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【note創作大賞2024応募作品】Monument(第15話)

第五章(1/3)

 用心に、と持参したロープは使わずに済んだ。
 護岸には足場があって、水路への入り口までは、容易に降りて来られたからだ。

 入り口は、想像以上に大きい。
 大人が立って歩いても、まだまだ十分、余裕がある。

 見えない水路の底へ向かって、そろりそろりと、踵を延ばした。
 かちり、と固いコンクリートの感触が、滑り止めの鋲に伝わる。
 水深は、さほどでもなさそうだ。

 意を固めて、水路へ入る。
 僕の後ろに、麦が続いた。

 水路の壁面に手をついて、長靴の甲を洗われながら、慎重に進む。

 きっちり百歩。
 振り返って、距離を確かめた。

 用心のため、更に百歩進んでから、ヘッドランプのスイッチを入れると、少し先に階段が見えた。

 開渠だった頃の名残だ。

 登りは水路の天井に塞がれて、降りのほうは、期待していたものにつながっていた。
 水面よりも一段高い、かつての清掃用通路だ。

 安堵の息が、自然に漏れた。

 浅いとはいえ、苔むした流れの中を進むのは、思いのほかに気を遣う。
 長靴にスパイクベルトを巻いているのに、何度、足が滑ったことか。

 ここまでが最初の難関だ。
 そう心にとどめ、通路に上がる。
 二人して階段跡に落ち着いた。

 ろうそくに火を点す。

 小さな炎は、上流から吹く絶え間ない風に揺らめきながら、頼もしく辺りを照らし出した。
 光に追われて、暗がりに逃げ込む生き物の影が見えたように思うのは、たぶん僕の弱気が生んだ、錯覚だろう。

 悪臭といえるほどの匂いもなければ、汚らしいというほどの汚れもない。


「毬ちゃん」
 麦が指先でヘッドランプを叩いた。
 意を察して、二人一緒にスイッチを切る。

「やっぱり、ここで間違いなさそうだね」
 通路に薄っすらと積もった泥の上には、小さな子ほどの無数の手形。
 アライグマのものだと知らずに見たら、背筋が凍えたかもしれない。

 軍手を外し、素手で足跡を撫でてみる。
 さらさらしていて、湿り気もほとんど感じられない。

 夕方、あれほど雨が降ったのに。
 水位は、通路の上には達しなかった、ということになる。


「ねえ、毬ちゃんはさ」

 来るだろう、とは思っていた。
 こいつは僕と、差しで話がしたくって、わざわざ、この探索に同行したのだ。

「これがほんとに、香澄ちゃんの望みだって、思ってる?」
 首だけ、横に振った。
「だよね。と、すると、やっぱり眞琴っちゃんのため?」
「まあ、そういうことになるのかな。あいつ、一度言い出したらきかないから」
「だね」

 笑い声が反響して、僕らは息をひそめた。

「おまえは、どうなんだ。まさか『電気ホタル』だなんて、思ってるわけじゃあなかろうな?」
「やっぱ、毬ちゃんなんだなあ。で、どうなの。ほんとんところ、聴かせてよ」
「悪いが、どっちでもないと思う」

 十一歳までの原体験を、僕らは色濃く共有している。

 この季節、クチナシの香りが媒介となって、深層心理に刻まれた森ノ宮のイメージが、似たような夢となって投影されることも、あり得るのではなかろうか。

 麦が、鼻を鳴らした。
 お気に召さない話題なら、替えたほうがよさそうだ。

「それにしても『ピンチの啓太郎』は健在だったな。おまえの発想力には感服するよ」

 こいつが来てくれなければ、侵入経路も見つからず、眞琴を失望させたことだろう。

「よしてよ――ねえ、毬ちゃん」
「ん?」
「もっと長生き、できたんじゃないのかな。って考えること、あるんだよね、香澄ちゃん。俺たちなんかと出会ったりしてなければさ」
「さあ……どうだったろうな」

