに手を伸ばした。しかし、表面を撫でてかたちだけ整えたような米をうまく掴めずに、カウンターに落としてしまった。あ、と言って、指先でつまんで拾い上げようとすると、穏やかに話していた大橋がとつぜん、気を抜くな、と言った。その声に、ほかの客の視線が集まった。とはいっても、客たちはすぐに視線を戻したから、目にした光景ははっきりと言語化されないまま霧散してしまうのだろうが、宏美の心のなかだけには、きっちりと羞恥心が刻まれた。すべて、計算していたのかもしれない、と思う。宏美は、横に座った男が急に恐ろしく思えてきた。大橋は、君はいつも見られているんだ、と言ったあとで、穏やかだが毅然とした口調で続けた。君はまだ自分の才能の十分の一も使っていない。

「与えられたものは使い切れ。俺は一億あったら一億使う。残すことには何の意味もない。でも、俺にそれができるのは、一億が一億であるということがわかってるからだ。たいていの奴は、それがわからない。君もわかっていない。若いからわからないんだろうが、あとになってわかっても遅い」

言っていることはありふれている。しかしあの声の魔術で、大橋の言葉を素直に聞く気になっていた。たぶん、ずっと一緒に働いて、あの声の魔術を何度も目の当たりにしたら、この言葉ももっとリアルに響くのだろう、と思った。宏美は大橋に少し興味を抱いた。

「じゃあ、どうすればわたしの才能を使いきれるの」

「俺と結婚するんだ」

考えておく、と、失望を必死に隠しながら、言った。これは婚約指輪というわけだろうか。保守系政治家の一族が住んでいた松濤の邸宅が売りに出され、大橋はそこを買い取った。出張から帰る頃には内装のリフォームも済むので、お披露目のパーティーには来いと言われていた。どうするべきか考えたが、面倒臭くなった。

平瀬は、つけっぱなしのテレビを見上げ、興味があるのかないのか、経済の専門家の話をぼんやりと聞いていたが、灰皿に残った水滴のせいでタバコの火が消えてしまったことに舌打ちをし、ぶつぶつ言いながら新しいタバコを取り出した。

「それで、次は明々後日なんだけど」

平瀬はタバコを咥えたままそう言った。宏美はすぐに返事をしなかった。

「今度のおっさんは、これが初めてなんだ。指名じゃないから、断ってもべつに構わない。ほかの人を」

「いいよ、やるよ」

無表情な声に被せるように、小さな声で言い終えると、平瀬は口の端を歪めて醜く笑い、掃除を手伝い始めた。宏美がテーブルを拭いたはしから、椅子をひっくり返して乗せていく。赤いケースが、床に落ちたが、二人とも、拾おうとしない。宏美、と切ない声を出して、平瀬が近付いてきた。宏美は無防備に、平瀬を待った。平瀬は宏美を抱き締めた。しばらくそうしていて、ダメだ、と呟いた。

平瀬が出所したあとで、クレッセントは、近くの工場の従業員に昼食を提供する定食屋に変わって、それなりに繁盛していた。土日は休業だったが、宏美は店に行って、二階のリビングで、平瀬と話をしていた。茶褐色のクルミ材を敷いた床は店と同じもので、ローテーブルの下にだけ、白いラグが敷かれている。この部屋で独りにされると、ひどく落ち着かない気分になるのは、物の配置に原因がありそうだった。部屋のドアと、小学校の校庭が見える正面の窓は壁の中央にあり、二つを結ぶ直線上にオーディオセットとローテーブル、その直線を挟んで、ソファ、背の高いスピーカーが、左右対称に配置されている。なにも知らない人がうっかり一人で足を踏み入れ、ソファに腰掛けようなら、そちらに重心が寄って、部屋自体が傾いてしまいそうだった。窓のある壁には、モダンジャズのレコードジャケットが飾られ、向かって左側のほう、スプリングが固くなり、いつも平瀬が座っていたと思われるソファがあるのとは逆側に暗い色彩のものが多く並び、反対側には白っぽい色彩のものが並んでいるが、まさかそれでバランスを取っているわけではないだろう。二人でいることを強制されているかのようなこの部屋で、平瀬はどんな気分で過ごしてきたのだろう、と思う。


大橋からもらったリングをバッグに入れてクレッセントを出たのは、九時まえだった。母はまだ帰っていなかった。宏美は乾燥機の洗濯物を片付け、夕食が必要かどうか、母に電話をした。長いコールのあとで、留守番電話に代わった。メッセージを入れようとしたら、乱暴に電話を切られた。宏美は舌打ちして受話器を置いた。予想していたことだが、冷蔵庫にはほとんどなにも残っていない。母は買い物に行っても、冷凍食品か出来合いの惣菜しか買ってこない。米だって久しく炊いていない。平瀬となにか食べてくればよかった、と思いながら髪を縛って、車庫入れしたばかりのローレルにエンジンをかけると、閉店まえのセールをやっているはずのスーパーに向かった。

一人で夕食を食べ、シャワーを浴び終えても、母は帰ってこなかった。ビールを買ってあったが、迎えに来いと言われるかもしれないので、冷蔵庫に入れたままだった。寝間着にしている大きめのTシャツとスパッツを着て、明かりをつけたまま、ベッドに横になっていた。

うとうととし始めた頃、階下で賑やかな声がした。降りていくと、母は、若い男と一緒にいた。マルボロをオペルの灰皿に詰めていたのは、この男だろう。ひどく酔っているのを見て、あ、今日は金曜だったんだ、と思う。零時を過ぎていた。男は母を支えながら、勝手に玄関に上がってきた。薄い縦じまの入った、黒のスーツ。白いシャツの胸元は大きくはだけて、浅黒い、引き締まった胸元に、シルバーのアクセサリーをぶら下げている。無造作にはねた茶髪を見て、こんなので保険の契約が取れるんだろうか、と思った。母は、一人で大丈夫だから、と言い、宏美には目もくれずに、しっかりとした足取りで、寝室に行った。

「ごめんなさい、こんなことになっちゃって」

その男は、共感を求める愛想笑い一つで、靴を脱ぐ許可を得たと思ったようだった。女の扱いならお手のもの、とでも言いたげだった。宏美はそのまえに立った。

「なんで入ろうとしてるんですか」

「は?なんでって」

男は心外だという顔をした。いままで何度か上がったことがあるのだろう、と直感した。男も母と同じぐらい、あるいはそれ以上に、酔っているようだった。顔はそれほど赤くないが、ニンニクとアルコールの匂いが家を汚している、と思う。

「誰も入っていいなんて言ってない」

「ちょっと待ってよ、誰も入れてくれなんて言ってないよ。なんだよその言い方は。誰が送ってやったと思ってんの。お宅のお母様のおかげで、終電逃したんですけど」

「わたしは頼んでない」

「その言い方、ありえなくね?」

男は甲高い声で言い、白い歯を見せて笑った。宏美は、上から見下ろしたまま、一歩も動かなかった。そのとき、黒いロングスカートに履き替え、ベージュのカーディガンを羽織ったた母が寝室から出てきた。

「なにしてるの、そんなところで。コウちゃん、ちょっと上がっていきなさいよ。宏美、お茶はあったかしら?ちょっとお願い」

宏美が横にずれると、開き直ったのか、男はふてぶてしい笑みを浮かべ、宏美の肩に体重をかけて、家に上がった。そして振り返ると、言った。

「ノーブラでしょ」

「確かめる?」

男は肩をそびやかし、ママが寝たあとでね、と言いながら、リビングに入っていった。下着を干しっぱなしにしていたことを、そのとき思い出した。

宏美は台所に戻って、夕食の残りのリゾットが入った鍋を脇にどけ、やかんで湯を沸かした。男の手の跡が、じっとりと汗ばんでいた。苛々してきたので、やかんを火に掛けたまま部屋に戻り、さっき畳んだばかりのシャツに着替えた。大きな埃がついていた。乾燥機の掃除もしなきゃ、と思った。下半身のラインがくっきり出たスパッツも、ジャージに履き替えた。キッチンに戻り、冷蔵庫を開けると、父が土産に買って帰った生八つ橋が残っていたので、皿に載せて、緑茶と一緒にリビングに運んだ。

マルボロの男は、ジャケットを脱ぎ、三人掛けソファの真ん中に座っていた。母はその隣にいて、あら、気が利くわね、と言い、タバコに火をつけた。男は、ローテーブルに盆を置く宏美を、じろじろと見ている。カーテンレールには、昼間に干した下着がぶら下がっていた。宏美はピンチハンガーごと取って、匂いを嗅いだ。やっぱりタバコの匂いがついている、と思うと苛々した。脱衣所に行き、洗濯籠に入れた。

リビングに戻った宏美は生八つ橋を一つ手に取ると、サイドテーブルを挟んだ一人掛けのソファに座った。

「紹介するわね、福本幸樹くん。職場の同僚。すごいのよ、うちのトップ営業マンなのよ」

「よろしく」

福本は、にやにやと笑いながら頭を下げ、握手を求めた。酔っ払った男は、だいたいこんなものだ。宏美は福本の握手を無視して、生八つ橋を口に入れた。母が顔をしかめた。

「なによその態度は。はじめに言っておくけど、コウちゃんとわたしはただの同僚なの。まさかへんなこと考えてないでしょうね?」

「べつに」

「この子ねえ、昔っから、あたしの粗探しばっかりしてるのよ。本当に嫌な子。洗濯物そのままにしてたのだって、わたしを困らせようとしたんでしょ。コウちゃんも困ったでしょ」

「確かに、目のやり場に困りましたね」

「あら、あの派手なのはあたしのじゃないわよ」

母が笑う。

「帰るときはいつも一人じゃない。お客が来るって言ってくれれば片付けておくよ」

「口の減らない子ね」

母はそう言って、済ました顔で湯呑みを啜る。宏美は表情を変えずに生八つ橋を飲み込み、粉のついた指先を舐めてから、湯呑みに手を伸ばした。気付いた福本が、手で押して寄せた。どうも、と言った宏美の口元に餡がついているのを目ざとく見つけた母は、それをからかった。

「本当に、この子はむかしから汚い子でね。泥水で遊ぶのが好きで、いっつもパンツをぐしょぐしょにしてね。あたしが料理してるときも、すぐに汚い手で触ろうとするのよ」

「誰だって小さい頃はそうじゃないですか。いいじゃないですか、いまはきれいなんだから。さすが富美恵さんの娘さんって感じですよ」

「あら、ねえ。そうなの、この子はね、いまじゃ嫌がってやらないけど、子供服のモデルをしたこともあるの。それから、高校に入ったときね、あれは面白かったわ。学校案内のパンフレットあるじゃない、それに載るって話があったんだけど、直前になって、やっぱりあんまりきれいすぎるのもよくないんです、なんて言われてね、ボツになったのよ。学校のパンフレットはね、少しぐらいブサイクで野暮ったい子のほうがいいんだって。それを聞いてから、駅なんかによくあるじゃない、学校の看板が、それ見て、なるほど、なんて思っちゃったり。おかしでしょ?あ、でも去年、美容室のチラシに出たわよね、あの駅前で配ってるような、ぺらぺらの。みんな捨てちゃうから、道路に散らばって、雨が降った日なんか、そりゃもう汚かったわよ。それから、高校野球の応援に行ったときも、何度もテレビに映ったのよ。でもねえ、顔はきれいなんだけど、無愛想だし、汚いし、ほんとうに、どうしようもないのよ。最近はわたしが忙しいから、お部屋の掃除とか、お洗濯もしてくれるようになったけど、でもほら、こうやってソファの裏とか下を見てご覧なさい、綿埃がいっぱい。見えるところだけきれいにしてねえ、この子の性格のまんまじゃない。ほら、いま飲んでるお茶だってね、わたしと二人のときだったら、ガラガラうがいして、それから飲み込むの。おかしいでしょ。ねえ、やってみなさいよ、ガラガラって、いつもみたいに」

母は、外向きの穏やかな笑みを浮かべ、ほら、とか、あら、と言うときに、強く握った拳を上下に振っていた。宏美は、否定とも肯定ともとれる曖昧な笑みを浮かべていた。福本の顔からは、笑いが消えていた。しかし、驚いた様子はなかった。母が話をしているあいだも、ふん、ふん、そうですか、と穏やかに相槌を打っていた。しばらく話していて、会話が途切れがちになったので、宏美はテレビのスイッチを入れた。スポーツニュースだった。日本代表のメンバーについて、元サッカー選手や、芸能人が、ボードを掲げながら、あれこれと議論していた。

「コウちゃん、サッカーやってたわよね、確か」

「フットサルですね」

「なにそれ、サッカーじゃないの」

「サッカーなんですけど、もっと狭くて、人数も少ないんです」

「楽しいの、それ」

「楽しいですね」

二人は、一問一答式の会話をしばらく続け、宏美はテレビの画面に集中していた。

声がしなくなったと思ってみると、母は考え事をするように頭を垂れて、寝息を立てていた。ちょっとお母さん、と言って肩を揺すると、びっくりしたように目を開け、そして、ごめんなさいね、あたしもう眠くなっちゃったから、お先に失礼するわ、コウちゃん、気をつけてお帰りなさいね、と言いながらリビングを横切って、寝室に消えた。

母がベッドに横になったのを確認して、リビングに戻ると、福本は一人で背を丸め、緑茶を啜っていた。上着はソファの背凭れにかけたままだった。

「家、どこですか?」

「瑞穂です」

福本は顔を上げ、目尻に皺を寄せて笑った。

「近いじゃない。瑞穂のどの辺?」

「駅で言うと、箱根ヶ崎」

「一六号沿いで行けるよね。送るよ、車で」

「いや、ここにいさせてもらいます」

「ひょっとしてさっきの、真に受けてる?」

「まあ、そういう流れになれば拒まないつもり」

「ならないから、安心して。お茶、まだいる?」

「ああ、できれば」

急須の茶を入れ替えて戻ってくると、宏美はソファに腰掛けた。福本の顔から、さっきのような生意気さが消えていた。よく見ると、そんなに若くはない。目のしたはクマがあるし、顎の下の皮膚には吹き出物ができ、疲れた感じがする。二五、ひょっとしたら三〇を越えているかもしれない。ニンニク臭さは消えていた。

「さっきは驚いたでしょ」

「慣れてるよ」

宏美は灰皿を押しやった。福本は手を振って、断った。灰皿には、母が吸ったセイラムの吸殻しかなかった。ほとんどが、ちょっと吸っただけで揉み消されていた。

「外でもあんななの?」

「飲むとね。でも、普通にしてても、なんかおかしいなって感じはする。ヒステリーっていうか、あ、ごめんね、君のお母さんなのにね」

「べつに構わないよ、むかしから、だいたいそういう感じだから」

「でも、基本的にはいい人だよ。仕事も一生懸命で手を抜かないし、俺も含めて、職場の人はみんな富美恵さんのことが好きだよ。尊敬できる」

「キャパ超えてがんばりすぎなのよ。だから反動がくる」

「そうなのかもしれないな、でもそうするしかないんじゃない」

「どこまで知ってるの」

「どこまでって」

「だから、いろいろしゃべってるんでしょ、ウチのこと」

「旦那が浮気してて、相手とトラブってる。娘はしょっちゅう無断外泊」

「完璧」

「でも、宏美さんのことは、別に怒ってないよ。むしろ、あれぐらいの年で男の一人や二人いないほうが心配になるって、よく言ってた」

「いつも男の人と一緒なわけじゃないけどね」

「そういうつもりで言ったんじゃないけど。あの子は頭のいい子だから、ちょっとぐらい遊んでたって心配しないって。あ、ちなみに、べつにこういう台本があるわけじゃないからね。俺の一存でしゃべってる」

