【note創作大賞2024応募作品】Monument(第2話)
第一章(1/2)
眞琴
体験ボランティア説明会の資料作成が、わたしに回ってきたのは、まあ道理といえば道理だった。
市の契約職員で、説明会の開かれる科学館勤務。体験ボランティアには通算五回、足かけ三年通っている。
資料作成、なんていうと、少しばかり大げさだ。
常勤さんが作ってくれた原稿の誤字脱字を検め、書式を揃えて印刷ボタンをクリックすれば、後はコピー機がやってくれる。
きっちり人数分、講義室の机に資料を並べ、テーブルとイスを運んで受付を作ると、時刻は午後二時を少し回った。
受付に落ち着くと、大きなあくびがひとつ出た。
昨夜はあまり眠れていない。
どう話をしたらいいだろう?
それだけで、頭の中はいっぱいだった。
順を追って説明すれば長すぎる。かといって、いきなり本題に入ろうものなら、それこそ正気を疑われかねない。
いや、それ以前に。
今日やってくるのは、ほんとうに「毬野馨」、その人なのか。
何度目かのあくびを嚙み殺しながら、わたしは机の上の名簿に目を落とした。
今回の参加者は、三十四名。
内三十名は近隣の大学の学生さんで、ご主人が定年を迎えたばかりらしいご夫婦が一組。
そして、わたしと「毬野馨」さん。
名簿の中に、この名前を見つけたときには、胸の奥がぎゅうっとなった。もっとも、そこに記されていたのは「球野薫」という文字だったのだけれども。
実のところ、この名前には、前にも一度、騙されていた。
科学館主催の市民講座に申し込まれたその名の主は、正真正銘の「たまのかおり」さん。上品な、シルバーグレイのご婦人だった。
でも、今回は違う。
苗字には「球野」とあったけれど、ふりがなには「まりの」。性別も「女性」だったけど、住所だって、最後にわたしが記憶していた、毬野の住所にほど近い。年齢も一緒だ。
体験の申し込みは、常勤のボラさんが管理している。申し込みは「メールで」だったから、手違い、ってこともなくはない。
なにせ常勤のボラさんたちは、若くても七十に手が届こうかというご高齢である。かなり使う人でも、このわたしに較べてさえパソコンが堪能とまでは言い難い。
コピペすれば済みそうなものを、わざわざ打ち直して、変換ミス。いかにも、ありそうな話だ。
「念のため」
そう言って転送してもらった、本人からのメールにはこうあった。
「毬野馨 男性」
今度こそ心臓が飛び跳ねた。
ことあるごとに毬野は、その珍しい苗字から「球野」に、そして「かおる」という読み名から、女性と間違えられていた。照れ隠しに前髪をひねってみせる、なつかしい姿が目に浮かぶ。
わたしと毬野馨、そして麦谷啓太郎は、生まれながらの親友……だった。
なにせ、この世に産声を上げる以前から、わたしたちは一緒だったのだから。
わたしたちの母親は同じ病院で、わたしたちを産んだ。病室まで同室だった、というおまけ付きだ。
一番初めが、わたし。
翌日には、毬野。
その二日後に、啓太郎。
物心、なんてものがつく、ずっとずっと以前から、わたしたちは三人、一緒になって遊んだものだ。
そんなわたしたちが離ればなれになったのは、十二歳の冬のこと。
以来二十余年。わたしたちの間に、やりとりらしいやりとりは一度もない。
けれど今日、毬野はここへやってくる。
指先の震えを、止められなかった。
思い出は、歳月に磨かれて無垢になる。
わたしの思い出は、美しく研ぎ澄まされていた。
迂闊に触れようものならば、手傷を負わずにはおれないほどに。
馨
調べものに見切りをつけて、パソコンを閉じた。
テーブルの上に転がしておいたカプセルに手を伸ばす。
窓に向け、灰色の空に透かした。
中身は、ちっぽけなプラスチックの塊。おもちゃの指輪だ。かつての安っぽい輝きも、今はもうない。
ほんとうなら朝のうち、モノレールの軌道に沿って、探索を進めるはずだった。なのに、重い腰を上げられぬまま、もう体験ボランティア説明会の時刻が迫ろうとしている。
慣れない長旅は、思ったより身体に堪えていたらしい。
昨晩は、チェーン居酒屋のジョッキ二杯で眠たくなった。ホテルに戻って、紙やすりみたいに糊の利いたシーツに転がると、昼前、いつもの夢から覚めるまでは、ぐっすり、だった。
いつの頃からだったろう。
毎年きまって初夏の数日、僕は同じ夢を見る。
ペントハウスでピアノを弾く、髪の長い女の夢だ。
繰り返し見る夢だったら、無論、他にだってなくはない。
逃げ出そうとして足がもつれて走れないとか、高いところから落っこちて背筋がびくんっと伸びるとか。
でも、この夢みたいに毎回同じで寸分違わず、幾晩も続けてみる夢なんて、他にはない。
もう一つ、妙なことがある。
「夢をみている」
