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『青少年に有害! 子どもの「性」に怯える社会』再々再読中。
やっぱり、一連の出来事を私が「あれは被害だった」「本当は嫌だったのに望んでいるかのように思わされた」と"認め"なければこのまま不愉快な同情をあびながら矯正すべき対象としてみなされつづけるかもしれない。プレッシャーがある。
「同世代に相手にされないから、自分はオッサン好きだと思い込むことでやり過ごしてるんだろw」という揶揄には、保育園から小中高と園内・校内でそれなりにモテてきた事実で対抗できるけど、「父親がいないからそんなふうになっちゃったんだね」という不愉快な同情にはなんと言い返せばいいのか。
母方祖父は両親(曽祖父母)の激しい夫婦喧嘩を見ながら育った人。曽祖母は私が12歳くらいまで生きていたけど、最期まで気の荒いおばあさんだった。どうも祖父は自分が高齢になった今でも、優しい母親のような存在を夢見ているような気がする。
反権力を標榜する人物が「私のことは先生と呼ばなくていいよ」とか「敬語はやめてタメ口でいこう」などと口にすることがあるけれど、呼び方や口調を当たり前に決定することができるのはある意味で権力の行使であり、私はそういうずるいジジイは意地でも、甘ったるい声で「先生」と呼んでやりたくなる。
母はよく、幼い私の見ている前でリストカットをした。悲しいことがあったときや、虐待や性被害のトラウマがフラッシュバックしたとき、私になにか要求があるときなど。私は血だらけになった母の姿を見て一応慰めるけど、「大人になったら、私はぜったい誰にも優しくしたくない」とひそかに考えていた。
私はやっぱり性格が悪いのかもしれない
B氏の件でとくに精神的にこたえたのは、反天皇主義者の氏がSNS上で、某社会学者の"44歳差不倫"騒動への一部のパターナリスティックな反応(「グルーミング的」「対等でない」など)をヴィクトリアニズムになぞらえて批判していたのに、私に対してはおそらくほぼ躊躇なくパターナリズムを適用したことだ。件の大学生の女性は私より年下だし、氏と私の年齢差はその大学生と社会学者とのそれよりも小さかった。やはり、私が発
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