福本は目尻に皺を寄せて笑った。魅力があると思った。

「お腹すいてない?」

「あ、わかる?」

「なんかさ、お母さん、あんな調子でずっとしゃべって、あなたはうんうん頷いて、たぶんろくに食べてないんじゃないかと思った」

「正解」

「夕食の残りだけど、リゾットあるの。よかったら食べて」

「じゃあ、お言葉に甘えて。いただきます」

福本は、温め直したリゾットをあっという間に食べてしまった。宏美はいれなおした緑茶を飲みながら、その様子を見ていた。平瀬の指示で中年男と寝るようになったころ、どんな男の人が好みなの、と言われ、ご飯をおいしそうに食べる人、と答えた。いかにも無邪気で、健康的な感じがするセリフを、なんとかというアイドルがテレビで言っていたのを真似したのだった。しかし、福本の食べっぷりを見ていると、自分で作ったのだということを差し引いても、なんだか嬉しくなってくる。福本はバドワイザーを一気に飲み干すと、ふう、うまかった、と言って後ろに凭れた。

「失礼だけど、いくつですか」

「俺?俺ねえ、二九。年末には三〇だよ。寒いでしょ、こんなナリで」

「へえ、ぜんぜん、そう見えない」

「いくつだと思った?」

「二〇代の前半かな」

「嬉しいこというね。まあ、こういうナリしてたほうがね、おばさまがたから契約を取りやすいんだよ。まあ、半分以上は趣味だけどね。ていうか、ほとんど趣味か。自分では、まだまだいけるとは思ってる。どう」

「かっこいいと思いますよ。わたしの趣味じゃないけど」

「マジきついね。お高くとまりやがって」

福本は、大きく口を開けて笑った。宏美も一緒になって笑った。しばらく取り留めのない話をして、あくびが出たので時計を見ると、三時を回っていた。客間に使っている和室に布団を敷き、福本はそこで寝た。宏美が目覚めて一回に降りたときには、母も福本もいなかった。リビングのテーブルのうえに置きっぱなしだった食器はきれいに片付けてあった。

父のローレルもなくなっていた。そういえば昨日の夜、車が好きで、ローレルには一度乗ってみたかった、と言っていたのを思い出した。今頃は母と二人で、どこかにドライブにでも行っているのだろう。宏美は昨日買っておいたベーコンと卵を焼いてトーストに挟んで食べ、牛乳を飲むとなんだか心が満たされてきたようだったので、もう一眠りすることにした。


輸入雑貨の会社を経営しているという男は、三〇代の後半ぐらいで、鮮やかな黄色のシャツにベージュの麻ジャケットを羽織っていた。几帳面に折り目のついたスラックスは、ジャケットとセットのものだろう。名前は、喜田といった。二度相手をしたことのある井上という歯科医の紹介だった。井上はまだ三〇になったぐらいの物静かな紳士で、股間を蹴られるのが好きだった。渋谷のブックファーストで待ち合わせ、目印になるようにウィリー・ロニスの写真集を立ち読みしていろという指示を平瀬から聞いたとき、どんな気取った人なのと聞いたら、背広を着て満員電車に揺られていてもまったく違和感がない男だ、という答えだった。その言葉は、当たらずとも遠からずだった。顔立ちは、取り立てて整ってもいないし、醜くもなく、強いて言えば機転の利くねずみのようだったが、人の下で使われていないからか、実年齢より若く見えるのは、平瀬と同じだった。朝、電話で平瀬は、喜田は新客だけど、遊び慣れてるみたいだから、心配しなくても向こうの言う通りにしていればいい、と言った。宏美は、いったいいままで何人相手してると思ってるのよ、と腹が立った。中年の男相手に外れがないからと、髪は黒のストレート、服装はスカートで行くように古沢から言われていたが、平瀬を困らせようと、迷彩柄のカーゴパンツを履いて、鏡のまえに立った。しかし、しばらく考え、困る困らない以前に、ただ、着替えろ、とだけ言われたらつまらない、と思い直し、ブルージーンズに替え、とにかく、スカートは今後一切履かない、と決めた。鏡のまえで腰をひねったりしながら、地味だけどやんちゃ、というテーマを決め、ベルトは大きめのバックルがついた、ラインストーンのものにした。少し迷ったが、トップは黒のTシャツを選んだ。左の鎖骨の少ししたあたりに、同色の刺繍があって、光の加減で小さな蜘蛛が浮き上がる。自分が寝ているあいだに型を取られたのかと思うぐらい体にぴったりで、上半身のラインがきれいに出るから、気に入っていた。

平瀬はジーンズ姿の宏美を見ても、なにも言わなかった。あれこれ考えたことが悔しくて、渋谷までの車中、ずっと黙っているつもりだった。しかし、緊張していると思われるのは嫌だと思い、途中から、たいして興味のない高級車を見つけてはしゃいでみたり、カーラジオのポップソングに合わせて歌ったり、無理をして明るく振舞っていた。平瀬は少し目を細めてまえを見ながら、黙って運転している。平瀬の車は、ちょっとスピードを出すと、運転席と助手席でもまともに会話ができないぐらい騒音がひどかったし、スプリングもバカになっていたので、おとなしく座っているだけでも、頭がぼんやりして、ひどく疲れる。喜田と会ったときは、空騒ぎの疲れがどっと出ていた。

喜田は、胸を見ながら、清潔なのが一番だ、と言い、褒めてるんだかなんだかわからなかったが、とりあえず、ありがとう、と答えた。喜田は、立ち読みしていたロニスの写真集を手に取り、プレゼントしようか、と言った。ロニスは、僚友のドアノーが被写体のなかに飛び込んでいくのとは正反対に、いつも物陰から盗み見ているような印象があって、好きな写真家だったが、これで嫌いになってしまうとすれば残念だと思い、丁寧に断った。喜田は、買う気があるのかないのか、新刊の写真集を手に取ったりしながら、しばらくフロアをうろうろしていた。仕事絡みなのかと思って、なにも言わずについて回った。気がつくと、エスカレーターに乗ろうとしていた。

平日の夕方だったが、道玄坂は、多少苛立つ程度に混雑していた。枯れた観葉植物のような髪型の男が、シルバーのアクセサリーをジャラジャラ鳴らしながら近寄ってきた。それを視界の端に捕らえたのか、喜田の歩調が速くなったが、宏美が喜田と繋いだ手を軽く振って見せると、男は、にやりと笑って踵を返した。誰が見たって、まともに恋愛しているカップルには見えない。しかしこの街では、これが普通だ。振り返った喜田の顔は、何かに脅え、気が立っているようだった。宏美は、手を繋いだまま肘を絡ませるようにして肩を寄せ、上目遣いに、歩くの早いよ、と言った。ホラあたしミュールだし。喜田は、ああ、すまない、と、宏美の手を握り直した。ひどく汗をかいていた。腰の曲がった老婆が杖を突きながらよろよろと坂を降りてきた。避けるつもりはないようなので、手を離し、あいだを通した。喜田は困ったように手を浮かせていたので、また腕に絡みついた。映画館のまえで待ち合わせをしている学生風の男女、看板持ちの浮浪者、携帯電話でなにやら喚いているヤクザ風の男、植え込みに座って、ぽかんと口を開けている少女たち。歩いている人よりも、立ち止まっている人のほうが多い。宏美は絡み合った視線のなかを、歩いていく。女は嫉妬する。学生は見惚れる。サラリーマンは絶望する。ヤクザは値踏みする。陽は落ちていたが、熱気は地上にわだかまっていて、滲み出た汗が膜のように貼り付く肌に、擦れ違う商売女の甘い匂いがまとわりつく。駐車場の出入り口で警備員に押し留められ、自分が知らず早足になり、喜田の手を引いて半歩先を歩いていたことに気付く。

坂のうえのオフィスビルにあるレストランに入った。一度来たことがある店だった。ここなら駐車場もあるはずだし、マークシティを通り抜けて来れたのに、と、べたつく肌に苛立ちながら、思った。店では、個室に通された。店員からなにか言われたわけではないが、ジーンズとTシャツという学校帰りのような服装でいるのはさすがに気が引けたし、ひどく汗もかいていたので、あ、うれしい、と呟くと、喜田は満足そうに微笑んだ。

窓際で、夜景がよく見えた。喜田は食事中、三ヶ月に一度買い付けに行くというフランスの話をしていた。アンティーク家具をメインにしているが、日用雑貨でも、気に入ったものならなんでも扱うことにしているということだった。最近売れ筋だという、ネックレスを一つ、くれた。人工的な色の飴玉みたいな宝石やビーズをごてごてとあしらったもので、身に着けるには少し考えなければならないが、じっと見ていると、ぼんやりとして、懐かしい気分になる。これは、そんなに悪くない、と思い、素直に喜んだが、喜田の笑顔からは、戸惑いしか感じられなかった。若い女に会うからと言って、部下に選ばせたのかもしれない。そう思って話を聞いていると、雑貨そのものに関する熱意は、ほとんど持っていないようだった。自分は経営に専心して、現場はほかの人に任せているというのなら、それはそれで構わないが、中途半端に知った振りをせずに、はっきり言ってくれたほうがこちらも話がしやすい。

喜田は、宏美本人、あるいは彼女と同世代の男に対して、どこか気後れを感じていることを隠そうと、虚勢を張っているような気がした。ワインを一杯、早いペースで飲んでからは緊張もほぐれたのか、その口調に落ち着きが見え、半年後に下北沢に出す予定の店の話をし始めたが、物件を争ったカフェのオーナーをいかに出し抜いたかとか、不動産屋との交渉をいかに有利に進めたかとか、退屈なのは相変わらずだった。宏美は食事に集中した。メインで出てきた魚料理はまずまずなので、自然と顔のこわばりが解けていた。喜田は満足そうに、話を続けていた。

デザートが運ばれてくるまでのあいだ、渋谷の夜景を見ていた。下を歩いているときは車道も歩道も同じようにごみごみとしていたが、上から見下ろすと、歩行者はまばらで、高級車も軽自動車も、行儀よく流れに乗っている。整然と流れるライトの列を見ていると、それぞれの車が別々の行き先に向かっているのだということが、信じられなかった。流れを外れた一台が細い路地に消えたとしても、ピンボールマシンのボールのように、最終的にどこか一箇所に戻ってくる自動運動のなかに捉えられているように見えた。それぞれの車の中で、それぞれの人間がケンカをしていたりトイレを我慢していたりセックスのことを考えたりしているのが、とても不思議なことに思えた。喜田は、宏美の横顔をじっと見ていた。

ビルのエレベーターで駐車場まで降りて、喜田の車に乗った。白いメルセデスベンツS五〇〇。ほとんど条件反射のように、わあ、すごい、と、はしゃいでみせる。得意そうな男の表情も、いつもどおりだった。車は道玄坂を少し下ってすぐに左に折れると、狭い道をのろのろと進んだ。喜田が見当を付けていたホテルは、どれも駐車場が空いていないらしかった。外の駐車場に停めて、歩いて戻ってくるのは嫌だった。かといって、ここで一人降ろされて、喜田がやって来るのを待つのは、もっての外だった。宏美は目を凝らして窓の外を探し、空車マークを見つけたときは、やった、と、思わず声を上げた。

壁に掛けられたボードの明かりはほとんど消えていた。部屋は安いものから順番に埋まっているようで、使用可能なのは二部屋しかなかった。喜田は少し迷って、広いほうの部屋のボタンを押した。額に汗が滲んでいる。薄暗いロビーは狭くカビ臭くて、ぽつんと置いてある剥げたベロアのソファでくつろいでいる人はいなかった。冷凍食品と、ジュースの自動販売機が並んで立ち、そのあたりだけ、目が眩むような明るさだった。なんでわざわざこんな安っぽいところを選ぶんだろう、と思った。この仕事でラブホテルを使うのは初めてだった。大橋と寝たのは、帝国ホテルの、日比谷公園が見える部屋だった。喜田のお友達の股間を一晩中蹴り続けて、足と腰がひどい筋肉痛になったのは、軽井沢の別荘だった。そういうものだと思っていたので、自宅住まいの学生や不倫の中年カップルが使うようなホテルに入るのは、いかにも直接的で、逆に新鮮な気さえしたが、行き着く先がここならば、食事だって、坂の途中のモスバーガーで済ませたほうが、バランスが取れていいと思った。一生懸命アルバイトをした金で女をデートに誘ったが、予算に限界があって、食事かホテル、どちらかを天秤に掛けたような感じだと思った。それはともかく、何回も角を曲がったので、自分がいま、どのあたりにいるのかわからない。といっても、円山町には何度も来たことがあるのに、どこに行けば何があるのか、ほとんど知らない。いつも相手がリードしたがるので、それに従っているだけだった。初めて来たのは高校二年のときで、相手は友人の紹介で知り合った慶應の大学生だったが、ホテルを探してうろうろしているときに酔っ払いに絡まれ、そのときにすっかり怯えてしまったのか、ホテルに入っても何もできずに終わった。それを聞いた友人は、言った。ごめんね、慶應は意外と駄目なのが多いのよ、今度は高校生だけど、麻布の人、紹介してあげるね、超遊び人なのに、理ⅢA判なの。すごくない?そういえば、そのとき夕食を食べたのは、ロイヤルホストだった。フロントで鍵を受け取ってきた喜田が、とつぜん肩に腕を回した。思わず身震いして、びっくりさせないでよ、と笑いかけると、喜田も笑顔で応え、宏美を強く引き寄せた。

