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たましいの救済を求めて 第一章第一話


あらすじ


臨床心理士の長澤麻子ながさわあさこは、多重人格障害の羽藤柚希はとうゆずきのカウンセリングを担当する。以来、麻子に説明のつかない怪奇が襲来する。まるで羽藤が体験してきた怪奇をなぞっていくかのようだった。麻子と十七歳のクライアントは、目には見えない存在にカウンセリングが失敗するよう牽制されてきたのだが、最後に姿を見せたラスボスは、分裂をした人格ではなく羽藤のホーストコピーだった事が明かされる。麻子はホーストコピーの面談も行うことで、分裂していた人格の統合を目指していた。しかし、それはホーストコピーの消滅を意味していた。献身的な麻子の為にホーストコピーは彼自身が自分の意思で滅することで、麻子に応える。そして羽藤柚希の統合は完成した。



第一章 人を殺しているかもしれない


第一話 人差し指


 その日の夕方、長澤麻子は雑居ビルのエントランスで、扉の閉まりかけたエレベーターを視界に捉えた。
 ヒールの音を響かせながら駆け寄ると、ケージの中にいた人が、操作ボタンを中で押し、扉を開いて待っていた。

「ありがとうございます」
 
 軽く頭を下げて入るなり、「何階ですか?」との声かけがある。
 操作盤の前にいたのは、紺のダッフルコートにジーンズという、これといって特徴のない服装の少年だ。

「四階をお願いします」
 
 息を弾ませ、麻子は答えた。
 けれども四階には昇降者の存在を知らせる灯りが点っていた。
 少年は麻子の会釈に微笑で応え、クローズボタンを直後に押した。

 二人の前で扉が閉じられ、エレベーターが上昇する。
 ぎこちない沈黙が支配するケージの中で、麻子は操作ボタンを押してくれた少年の人差し指を、ひと目見るなり息を飲む。
  
 右手の人差し指の第一関節にできていたのは、特徴的な白みがかった大きな『タコ』。
 ペンダコにも似た硬質なそれは、いわゆる『吐きダコ』。

 一度に際限まで食べ物を胃に詰め込むと、人差し指を喉に突っ込んで吐くという、過食嘔吐をくり返す、摂食障害者に多く見られるそれではないのか。
 麻子が思いをめぐらす間にエレベーターは四階フロアに到着し、少年は昇降ボタンの『開』を押す。

「どうぞ」
 
 品良く促されるまま、麻子はフロアに降り立った。
 すると、麻子の後から少年もケージを降りて来た。エレベーターの正面フロアを左に曲がり、まっすぐ廊下を進み始めた麻子の後ろを少年も、少し離れてついて来る。

 自ずと背中で気配を感じる。

 二人して目指しているのは、廊下の突き当たりにある心療内科の正面玄関。つまり麻子と同様、背後の彼も、ガラス張りのドアの向こうに用がある。

  何かを確認しようとするように、背後の彼を振り向けば、それだけで何かしらのストレスとダメージを与えかねない。
 それを回避するために、どこかの会社の事務所でも訪ねるように歩き続ける。
 右手のスマホの画面を見る。

 令和の時代にあってさえ、精神科と心療内科への通院は、本人だろうと家族だろうと、後ろめたさを伴うことは否めない。
 背後を覗き見するように、振り返るなどしたならば、来訪者は踵を返してしまうだろう。
 恥の感覚を抱きつつ。

 麻子は廊下の半ばで右手側の『関係者専用』ドアを開いたが、少年は麻子の後ろを素通りした。
 気後れもせず、そそくさともせず、一定の歩幅を保っていた。

 そして、突き当たりにあるガラス張りのドアを引く。

 ドアガラスには『駒井こまいクリニック』と、明記されているものの、『メンタル』『心療内科』『精神科』等々、書かれていない。
 それは、通院するクライアントの心の負荷を軽くする意を込めている。

 少年が入ると同時に、ベビーピンクの看護衣をまとったスタッフの、「こんばんは」という、少し鼻にかかったような、女性の声が聞こえてきた。
 声の主は、畑中陽子はたなかようこだ。
 声だけ聴けば、キャバクラ嬢の「いらっしゃいませ」。

 反りの合わない畑中の声が、直に届かなくなった時、麻子はガラス戸の向こうに佇む彼に、そっと視線を投げかけた。
 受付カウンターで畑中に保険証を出した後、待合室での着席をゼスチャーで促されている。
 おそらく十六、七歳。大学生ではないだろう。

 あの年齢で付き添いの大人を伴わず、一人で心療内科に来ているのなら、初診ではないはずだ。初診であれば、保護者に付き添われて来る。

 また、心療内科という特殊性から本人も顔を強ばらせ、もっと所在なげにおどおどしている。
 しかし、彼はどこか飄々として、掴みどころがないような雰囲気を醸している。
 身長は、百七十センチ前後だろうか。
 どちらかというと痩せ型ではあるものの、病的なまでに痩せてはいない。
 清潔にカットされた癖のない黒い髪。ほっそりした高い鼻梁に円らな双眸。
 薄い唇に華奢な顎。横顔は中性的で端正だ。
 
 ダッフルコートを脱いで丸めて抱え持ち、彼は、混み合う待合室を悠然と見渡した。 
 コートの下は黒のニット。そしてジーンズにスニーカー。
 服装に、これといった特徴はないのだが、頭が小さく足が長い。

 スタイルと顔立ちだけでも、充分人目を引くだろう。
 
 駒井クリニックの待合室のクライアントの、薬物依存症者やアルコール依存患者は落ち着きがなく、血走らせた目で周囲をぎょろりと伺い見ている。

 かと思えば、鬱や強迫神経症患など、排他的な者の多くは、人目を避けたいがために、息を凝らして俯いて、ひたすら診察の順番を待っている。
 
 定職に就くことが難しい、彼らの多くは生活にも困窮し、髪はボサボサ。
 上着もズボンも何年も着込んだかのように、擦り切れていたりする。
 身形に構う精神的余裕も、経済的余裕も失くしている。

 そんな中、表情も物腰も柔らかで、品のいい微笑みさえ湛えた彼は、心療内科の待合室では、あきらかに浮いていた。

 けれども、彼がクリニックのクライアントだという記憶はない。
 だとしたら、どこか別のクリニックからの転院だろうか。

 麻子は訝りながらもスタッフルームの中に入り、戸を閉じた。

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