そう気がつくと、僕はすぐ目を覚ますたちなのに、この夢だけは違った。
「いつもの夢だ」
そうわかっていながら、この夢だけは続く。
ほんとうに目を覚ます、そのときまで。
なんで同じ夢が、繰り返されるのか。
なぜ、初夏の数日間、続くのか。
夢の中の女は、何者か。
ひとつだけ確かなのは、このペントハウスから眺める風景が、故郷の街のどこからしい、ということだ。
窓の外を走るモノレール。日本でこの形式は、二カ所でしか採用されていない。そのひとつが、僕の生まれた街の駅と、遊園地とを結ぶ線だった。
が、調べがついたのは、ここまでだ。
ピアノの曲名が知りたくて図書館へ行き、棚に並んだCDの数に圧倒されて尻尾をまいた。耳になじんだメロディは、専門家になら尋ねてみることだってできたろう。けれど実在するのか怪しい曲を、口ずさんで聴かせる勇気はなかった。
部屋に流れる花の香りには、やはり初夏、不意に街角で出くわすことが度々あった。辺りを探してみるのだが、どこから漂ってくるものか見当もつかない。
背の低い、マホガニー色をしたピアノには特徴があった。これもネットで、それらしい機種に目星はついたが、それまでだ。
「閉園となった遊園地の中に、バラ園だけが存続している」
これを知ったのも、ネットでの調べものの最中だ。
市民ボランティアが保全を担っているという。春と秋、それぞれ二週間ほど公開されて、その少し後、短期のボランティアを募っていることも。
なにかが、僕の背を推した。
それが何なのか、わからない。
――たぶん、口実として手頃だったのだ。
時期もよかった。
ゴールデンウィークと夏休みの、ちょうど真ん中。
永年勤続の五日の休みに、前後の土日をくっつけた九連休の申請にも、上司はあっさりと承諾をくれた。
ボランティアへの応募も、締め切り間際で間に合った。返信メールの宛名にあった「球野薫様」は、毎度のご愛敬だ。
駅近のビジネスホテルにも、連泊の予約が取れた。
ままならないのは仕事のほうで、残業に残業を重ねて一週間分の穴埋めを済ませた。
そのせいにするつもりもないが、長旅への備え――心構えは、おざなりのままだ。
冷めた頭で考えたら、ばかばかしく思えてならない。
いったい僕は、なにをしようとしているのか。こんなところまでやってきて。
埒もない考え事で、時間が押した。
ジャケットを手に部屋をでる。
机の上のカプセルも、忘れずポケットに忍ばせて。
眞琴
「準備はどうよ? 眞琴っちゃん」
「はい。もう済んでますっ!」
いきなりだったから、声が裏返ってしまった。
桜井脩市さん。
バラ園ボランティアのリーダーだ。
小さな丸い銀縁めがねと、口元を覆う真っ白いひげが、その人柄に似合いすぎるほどよく似合っている。ただでさえ陽に焼けた顔の、頬と鼻先がまだちょっぴりと赤いのは、外で一日中炙られた一般公開の名残だった。
脩さんは遠慮もなにもなく、わたしの背中に回り込むと、肩越しに名簿をのぞき込む。
「今回は三人……かな」
初参加のご夫婦と、「毬野馨」さんのことだ。
体験ボランティアを募る目的は、主に二つあった。
ひとつめは、労働力の確保である。
バラは年に二度、春と秋に咲く。
最盛期に一般公開された後は、大がかりな手入れが欠かせなかった。肥料や資材、土の搬出入は常勤のボランティアだけでは荷が重い。
そこで近隣にある大学に応援を頼んだのが、脩さんだった。
一校には農学部があって、ほかにも園芸関係のサークルがあった。
学生さんの枠はどういうわけだか人気があって、募集と同時にすぐ埋まってしまうのが通例だ。
そして、もうひとつ。
もっとも大事なのは、あらたな常勤ボランティアの獲得にあった。
発足当初、バラ園ボランティアは、百人近くいたらしい。
それが昨今では減少著しく、実働は毎回、十名にも満たない。
新たなボランティアの獲得は、活動の存続上、死活問題でもあった。
この後者に当たるのが初参加の三人、というわけだ。
「おっ! この人、眞琴っちゃんと同い年じゃない? 楽しみだねえ」
「セクハラですよ。桜井さん」
脩さんは笑ってごまかした。
「それにしても、ずいぶん遠くから来るんだなあ」
それはわたしの気懸りでもあった。
「毬野馨」さんが、わたしの知る毬野馨本人だとして、なぜこのボランティアを選んだのだろう。
現住所は北海道、とある。
そんな遠くから、お世辞にも観光地などとは呼べないこの町へやってきた上、土いじりのボランティア、だ。
帰省――とも考えにくい。毬野の実家は、新道路建設のあおりを受けて、ずいぶん前に移転している。駅にして4つも先だ。
仕事だって、しているだろう。もちろん休暇はあるだろうけど、せっかくの連休に旅費までかけて、三日続きのボランティア、というのも腑に落ちない。