部屋の広さは二〇畳ぐらいだろう、部屋の真ん中に大きなソファがあり、その奥に、背凭れがホタテガイみたいな青いラブソファ、向かい合わせに大画面の液晶テレビ。小さなバーカウンターもあって、鎧戸を開ければ夜景を見ながら酒を飲めるようになっているらしい。風呂は部屋に入ってすぐ左手、ガラス張りで、なかの様子が部屋から見える。乾いた汗がべとつき、早くシャワーを浴びたかった。喜田はジャケットを脱いでハンガーに掛け、タバコに火をつけると、テレビを見始めた。巨人阪神戦の中継をしていた。冷蔵庫からキリンラガーを取り出してソファに身を沈めた喜田は、宏美に次の指示を与える気配がない。ひょっとしたらこっちから誘うようなやり方を待っているのかもしれないと思ったが、自分から進んで、べたつく肌を合わせる気にはなれない。どっちを応援しているのですか、と聞くと、別に、どちらというわけでもないけど、と言って、チャンネルを替えてしまった。スマップが歌っているところで、喜田はチャンネルを止めた。グループそのものはどうでもよかったが、あまり若いとはいえない男たちが半人前の芸を披露しているのを、日本人みんなで暖かく見守っているという構図が、宏美は好きになれなかった。横に座った男は、ほら、おまえらの好きなアイドルを用意してやったんだから、あとはおまえがしゃべれよ、とでも言いたげだった。宏美は、キムタクは確かにかっこいいけどホストみたいで好きじゃないし、やっぱり彼氏にするなら一緒にいて楽しそうな中居くんかな、そういえば吾郎ちゃんが捕まったのって道玄坂ですよね、実はさっき通ったときも芸能人っぽい人がいて誰かなって気になってたんですたぶんあのケータイのCМ出てる人で……と言う代わりに、あのわたし、シャワーを浴びたいんですけどいいですか、と言った。喜田は、ああ、お先にどうぞ、とぶっきらぼうに答える。この男は緊張しているのかもしれない、と思った。脱衣所のようなものはなく、洗面所の横が浴室の扉になっていた。宏美はそこで肩まである髪の毛をゴムで縛って纏め上げると、まだまえの客の湿気の残る浴室のなかで服を脱いだ。喜田の緊張が伝染してしまったのか、それとも腰周りや腿に肉がついてしまったのか、うまくジーンズを脱げないのがもどかしい。脱いだ服は、細めに開けた扉から手だけ出して、備え付けのプラスチックかごに入れた。部屋に面した壁はガラス張りになっていたから、明かりはつけなかった。しかし、部屋の照明が入ってくるので、バスタブに貼り付いた髪の毛が見えるぐらいには明るい。

喜田は、シャワーを浴びて出てきた宏美に、バスタオルを取って立つように言った。さっきワインを飲んだときのように頬のあたりが赤く、息は荒く、まばたきの回数が多かった。

「そうやって髪をあげると、すごくきれいだ」

喜田はチャンネルを野球中継に戻していた。無精ひげを生やした左投げのピッチャーは、ときおり帽子を取って汗を拭う。汗で顔に貼り付いた髪の毛は、長髪とはいえないがずいぶん長い。それを見て、髪の伸びた隣人はたぶんまだ野球をやっているのだろう、と思った。

宏美はバスタオルを畳んでソファのうえに投げると、背中に回した右手で左腕の肘を掴んで胸を突き出し、はい、女の裸ですよ、とは言わなかったが、肩幅に足を開いて立った。喜田の視線は彼女の肌のうえを何度も往復した。街角や電車の中で、疲れた顔のサラリーマンや、競争心の強そうなOLの無遠慮な視線に晒されることには慣れっこになっていたが、裸になった姿をまじまじと見られるのは、例え相手が心を許した恋人だとしても、あまり好きではない。

だんだん恥ずかしくなってきたので、もおいい?と言って喜田の前で立膝になると、両手首を掴んで唇を近づけた。気をつけの姿勢になった喜田は首だけ伸ばして、唇を合わせた。胃弱気味の人間特有の口臭は少し耐えがたかったので、すぐに唇を離して、首筋に這わせた。胸元から、麝香の匂いがした。さっきまで、気がつかなかった。喜田は、うう、と息を漏らすと、宏美の手を振り解いて、恐々と胸に触れた。宏美はその手を掴んで元の場所に戻すと、耳元で、あなたもシャワー浴びてきて、と囁いた。喜田は二回頷き、逃げるように浴室へ行った。喜田は宏美と同じように、浴室のなかで脱いだ服を腕だけ外に出してかごに入れていた。宏美は糊がききすぎてごわごわのガウンを着てソファに座り、灰皿の脇にあったマッチでホテルの名前を確認してから、平瀬に電話をした。ソファは安物の合成皮革で、喜田がかいた汗が乾かずに残っているような気がした。

「そう、五〇五……うん、順調……でもあの人、ガチガチになっちゃって高校生みたいなんだけど。手の平に凄い汗かいてたし」

「そう。どうでもいいけど、機嫌を損ねるようなことはしないでよ」

平瀬の口ぶりに、宏美は腹を立て、わかってるよ、と強い口調で返した。

「じゃあいつも通り、明日の朝までは、やばくなったときだけ電話して。携帯は、相手にわからないように、手の届くところに置いといて。じゃあ」

電話の向こうは騒がしく、麻雀でもしているのだろう、と思った。円山町のマンションにホテトルの事務所があって、平瀬はよく出入りしている。そこにいるのなら、すぐに来られるのかもしれない。しかし、本当に、自分からの呼び出しがあったらすぐに駆けつけてくるのだろうか?宏美は苛立ち、電話を切った。一度年増女の相手をしてみたらいい。年の割りに可愛いらしい顔立ちをしている平瀬は、きっともてるに違いない。それで、二度と立ち上がれなくなるまで、搾り取られてしまえばいい。でもあいつは、役立たずだ。普通の女じゃダメなんだから、年増女に散々罵られて、半べそをかきながら逃げ帰ってくるだろう。いい気味だ。

鎧戸を開けてみたが、隣のビルの壁が見えただけだったので、すぐに閉めた。バーカウンターの冷蔵庫を開けてみた。上の段にはグラスが一組、伏せておいてあった。下の段には、キリンラガーの三五〇ミリが二つ、ブラックニッカのポケット瓶一つ、クリスタルガイザー二つ、アサヒカクテルパートナーのジントニックとモスコミュールが一つずつ。ポケット瓶以外はすべて横倒しになって、積み重ねてある。飲み物は、勝手に取り出せるようになっていた。食べ物はフロントに頼むのだろうか。宏美はブラックニッカのポケット瓶を出して、一口飲んだ。胃の辺りに熱いものが溜まり、顔が熱くなる。これで喜田と対等になれるかもしれない、と思う。宏美はもう一口飲んで、キャップを締めるとハンドバッグにしまった。かちりと硬い音がしたのは、すぐに取り出せるようにしてあるスタンガンに当たったからだった。スタンガンは、平瀬が、持ってるだけで気分が違うから、と言って手渡したものだった。でも、これはできれば使わないでね、というか、絶対使わないでね、だって喫茶店でむかつくお客さんがいても、包丁で刺したりしないでしょ。平瀬はそう言って、笑った。

宏美はソファに戻った。喜田は浴室の明かりをつけているので、シャワーを浴びる姿がガラス窓を通して見えている。曇りガラスなので、ぼやけてはいるが、何をしているのかはわかる。見たいものではないが、ちゃんと股間を洗っているかどうかチェックできるのは、いいと思う。洗っていないようなら、待ちきれない振りをして風呂場に入って、ごしごし洗う。一度出てから臭いと思っても、どうすることもできない。喜田が体を洗い終え、歯を磨き始めたようなので、宏美はテレビ画面に視線を移した。スマップはもう歌っていなかった。適当にチャンネルを回して、映画をやっているところで止めた。さっきシャワーを浴びているとき、野球中継の実況音声が、風呂場の天井から聞こえていたことを思い出した。以前、ドラマだと思って見ていたらアダルトビデオで、それでもなんとなく見続けていたら、風呂場に筒抜けで、恥ずかしい思いをしたことがあった。それで、雑誌でよく見かける俳優を確認するまでは、リモコンから手を離さなかった。映画をしばらく見ていたが、主演俳優の名前も、映画のタイトルもわからない。相手役の少女は、最近よく見かける女優だ。何度か似ていると言われたことがあるので、覚えていた。こうしてじっと見てみると、どこが似ているのか、よくわからない。眉は比較的濃く、目もはっきりとして芯は強そうだが、滑らかな顔の輪郭を始め、すっと通った鼻筋も、ほのかに丸みを帯びているので、相手に警戒心を与えない。決して事件の表舞台には立たない、学校の先生だとか、秘書だとかの、端役が似合いそうだ。宏美は洗面所に行き、シャワーの飛沫がかかって濡れた髪の毛にドライヤーを当てた。自分の顔はあまり好きではないから、一人で鏡を見るときは自然と険しい顔になるからわからなかったが、誰かのまえで愛想を振りまいているときは、きっとああいう顔をしているんだと思う。

ベッドの陰にハンドバッグを置き、風呂場に背を向けるようにして座った。ホテルの案内を眺めながらしばらく待っていた。出前のサービスがあったので、終わったら丼物でも頼もうかと思っていると、喜田が風呂から出てきた。宏美は立ち上がって、ガウンの襟を合わせながら、喜田を迎えた。喜田は、ビキニの黒いブリーフしか身につけていない。予想外に、均整の取れた体つきをしていた。聞くと、週に三回はプールに行って泳いでいるらしい。マッチョなのではなく、無駄な肉がない。喜田は、宏美の視線が自分の体に向けられているのがわかると、満足そうな顔をした。ムスクの香水とか、この男は、一人にするたびに、なにか新しいアイテムを携えて現れるが、そのどれも、たいして面白くない。

喜田の体を見ているうちに、宏美は、高校の体育教師を思い出した。水泳の時間になると体育教師は、小さな競泳用水着を身に付け、鍛え上げられた肉体を得意げに晒していた。彼が顧問をしていた水泳部は全国レベルの強豪だったし、自身もオリンピックの代表候補になったことがあった。おおかた入学説明会か何かで持ち上げられたからだろうが、宏美の母親までその名前を知っていて、あんな人に習えるなんて光栄だと言っていた。体育教師は、お気に入りの生徒と視線が合うと必ず、じっと目を見据えたまま、脇腹に当てていた手をゆっくりと腰まで下ろし、位置を直すふりをして、表面にペニスの形がくっきり浮き上がった白い水着に視線を誘った。横にいた友人が肩をつつき、あいつサイアクだよね、と言った。水泳部の子が言ってたけど、教えるときにさりげなく当てるんだって。体育教師は教え子たちの鑑賞に満足すると、コースを一つ占領して、バタフライで何往復も泳いだ。何人かの生徒がきゃあきゃあと騒いでいた。卒業後、その体育教師から、携帯に電話があった。どこで番号を知ったのか、と聞くと、それを教えた同級生の名前を、なんでもないような感じで口にした。サイアクだよね、と言った友人だった。

サイアク、と言いそうになって慌てて口を押さえ、凄いね、と大げさに褒めながら胸筋や腹筋に触り、彼を立たせたまま眺め回したが、近くで見ると、産毛の生えたうなじや二の腕の裏側は青白く、吹き出物がぽつぽつと点在していて、思わず手を引っ込めた。喜田はそれに気付かず、照れ笑いをし、宏美をベッドの端に座らせると、冷蔵庫からまたラガーを取り出して、飲み始めた。

「君は美人だ」

喜田は宏美の隣に座り、足元に視線を落としながら言った。ありがと、と宏美は言い、頬の内側を噛んだ。

「正直、こんな気分になったことはない。こんな中年男が言うのはどうかと思うけど、夢を見ているみたいなんだ」

「本当?」

「いままで何人も抱いてきたけど、君みたいな人に会ったのは初めてだ」

「みんなに言ってるんじゃないの?」

宏美もビールが飲みたくなった。さっきのウイスキーがぜんぜん効かない。逆に、テンションが下がってくる。こういうときに、わたしも飲む、と言うのはアウトなのだろうか?考えている横で、喜田は一人おしゃべりを続けている。

「違う、そうじゃない。みんなに同じ事を言うのは本当だ。でも、それは社交辞令みたいなもので、君には全然そういう気持ちがない。正直に言うよ、君はタイプなんだ。そういうのってあるだろう、街を歩いてて擦れ違った人に、ただ美人だな、って思うときと、そうじゃなくて、なんていうか、心が締め付けられるような気がするときと……だから今晩は、君が嫌だと言えば、何もしないでもいい。ずっとこうやって横に並んでおしゃべりしてるだけで、それでいいんだ」

「そう言われても、困るよ」

宏美が、静かに足を組み直すと、喜田の視線はあっさり落ちる。ガウンの裾がめくれて、うえにした右脚の腿があらわになってしまったが、そのままにしておいた。それにしても、横に並んでおしゃべりしてるだけなんて、だったら女の子のいる飲み屋にでも行けばいい。セックスは、やろうと思えば誰とでもできるが、一晩中話し続けるのは、誰とでもできることではない。他の人は知らないが、宏美はそう思っている。それに、こういうことを言う男は決まって、自分の話しかしないし、自分の話は、たいていつまらない。

宏美と喜田は、ベッドのうえに、天井を見上げ、手を繋いで並んだ。壁際の間接照明だけ残してあったのだが、部屋は十分明るい。一晩中話し続けたい、と言ったわりに、喜田の口からは話らしい話が出てこない。仕方ないので、宏美は喜田の肉体について話をすることにした。小金を持っていること、三ヶ月に一度フランスに行っていること、贅肉がないこと、以上の三つが、この喜田という男の決め球なのはわかったが、最初の二つについては、夕食のときに聞いたし、これ以上に深入りするとボロが出て、気まずくなるような気もしたので、もういいと思った。話をこちらから振ると、喜田はよくしゃべった。自己顕示欲は旺盛なくせに自分から発言せず、教師が偶然指してくれるのをひたすら待っている優等生みたいだった。

「僕は小さい頃から、やせっぽっちだった。スポーツはしていなかったし、人よりよく食べるんだけど、がりがりだった。僕が車だとすれば、とても燃費が悪いアメ車みたいなものだったんだ。それが三〇になった頃だったかな、ある日、ずっとデスクに座って仕事をしていて、トイレに行ったら、下腹に皺が寄った跡があったんだ。家に帰って、鏡で何度も見て、脇腹をぎゅっと掴んで、それで、ディナーに供される子羊のように、脂肪がついているのが疑いようのない事実だと、認めざるを得なかった。ショックだった。自分は太らない体質なんだ、と油断してたんだ。次の日、仕事なんてほったらかしにして、すぐにジムに入会したよ。それで、いちばん厳しくて、いちばん理論的なコーチを付けてくれ、と頼んだ。僕にあてがわれたのは、僕とほとんど同い年の男だった。彼はぜんぜんジムのインストラクターのようではなくて、ほとんど笑わないし、無駄口も叩かない。それでも、腕は確かだった。古い戦争映画に出てくる老軍曹みたいな男だった。僕が仕事そっちのけでジムに通ったのは、もちろんいまそこにある危機を回避するためではあったけど、そのコーチに心酔していたからだとも言える。僕はすぐに、完璧なフォームでクロールを泳げるようになった。楽しくて、何キロでも泳いだよ。彼はその他の面でもいろいろなアドバイスをくれた。彼に言われて、食事も野菜中心にしたし、酒を控えて、代わりに水を一日二リットル飲むようにした。朝飯もきちんと食べるようにした。すぐに腹はへこんだよ。でも泳ぎは続けた。もう十年になる」

風呂場で歯を磨いたので、口臭はほとんどなかった。そのおかげで、出来損ないの村上春樹みたいな話でも最後まで聞くことができた。仕事そっちのけでジムに行かれたら、社員はたまったもんじゃないんじゃないか、と思った。そのお腹をもう一度触ってみてもいい、と聞き、深く息を吐きながら横向きになって、硬く引き締まった胸から腹を、時間をかけて撫でた。

