ペンライトがない
目を開けると、そこはコンサート会場の前から8列目だった。
チケットを買った覚えもないのに。
野外ステージ上では、私の推しであるジュンジュンが観客に向かっておじぎをしている。
たった今一曲終えたところらしい。
おぼろげな記憶をたどって昨日新型ウイルス感染症の予防接種を受けたことを思い出した。
そういえば深夜にぐんぐん熱が上がった。
「おお、これがうわさに聞いたあの」などと感心しながら症状が進行するのを他人事のように受け止めていた気がする。
新曲『フルーツ牛乳ラヴィンニュー』をジュンジュンが歌い始めた。
これは以前、個人的なライブ配信で彼がうっかり口走った駄洒落をもとに作られた曲である。
音源のみが公開されたばかりだ。
ステージパフォーマンスはまだ披露されていないはずなのに。
このところコンサートになど行けない生活だった私はフラストレーションがたまっていた。
ワクチン接種による発熱がブースターとなり、私の脳内映画監督が高画質の夢を製作してくれたのだろう。
フルーツ牛乳の瓶でジャグリングしながら歌うジュンジュンの姿に目頭が熱くなった。夢にしては驚異的なクオリティだ。こんなものが脳内で生成できるなら私は振り付け師になれるかもしれない。
このごろトイレの壁紙の模様がジュンジュンのシルエットに見えるのは、禁断症状ではなくて才能の萌芽だったのだろうか。
会場中のペンライトがゆらめいて幻想的な光景だ。
たとえるなら、もののけ姫のコダマの人民大会である。
半径10キロ圏内にジュンジュンのファンが住んでないという辛酸を嘗めてきた私は、砂漠越えからオアシスにたどり着いたような心境だった。
お財布が頼りなくてペンライトを買うことができず、ファンクラブ会費の支払いさえもおぼつかない身の上だ。
せっかく夢の中だというのに、私の手にはペンライトがない。
何のための妄想力か。
私なんかがここにいてもいいのかと遠慮がちでいたのは始めのうちだけだった。
ジュンジュンがジャケットを脱ぎ捨ててボディラインむき出しの薄いタンクトップ一枚になった。
あまりのセクシーさに、風呂場でGのつく虫に遭遇したとき以来の絶叫をしてしまった。
錦鯉の絵柄のタトゥーに似せたタンクトップである。
常々ジュンジュンの衣装デザイナーは(素晴らしく)どうかしていると思うのだが、なにもここまでけしからん服を着せなくても。
いや、今回は私の妄想である。濡れ衣ごめん。
隣にいた女性が涙を流してつぶやいた。
「あたし、もうここで死んでもいい」
ジュンジュンが恐るべき聴力でそれを聞きつけ、
「僕のファンのみんなには生きて帰ってもらうよ。さあ元気だして」
と彼女に向かって投げキッスをした。
彼女の体が風船のようにふわりと宙に浮かぶ。
周囲の観客がすかさずその足をつかんだ。
「ジュンジュン、それ迂闊にやらないで!おろすの大変だから!」
観客たちは慣れた手つきで彼女を着地させると、のぼせた顔をうちわであおいでやった。
うちわの正しい使い方である。
「大丈夫?隔離されてからまだ2日目だよ」
「新曲の再生回数、伸び悩んでるんだから。正気保とうね」
「みんなでがんばろ?」
「無事に帰ってCD積も?」
観客たちは手を取り合う。
むやみと優しい世界である。
ステージは桟橋のように水上に突き出た通路の突き当たりにあった。
周囲は見渡す限り海である。
後ろからは続々と観客が入ってきている。
会場がいっぱいになったらどうなるのだろうか。
ふと見ると数名のうつろな眼をした観客が勝手にステージにあがり、セットの中央にある扉からバックヤードへ抜けようとしている。
私は背伸びをして、極彩色のLEDライトに囲まれたその扉の向こう側をのぞいた。
その扉は天空の虹へと続いていた。
ステージは虹の橋のたもとにあったのだ。
うつろな眼をした観客たちは海の彼方まで伸びている七色のアーチに足をかけようとした。
「そっちに行かないで、もっと僕の歌を聴いていて」
ジュンジュンがひとりずつハグして言い聞かせると、たいてい頭からピンク色の湯気を立ちのぼらせて客席に戻ってきた。
ハグを受けそこねてふらふらと橋を渡ろうとする同志を引き止めようと観客たちは叫んだ。