「ところでさ、例の話。考えておいてくれたかな?」
ひそめた眉を誤解したのか、脩さんが少し慌てて話題を変えた。
「常勤のボランティアに」
そう誘われたのは、もう一年以上も前になる。
「ごめんなさい。もう少し整理がつくまで、年二回の体験と、お手伝いだけで勘弁してください」
ボラのみんなには、かわいがってもらっていた。一緒に汗を流して、お弁当を食べて。
そんなひとときが、大切な時間になりはじめていた。
だから、辛かった。
わたしには、別の目論見があったから。
そしてそれは紛れもなく、みんなを欺くことだったから。
馨
驟雨の中、駅前通りを科学館へ向かう。
ショッピングモールの角でモノレールの軌道をくぐると、渡ろうとしていた信号が明滅を始めた。
歩みを停めて、隣に建った橋脚を見上げる。
その番号は、「11」。
県道沿いに軌道を支える橋脚の列に視線を送る。
目指す12本先は、雨にけぶって定かではない。
諦めて正面を向くと、道は小高い丘にはさまれて緩やかに登り、その両側には建物たちがひしめく。
最後にこの光景を目に焼き付けたのは、この街を後にする、その日の朝のことだった。
陰鬱な曇り空の下、一面の雪に埋もれたモノクロームの世界、だったと記憶している。
それが今、再び目の前にあるのが、なんだか妙に落ち着かない。
丘の中腹に、救急車の回転灯が瞬いている。
そこには古い大きな病院が、変わることなく建っていた。
僕が――僕らが生まれた場所だ。
そして……
この町の思い出には、いつも眞琴と麦がいる。両親と同じくらいに古く、僕には二人の記憶があった。
その頃、うちの庭の離れには母方の祖母が暮らしていた。
日中、二人は僕と一緒に、そこへ預けられていたらしい。
祖母は毎日、掘り炬燵の上の菓子鉢を山盛りにして、僕らを歓待してくれた。
物知りで手先の器用な人だったから、いろんなことを教わった。
天気のいい日には近所の神社の境内で、地面に描いた図の上を飛んだり跳ねたり走ったり。
鳥居の前の石階段で行き帰りにする、じゃんけん勝負の上り下り。
グーで勝っても三段しか進めない。他の二つで勝てば倍の六段だ。
それが頭の隅を離れてくれず、僕はたいていビリを喫した。
雨の日には、祖母の膝を奪い合ってお話を聴く。
祖母は、この辺りの伝承を面白おかしく聴かせてくれた。
そんな昔話にも飽きてしまうと、祖母はちょっとした手慰みを披露した。
紐の結わえ方を何通りも知っていて、僕らは競ってそれを憶えた。僕と麦が扱えたのは七つか八つくらいだったけど、眞琴のやつは学級のお楽しみ会で手品の真似事ができるほどにまで上達した。
唯一、僕が受け継いだのは工作くらいのものだろう。祖母は小刀を巧みに操り、竹とんぼや糸巻き戦車をこしらえた。
僕らは夢中になって祖母から学び、祖母をまねた。小学校に上がる直前、不意に亡くなってしまうまで。
そろって同じ小学校に進み、男は男、女の子は女の子同士で遊ぶ年頃になってもまだ、僕らは三人一緒のままだった。
級友たちの遊びに加えてもらうには、外で遊ぶなら野球の道具やサッカーボール。家に呼ぶのならプラレールやミニカー、人生ゲームとか野球盤とか。そんな遊び道具が入り用だった。
級友たちの誰もが、いくつかは当たり前のように持っているものを、僕らはなにひとつ持ち合わせていない。
家に余裕がなかったからだ。
それでも退屈しないで済んだのは、ひとえに祖母のおかげといっていい。
僕らは遊びに長けていた。樹に紐を結えて遊具をこしらえ、廃材を使っておもちゃを作る。みんな祖母が教えてくれたことだった。
三年生になってすぐの頃、麦が図書室から子供向けの科学雑誌を見つけてきた。それに載っていた自然観察や簡単な実験、とりわけ模型工作に僕らは夢中になった。
この辺りは起伏に富んだ丘陵地帯。観察する自然にだったら事欠かない。
実験は、松平先生にお願いすれば、理科準備室を使わせてくれたし、わからないことはなんだって丁寧に教えてくれた。
模型工作は材料さえ集められれば、なんとかなった。
工具は大抵、父の自動車修理工場にそろっていたし、部品は眞琴のお父さんに断れば、産廃集積所から拾ってこられた。どうしても手に入らないものは、麦のお父さんの運送会社を手伝って手間賃をもらい、買いに出かけた。
そこへ……
ポケットの中で握り締めていたカプセルが軋んだ。
信号が青に変わる。
……行こう。
横断歩道を、足早に渡る。
傘を目深に、わき目も振らず、足元だけを見すえて。
この街を去ってこのかた、今日までそうしてきたように。
(つづく)
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