「わたしもおなかとか結構やばいから、泳ごうかな」

「だったら紹介するよ。でも人気がある先生だから、予約をしないといけないな。芸能人でも彼に教わってる人が何人もいて、」

腹をそのまま下がると、ブリーフの縁に触れた。つるんと下肌触りに、シルクかな、と思った。宏美はそのまま手を下げ、勃起したペニスの先のほうを、爪で軽く引っ掻いた。最近手入れしていないから、布の表面に爪が引っかかる。喜田は小さなうめき声を漏らし、彼女の手首を掴んだ。宏美はその手を振り解いて、ブリーフごとペニスを強く握った。さっさと射精させて、眠りたかった。ブリーフのうえからなら、精子をひっかけられることもないだろう。あれの匂いは最悪だ。喜田はうめきながら、宏美のうえに覆い被さってきた。宏美は喜田の体を抑えて、ずっとおしゃべりするんでしょ、言った。

「私はおちんちんを触ってるのが好きなだけだから、気にしないで話を続けて」

宏美がそう言って微笑むと、喜田は目をぱちぱちさせて、何も答えずに、宏美の胸を鷲掴みにした。思わず、痛い、と言うと喜田は、ごめん、と弱々しく呟いて、手を離した。宏美は喜田に口づけすると、体を起こして、自分でガウンを脱いだ。

喜田はぎこちなく体を撫で回したあとで挿入すると、すぐに射精してしまった。色々としてみたが、二回目はできなかった。

もう寝ようと言い出したのは喜田だったが、諦め切れないらしく、触ったり、触らせたりをしばらく繰り返し、宏美はそのたびに眠りを中断されて相手をしなければならなかった。中途半端なまま終わってしまった場合は、次の日が怖い。喜田のお友達の歯医者さんは、三倍ぐらいに腫れあがった睾丸をさすりながら宏美に小遣いと車のキーを渡し、今日はズボンを履けそうにないから、一人で遊んできなさい、と言った。宏美は午前中アウディでドライブし、午後はアウトレットモールとセゾン美術館で一日を潰した。こんなのなら、愛人になってもいいと思った。とにかく、相手が満足してくれれば、そういうラッキーもある。

そのうちに喜田の寝息が聞こえてきた。ほっとして起き上がろうとしたが、それで目を覚ますといけないので、体の位置を遠ざけるだけにした。しばらく待って、指先でそっと腕を叩いてみたが、喜田は起きなかった。宏美は静かにベッドから降り、ハンドバッグを持ってトイレに入った。壁に寄り掛かってウイスキーを飲むと、胃が締まって、戻しそうになった。拳を強く握って、じっと堪えた。落ち着いてきたら、平瀬に電話をした。

平瀬はすぐに出た。緊張した声で、どうしたの、と言った。周りはまだ騒がしかった。ゲーム音楽が絶え間なく流れ、ときどき、女の笑い声が破裂する。円山町のマンションにいるのは間違いない。平瀬と一緒にいるのは、指名待ちのホテトル嬢だろう。お客さんが先に寝ちゃったから、なんかつまんなくて、と言うと、平瀬は、さっきよりは優しい声で、そうなの、でもねこういうことをしてるのを見られるとあまりよくないからね、おっさんは携帯電話に対して異常な反感を持ってるもんなんだ、だからもうちょっと我慢してね、明日は迎えに行くから、と言った。宥めすかすような声だった。心から出た優しさではなく、ホテトル嬢のご機嫌伺いばかりしていたのが、自然に出てしまった感じだ。宏美は、死んでいいよ、と言った。え、と平瀬が聞き返すのを無視して、電話を切った。シャワーを浴びたかったが、喜田が起きてしまうとまずいので、洗面所のタオルを水で濡らして、舐められた部分を何度も拭いた。どこを拭けばいいのか、正確に覚えていた。完全には拭いきれていなかったが、キリがないので、ベッドに戻った。部屋のなかは少し蒸し暑く、喜田は掛け布団を跳ね飛ばしていた。寝息に、ときどき唸り声が混じり、胸と腹が、静かに上下していた。ペニスは陰毛の陰に隠れて、ほとんど見えなくなっていた。着ていたガウンを探したが、喜田が下敷きにして寝ていたので、諦めた。枕元のスイッチで窓際の間接照明を消すと、裸のまま、横になった。そして曇りガラスの輪郭が青く滲む頃までぼんやりと目を開けていた。男の口臭がまた臭ってきたので、顔を背けていた。

翌朝、先に起きていた喜田は、頭からタオルを被って、ソファに深く腰掛けていた。喜田が吸っているタバコは吐き気がするような甘い香りがした。腰に巻いたタオルの裾から覗く向こう脛には、湿った体毛が貼り付いていた。

寝不足で、こめかみが張ったような感じがする。寝ているあいだにかいた汗がシーツを湿らせている。宏美は男の濡れた体を見てシャワー連想し、自分もシャワーを浴びようと思ったが、近くには着るものがなかった。宏美の服は、喜田が座っているソファの端に、丁寧に折り畳まれていた。脱いでかごに入れてから触っていないから、先に起きた喜田の仕業に違いない。好意でやったのかも知れないが、気味が悪い。昨夜着ていたガウンも見当たらなかった。喜田は、半身を起こしてあたりに視線を泳がせる宏美をちらちらと見ていた。ベッドから出たいから見ないで、という意味の微笑を作ると、喜田は俯いてしまった。宏美は、何も身に付けずにベッドから降り、背筋を伸ばすと、風呂場のある方へまっすぐ、歩幅を大きく、歩いていった。まだ体に血が行き渡っていないから、ときどき足元が覚束なくなった。どこに行く、と聞かれ、シャワー、とだけ答えた。すると喜田は、チェックアウトまであと少しだから、トイレだけにしておけ、髪を直したければ車の中でやれ、と言った。おどおどしているくせに、言葉遣いだけは横柄なのに腹が立った。宏美は踵を返して喜田のまえに仁王立ちになり、裸のまま見下ろすと、延長料金が惜しいならわたしが払うから、髪は部屋を出るまえに直したい、と言った。喜田は口を半開きにしたまま宏美を見上げ、ごくんと一つ、唾を飲み込んだ。何かしてこようものなら、鼻面を思い切り殴って、お友達にしたように、役立たずのペニスを蹴り上げてやろうと思った。喜田は俯いてしまい、なにもしようとはしなかった。宏美は用意してあった新しい下着をハンドバッグから取り出し、身に付けた。Tシャツの替えを忘れたことに気付いて、舌打ちした。下着姿でハンドバッグを探る宏美をじっと見ていた喜田の眉が、ぴくっと動いた。

清算のときにウイスキーを飲んでいたことがわかって、宏美が、眠れなかったから、と素っ気なく答えると、喜田は少し嫌な顔をした。エレベーターを降り、駐車場に通じる自動ドアが開くと、平瀬の姿が目に入った。ジーンズのポケットに左手の親指を引っ掛け、だらんと垂らした右手の指先にタバコを挟んで、向かいのホテルの壁に寄りかかっている。平瀬は宏美たちの姿を認めると、口元に微笑を浮かべ、吸いかけのタバコをジッポの携帯灰皿にねじ込んた。いかにも自然なふうを装っているが、朝からずっとここに立って、自動ドアが開くたびに、頬の筋肉を緩めては当てが外れて、舌打ちを繰り返していたのだろう。顔を上げた平瀬は宏美のほうに目をやったが、宏美はわざと視線を逸らせた。五〇メートルほど離れたところに、インディゴブルーのフォルクスワーゲンゴルフが停まっている。多摩ナンバーだから、平瀬の車だろう。バンパーの凹んだ部分が、朝日を鈍く反射している。薄紫色のサングラスをかけた喜田は、驚くほど大きな声で、よお、と言って片手を挙げた。それで、昨夜の失態が挽回できるかのような、不自然に大きな声だった。平瀬も、目じりにしわを寄せ、人懐こい笑顔で喜田に近寄り、握手をした。二人は古くからの友人のように見えた。

いくつか言葉を交わしたあとで、喜田は、車の近くに立って、リモコンでドアロックを解除すると、平瀬の横に立っている宏美に手招きして、助手席に乗るように言った。友好的な雰囲気に便乗しようとしているようだった。すると平瀬はそれとなく、二人のあいだに割って入った。

「参ったなあ、まあ喜田さんだから問題ないと思うんですけどね」

平瀬は、右手で携帯灰皿を弄んでいた。まだ微笑んではいたが、視線はしっかりと喜田を捉えることができていなかった。想定外の事態に慌てているんだろうと思ったが、客が女を送るのは珍しいことではない。平瀬は私情を挟んでいるのだ。少し嬉しくなった宏美は、

「わたしはいいよ、別に」

と言った。

平瀬はそれを無視して、困ります、ともう一度、押し殺した声で言う。宏美が初めて聞く声だった。

硬いこと言うなよ、と笑い掛ける喜田に対し、平瀬は愛想笑いを返すことすらせずに、真剣な顔つきで対峙していた。二人は、もう少しで鼻の頭が当たりそうなほど近付いていた。喜田の表情には余裕があったが、平瀬は、あと一押しで爆発してしまいそうだった。宏美はどうすればいいのかわからなくなった。ここで喜田とケンカしたら、あとでまずいことになるのは平瀬だろう。だから喜田はまだ笑っていられるのだ。と思ったら、平瀬も笑っていた。しかしこれは、捨て鉢の危険な微笑だった。宏美は、わたしはかまわないよ、と言おうとして、どもらずにはっきりと発声できるよう、口の中にある唾を全部飲み込んだ。そのとき、後ろから甲高い声がした。

「どうも、喜田さん」

突然の声に振り向くと、アロハシャツの胸をはだけた古沢がいて、がにまたで歩いてくる。喜田の表情がこわばった。後ろに撫で付けた髪がてかてかと光っている古沢は、白いスラックスのポケットに両手を突っ込んで立っている。例によって、ステレオタイプなチンピラファッションを、少し戸惑いながら、身にまとっているのが、かわいらしいと思う。

「古沢さん、でしたよね。どうしたんですか、みなさんお揃いで」

喜田の声は上ずり、額には汗をびっしょりかいていた。そりゃあ、初めて女を買ったところでトラブりかけたら、間髪入れず、いかにもヤクザでございますという男が出てきたら、びびるなと言うほうが無理な話だろう、と宏美は同情した。正直なところ、古沢の出現にほっとしたが、面白くなさそうに首を回していた平瀬は、同じホテルから出てきて、遠巻きに彼らを見つめる大学生風のカップルに気付くと、なんか用か、と大声を出した。驚いた男のほうが先に駆け出し、女があとを追いかける。平瀬が、まてコラァ、と叫びながら追いかけると、女は立ち止まって、恐る恐る振り返った、そして、すいませんすいません、と叫んで、何度も頭を下げた。男はすぐ近くの角を曲がって、姿を消していた。行っちまえこのアマ、と平瀬は手を振った。

「ガキのクセにやることだけやりやがって」

平瀬が道に唾を吐く。似合わないことをする、と少ししらけた気持ちで眺めていると、同じ気持ちだったのか、古沢は苦笑いしながら、喜田に答える。

「徹マンですよ、あんたと一緒でね」

「いやあ」

喜田は手の平で汗を拭いながら、愛想笑いをする。

「なにか不都合でもあったんですか?」

「いや、この子をもうちょっとお借りしたいと思いましてね、平瀬さんにお願いしていたんですよ。井上くんからは、そういうのもありって聞いてたんですが」

「なるほどね」

古沢は、口をすぼめて頷きながら、視線を泳がせて、何か考えている様子だった。喜田は、頬の端を緩めながら近づくと、財布から取り出した一万円札を何枚か古沢に手渡した。喜田の額から汗のしずくが顎を伝って落ちるのが見えた。平瀬もそれを見ていたらしく、視線をアスファルトのうえに落とす。

古沢は、喜田が差し出した一万円札を受け取ると、ろくに数えもせずに平瀬の手のなかに捻じ込んだ。

「先に戻ってるよ」

古沢はそう言って平瀬の肩を叩いた。平瀬は体を硬くして俯き、軽く頷いただけだった。古沢が行ってしまうと、喜田の表情から緊張が消えた。わかりやすい人だなあ、と宏美は思う。

平瀬は、宏美と落ち合う場所として、八王子インターを降りてすぐにあるファミリーレストランの名を言った。喜田に余計なことを言わせたくないのだろう。喜田は平瀬が見ているまえで、カーナビの目的地にその店を設定し、くどくどと店名を繰り返していた。宏美はずっと平瀬の目を見ていた。気付いているはずなのに、こっちを見ないのはずるい、と思った。

谷町ジャンクションから都心環状線を通過して首都高新宿線を下っているあいだ、喜田は、口を開かなかった。運転はあまりうまくない。長いカーブになると車がかくかくと揺れるのは、焦点が近すぎるからだ。教習所で、いちばんはじめに注意されることなのに。何度か渋滞にはまった。話しかけて追突でもされたら困るので、目を瞑って寝たふりをしていた。渋谷を出てからずっと、車内にはエアコンが入っていなかった。強い日差しのせいで、室内の温度は徐々に上がっている。宏美が座っているシートにも暖房が入っているような気がした。

急ブレーキを踏まれて、目を開けた。膝に乗せていたハンドバッグが、足元に落ちた。寝たふりをしていたのが、本当に眠ってしまっていた。ひどく汗をかいていた。宏美は夢を見ていた。自分の家までついて来た喜田は、ずかずかと上がり込んで、リビングで母親と話している。時々、笑い声が聞こえる。母親が、男に対してたまにする、媚を売るようなわざとらしい笑い声だ。それを聞くたびに、虫唾が走る。宏美は自分の部屋で息を殺している。さて、宏美は二階ですが、と母が言うのが聞こえ、本当に殺してやりたいと思う。わかりやすい夢だ、と溜息をついた。

喜田は、起こしてしまったね、ごめんね、と言った。高井戸の料金所だった。ETCのレーンに駐車している車があって、と早口で言いながら、なにがおかしいのか、喜田は笑っていた。

中央道に乗ると、喜田は過去のことをぽつぽつと話し始めた。ここからは乗り換えもないしアクセルを踏むだけだから、安心したのだろう、と思った。喜田の父親は弁護士で、自分も同じ道を進むものと漠然と考えていたが、遊ぶほうに忙しくて、大学では留年を繰り返していた。勉強をする気もないらしいしお前はどうするつもりなんだ、と言われ、じつは映画を撮りたいと答えたら、それなら日本にいたって仕方あるまいと、フランスに留学する費用を出してくれた。

「大学にいた頃に、何度か映画を撮ったことがあったんだ。遊び友達と、最初はおふざけだったんだけど、ちょっとテレビに出てる女優とかもいたし、かなり金はかけた。その頃、いまでいうクラブのイベントみたいなもののオーガナイザーみたいなことをやっててね、遊び仲間には映画監督の息子とかもいて、人材には事欠かなかったんだ。そうそう、キミもクラブにはいくんでしょ?今度僕の友達のイベントに……」