 三分が過ぎた。
 炎の色に変化はない。
 悪性のガスはなさそうだ。

「あのさ、俺……」
「行こう」

 ろうそくの火は、吹き消した。

 僕はランプにスイッチを入れると、水路の先を照らした。

       ◇

「ねっ。いいアイデアでしょ?」

 運動会、当日。
 開会式も早々に、ぼくらを五年四組へ引っ張ってきた麦は、得意げにポーズを決めてみせた。

 開いた口が塞がらないぼくの隣で、眞琴の頬がみるみるうちに紅潮する。
 車椅子の上、麦わら帽子に口元を隠して、森ノ宮は話の行方を見守っていた。

 ここのところ、なにか内緒でやってるな、と勘づいてはいた。が、よもや森ノ宮を担いで騎馬戦に出よう、などとは。

 眞琴は、破裂寸前だ。
 ここは、ぼくが何とかしないと。

「いいわけないだろっ!」
「そんなことないさ。植村が騎手じゃあ、なんにも期待できないけれど、香澄ちゃんならずっと軽そうだし、おれたちの足も活かせるっしょ?」

 例のケガの一件以来、植村は練習も休みがちだった。

「このままじゃあ、陽動どころか、カモられるだけで終わりだよ」
 確かに。それはその通り、だが。
「一度も練習してないんだぞ。こんなこと、当日の一発勝負で……」
「出来ます! 練習、しっかり見てました」
 どうやって言いくるめたものか。森ノ宮まで、この有様だ。

 弱り果てて眞琴をみる。
 膨らんだ頬には、くっきりと「反対」の字が浮いていた。

「なにが起こるか、わからないんだ。危な過ぎるよ」
 麦のやつは諦めて、森ノ宮のほうを説得にかかる。

 擦り傷やたんこぶくらいは、覚悟の上の競技だ。
 そう説いて聞かせても、森ノ宮の顔色――決意に変わりはみられない。

 きっと、誤解しているのだ。

 練習では、各騎の実力を隠すのと、なにより本番までケガ人を出さないように、毎度おざなりな、押しくらまんじゅう程度に終始していた。
 あれを見て、騎馬戦だと思っているなら、森ノ宮が「わたしにだって」と思う気持ちも、わからぬではないが。

「なあ、いいだろ? もう植村にも、山岸にも話つけちゃったし。植村なんか、飛び上がって喜んでたよ」

 外堀はもう、埋まっていた、か。

 校庭では、順調に競技が進んでいる。
 結論を急ぐよりほか、方策はないが。


「勝手にすれば」
 そっぽを向いて、眞琴が歩き出した。
「待ってください。黛さん。わたし……」
「なんか、手伝えることあったら声かけて」
「待てよ、眞琴」

 追おうとしたぼくの腕を、麦がつかんだ。

「放せよ。呼び戻してくる」
「よしなって。ようやく素直に怒れたんだから。しばらく、ほっといてあげなよ――気にすることなんかないからね。香澄ちゃん」

 麦わら帽子に顔を埋めた、森ノ宮の表情はうかがえない。
 車椅子の前に屈んだ麦が、ここまでは想定の内だと言わんばかりに、上目遣いでぼくを睨んだ。

「口喧嘩のひとつやふたつ、遠慮なくできなくちゃさ、仲良くなんて、なれっこないよ――でしょ?」
 勢いよく立ちあがった麦が、パチンっと手のひらを合わせた。
「香澄ちゃんは腹をくくったんだ。毬ちゃんは、どうするよ?」
 麦が口角を捻じ上げた。
「ほんとんとこ、おもしろそうだ。なあんて、思ってんじゃあないの?」

