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【note創作大賞2024応募作品】Monument(第12話)
第四章(1/3)
眞琴
シューマン作『見知らぬ国と人々について』。
この曲名を知れたのは、半年前。
この喫茶店でのことだった。
「酔い醒ましがてら、お茶でもどう?」
脩さんから誘われたのは、五度目の体験ボランティアの終了直後。
断り切れずに出席した打ち上げの、お開き間際のことだった。
「近くに、友人がやってる店があるんだ」
ピンときた。あいまいな返事ではぐらかし、先延ばしにし続けていた、正規ボランティアへのお誘いだ。
過去のボランティアで、わたしはありとあらゆる作業に首を突っ込み、どんな些細な情報も見逃すまいと、正規ボラさんたちとの親交に努めていた。
それは脩さんはじめ、親しく接してくださるボラさんたちが思っていてくださるような、バラ園ボランティアへの情熱や熱意とは程遠い。
わたしは、みんなを欺いている。堪えきれずに、視線が落ちた。
「ああ、いや、誤解しないで。私には妻もあるし、子供も三人、もうじき初孫だって……」
ほんのりとお酒に染まった脩さんの顔が、さらに赤みを増した。
「ありがとうございます。ご一緒、させてください」
どこから、そんな言葉が出せたのか。今も不思議でならない。
店に着くなり、脩さんとマスターは「脩ちゃん」、「むっちゃん」で呼び合った。二人は高校の同窓だそうだ。
師走も近い、肌寒い晩のこと。ほかにお客の姿はなく、わたしは脩さんと並んでカウンターに掛けた。
「酔い醒ましに寄ったんだ」
「言われなくても、顔見りゃあ判るよ」
そんなやりとりの間にもマスターは手を休めることなく、わたしの前には大きめのカップが置かれた。
甘い香りが立ち上る。ウインナーココアだ。
「寝つけなくなると、いけませんからね」
マスターが、目尻のしわを一層深く刻んで、片目をつむった。
脩さんには、なみなみとエスプレッソが注がれる。
「たいして強くもないくせに。飲み過ぎなんだよ、おまえは」
なんて、悪態と一緒に。
マスターもカプチーノを淹れると、素敵なガラス張りのドアに、カーテンを引いた。
マスターは音大に進み、方々でピアノ講師を務めた後、お父さんがやっていた、このお店の後を継いだ、と語った。
「未練ですかねえ」
お店の隅に、小傷にまみれたピアノがあった。
「そんな――とっても素敵です。このお店」
カウンターの隅で、回っていたレコードが終わった。
「なにか、お好みの曲でも、おかけしましょうか?」
「いえ、わたし、クラシックって全然わからなくって……」
言いよどみながら、思い直した。
これはチャンスなのかも知れない、と。
「あの……シューベルトかシューマンだったと思うんですが、『こどものなんとか』っていう曲、ご存じありませんか?」
マスターが、小首を傾げた。
「三分くらいの短い曲で――子供の頃、友人が弾いてくれた、思い出の曲なんです」
「たぶんシューマンでしょう。ピアノの小作品を、いくつも遺しています」
「聴かせていただけませんか?」
「うーん。『子供のためのアルバム』という作品集だけでも、四十曲ほど、あったかと思います。印象に残っているフレーズはありませんか?」
メロディーだけなら、そらで通せる。
歌おうか?
どうしても、曲名が知りたかった。
でも、人前で歌うのは……。
ためらうわたしに、マスターは、目顔でピアノを指した。
「眞琴っちゃん、ピアノなんて弾けるんだ?」
「――脩ちゃん!」
マスターが唇に指を立てながら、スツールを降りる。
ピアノの蓋を開け、色褪せた臙脂のフェルトをとると、イスを引いた。
「――どうぞ」
……どうしよう。
いまさら断れなかったし、ほかにお客さんもない。
覚悟を決めて、わたしはピアノに向かった。
正しい音程は判らない。
真ん中の「ド」からはじめて、二音目にあたるキーを、当てずっぽうに探し出す。
そこまでは、なんとかなった。
三つ目の音が、みつからない。
……違う。
……これも。
……また、はずした。
ようやく三つ目のキーを探し当てると、続くメロディーは、マスターの指が軽やかに綴った。
「この曲。ですか?」
マスターが、もう一度、なめらかに旋律をなぞった。
「シューマンの『子供の情景』。その第一曲です。懐かしいなあ。私もその昔、練習したものです」
わたしに替わって、マスターがピアノの前に腰掛ける。
「お友達は、とてもピアノに、ご執心だったんでしょう。シューマン自身が語ったそうです。これは『子供の心を描いた、大人のための作品集』なのだと」
ピアノが、流れた。
頬に熱いものが伝うのを、脩さんはカウンターでそっぽを向いて、マスターは静かにピアノを弾きながら、見ないふりをして、見守っていてくれた。