「どんな映画だったんですか?」

「どんなって、だから、……恋愛映画だよ。まあ、細かい部分は忘れちゃったけど」

宏美は欠伸を噛み殺した。

「フランスに行ったんだけど、親父がさ、小遣いくらい自分で稼げって言ってね、仕送りをあんまり送ってくれなかったんだ。それで仕方ないから、昔から知ってる人で、雑貨の輸入をしてる人がいたから、それを手伝ってたんだ。そしたらのめり込んじゃってね、気が付いたら今の仕事をしていたんだよ」

「そうなんですか。映画はもういいんですか?」

「いや、今でもね、暇ができたら撮ろうとは思うんだ。仕事中に脚本を書いたりしててね、そうだ、君にも出てもらいたいなあ」

「どんな映画を撮るんですか」

「まだ漠然としたイメージしかないんだけど、そうだね、近いところでは、北野武かな。北野武の映画を見たことがある?」

「映画は見たことないけど、『菊次郎の夏』の曲は好き。たまにピアノで弾いたりする」

「久石譲だね。映画も、絶対見たほうがいいね。彼は最初日本じゃ無視されてて、フランスでは評価されてたんだ。やっぱり日本はね、ダメだね。なにもかも遅れてるよ。知ってる?キタノブルーっていうの。北野武の映画に出てくるあの青い色は、彼でなければ表現できないんだ。フランスでは常識だよ。日本では一部の映画マニアしか知らないだろう」

「じゃあ、フランスに住んで、フランスで映画を作ればいいんじゃないですか」

喜田は何も答えなかった。車は追い越し車線を時速一五〇キロで走っていたが、左側の車輪は白線を跨いでいた。もともと左寄りを走っていたのは、左ハンドルの車に慣れていないせいかもしれない。どこかねずみっぽい喜田には、こんないかついのではなく、もっと小回りのきく国産のコンパクトカーのほうが似合ってる、あんな感じの、と、本線の少しまえを走っていた白い軽自動車を見ていると、それがぐんぐんと近付いた。危ない、と思ったが、軽自動車は接近してくるメルセデスには気付いていたようで、追い越される寸前に左側に寄って接触は免れた。肩から腕の筋肉を緊張させ、こわばった表情でこちらを睨み付ける背広の男が一瞬視界に入って消えた。ドリンクホルダーに置いてあるペットボトルの柄がはっきり見えた。見覚えのあるロゴと、背景色がしっくりこなかった。そうか、新味が出て、デザインが変わったんだ。追い越しが済むと、喜田はゆっくりと走行ラインを戻した。宏美はあくびを噛み殺した。

「大丈夫?」

「大丈夫だ。悪かった」

喜田の声は震えていた。

暑さは、耐え難いものになった。皮膚の表面に汗が滲んでいた。喜田の額にも玉のような汗が浮かんでいるのを確認してから、言った。

「暑いよ」

「後ろに水がある。まだ開けていない」

喜田は前を向いたまま答えた。冷房が故障しているのだろうか。昨日は大丈夫だったはずだ。しかし、こういう高級車のオーナーは、他人に車の故障を指摘されるのを嫌がるのかもしれない。まして、宏美のような、なにもわかっていない若い女に。後部座席に向かって体をひねったとき、襟口から体温と体臭が逃げていくのがわかった。うしろには、デパートの紙袋が一つ、無造作に置かれていた。水の入ったペットボトルは、座席に埋もれるように置いてあった。宏美はシートを倒して、それに手を伸ばした。

喜田は黙っていた。ハンドルを握る手に、力が入っているのがわかる。宏美はボルビックのキャップを開けてハンカチを湿らせ、額に当ててから、ああ、冷たい、と声に出した。いま彼女の命を握っているのは、ロクでもない四〇歳の見栄坊だったが、それも悪くない、と思った。

八王子インターで高速を下り、少し手間取って一般道に合流した。車は約束のファミリーレストランを少し過ぎて左入交差点を曲がり、旧街道に入った。裏から入るつもりかな、と思ったら、停まる気配がない。目的地を通過しました、と、カーナビの機械音が告げた。ちょっと、約束が違うじゃない、と言うと、喜田は、すぐに戻るから心配しないでいいよ、約束は守るから、と早口で答えた。

「約束は守るから」

誰ともなしに呟くような声だった。その声に引き摺られて横を向くと、喜田がうっすらと笑みを浮かべているのを見てしまった。

自分をコントロールすることができたのは、知っている道だったからかもしれないが、あともう少し走ったら、取り乱してしまっていただろう。車はすぐに、道沿いのコンビニエンスストアの駐車場に入った。十台くらいは停められそうな広い駐車場の奥に、菓子箱のような店がぽつりと建っていた。建物は、強い日差しに膨張しているように見えた。腰の辺りにホースを構え、水を撒いていた男の店員は、車が入ってくるのを見ると、その先を地面に向けた。喜田はぎこちなくハンドルを回して、建物の後ろに迫る雑木林に鼻先を突っ込むようにして、車を停めた。車が完全に停止すると、大きく息を吐いた喜田は、シートベルトを外して体を捻り、後部座席に置いてあった紙袋を掴んで、そのまま宏美に手渡した。予想していた重さはなかった。紙袋のなかには、上下セットの下着が入っていた。

宏美が薄いピンク色のショーツをつまみ出すと、

「心配しなくても新品だから、トイレでそれに着替えてきなさい」

と言った。

「これを着てやるの?」

おそらく外国製の高級品だが、とくに変わったデザインではない。それが逆に不安にさせる。

「違う、着替えてくればそれでいい。その代わり、いま君が身に着けているものを僕に渡せばいい」

そういうこと、と宏美は思った。紙袋には、ご丁寧にジップロックまで入っていた。下着が欲しいなら、最初からそう言えばいいのに、やっぱり変態の友達は変態だ。体の力が抜け、大きく溜息をついた。これ、お店で扱ってるんですか?と聞いたが、喜田は答えなかった。疲れた、早く帰って眠りたい、と思う。少しシートを倒した喜田は、両手を組んで腹のうえに載せたまま、じっとまえを見ている。開き直っているのが気に入らない。

「それならシャツも新しいのが欲しい。汗でぐしょぐしょ」

宏美はそう言って、黒いTシャツの襟口をつまんでパタパタと仰いだ。喜田は宏美の手の中に五千円札を捻じ込み、言った。

「必要ならこれで買いなさい」

「これも欲しいの?」

宏美が刺繍の蜘蛛を見せると、喜田は小さく首を振った。

宏美は白い紙袋とハンドバッグを持って車を降りた。アスファルトに撒かれた水をさらった風がさっと吹いて、最後の緊張がほぐれた。車は駐車ラインを跨ぐようにして停まっていた。店の陰に入ると、すぐに携帯電話を取り出して平瀬に電話をした。下着を欲しがっている、と言うと、平瀬は、蔑むような笑いを漏らしてから、言われたとおりにしておいたら、と短く答えた。

「コンビニで適当なの買ってあげたらダメかな」

「危ないよ、そういうのは。そういう変態は、どんな下着か覚えてるはずだから」

店に入り、トイレを貸して欲しいと言うと、レジにいた中年女は、どうぞ、こちらにありますから、と、わざわざ店の奥にあるスチールの扉まで案内してくれた。トイレは、薄暗い倉庫兼控え室のようなところの隅にあった。整然と積み重ねられた商品に囲まれて、鼠色のスチール机がぽつんと置いてある。ぼんやりと光っているのは、スチール机のうえに置いてあるノートパソコンのディスプレイだった。少し離れたところで、エプロンをした白髪の男が、パイプ椅子のうえで、腕組みをしたまま、うたた寝をしている。店のなかに比べて、少し蒸し暑い。

和式のトイレは掃除をしたばかりなのか床が濡れており、ジーンズを脱ぐときにひどく手間取った。踵も濡れてしまった。新しい下着を履くのは、濡れる可能性のある作業の回数を増やすことだから、省略した。脱いだ下着をビニール袋に入れ、ジッパーを閉めたときは、さすがに情けない気分になり、新品の下着は、汚物入れに突っ込んでおいた。予備のペーパーや洗剤が並んだ棚に置いたジーンズには、べったりと埃がついていた。それを払って、ドアノブに手を掛けたところで、思い出したように下腹を抑えてかすかな尿意を確かめると、ジーンズを下ろし、便器に跨った。これで解放されるという保証はない。顎の先から、汗の雫が落ちる。

店の中をぐるっと一周した宏美は、ファッション誌とハンドタオル、制汗スプレーを買った。レジの女は、今日は本当に暑いですね、と言った。宏美は笑顔で答えた。実はわたし、変態男に連れ回されているんです、と言ったらどうなるだろうか、と思った。いつの間にか店に入り、こっそり見張っていた喜田が、とつぜん銃を取り出して、女を撃ってしまうかもしれない。カウンターの後ろに吹っ飛ばされて、陳列してあるタバコと一緒に床に崩れ落ち、目を見開いたまま、ひくひくと痙攣している女を想像した。なんの音かとバックヤードから飛び出した男も、すぐに吹き飛ばされる。外で水撒きをしている若い男は、店のなかの惨状を見て、慌てて走り出すが、足をもつれさせて転んでしまう。それを喜田に気付かれて、命乞いする間もなく、後ろから撃たれる。

この人たちは殺したくない、と思ったので、言うのは止めた。

喜田はサングラスをして車に寄り掛かり、火のついたタバコを指に挟んでいた。宏美を見ると、タバコを地面で揉み消し、運転席に乗り込んだ。宏美はドアを開けて、下着の入ったジッパー付きのビニール袋を手渡した。送風口から、冷い空気が勢いよく噴出していた。嫌味の一つでも言ってやろうかと思った。もしこれで終わりなら、約束のレストランまで、一人で歩いて行こうと思ったが、喜田に呼ばれて、助手席に座った。喜田は、宏美が手にしているビニール袋を、じろじろと見た。自分のお金で買ったんだよ、とぶっきらぼうに言うと、喜田は首を振った。

「Tシャツは買わなかったのか」

「ああ、忘れてた」

もう一度店に戻ろうとすると、喜田は、いまさらそんなことをする必要はないだろう、と声を荒げた。宏美は、開けかけたドアを、力いっぱい閉め、渡された五千円札を突き出したが、喜田は受け取ろうとしなかった。宏美はコンソールボックスの蓋を開けた。ガソリンスタンドの領収書が丸めて突っ込まれていた。宏美はそこに、紙幣を丸めて放り入れ、呟いた。

「暑くてたまんないよ」

とつぜん、喜田が手首を掴んだ。宏美は反射的に腋を締め、腕を引き寄せたが、喜田の力は強く、体ごと引っ張られそうになる。宏美は腕の力を抜いて、手首を掴まれたまま、シートに凭れた。どこからか、小さなモーター音が聞こえる。

喜田は荒い息をしていた。顔はまえを向いたまま、手首を掴む手の力は弱まらない。なにか言おうと思ったが、声が出なかった。唾を飲み込むこともできない。顔から血の気が引いていくのがわかった。手首を掴まれたまま、正面を向いた。喜田の顔を見ていると、無様に取り乱してしまうかもしれなかった。しかし、正面を向いたままだと、だんだん気が遠くなってくる。雑木林には、パーツを剥ぎ取られた黒い原付が、破れた傘やビニール袋を身にまとって、腐乱しかけた動物の死骸のように横たわり、押し潰された丈の低い雑草は、微動だにしない。

「そんなにびびるなよ」喜田の声は震えていた。「俺はな、女に暴力は振るわない。でもな、お前の態度は我慢できない」

喜田の声を聞くと、体の感覚が少し戻ってきた。深く息を吸ってみた。大丈夫、まだ大丈夫、と誰かが言った。原付のスタンドが、日差しを受けて鈍く光った。とつぜん手が伸びてきて、頭に鈍い痛みを感じる。喜田に髪の毛を掴まれ、顔を向き合わせた。

「こっち見ろよ、ずっとそうだったな、おまえなんて眼中にないって顔しやがって、こっち見ろよ」

眼中にないんだから仕方ないじゃない、と思った。喜田は、髪の毛を掴んだ手はすぐに離したが、視線は、しっかりと宏美の目を捉えたまま、離さなかった。目が潤んでいる、と思った。泣きそうだ。それに気付いたのか、喜田の顔が醜く歪んだ。

「調子に乗るなよ、おまえはたまたまきれいな顔に生まれただけで、ほかにはなんの取り柄もないんだ。なにかありゃあ、こんなところで体を売ったりしてねえ。いいか、美人のくせに体を売らなきゃならないっていうのはな、ほかがどうしようもねえってことなんだよ。俺が知ってる女たちに比べたら、お前なんてクズのブスなんだよ。お前ぐらいの顔の女なんて、どこにでもいるんだ。お前より美人で、ずっと頭がいい女なんて、どこにでもいるんだ。お前なんてな、しょせん値段が付けられる女なんだ。本当にいい女はな、いくら金を出したって手に入らねえんだよ。いいか、覚えとけ、大人を舐めるんじゃねえ。調子に乗るんじゃねえ」

掠れた声ではあったが、言いたいことを言い終えると、喜田は宏美の手を離した。

「ごめんなさい」

ほかに言うべきことがあるだろう、と、恐る恐る腕を引っ込めながら、思った。喜田がどれだけ的外れなことを言っているのか、一言か二言与えられれば、きっちりとわからせることができるはずなのに、でも口から出てきたのは、力ない謝罪の言葉だった。悔しくて、涙が出そうになるのを必死にこらえた。しかし、鼻水は勝手に出てくるし、呼吸は深く、早く、肩が上下するのも抑えられない。

「いや、こちらこそ、乱暴をしてすまなかった。気にしないでください」

喜田の口調は、元に戻っていた。口元には、笑みすら浮かべていた。

喜田はレストランのそばで宏美を降ろして走り去った。宏美が降りるときには、気を付けて、またお願いね、と言った。宏美はこわばった笑顔で喜田の車を見送った。車が行ってしまうと、丸裸で立たされているような気がして、物陰に駆け込んだ。

一階が駐車場で、店は二階にあった。宏美は駐車場に入り、コンクリートの柱の陰でしゃがみこんだ。そのまま、深く息を吸った。目を開けていたが、なにも見えていなかった。軽自動車が二台停まっていた。それは、ピンクと白の塊で、ぼんやりと境界が解け、車種はわからないが、ナンバープレートの黄色だけ、目に突き刺さる。知らずに、腋をぎゅっと締めていた。まず、そこから力を抜こうとした。じんじんとうずく手首に意識を集中し、喜田がまくし立てた言葉を、ゆっくりと反芻した。強いストレスを受けたときは、体の力を抜いて、そのときの光景を、すべて受け入れ、言葉が、流れるままに、心が傷つくままにしておく。うまくやれれば、そのまま気分がハイになって、取り乱したりしないで済むようになる。ハイになったあとのことを少しでも考えてはダメで、それさえ気をつければ、そのまま人前に出ても大丈夫だ。宏美は自分の精神をコントロールする技術を、中学生のときに覚えた。学校のトイレで、自分の部屋で、数分まえとは別の人間に、生まれ変わることができた。仕上げに、ハンドバッグからウイスキーを出して飲もうとすると、人の気配がした。