「待って、まだ5曲目じゃないの」
「昨日も参戦したから知ってるけど、6曲目はシュワシュワライドよ」
ということは私は4曲も聞き逃してしまったのだ。
なんてもったいない。
もっと早く予防接種を受ければよかった。
そうこうするうちに会場はぎゅうぎゅう詰めになってきた。
「あたしたち、峠は越したので帰ります。後から来た人に席を譲らないと」
私のまわりにいた人たちが会場後方の出口へ向かい始めた。
「ああ、帰りたくない…洗濯物たまってるし」
「アンコールまで見たかった。紙吹雪拾いたかった」
口々にそんなことを言いながら。
隣の女性に「あなたはまだ帰らないの?」と尋ねられて私は答えた。
「まだ魂が不完全燃焼なのでここに残ります」
「そう…じゃあよければこれを使ってください」
ペンライトを持っていない私を哀れに思ったのだろう。
彼女は自分のペンライトを握らせてくれた。
ジュンジュン応援専用の、狐のキャラクターをかたどったペンライトだ。
「子供がシールを貼ってしまったのが取れなくて、汚くてごめんなさい」
なるほど、握りの部分に子供向けの戦隊ヒーローのシールが貼ってあった。
私はありがたくそれを受け取った。
「お礼と言ってはなんですが、これをどうぞ」
私はいつも肌身はなさず持ち歩いているジュンジュンのトレカのうちとっておきの一枚を彼女に渡した。
「こんなレアなカードは初めて見ました。ありがとうございます」
「転売だけはしないでください」
「もちろんです。あなたとジュンジュンに幸あれ」
彼女はそう言ってステージに背を向け、会場から出ていった。
空席ができたのもつかのま、新しく入ってきた観客たちですぐに会場はいっぱいになる。
シュワシュワライドの演奏が始まった。
炭酸水のボトルを勢いよく振りながらジュンジュンはステージを走り回った。吹き出した泡ごと客席に水をまくのがこの曲のお決まりの演出なのだ。
浴びせられた炭酸水はいつもと違ってオレンジソーダの味がした。
夢なんだから帰りの電車で臭う心配もないだろう。
演奏が終わる前に目が覚めてしまった。
口の中にまだオレンジの味が残っている。
ワクチンの副反応がおさまるやいなや私はパソコンを開いた。
情報の遅れを取り返さねばならない。
ジュンジュン公式ファンクラブの通知をチェックし、ネット上のファン専用プラットフォームとSNSを回遊した。
そこで私は、新型ウイルス感染症の陽性反応が出たためにジュンジュンが活動を休止していることを知った。
彼がふせっているのに私は何をしていたんだろうと自己嫌悪におちいりながら『フルーツ牛乳ラヴィンニュー』をひたすらストリーミングした。
ほどなくしてジュンジュンはファンに向けてSNSから感謝の投稿をした。
〈 隔離中に僕を励ましてくれたファンのみなさん、本当にありがとう。僕は夢の中でもステージで歌っていました。来週ようやく現実のステージに立つことができます 〉
案の定、夢でコンサートへ行ったというファンの投稿が目につくようになった。まったくジュンジュンのファンは想像力豊かな人ばかりだ。
誰が拡散したのか、セットリストまで共有されている。
私はつとめて冷静にそれらの投稿を流し読みした。
〈 錦鯉タトゥーは美の暴力 〉
〈 自主隔離中は連日参戦。フルーツ牛乳を通販で箱買いした 〉
〈 ファン友が全員完治。狐の嫁入りは回避した。ご利益半端ない 〉
〈 ずっと口ん中オレンジソーダ味なんだけど 〉
〈 ハグで心臓麻痺おこさなかった自分すごくない? 〉
多くの錦鯉タトゥー目撃談にインスパイアされたのか、衣装デザイナーが次のコンセプトに錦鯉を採用すると発表した。
やがて私はスクロールを止め、ある投稿に釘付けになった。
〈夢の中でお会いしたすべての方々とジュンジュンに幸あれ〉
投稿に添えられたピンぼけの画像には、見覚えのあるレアカードとペンライト、そこに貼られた戦隊ヒーローのシールが映っていた。
しかし相変わらず、私の手元にはペンライトがない。
注:本作品に登場する人物、団体、及び身体現象等は実在のものと一切関係ありません
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