馨
眞琴に連れられ移った先は、駅前の個室居酒屋だった。
時間が早い。まだ客の賑わいはなく、僕らは曲がりくねった廊下の先の、突き当たりの部屋に通された。
濃いアルコールが欲しかった。
シングルロックを飲み干すと、二杯目はダブルで頼んだ。
急に強まった風雨が窓を叩き、遠い黒雲が稲妻に光る。
「ねえ、なにを探していたの? 今日の帰り道」
ウーロン茶の氷をかきまぜながら、眞琴が口を開いた。
「隠さないで話して。なにを聞いても、絶対、驚いたりしないから」
別に隠したいわけじゃあない。どう説明したらいいのか、言葉がみつけられないだけだ。
「さっき言ってたマンションって、これのこと?」
眞琴は、スケッチブックをひろげると、僕に向けて見せた。
それは、奇妙な絵だった。
子供みたいな、おおらかな構図が、精緻な大人の筆遣いで描かれている。
交差点を、行き交う車列。
軌道を進む、モノレール。
それを支える、二十三番の橋脚。
中央の建物には最上階だけ、カットモデルみたいに壁がなく、室内の様子が細かく描きこまれていた。
風に膨らむ、レースのカーテン。
オルガンみたいな、平たいピアノ。
空には、一筋の飛行機雲。
なにもかも、すべて。夢に見る光景、そのままに。
「……これは」
「やっぱりね。これ、だったんだ」
「……ああ」
「これを探しに来たの? 毬野は」
うなずいた。
「そう――よかった」
僕は、この旅のいきさつを、かいつまんで聴かせた。
毎年、初夏にだけ繰り返される夢。
モノレールを見下ろす、マンションの一室。
ピアノを――さっきの曲を弾く、髪の長い見知らぬ女性。
「わたしも見てた、この夢――ずっと、前から」
「この絵の夢を?」
「うん、香澄。だと思う」
「――森ノ宮?」
「そう。図工の時間に『将来、住みたい理想の家』って課題があったの、憶えてない?」
どうだったろう?
「男の子はボール紙で模型を作っていたから、絵には憶えがないんだと思う。これはね、そのとき香澄が描いた絵を、思い出しながら描いたんだ。夢に見る情景も織り交ぜて」
ああ、そうだった。僕は模型に、青いセロハンで窓を貼った。
「香澄ったら、あんな素敵なお屋敷に住んでいたのに、マンションみたいなの描いていたから、訊いてみたんだ。そしたらね『病院暮らしが長かったんで、ビルの中のほうが落ち着くみたい』って言ってた」
橙色の影絵になった、森ノ宮の姿が浮かぶ。
「さっきの曲は、バースデーパーティーの時、お礼にって弾いてくれたやつだよ」
「待ってくれ。じゃあ、これは」
絵の中の、髪の長い女性を指した。
「香澄だよ。左目に泣き黒子もあったし、成人してたらきっと、あんな感じになったんじゃないかな」
眞琴は、一枚の写真を差し出した。
運動会の時、森ノ宮のお父さんが撮ってくれたものだ。
僕の肩に、腕を絡める麦。
麦の前で、車椅子のひじ掛けに身を預ける眞琴。
車椅子に座る森ノ宮には、左目の下に、眞琴の言ったほくろがあった。
スケッチブックを繰っていく。
窓辺から見下ろす構図で、二十三番の橋脚を越えるモノレール。
白いふんわりとしたワンピース姿の女性――成人した、森ノ宮香澄の肖像。
平べったい、オルガンみたいな形のピアノ。
その上に飾られた、バラの花束。
花束が大描きにされたページで、手が止まった。
「ああ、それね。毬野も気付いてた? ラッピングにヘアクリップが留められてるの」
全然、気付いていなかった。
僕が眼を留めたのは、一本だけ混じる、不自然に丈の短いバラだった。
そのわけを知っているのは、僕と、森ノ宮だけだ。
それに、このちゃちな髪留めは――。
「なあ、眞琴。夢で森ノ宮と話はするか?」
「ううん。そんな気がするときもあるんだけど、起きるとなんにも憶えてない」
僕と一緒、か。
眞琴は、青いアジャスターケースを手に取ると、ひび割れて縁の欠けた蓋を外しにかかった。
「でもね。わかるような気がするんだ。香澄がわたしに――ううん、わたしたちに託したいこと」
「託したいこと?」
「そう。これは正真正銘、香澄が描いた絵。香澄のお母さんから頂いたの」
描きかけのクレパス画は、夕暮れのバラ園。
遠く、ネオンの灯る観覧車。
小径に掛かるアーチの脇に、ひっそりとたたずむ灌木。
その、つやのある葉に埋もれ、たおやかに咲く白い花を囲んだ、三匹のホタル。
「最後までね、病室でこれ、描いていたんだって。たぶん……」
「――たぶん?」
「うん。たぶん、バラ園にクチナシを植えて欲しいんじゃないかな、香澄。この絵みたいに」
眞琴の両目が、真っ直ぐに僕を射た。
「だから、お願い。毬野、わたしに力を貸して」
(つづく)
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