「大丈夫ですか」

休暇中のサラリーマンだと思う。白いTシャツのうえに、青っぽい柄物のシャツを羽織っていた。下はベージュの短パン、サンダル。脛毛が醜く捩れている。せっかくの休日を有意義に過ごしたかったのなら、縁なしのメガネと七三に撫で付けた髪は家に持ち帰らず、会社のロッカーに入れておくべきだった。日射病でしょうか、と男は言った。具体的な病名を、勝手に言ってくれたのはありがたかった。宏美は、ハイ、でも大丈夫です、ちょっとお店で、休んでいきますから、と言って、立ち上がり、男に付け入る隙を与えないよう、早足で立ち去った。

二階に上がる階段の途中で、平瀬に電話をする。長いコールのあいだ、アルバイト募集の貼紙を見ていた。マジックで手書きされた、勤務時間応相談の応の字の、まだれが開きすぎて、心が吹き曝しになっている。留守番受付のメッセージが流れる。宏美は途中で電話を切った。バッグにしまう間もなく、すぐにコールバックがあった。運転中だから路肩に停めた、と平瀬は言った。一人になった、と言うと、平瀬は、もう少しもう少し待っていて、とだけ答え、自分がどこにいるのかも伝えずに、電話を切った。電話をバッグにしまいながら、もうこれで終わりにしよう、と思う。喜田にはわたしの下着が残った。わたしには何も残らない。フェアじゃない。

店内はエアコンが効き過ぎているくらいで、汗はすぐに引きそうだった。宏美はホットコーヒーを注文し、さっきのコンビニエンスストアで買った雑誌を読みながら、平瀬を待った。平瀬はなかなか現れなかった。喜田の車が、よっぽど速く走っていたのだろうと思った。平瀬の車は、時速一〇〇キロに近付くとエンジン音が車内を占領し、隣の声すら聞き取りにくくなる。

平瀬といるときの癖で喫煙席を頼んでしまったのに気付いたときには、席を替えるのが面倒くさくなっていた。若い母親が二人と、小さな子供が四人、通路を隔てた席にいた。これからプールにでも行くのか、ビニールの浮き輪を肩に掛けた子供たちは落ち着きなく、椅子のうえに立って店内を見回したり、軽く飛び跳ねたりしていた。二人の母親はタバコをふかしながら、面倒くさそうに子供を叱っている。二人は、宏美が店に入ってから席に着くまでを、無遠慮に見ていた。二〇代の後半くらいに見えたが、実際にはもう少し若いのかもしれなかった。申し合わせたわけではないだろうが、二人揃って、ディスカウントのジーンズショップでよく見かけるサーフ系ブランドの、くすんだ色のTシャツを着ていた。金色に染めた長い髪の毛が、乾いた肌にまとわり付いている。頬杖のつき方、タバコの吸い方、人目を憚らない大きな笑い声、二人とも、驚くほどよく似ていた。子供は母親の注意などお構いなしに、体全体で弾みをつけてビニール皮のソファを叩いたり、浮き輪の奪い合いをしたりしていた。子供が立てる騒音に負けないように、母親たちは声を張り上げて話していたので、話の内容は嫌でも耳に入ってくる。彼女らは、別の親子連れと待ち合わせているようだった。子供が聞いているだろうに、その一家の悪口を言い合っていた。どういう繋がりかはわからない。その一家は車を持っていないから、このレストランから先はどちらかの車に便乗してプールに向かう予定のようだった。駐車場にあった、かわいらしい軽自動車はこの二人のものだろう。どちらかが、あいつ来たら殺すべ、と言った声に、妙な艶やかさがあった。ひょっとして、二人ともまだ十代なのかもしれない。

一時間ほど遅れて平瀬が到着したとき、宏美は雑誌をテーブルのうえに開いたまま眠っていた。気が付くと、平瀬が目のまえに座って新聞を読んでいた。彼は宏美が寝ているあいだにフレンチトーストを注文し、すっかり冷めてしまった宏美のホットコーヒーを下げさせて新しいものを頼んでいた。親子連れは、すでにいなくなっていた。

「ごくろうさん」

平瀬はタバコに火をつけながら言った。宏美は、平瀬が来たら色々言ってやりたいことがあったような気がしたが、眠っている間にエアコンの冷気で体が冷やされたせいでなんだかだるくて、しゃべるのが面倒臭くなっていた。

「ごくろうじゃないよ。やらなかったから」

「どういうこと」

「勃起しなかったんだよ」

平瀬は眉ひとつ動かさずに、タバコの煙を吐き出した。隣のボックス席にいた若いサラリーマンが、ちらりとこちらを見た。こちらに背を向けている方はすぐに、通路のほうに広げたスポーツ新聞に目を落とした。浅黒い肌で、髪を短く刈り上げ、健康的な感じがした。もう一人は、スポーツ新聞の内容について話し掛ける声に短く答えながら、窓の外の途切れることのない車の列をぼんやりと見ていた。大きな道路を右折するとすぐに信号があるから、曲がりきったあたりの横断歩道上はひどく混雑していて、通行人は顔を寄せ合っている車の間を縫って進まなくてはならない。日差しを遮るもののない広い道路のずっと向こうにいる車が、ゆらゆらと揺れている。

「古沢さんは一緒じゃないの?」

平瀬は一瞬眉を顰めた。

「吉祥寺で降ろした。女に会いに行くって」

「福生に住んでるんでしょ。奥さんと子供がいるって聞いたよ」

「それが何だって言うの」

「その女の人って、ひょっとしてあたしの同僚かな?」

「そんなこと知ってどうするの」

平瀬は指に付いたメイプルシロップを舐めた。話しているあいだ、一度も目を合わせようとしなかった。

「会ってみたいなあ」

「会ったって意味ないでしょ」

宏美は、コーヒーにミルクを入れた。スプーンでかき混ぜると、魔法のように色が変わる。

「あの喜田って人、できればもう相手したくない」

「変態だから?」

「変態はみんな一緒。あの人は、なんか苛々する」

脅されたことは、隠しておこうと思った。それで、ふと左手首を見ると、痣がくっきりと残っていた。宏美はさり気なく腕を下にやろうとしたが、平瀬はそれを目ざとく見つけた。

「どうしたの、これ」

平瀬はそっと手首をさすった。留まっていた血が、静かに流れ出すような気がした。

「あの人が、興奮して、ぎゅっと掴まれた」

宏美は俯き、言葉と涙が一緒にこぼれた。涙はそれ以上出なかった。残りは、自分の心を湿らせているのだと思った。平瀬は少しのあいだ何か考えているようだったが、次からは断る、と、言った。宏美の顔が明るくなる。手を伸ばして、平瀬のフレンチトーストを小さくちぎり、口に入れた。平瀬は無言で、宏美のほうに皿を押した。宏美は上目遣いに平瀬を見て、笑う。

「あたしもなんか食べよっかな」

「べつにいいよ」

「そういえば、起きてからなにも食べてないんだよね」

宏美は、夏限定のデザートメニューを貼り付けた紙ナプキン入れをくるくる回した。平瀬はせわしなくタバコを吸う。いつもと様子が違う。古沢からなにか言われたのかもしれない。しかし、宏美には、昂ぶる自分の気持ちを抑えて、平瀬と同調させることができない。心臓が強く打ち始めた。

「なにが食べたいかな。ねえ、なにが食べたいかな?」

「知らないよ。勝手にしろよ」

宏美はナプキン入れを回す手を止めた。急ごしらえの壁に、小さな穴が開いた。だめだ、と誰かが言った。

「そうだ、ただでパンツ取られたよ。ブラも」

変態野郎が、と呟いて、平瀬は胸ポケットから、折り畳んだ一万円札を数枚出し、テーブルのうえに投げた。宏美はそれを掴み取って、ジーンズのポケットに入れた。下着を着けていないことが、いまさら気になり始めた。それが、どうしようもない欠落に思えた。

「これは渋谷から八王子までのドライブに付き合ってあげた料金でしょ。下着代は?」

「そうだね。あとで請求しとくよ」

「いますぐしてよ」

「あとでする」

「お気に入りだったんだから。同じのじゃないと嫌。いま電話して、それで帰りに買いに行く。いますぐ欲しい。ねえ、八王子でいいよ。いますぐ買いに行こう」

平瀬は初めて宏美の目を見たが、すぐにプレートのうえに視線を落とし、押し殺した声で言う。

「あとでするよ」

「どうせしないんでしょ。わかってるよ。それで全部なんでしょ。それ以上払わせたら、古沢さんに怒られるんでしょ。古沢さんが怖いんでしょ。同じ男なのにね、笑っちゃう」

宏美は一気にまくし立てた。平瀬の手が飛んできて、宏美の頬を打った。宏美はすぐに平手で打ち返した。平然とした顔をしているのが憎らしくて、続けて三回、頬を打った。近くにいた客が好奇の視線を送っている。こちらに背を向けていたサラリーマンはちょっと振り返ったが、すぐにまえを向いた。スポーツマンタイプのほうは、ちらりとも見ずに、軽はずみな行動を咎めるような視線を同僚に送った。彼の生活のなかで宏美と平瀬のような人間は異質な要素であり、それに少しでも触れたら職場と家庭の往復に自己完結した生活が跡形もなく崩れてしまうのだ。宏美はスポーツマンタイプの男を誘惑してやろうと思った。ずっと聞き耳を立ててたくせに、それで家に帰ったら、奥さんに見付からないように、あたしのことを想像して、一人でするつもりなんだ。ああいう、余裕ぶって見えて実はいっぱいいっぱいで生きている連中を、一人残らず破滅させてやりたい。

平瀬は打たれた頬を何度かさすったあとで、何事もなかったように残ったフレンチトーストを食べ始めた。宏美はテーブルに備え付けてあったソースの蓋をはずして、トーストのうえからかけた。平瀬は構わずに、ソースとメイプルシロップがたっぷり染み込んだフレンチトーストを頬張り続けた。ソースを全部かけてしまうと、備え付けの砂糖、塩、ミルク、コーヒーをかけた。浅いプレートからこぼれた黒い液体が、テーブルのうえに広がって、床にも落ちた。店員の足がこちらに向かいかけると、食べかけのトーストを皿に戻した平瀬はゆっくり立ち上がった。そして宏美の手首を掴んで無理矢理引き上げ、レジに向かった。

「ちょっと離してよ」

宏美は腕を振りほどこうと、もがいた。

「離せよ」

と言った。自分でも驚くほど、大きな声が出た。無関心を装っていた客まで、食事の手を止めて、二人を見ていた。平瀬の手はあっさり解けた。平瀬は不思議そうな顔で、ズボンに付いたソースの染みを見ていた。

お客様、大丈夫ですか、と、濡れ布巾を持った店員が駆け寄った。宏美はその隙に、店の外に駆け出した。平瀬は追ってこなかった。喜田の車が入っていった旧街道をそのままずっと走って、息が切れたので立ち止まった。遠くにコンビニの看板が見える。車だとあっという間だったのに、まだだいぶ距離がありそうだった。熱く湿った空気が、一気に体を包んだ。着ている服をすべて脱ぎ捨ててしまいたくなった。呼吸が苦しくなって、歩道にしばらくしゃがんでいた。すると、後ろからゆっくり近付いてきたインディゴブルーのフォルクスワーゲンゴルフが彼女の横で停まった。彼女は、引っ掻き傷に錆が浮かんだドアを開け、助手席に乗り込んだ。運転席の男に向かって、遅いじゃない、と言った。


例のコンビニエンスストアでUターンして、八王子の百貨店に行った。下着ではなく、水着を買うことにした。

宏美は胸元にリボンのついた白いビキニとサングラスを買った。平瀬は染みの付いたジーンズを履きたくないからと、外でも履けるような膝丈のトランクスを買って、それを履いたまま店から出てきた。そういうのって、なかはどうなってるの、落ち着かなくない?と聞くと、喜田はトランクスのウエストを引っ張って、内側に縫い付けたサポーターを見せた。よくできてるね、と宏美は言った。

それから、サマーランドに行った。買い物に時間がかかったせいか、家族連れは帰り支度を始めていた。アドベンチャードームという屋内プールに入り、プールサイドにタオルを敷いて座った。外に比べて人は少なかった。学校指定の紺色の水着を着た、小学校の高学年ぐらいの女の子たちが、波の出るプールで遊んでいた。白いTシャツを着た平瀬は顎を突き出して、嬌声を上げながら飛び跳ねている少女たちを眺めていた。

「かわいいね、あの子たち」

平瀬は、ああ、とか、うう、とか、言葉にならない声を出した。

「楽しいでしょ。毎日来たいでしょ。一人で来れないなら、付き合ってあげてもいいよ」

「いいよ、べつに」

「そんなこと言って、硬くなってるんじゃないの?」

宏美がからかうと、平瀬はむっつりとした顔で首を振った。そして、飲み物を買ってくる、と言って立ち上がった。

一人になって、色黒の二人組みを追い払ってから、喜田とのことを思い返してみた。それは遠いむかしの出来事のように思えた。平瀬と出会ったのと、どちらのほうがむかしかと考えてみたが、その二つは、まったくべつの世界の話のような気がした。考えを順に追っていったら、サイダーが飲みたい、と思った。平瀬がサイダーを買ってこなかったら、もう終わりにしよう、と思った。平瀬は、ちょっとそこまで行っただけのはずなのに、戻ってくるまでずいぶん時間がかかった。ようやく現れると、サイダーとコーラを手にしていた。一人で笑い転げる宏美を、平瀬は怪訝な目で見ていた。

「ずいぶん長かったね」

「トイレにも行ってた」

「あの子たちのこと忘れないうちに、一人でしたんでしょ」

平瀬は首を振って、Tシャツの襟から取ったサングラスを掛けた。

「当たりだったんだ。冗談だったのに」

「当たりとも外れとも言ってないでしょ」

しばらく黙っていた。屋内プールの中はほどほどに暖かくて、このまま眠ってしまえば気持ちいいだろう、と思った。伸びをして、横になる。

「もうやんなっちゃったよ」

宏美が言った。立膝で座ったままの平瀬は、喉を鳴らしてコーラを飲んだ。

「僕も」

「ね」

「二人で死のうか」

「やめてよ」

宏美はけらけらと笑った。平瀬は頬杖をついて、ぼんやりとまえを見ていた。宏美は、精気の抜けてしまった平瀬の背中に話し掛ける。

「ねえ、古沢さんとなんか話した?」

「べつに、なにも話してないよ」

「ホテル出るときに、ちょっと揉めそうになったじゃん」

「ああ、そのこと。まあ、気をつけてって」

「それだけ?」

「それだけだよ」

平瀬の言葉には力がなかった。宏美は体を起こして、水着の紐を結び直した。試着したときは気にならなかったが、少し大きかった気がする。じっくり選んだつもりだったが、慌てていたのだろうか。それとも、試着したときから、少しずつ自分が縮んでいるのかもしれない。そっちのほうが、リアルな気がした。平瀬はもうコーラを飲み終えて、ず、ず、と音を立ててストローを吸っている。少し人が増えたような気がした。かわいらしいピンクのワンピースを着た女の子が、まえを横切るときに、宏美をじっと見ていた。宏美はサングラス越しに微笑んだ。平瀬の目には、彼女は映っていないようだった。小学校の低学年ぐらいだから、ストライクゾーンではないのかもしれない。

