彼との対峙

「君たちは自由だ!」
とあるアニメ作品の中に、主人公が奴隷を解放するシーンがあった。多くの視聴者が解放された奴隷たちが主人公に感謝する状況を期待しただろう。しかし、解放された奴隷たちは主人公に暴力を振るい、暴言を吐いた。彼らの主人が良い人であったことはその理由の1つであったが、彼らの中には「勝手に解放しやがって、これから俺はどうすればいいんだ…」と座り込んで呟く者もいた。

おそらく、そういうことなのだろうと思う。

これまでは目の前に道があった。小学校を卒業し中学校へ、中学校を卒業したら高校、そして大学へ、その後は大学院へ進学するか、もしくは就職する、というような社会的に良しとされる道。そしてそれは自分でも“そうなるのだろう”と何となく思っていた方向。
その道があったから、これまでの人生 “前進している”という感覚が自分の中にあった。

しかし、約1年間の留学を終え、大学卒業という現実が確かな輪郭を持って迫ってきている今、私は自分の進んできたその道の先に進むことを躊躇している。もう、 前進しているのか、後退しているのか、停滞しているのかすら分からない。

知ってしまったのだ、それ以外にも道はあるのだと。道を創れるのだと。

留学は非常に大きな影響を私に与えた。留学先でたくさんの人と出会い、素晴らしい友人達に恵まれた。彼らの中には、私が今まで歩んできた道の上を歩いていない人達がいた。自身で他人とは異なる道を創っていた。

日本にいる時も、たくさんの選択肢があることは理解していた。必ずしも、その道を進む必要がないことも理解していた。そして、個人的には、その道から外れる経験をしたいと思ってもいたし、実際にそうしようと口に出したことも多々あった。しかしその度に感じてしまうのだ。その道に従わなければならないという圧力を。

しかし、留学先で出会った彼らはそういったものを感じさせなかった。そこにはより豊かな自由があった。自分の進む方向を自分で決めること、他人とは異なる道を進むことへの寛容さがあった。それは社会が与えているものなのかもしれないが、何よりも彼ら自身がそうすることを許容していた。

そして私は、大学を卒業したからといって、そのまま就職する必要はないのではないか、すぐに進学する必要はないのではないか、あるいは大学を辞めたっていいのではないか、と考えるようになった。
“道から外れる”ということが、以前よりも現実的に思えたのだ。ただ思っているだけ、口に出すだけではない、充分に実現可能なことであると。

そして、そのような考えに至るたびに、私は自分の中にいる”道を外れることを許さない自分”がいることに気づいた。彼は、これまでの自分を含め、多くの人が通ってきた道を外れることを、別の方向を向くことを恐れているのだ。そして私は、それまで歩んできた道は、周りの大人や社会だけでなく、彼が敷いたものだったのだと知った。

彼は幼い頃、所謂”優等生”だった。それ故に彼は社会的な価値基準に敏感なのだろう。何が良くて何が悪いのか。何が美しくて、何が醜いのか。何をすべきで、何をしてはいけないのか。その価値観に身を置き、その中でのより良いことを行うことで、賞賛されたからだ。彼はその中で居心地の良さを感じてしまった。だから彼は道を敷いて、その上を歩いてきた。

しかし、今の私はそれ以外の道を創り、進むことができるのだと、周囲の人々の存在という確かな現実を目の当たりにして痛感した。そして心のどこかではそうすることを望んでいる自分がいる。

そのためには自分で道を創らなければならない、方位磁針を手に持ち、どの方向に進むのか決めなくてはいけない。
あるいはそうする必要もないのかもしれない。ただ漂うだけでもいいのかもしれない。
もしくは後退してもいいのかもしれない。
なぜなら”別の道を創る”、 “前進する”というのも、彼が生きてきた社会的価値観のもとで良しとされることでしかなく、これまで歩んできた道と同じように、絶対的なものではないかもしれないからだ。

ただ、いずれにせよ、まず私は彼と対峙するところから始めなくてはならないのだろう。
そしてこの自由に飛び込んでみようと思う。

今、「君たちは自由だ!」と言われ、広大な外の世界を目の前にしてもなお、それまで歩んできた道から抜け出せずに「どうすればいいんだ」と、時に乱暴になり、時に迷い、地べたにしゃがみ込む彼を連れて。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?