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たましいの救済を求めて第三章第五話

第三章第五話 三人目


 その後、若木の強い要望もあり、羽藤の週に一回六十分のカウンセリングは、麻子が受け持つ話になる。
 若木は自分も同席する必要があるのなら、付き添って来ると言う。

「わかりました。しばらくの間、羽藤さんと一対一で面談を続けていきますが、若木さんにも同席していただいた方がいいと思った時には、お声をかけさせて頂きます」
「どうぞ、よろしくお願いします」
 
 面談の最後に若木はおもむろに立ち上がり、麻子に深々と頭を下げた。
 初回六十分の面談が終了すると、若木は大判のマスクをはめて眼鏡を外した。

 彼女のトレードマークでもある、度の入っていない眼鏡をコンタクトにして、特徴的な顔のエラを隠しただけで、どこにでもいそうな品の良い奥様風になってしまう。
 これなら待合室ですれ違っても、彼女が底意地の悪い女ばかり演じている『鷲田聡子』だと、誰も思わないだろう。

「じゃあ、また来週。お待ちしています」

 麻子は、若木の後に続いて面談室を出ていく羽藤にも声をかけた。

「……はい。お願いします」

 振り向いた羽藤は、この年頃の少年らしく畏まり、もじつきながら会釈した。
 しかし、次に顔を上げた時、麻子はギクリと体を強張らせ、浮かべた笑顔を凍りつかせる。

 この日、六十分かけて行ったカウンセリングの最後の最後で羽藤柚季と目が合った。 

 その刹那、違うと、思ったからだった。
 
 この子は違う、誰なんだ。
 羽藤柚希の顔なのに。確かに顔も姿も彼なのに。声も彼だったはずなのに。

 けれども違う。絶対的に目が違う。

 初回面談の大半を占めていたのは傲岸不遜に足を組み、窓の外ばかり眺めていた傍観者としての羽藤柚希だ。
 涙する叔母ともカウンセラーの麻子とも、視線を合わせようとしなかった。

 エレベーターで昇降ボタンを押す前に、同乗者に何階のボタンを押せばいいのか訊ねた羽藤。
 レディファーストも板についた、理知的で爽やかな美少年。
 単身で心療内科を訪れるだけの自立心も行動力も、身内の迷惑になるまいとする思慮深さも備えている。
 悪く言えば、出来過ぎた優等生。

 それでいて、不安や混乱で感情を高ぶらせ、涙したり恥じらうなどする生身の人間。
 彼を主人格とするのなら、アルカイックスマイルを口元にたたえ、虚空をさまよい続けているような、傍観者的な第二の人格。

 どちらも自分から女たちに声をかけ、その日のうちにホテルに行ったり、清楚な羽藤に似つかわしくない服を買うなど散財し、飲酒をし、街中で会った友人に、暴言や暴力を奮うなどとは思えない。

「また来週お願いしますね、先生」

 不意に麻子の動揺を楽しむように、羽藤は麻子に開けられたドアの近くで上目遣いにほくそ笑む。
 帰り際の羽藤の瞳は挑戦的で険のある、鋭い光を放っていた。

「ありがとうございました。今後とも、よろしくお願い致します」

 麻子は最後に若木からも、深く頭を下げられた。
 そして静かに閉じられるドア。
 そのドアに背中を預けた麻子は、緊張の糸が切れたように肩を落とし、しばらくの間、呆けていた。

 現段階で麻子が確認できているのは、主人格の優等生。
 我関せずの傍観者。

 そして、おそらくは三人目。今の羽藤が三人目の人格だ。

 来院した主人格の羽藤が今は、どの人格に入れ替わっているのかを、確認したい衝動にかられたが、かろうじて留まった。
 
 カウンセラーは原則として、担当のクライアントと面談室以外では、個人的に話をしない。
 
 それは、時間によって定められた料金の支払義務が発生する、面談の場を出た個人的な関係を、カウンセラーとクライアントの間に作らせないための原則だ。
 だから、医師もカウンセラーはクライアントにどんなに懇願されようと、予約をした面談の日時以外に会ったりしない。

 もし、何らかの理由で急を要とする場合には、院長の駒井が診察して、しかるべき対応とサポートをする。
 それがプロフェッショナルな対応だ。
 
 強固に張りめぐらされた境界線で、日常生活と隔てられた結界の中でしか、カウンセリングは行われない。
 その非日常的な集中が、神聖な空間の中に結集されて、初めてクライアントの魂の再生がなされると言っても過言ではない。
 だからこその大原則が、麻子の喉を詰まらせる。
 
 結局、麻子は羽藤を呼び止めることはできずにいた。
 面談室から出て来た麻子は、注意深く待合室を観察する。
 
 若木が待合室で会計を済ませる間も、羽藤はソファに座りっきりだ。
 スマホではなく、文庫本を読んでいる。
 自分の為に若木がここにいるといった感謝や謝罪の念は感じられない。
 主人格より年齢が高く、傲岸不遜な第二の人格。

 そして、面接室を出る時の、ほんの数秒見せた、あの目の色は主人格でも第二人格のものではなかった。

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