 図星、だった。
 けれど。

「いいのか? 森ノ宮」
 今度はぼくが、ひざを着く。
「はい。わたし、騎馬戦に出たい。もちろん、いけないことだってわかっています。それに……黛さんが、怒るのも」
「そう、か」
「香澄ちゃんに、ここまで言わせたんだ。毬ちゃん、覚悟はいいよね」
「ああ、もちろんだ」
 胆は、決まった。
「でも、どうせやるなら徹底的にやりたい」

 麦は、不敵に眉を上げた。
「そう来るだろうと、思っていたよ」

眞琴

「なんか、手伝えることあったら声かけて」

 未練がましい捨て台詞が、目元に涙の玉を作った。

 いつも三人、一緒だった。はずなのに。

 あたしは慌てて駆けだした。
 涙が頬を伝ってしまう、その前に。

 毬野が、啓太郎が、追ってきたらどうしよう。
 肩をつかんで、引き止められたら?
 その時、あたしはどうするだろう。

 でも、誰も追ってはこなかった。

 要らぬ心配に、また一粒、涙がこぼれる。
 薄暗い昇降口の下駄箱の隅、あたしはひとり、目元を拭った。


 校庭へ戻ると、熱い陽射しに眼が沁みる。
 空は嫌味なくらいに晴れ渡り、色とりどりに掛け渡された万国旗がそよいでいる。

 絶え間なく流れる、せわしのない音楽。
 各クラスからの応援の声。
 競技の場内アナウンス。

 行き交う人、また、人。

 応援席には、戻れない。
 毬野と啓太郎――それに森ノ宮さんとも顔を合わせなければならなくなる。

 一年生の徒競走で旗持ちの係を終え、本部テントに戻ったところで、待ち伏せしていた啓太郎に捕まった。

「手伝ってくれる、って言ったよね?」

 身構える間もなく、首だけ縦に動いていた。


 連れて来られた五年四組の教室で、啓太郎は体操着の入った巾着袋を、あたしの胸に押しつけると、
「じゃあ、眞琴っちゃん、後はよろしく――香澄ちゃん、支度急いでね」

 ぴしゃり、と教室の戸が閉ざされる。
 森ノ宮さんと、二人きりになった。

 体操着を取り出し、広げてみる。

 縫い付けられたゼッケンには、「5-4 植村」の文字。
 森ノ宮さんの背中に長袖のシャツをあてがった。
 サイズは、ちょうどよさそうだ。

 丈の長いハーフパンツは、腰で絞れる。

 襷にでもするつもりだったのか、長めの紅いはちまきに、ヘッドギアと、ひじ、ひざパット。手首、足首のサポーター。
 袋の底には、スポーツテープまで入っていた。

 どれもこれも、まっさらだ。

 きっと植村くんを言いくるめて、用意させたに違いない。
 危なっかしいことをさせようとするだけあって、啓太郎にしては用意周到だ。


「どうしたの? 森ノ宮さん」
 体操着を吟味している間、当の森ノ宮さんは、車椅子の上で身じろぎもせず、ジャージのファスナーすら緩めていない。
「あ、ごめんなさい。ちょっと、ぼおっとしちゃってて」
「大丈夫? 気分でも悪いの」
 それとも、怖気づいた、とか。
「ううん。平気」

 彼女は車椅子から立ち上がり、無造作に身に着けていたものをとり始めた。

 森ノ宮さんと着替えを共にしたことは一度もない。体育はいつも見学だったし、今朝はジャージ姿での登校だった。

 髪を収めるには、どう結ったらいいだろう。
 ヘッドギアを手に取って、そんな思案をしているさなか、あたしは、それを偶然、目にしてしまった。

 めくれ上がった肌着の下、森ノ宮さんの真っ白な脇腹をのたうつ、赤紫の筋――手術の、痕?!

