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実母による性暴力を経験した私とフェミニズムの複雑な関係(前編)

はじめに


「女友達が少ない女性はヤバい」「女友達が多い女性は信頼できる」という風潮がある。そのようなプレッシャーは、女友達が少ない女性をコミュニケーション能力の低い人物とみなし交際相手にしたくないと考える異性愛男性たちからのものだったり、女性同士の絆を特に重んじるコミュニティから加えられるものだったりするが、私は社会のこうした要請にうまく応えることができないでいる。
このことはフェミニズムとの関わり方にも大きく影響を与えてきた。女性だけのあるいは女性が多くを占める空間(オンラインを含む)で安心できない/不安をおぼえる女性にとってのフェミニズムとはどのようなものか、私のトラウマ的な子ども時代を鍵に展開させていくので「n=1」にはなってしまうが書いてみようと思う。
なおテーマの性質上、CSAや心理的虐待の被害の詳細に言及している箇所があることをあらかじめことわっておく。
また、このテーマについては一刻も早く伝えたいという気持ちがある一方で、書くことに伴う私自身への負担も大きいと考えている。そのため、前編・後編の二回あるいは前編・中編・後編の三回に分けて投稿するつもりだ。


いたわりと加害の境界線を曖昧にするものとしての「母性」

私は自宅のバスルームが苦手だ。毎日の入浴のたびうっ、と息の詰まるような気持ちになる。小さな湿っぽい空間でこれまた黴っぽい照明が目をちかちかさせ、少女時代の忌まわしい記憶を蘇らせる。自宅の中で一番嫌いな場所だと言ってもいいくらいで、そのせいでどうしても掃除は怠りがちになってしまう。
6歳で両親が離婚してからというもの、18歳くらいまで私はたびたび母の手で風呂に入れられていた。私は先天性の陥没乳頭で、母は「あなたのここは垢が溜まりやすいから」と言って、いちいち指を押し込むようにして洗うのだ。性器も同様に、手に泡をつけて洗う。母は私の身体に触れながら「あなたはアスペルガーだから身だしなみに無頓着になりやすいでしょ?だから大きくなってもママがやってあげてるんだよ」だとか「ママは若い頃大人の男たちに酷い目に遭わされたけど、あなたの綺麗な身体に触ってるとそのときに穢されたものが綺麗になっていくような気がする」とよく話していた。母を苦しめている自身の障害や母のトラウマ的な過去を理由にされては、私は強い苦痛をおぼえていても逃れようがなかった。母は私や他の家族に私の障害を印象づけるかのように、家族の浴室(もちろん祖父も利用する)に障害児向けに身体の洗い方を解説する掲示物(女児用)を置いて辱めた。
母の加害は性的好奇心を満たすためのものだと一見してわかりやすいものもあったが、しばしばケアをよそおって行われていた。いや、実際私を入浴させているときの母に性的な動機があったかどうかはもはや確かめようがない。それに性暴力を性暴力たらしめるものは性的な意図ではなく性的な境界線の侵犯だ

家族に甘えることではなく家族から身を護ることばかりを考えていた子ども時代

あまり親しくない相手と家族構成の話題になったとき、母と母方祖父母に育てられた一人っ子だと伝えると「さぞ可愛がられて育ったんでしょうね」という反応がかえってくることが少なくなく、そういうとき私は少し返事に困ってしまう。私は家の中の大人三人を甘えたり頼ったりする対象ではなく、私の尊厳や生命を脅かす存在として十数年も恐れつづけていたからだ。
はっきり言って、彼らにとって私は成熟した愛情の対象というより、好きなように扱えるオモチャなのだった。小さいころ、母は私がくすぐられるのが苦手なのを知っていながら失禁するまでくすぐりつづけることを好んでいたし、祖父は中学生の私のスカートをめくり卑猥な言葉をかけながら下着をずらして陰毛をむしり取ったことがあった。しかも母のときも祖父のときもその場にはほかの家族がいて、制止することもなく笑っていた。
祖父は国立大学の教授。政治信条は対外的にはリベラルで、経済面ではいわゆるアッパーミドルクラスの家庭だったが、私は流行の玩具も漫画本もほとんど買ってもらえなかった。男の子との会話を禁止され、見つかると祖母から死を覚悟するほどの激しい折檻を受けた。
小学校低学年のとき私は「ここから逃げ出して父かあるいはほかの安全そうな大人と暮らしたい」と願い、当時暮らしていた借家の庭に小さな祈りのスペースをこしらえた。小石や枝でできた粗末なものだったが、家族の目を盗んでたびたびそこで我流の祈りを捧げた。特定の神を信仰していたわけではなく、何か大きくて強い存在が私を護り育ててくれればよいと思った。母や母方祖父母が私に振りあげる拳を静かに下ろしてくれるようなそんな存在が。

〈つづく〉








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