「眠いの?」

「少しね」

「昨日、ずっと起きてた?」

「いや、少し寝た。でも、途切れ途切れだったから、」

平瀬は腰を下ろしたまま、伸びをした。急に老け込んだような気がした。

「ホテトルの人にいじめられてたの?」

「まあ、そんなところ」

「ひどいね」

「冗談だよ。僕は古沢たちと麻雀をしてた」

「あのさ、聞きたかったんだけど」

「なにを」

「今西さんって、ただのパートさん?」

「どういうこと?」

「なんとなく。どんな人かなって、ずっと思ってた」

「レン」

「え?」

「レン。源氏名はカレン。今西さんはね、僕が刑務所に入るまえによく行ってたクラブのホステスだった。旦那が警官だったんだけど、死んじゃったからホステスになった。そのまえは看護婦」

「旦那さん、殺されたの?」

「違うよ、肝硬変だか、脳梗塞だか、そういう感じの病気で。あの子が生まれて、ちょっと経ったころじゃないかな。両親が市営団地に住んでるから、そこに子供を預けて働いてた」

「へえ」

「僕が刑務所から帰って、どうしようか困ってたら、定食屋やったらいいじゃないって言ってくれて、ちゃっかり自分も収まって、それでクレッセントはかぐわしいコーヒーの代わりに、植物油の匂いが充満するようになったってわけ」

「それでよかったんじゃない?」

「そうかもね」

「レンさんってこと、今西さんに言っていいのかな?」

「一年一緒にやってて、レンが自分から言わないんだから、言わないほうがいいんじゃない」

「そだね。でも今西さんは、あたしのこと知ってるの?」

「あたしのことって」

「売春してるってこと」

「知らないはず。もっとも、君とレンの会話を僕が聞いてるわけじゃないから」

「あたしが言ってたらそう言うよ」

「そうだよね。でも、あいつは鋭いから。僕の性癖は知ってる」

「じゃあ、あたしとのことも」

「勘付いてるだろうね。野球場にいる君を見付けたときの僕のはしゃぎようは、尋常じゃなかったから」

平瀬の言葉は他人事のようだった。

「加藤さんは?」

「あれはただのバイトだよ。店に貼紙したらその日に来た。一番最初に来たやつを採用するつもりだったから採用した。そんな適当なのって言って、レンは嫌がったけどね」

「ふうん」

「好きなの?」

「まさか」

「そうだよね。でもあいつ、もてるよ」

「知ってる。お店にファンの子が来たことあるよ」

「付き合ってんだよ、AV女優と。名前忘れたな、わりと有名らしいんだけど。それで食わせてもらってるんだ」

「ひょっとして、閉店のときにたまにいる人かな」

「たぶんそれだよ。ミニワンの」

「なにミニワンって。コンビニ?」

「車だよ。ローバーの」

「ああ、ミニクーパー」

「正確には違うんだけど」

「べつにいいじゃん」

「あいつのギター、聴いたことある?」

「ない」

「下手だよ。いい年こいて、どれだけ速く弾けるかとか、そんなことばっかり考えてる。プロになりたいらしいけど、あれは無理だね。リズム感もぜんぜんないし、なにせ、音痴だ」

「あのさ、」

「なに」

「古沢さんって、いなきゃいけない?」

平瀬の表情が、少し硬くなった。

「まあ、喜田みたいな客がいるから、必要だね」

「あたし思うんだけど、古沢さんなしでも大丈夫なんじゃないかな。今日の人は無理だけど、大橋さんとかなら、大丈夫だと思う。結婚しようとか言ってるぐらいだからさ、個人的に契約しませんか、って、今度言ってみるよ。なんか家買って、パーティーやるって言ってたから」

「ダメだね。古沢みたいな連中には、そういうのが、一番ダメなんだ」

「ばれないようにすれば」

「古沢は怖いよ。一人殺してる」

「あなたも似たようなもんじゃない」

「違う。ぜんぜん違う。去年だけど、古沢の組のシマで、ガキがヤクを売ってた。外国人ルートだった。そいつらは高校を中退したばっかりで、まだ一八歳だった。あそこで遊んでる連中と同じぐらいの年だ。古沢はそのグループを全員呼び出して、素っ裸にして土下座させて、さんざんボコって、動けなくなってるのに、見せしめにリーダー格のやつを殺した。あいつは殺そうと思って殺してるんだ。僕みたいにキレて暴れてるわけじゃない」

古沢の姿が浮かんだ。禁酒法時代のマフィアのような、白いスーツ姿で、機関銃を構えている。そして、いつものように、すこし照れ臭そうにして、引き金を引く。

「違う、ナイフで刺したんだ。拳銃を撃てば済むのを、わざわざ自分の手でやるんだよ。そんなことできるやつは、ヤクザでもそんなにいない」

「ひょっとして、そこにいた?」

「聞いただけだよ。僕は組員じゃないから。そこにいたら、古沢とは普通に話できないと思う」

「ねえ、古沢さんとは、本当はどういう繋がりなの」

「言ったとおりだよ。まえの会社の同僚。古沢のほうが二期下だけど、大学でだぶってるから同い年」

プールのほうで歓声が上がった。二人同時に、声がするほうを見た。ずぶ濡れの人たちが蠢いているだけだった。腹の出た中年男と、蛍光ピンクのビキニを着たアジア系の女が水の中で抱き合っていた。

「あなたが銀行辞めたことと関係してる?」

「してない。あいつは二年で銀行を辞めて、再就職先がフロント企業だったんだ」

「ばれないと思うけどなあ」

「ばれるよ。まだ死にたくないでしょ」

「あなたは死にたいんでしょ」

「死にたいね」

「じゃあやっちゃおうよ」

「死に方ぐらい選びたい。ボコられるのは嫌だ」

「いい方法があったら死ぬ?」

「そうだね。痛くない方法がいい」

「お店はどうするの」

「どうとでもなるさ。親父が引き取るだろう。潰して駐車場にでもすればいいんじゃないか」

「アパートにすれば」

「なんで」

「べつに。また工場の人を相手にするなら、アパートがいいんじゃないかな」

「誰も会社のそばになんか住みたくないよ」

「そうかな」

「そうだよ」

「そうだ、セサミプレイス行ってきていい?くすぐりエルモ、探してるんだ」

「くすぐると笑うやつ?」

「そう。かわいいんだよ」

「懐かしいな」

平瀬は、懐かしいな、ともう一度繰り返した。

青梅街道沿いの焼肉屋で夕食をとった。宏美も、平瀬も、あまり話さなかった。店は家族連れで混雑していて、ろくに食べないまま、店を出た。

家に戻ったのは八時を少し過ぎた頃だった。リビングには誰もいなかった。夜中近くまで待ったが、母は帰ってこなかった。電話を掛けてみると、男の声が出た。福本です、と言った。

「ちょっと今日は遅くなるかもしれない。心配しないで、先に寝ていてください」

福本の声には、まえに会ったときのような、軽い調子はなかった。覚悟を決めたような声だと思った。もう少し、福本と話していたい、と思った。しかし、わかりました、と言って、宏美は電話を切った。宏美は部屋に戻り、ハンドバッグに入れたままだったスタンガンを取り出して、カチカチと火花を散らせていた。

それからしばらく、母は家に帰らなくなった。


昨日は寝なかった。朝になると、体中の水分が黒く濁っているような気がした。そうだ、それで、シャワーを浴びて、汗を流そうと思ったのだ。気が付いたら、時速八〇キロで、中央道を走っている。後続の車が、どんどん自分たちを追い抜いていく。もどかしそうに点滅するウインカーがバックミラーに写るのも、そろそろ見飽きた。運転する平瀬の頬は、まだ腫れている。

旅行に行くのは二度目だった。一度目は、ほぼ一年前、宏美がクレッセントでアルバイトを始めた頃だった。今西の息子が入院してしばらく仕事を休むことになり、無理をして穴を埋めるよりはと、そのあいだを丸々閉店にしたのだった。そのときは、数日まえから仕入れを減らして、出発の前日には店にある食材を完全になくそうと、日替わり定食をあれこれ工夫したり、余りもので簡単な夕食を作ったり、毎日が楽しくて仕方なかった。それが今回は、明け方に思い立っての出発だった。宏美は前日と同じ服を着ていた。今西には、高速道路の車中から携帯電話でしばらくの休業を告げた。今西に驚いた様子はなかった。今西のことはほとんどなにも知らなかったが、今西は自分のことをよく知っているのだろうと思った。西日が差し込む午後には、店はひどく暑くなる。確か今日の昼定職はホイコーロー丼だ。壁際に積み上げてあるキャベツやニンジンは、帰る頃には腐臭を発しているかもしれない。

平瀬は、古沢を抜いて、いままでの常連に話を持ちかけた。宏美は、まさか自分の言葉を真に受けているとは思っていなかった。その話はすぐに、古沢に伝わった。円山町のマンションで、大の大人が、まだ二十歳にもならないチンピラたちに小突き回される姿は、想像するだけでも惨めだった。殺されなかっただけマシだった。もっとも、一人で勝手に動き回ってるロリコン男を一人殺したって、なんにもならない。ひょっとしたら、平瀬はそこまで計算していたのかもしれない。ピンはねするだけしておいて、あの野郎、と叫びながら、平瀬は店のなかで暴れた。しかし、古沢のチンピラファッションと同じように、そこにはどこか、白々しさがあった。ほんとうは、古沢と切れて喜んでいるのかもしれない。

平瀬は力任せにカップを投げた。奥に通じるドアのガラス窓が割れた。近所に通報されるかもしれない、と思って、宏美は黙って暴れる平瀬を見ていた。途中で、母に携帯でメールを打った。遅くなると思う。気をつけてね、と、珍しく、返事が返ってきた。ひょっとして、家に戻ってるのかもしれない、と思った。明け方になっても、警察は来なかった。

車は甲府に向かい、高台にあるホテルに着いた。屋上に備え付けられた看板の電飾は一部消えたまま放置されていた。hotel evergreenと読めた。駐車場の端は柵もないまま土手に繋がり、一台のワゴン車が、危ういバランスで停まっていた。フロントで出迎えた歯並びの悪い男は、平瀬を坊ちゃんと呼んだ。案内された部屋は、殺虫剤の匂いがした。

部屋に運ばれてきた夕食は、焼いた海老、ステーキと、根菜のスープだった。いい加減に間に合わせた感じで、気持ちが萎えた。平瀬は少し箸をつけただけで、宏美の横に来て寄りかかった。まだ食べ足りなかったが、平瀬が腿のうえに頭を乗せ、顔を腹に押し付けてくるので、仕方なく中断した。足が痺れてきたので、そっと平瀬の頭をどかせると、平瀬はそっぽを向いてしまった。宏美は入り口横にある小さな洗面台で、歯を磨いた。軽くブラシを当てて、ペーストを歯のうえで泡立てるように動かす。歯茎まで、入念にブラシを当てる。

「ねえ、お風呂に行こう?」

宏美が声をかけると、平瀬は、一人で行っていてくれ、と言う。

「車酔いしたみたいで最悪な気分のときにまずい飯を食わされたから、いま風呂なんかに入ったらなにもかも吐き出してしまう」

平瀬は拗ねたように言った。

「そんなことないよ、おいしかったよ」

宏美は一人で部屋を出た。

風呂は露天ではなかったが、壁が全面ガラス張りになっていて、崖下の風景が一望できた。畑のあいだを横切る真新しい道路沿いに、パチンコ店や軽食喫茶が並び、明かりをともしている。車はたまにしか通らない。風呂場も、殺伐としていた。床のタイルがところどころ欠けて黒ずんでいたし、湯船の底はぬるぬるとしていて、長くいたいという気にはならなかった。実験用の遺体を保管しておく場所があるとするなら、こういうところだろうと思った。知り合いの医学生が、実習用の遺体とは一年間付き合うのだと言っていたのを思い出した。誰もいないのをいいことに、浴槽の真ん中で、仰向けになって浮かんでみた。手足が水をかく音が、直接鼓膜に響いてくる。決していい気分ではなかった。しかし、次の行動を起こしかねていた。しばらく浮かんでいて、脱衣所に人の気配がしたので、体を反転させて立ち上がった。シャワーで簡単に体を洗うと、すぐに風呂を出た。脱衣所には、幼稚園児ぐらいの小さな男の子を連れた中年の女がいた。ひょっとしたら、男の子は息子ではなく、孫かもしれなかった。男の子の服を脱がせたばかりの女は、宏美に軽く会釈をし、お一人ですか、と聞いた。

「いえ、二人です」

「旦那さんと?」

「はい」

「そう、それは結構なこと」

宏美は言葉を返す代わりに、俯いたまま微笑んだ。男の子は裸のまま突っ立ち、泣き出しそうな顔で、宏美を見ている。なんとなく、嫌な感じがあった。女は、ええ、とか、ねえ、とか、笑いを含んだ声を出しながら、白いトレーナーを脱いだ。

「そうそう、お酒はお好きかしら」

「まあ、それなりに」

「そうですか、それはよかった。この近くにね、ワイナリーがあるの。ぜひワイナリーに行ってみてくださいね」

地元の人だろうか。それならばなんで、わざわざこんな寂れたホテルの風呂に来ているのだろうか。宏美が疑問を消化しているあいだ、女は服を脱ぐ手を止め、どうでもいいような話を続け、男の子は裸のまま、体を拭く宏美を見ていた。宏美が浴衣を着終え、ドライヤーをかけるために鏡のまえに立つと、女はようやく、着ていたものを脱ぎ始めた。男の子は、まだ宏美のことを見ていた。

部屋に戻ると、平瀬はとろんとした目付きで、布団を敷いた部屋の真ん中に胡坐をかいていた。タバコの匂いがこもっている。縁側のガラステーブルに置かれた灰皿には、タバコの吸殻が二本、転がっていた。灰がそのままの形で残っている。

平瀬は、ああ、宏美ちゃん、いいお湯だった?と微笑む。

「ダメ。汚いし、最悪」

宏美はそう言いながら部屋のなかを見回した。畳のうえに、パイプがあった。やっちゃったな、と思った。宏美は平瀬の横に座って、焦点の合わない目をじっと見た。

「ねえ、あたしがいないあいだ、なにしてた?」

宏美は平瀬のまえに正座して、聞いた。平瀬は口をすぼめて、首を振る。

「ちょっとお酒を飲みすぎたんだよ、さっきのメシのときのお酒が、風呂なんかに入ったから、回ってきたんだ」

「お風呂なんか入ってないじゃない」

「入ったよ。いや、わからないよ、入ったんじゃないの?でも、どうだろう、入ったんだ」

「ねえ、正直に言ってよ。あたしこんなのやだよ?」

「すっげえ、きれいだよ。ちっちゃかった頃と変わらないよ。宏美ちゃんはすっげえきれいだ。だからおれは宏美ちゃんが大好きなんです」

覚醒剤だろう。高校生の頃、友達に誘われて行ったイベントで、こういう目をしている人間を何人か見た。狂ったように踊って、しばらくすると、床にへたり込んでいた。宏美も勧められたが、断った。これは弱い連中のやることだ、と思った。自分が強いかどうかはわからないが、ドラッグに関しては、強い人間だ、と思う。それっきり、その手のイベントには行かなくなった。