 首筋に走った悪寒が肩を伝って、ひとりでに緩んだ手から、ヘッドギアが滑り落ちた。
 拾うつもりで伸ばしたはずの、指先の震えが抑えられない。

 考えたこともなかった。彼女の病気って、なんなのか。
 こんな手術をしなければならないほど、重たいもの、だったのか。


 背後で、衣擦れが止んだ。

「済みました。黛さん」

 振り返ると、彼女は両手を首に回して、襟から髪を抜いていた。
 身に着けていたスパッツは、裾を折り返してハーフパンツに収めてある。
 ひじ、ひざパットも、サポーターも着けていた。

 落ち着いて。
 まずは、爪の養生だ。
 手足の指を、スポーツテープで厳重に巻く。

 残るは、ヘッドギアとはちまきだ。

 イスはぜんぶ応援席に持ち出されていたから、車椅子に座ってもらい、あたしは髪をまとめにかかった。

 結い上げに手間取ったのは、想像通りにコシの強い、彼女の髪質のせいばかりではない。
 ちっとも力が入ってくれない、あたしの手指のせいだった。

 髪が解けてしまわぬよう、慎重にヘッドギアをかぶせていく。
 ヘアピンが残っていないか、丁寧に髪の中を探った。

 紅組を示す、はちまきは、どうしよう。

 あたしはちょっとした思い付きで、左のひじパットの少し上に結びつけ、絶対に解かないようにと念を押した。

 森ノ宮さんに立ちあがってもらい、周囲をぐるりと一巡り。
 彼女の出で立ちを確かめる。

 近くで見れば、もちろん森ノ宮さん、その人自身に違いない。
 けれど、騎馬戦ですっかり浮足立った、男の子たちのことだ。
 よほど注意を惹かないかぎり、たぶん誤魔化し通せるだろう。


 支度は、すっかり整った。

 が、啓太郎は戻ってこない。
 気まずく、時が流れた。

「ねえ、黛さん」
「うん?」

「頑張ってくるから」って言ってくれたら、「気をつけてね」って返せた。
「ありがとう」だったら、「どういたしまして」って笑えた。

なのに。

「ごめんなさい。わたし……」
「どうして」
 こんなときに。
「ごめんなさい、なんていうくらいなら、どうして」
 やめなきゃ。ここでやめなきゃ、止められなくなる。
「どうして、こんなことするの?!」
 心の堰が、綻びた。

「あたし、あなたのことが、わからない」
 よりによって騎馬戦なんか。いつもみんなの真ん中にいるくせに。
「なぜ? どうして? こんなことして、なにが面白いの?」
 そこへ彼女の秘密――手術の痕を覗き見てしまった、後ろめたさが拍車をかける。
「あなたの望みってなに? いったいなにが気に食わないの? なにが不平? なんでこんなことしようとするの? ねえ、教えてよ?!」

 早口に、乾ききった舌がもつれて、ようやく我に返れた時にはもう、すべてをぶちまけ、吐き出しきった後だった。

 あたしの心に、澱んでいたもの。
 醜く拗じけた、彼女へのひがみ。
 その、すべて、を。


 肩で息をするあたしの前に、車椅子の上、森ノ宮さんは、うなだれたままだ。
 彼女の細い肩先が、小刻みに震えていた。

 泣かせてしまった、かもしれない。

「ご……ごめんなさい。あたし、ひどいことを……」

 理不尽にも、ほどがある。
 こんなのは、ただの八つ当たり。
 あたしが勝手に、ため込んでしまった屈託だ。

 お詫びを、せねば。
 膝を屈めかけた。

 と、同時に彼女は垂れていた頭を上げて、ゆらりと立ち上がった。

 くつくつ、と彼女の白いのどが鳴る。

 彼女は、泣いてなどいない。
 こらえていたのだ。
 笑い出しそうになるのを。

 ヘッドギアに、半ば隠れた彼女の両眼が、あたしを睨んだ。

「わたしが、なにをしたいか、ですって?」

 彼女の唇に、酷薄な笑みが浮かんだ。

「教えてあげましょうか」

(つづく)

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