平瀬は、宏美の首に巻きついて、そのまま押し倒した。宏美は抵抗しなかった。ヘアピンを抜いて、縛っていた髪を下ろす。安いシャンプーの匂いが広がる。

平瀬は、いままで宏美が相手をした男の名前を一人一人挙げ、彼らがまずどこに触ったのか、どんなふうに触ったのか、ペニスの大きさはどのくらいだったか、どのくらいの時間入っていたのか、執拗に聞いてきた。少しでも曖昧な返事をすると、甘えた声で、なんでもいいから、嘘でもいいから、はっきりとわかるように言ってくれ、と言う。

「嘘でもいいんだよ、」

平瀬は相手の男のやり方を聞きながら、子供のような真剣な顔で、まったく同じ動作をなぞった。しかし、平瀬のペニスは一向に硬くならなかった。そんなことはどうでもいいじゃないか、と、昨日の夜も、宏美は言った。しかし、平瀬は子供のように首を振り続けた。あんたロリコンなんだから、一生小学生を追っかけてればいいじゃない。宏美が言うと、平瀬はいつかのように、狂ったみたいに笑った。

失神するまで首を絞めてくれ、と言った男がいる、と言った。すると平瀬は仰向けになって、少し顎を上げて目を閉じた。宏美は平瀬の腹のうえに跨り、親指の交差した部分を喉仏に押し当てて、体重を預けた。平瀬の顔が、見る見る赤くなっていった。平瀬は口を開け、下を少しだけ突き出すと、げえげえと言い始めた。宏美はそれでもかまわず、足で平瀬の両腕を抑えて、喉仏に力を加え続けた。気が付くと、平瀬はかっと目を見開き、宏美を見ていた。咄嗟に、宏美は平瀬の首から手を離した。宏美が体のうえから降りると、平瀬は体を丸めて激しくむせ返り、だらだらと涎を垂らした。宏美は両手を後ろについて何とか体を支え、その様子をじっと見ていた。心臓が激しく打っていた。平瀬はふらふらと立ち上がると、洗面所に行き、胃のなかのものを吐き出した。それが一通り済むと、大きな音を立てて顔を洗い始めた。

宏美は服を着て、縁側に行った。ボイラーの音を聞いている気がした。カーテンを閉めると、ガラステーブルのうえの、タバコの灰を崩した。籐椅子に座る気は起きなかったから、布団のうえに、膝を崩して座った。平瀬がタオルで顔を拭いながら戻ってきて、裸のまま、宏美の横にぺたんと座った。平瀬は泣いていた。宏美は言った。

「ずっとあなたのこと考えてたよ、あたし、高校のときから、いろいろな大人と付き合ってたけど、ずっとあなたのこと、考えてたよ。だけどそれはね、好きだとかそういうのとは違うんだっていうふうに、最近思った。よくわからないうちにあなたが最初の人になったから、そのことが、わたしのなかでうまく収まりがつかなかっただけで。でもいまは、収まりをつける必要なんてないんじゃないかって思うようになって、それで、とても視界がクリアになった気がする」

平瀬は、びしょぬれの顔で、宏美の体に絡みついた。いやだ、と宏美は体を硬くした。平瀬は口を耳元まで寄せて、臭い息で喘ぎながら言った。

「おまえのせいだ」

平瀬はシャツのうえから宏美の胸を鷲掴みにした。

「こんなにして。おまえらみんな勝手だ」

「馬鹿じゃないの。普通の男は膨らんでたほうが嬉しいの。あたしはあんたのために生きてるわけじゃない」

「おまえに会うんじゃなかった。宏美は僕の空想のなかにだけいればよかったんだ。こんなになった宏美に会ってしまって、もう生きる気力が無くなった」

「そんなの、あたしに関係ない。あんただけ特別じゃない。あたしに勝手な妄想押し付けて、勝手に悩んでる男なんていくらでもいる。あんただけ特別なわけじゃない」

宏美は痛みをこらえて笑みを浮かべながら、平瀬の様子を見ていた。昔と少しも変わらない、幼い顔。黒目勝ちの、大きな目。子供のまま大人になりました、と触れ回ってる顔。無意識に逃げようとしていたらしく、気が付くと、縁側との境界まで来ていた。平瀬の手に力がこもった。胸に鋭い痛みが走る。宏美はジーンズの尻ポケットからスタンガンを取り出し、平瀬の足の付け根に押し当てた。

あ、と言って、平瀬は後ろに跳ねた。宏美は後ずさりして、平瀬から離れた。平瀬はしばらく蹲っていた。

「ごめんね、痛かったから」

平瀬は片手をひらひらと振った。宏美は洗面所に行き、濡らしたタオルを絞ってきた。平瀬はタオルを受け取り、体を丸め、顔を歪めながら、股間にタオルを当てた。しばらくすると、部屋の隅まで這っていった。変な匂いがした。布団がびしょ濡れだった。平瀬は小便を漏らしていた。

「宏美」

呼びかけられて視線を合わせると、平瀬はさっと目を伏せた。

「一緒に死ねないかな」

「いやよ。本気で嫌」

「そうだよね」

平瀬は財布を投げてよこした。

「一人で帰って」

「うん。わかった」

宏美は財布に入っていた一万円札を、すべて抜いて、畳のうえに投げ捨てた。それからフロントに電話して、タクシーを呼ぶように頼んだ。こうなることがわかっていたかのように、タクシーはすぐに到着した。宏美はタクシーを待たせたまま、派手めに化粧をした。わたしは商売女で、急な客が入ったから、慌てて出て行かなければならない。そう思った。こんなときに見栄を張っても仕方ない。しかし、なんでもいいから、筋書きをでっち上げなければ、家まで持ちそうになかった。平瀬は布団のうえでパイプを吸っていた。宏美はそれを足で蹴って跳ね飛ばした。平瀬はパイプを持っていたときのままの姿勢できょとんとしていたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして泣き出した。

日付が変わったときに、宏美は部屋を出た。平瀬は布団のうえで、仰向けになっていた。すぐ横には、自分で作った水溜りがある。行っちゃうよ、と声をかけると、笑顔で手を振った。

「気を付けて」

「ありがと」

フロントには、来たときに二人を出迎えた男がいた。面倒臭がりもせずに、宏美を正面玄関まで案内し、車が出るまで、ずっと頭を下げていた。

青梅と言っても、タクシーの運転手は別に驚いた様子もなく、車を走らせた。初老の男は、AMの陰気な深夜番組を、熱心に聴いているようだった。真っ暗な道だった。

目を閉じていると、カバンのなかで、携帯電話が唸っていた。京都の女だった。無視していると、コールは止んだ。しかししばらくすると、また鳴り出した。宏美は電話に出た。

「なに」

「あ、出てくれた。うれしー」

「なによ」

「あ、怒ってる?ごめんね、ほんとに。でもね、うれしいよ。いまのね、なによっていうのが、すごい友達っぽかった」

宏美は鼻から息を漏らした。女は、それを聞き逃さなかった。

「あ、笑った。笑ったよねえ、いま」

「うん、笑ったよ」

「あは、マジだ」

運転手が、ラジオの音量を下げた。それほど大きな音で聞いていたわけではなかった。ラジオの音が気になっているのは運転手のほうだ。気を遣うつもりなら、音量を上げるべきだ。

「お父さんいるの、そこに」

「んーん、いないよ。もう別れたから、会いたくても会えない」

「そう」

「悲しかったよお、いきなりだもん。もう会えないって言われた」

「お金もらったんでしょ」

「でもあたしはちょっとしかもらってないよ。ほとんどあいつに持ってかれた」

「そう」

「ねえ、いまどこ?」

「中央道」

「チューオ?」

「高速道路。タクシーで移動中」

「こんな時間に?夜遊び?終電ないの?」

「そう」

「へえ、遊んでるんだ、すごいね。お泊りしないの」

「する予定だったんだけど、やっぱり帰ることにした」

「なんで?ヤバめの人だったとか?」

「そう、ちょっとラリってたから。付き合いきれないって」

「やばくない、それ、やばくない?ケータイとか教えてないよね?」

「あたりまえじゃん」

「よかった。ねえ、遊んでたのってやっぱり、渋谷とか?六本木とか?」

「まあ、そのあたり」

「ウチんとこ田舎だからさ、一回行ってみたいよ。今度遊び行ってもいい?」

「お父さんのお金で?」

「そんなぜんぜん。全部治療費だもん。治療費しかもらってないんだよ、ほんとうに」

「そう」

「普通に給料もぜんぜん残ってないしさ、あたしお金ないんだよ、マジで、死にそうだよ」

「また誰か捕まえて事故れば?」

「あ、そういうこと言うかなあ?あたしはね、ただリュウちゃんと一緒にいたかっただけで、悪いのはノリオなんだよ、みんなノリオが持ってっちゃって、あいついま、連絡取れない」

「ほんとに?ひどいね」

「でしょ?もう、見つけたら、ぜったい、殺してやる」

「殺すなんて言っちゃダメだよ」

「あ、ごめんなさい」

「いいんだけど、べつに」

「怒ってないよね?」

「怒ってないよ」

「よかったあ。ねえ、宏美ちゃんはどんな友達と遊んでんの?」

「べつに、普通だよ」

「そうなんだ、なんかね、すごいかっこいい人たちと、いつも一緒にいる気がするよ」

「そんなことない。みんな地味だよ。地元でしか会わないし」

「でもさ、地元っていったって、すごいんでしょ?どこらへんなの?」

「青梅」

「オーメ。わかんないなあ」

「青梅マラソンとか、知らない?」

「マラソン?いろんなところでやってるからわからないよ」

「あたし、出たことあるんだよ」

「そうなんだ、すごいすごい。宏美ちゃん、足速いの?」

「むかしはね、速かった。いまはダメだな」

「ふうん。ねえ、オーメって、どのへんなの?」

「東京のずっと西。横田基地とかあるじゃん」

「ヨコタキチン?なにそれ」

「ああ、えっと、とにかく都心からは遠いよ。ねえ、大学出てるって、ウソでしょ」

「そんなこと言ったっけ?」

「覚えてないならいいよ」

「ごめんね」

「あやまってばっかり」

「だって怖いんだもん、宏美ちゃん」

「怖くないよ」

「ねえ、あたしあとで、パソコンでオーメって調べてみるよ」

「調べたってしょうがないよ、ほんとなんにもないんだから」

「ふうん、そうなんだ。でもウチよりは楽しそうだよ」

「なんにもないよ。チェーンの居酒屋とカラオケボックスぐらいしかない。あとはおじさん向けのスナックとかキャバレーとかしかない。ちょっとおしゃれなバーがあっても、チェーン店だしね」

「ほんとに?ウチと一緒だね」

「だいたい一緒だと思うよ」

「そうなんだ。ねえ、まえも言ったけど、あたしたち、友達になれるよね」

「あたしは別にいいよ」

「友達だよね、ほんとだよ」

「そういえば、名前知らなかった」

「かっこ悪いから、言いたくないよ」

「いいじゃん、そんなの」

「まつこ。平仮名で、まつこ。マツってみんな言うの」

「わかった。携帯にメモリーしておくよ。じゃあまたね、マツ」

「またね」

女は電話口で、ずっと泣いていた。

駅のまえでタクシーを停めた。平瀬のことが心配になった。タクシーの運転手に番号を聞き、番号非通知でホテルに電話した。タクシーはしばらく停まっていた。また戻るとでも思ったのだろうか。宏美はこちらを見ている運転手に、なんどか頭を下げた。そのとき、電話が繋がった。

「はい、ホテル・エバーグリーン」

電話に出た男は、眠たそうな声で言った。

「さっき平瀬といた者です。だいぶお酒を飲んでいたみたいなので、ちょっと見てあげてもらえますか」

男は、はあ、と気のない声を出した。電話が保留になり、「八〇日間世界一周」が流れていた。宏美は電話を切った。しばらく考えてから、コンビニエンスストアの明かりの下まで移動し、リダイアルした。

「はい、ホテル・エバーグリーンです」

「すいません、先ほどの者です。電波の調子が悪くて。平瀬は大丈夫でしたか」

「はあ、ちょっと疲れてるみたいですが、いまは眠っておられます」

「なにかおかしなところはなかったですか」

「おかしなところ」

男は鸚鵡返しに繰り返したきり、言葉を継がなかった。え、と宏美は言葉を詰まらせた。駅前にある交番の明かりが、目に入った。軽く頬を叩いてから、ゆっくりと言葉を出した。

「あの、普通に酔っ払ってるのと、少し違うと思ったんです。それで、ちょっと心配になって」

「ああ、そのことでしたら、大丈夫です。いつものことです。いつも、具合がよくなるまで、ゆっくりして頂いております。私が平瀬様のお車を運転して、お送りすることもあります。ご心配でしたら、また明日、連絡差し上げるようにお伝えしますが」

「ああ、それならいいです。たぶん、戻ってきたらすぐに会うと思うので。ありがとうございました」

横断歩道を渡っている途中で、ふと立ち止まった。道路を挟んで立つ商店の明かりはほとんどすべて消え、等間隔で並んだ街灯が、奥多摩まで続くまっすぐな道のアスファルトを照らし、凪いだ海のようなグラデーションを作っていた。うつろな自分が、そこに溶け込んでいくような気がした。

なぜだかわからないが、いま、このときのために、毎日同じ時間にご飯を食べたり電車に乗って大学に行ったりたまにセックスしたりしているんじゃないか、と思った。ひどい気分のはずなのに、唐突にこんな感じが訪れてくるのが妙だった。街中で、擦れ違った人の香水のせいで、やる気の起きなかったテスト勉強に前向きになれたりすることがあって、それの拡大版だと思った。テスト勉強とか、嫌なことがはっきりしていれば、この感じは、その一点に向かうが、いまは、なんとなく嫌なことがたくさんあって、それは嫌なことなのかいいことなのかさえよくわからなくて、だから、この感じも、ぼんやりと、広がる。宏美は深呼吸をした。この感じは、ちょっと残念だけど、もうすぐ消えてしまう。でも消えてしまうとしても、追い求めたりしてはいけない、というか、追い求めるとか、そういうこととは違う種類のものなんだろう、と思った。ただひたすら、訪れるのを待つ。それしかない。

青信号が点滅し、小走りに駆けた。京都に行ってもいいかな、大学が始まるまでまだひと月あるし、と思った。一年間、男たちの相手をして、手元には二〇〇万残った。両親に返すのは、来年のほうがいいだろう。ウェイトレスのアルバイトをこつこつやったとしたら、月八万、半分貯金していたとして、一五〇万溜めるには、丸三年。

とりあえず、マツと話しに、京都に行って、それからどうしよう、と思った。

またなにか、いいことが起こるのを待とう。待つとはなしに。

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