【長編小説】万華のイシ 無我炸裂_3
前話はコチラ!!
1章_無我-crazy in trouble-
1-5 至上の銘果
◆二〇〇五年 六月十一日 神流探偵事務所
沈みゆく陽光に照らされた紅い雲と、逸って姿を見せ始めた濃紺な夜空のストライプ。オレが事務所に戻ったのは、厚かった雲に切れ目ができて宇宙が垣間見えるようになった、そんな時間のことだった。
「この紅さ……明日は雨か」
今日が終わらぬうちに明日の荒天を予告されたみたいで、損した気分になってしまう。
お天気お姉さんの語る降水確率というのは、七〇パーセントでも降らなかったり三〇パーセントでも降ったりと人々の期待を裏切るものであるが、こういう自然の魅せる予兆というのは不思議と外れない。
先人たちの培った凶兆に若干肩を落としつつ、日焼けで塗装が退色した事務所入口の扉を開く。
さてこのブルーな気持ちにどう落とし前付けてもらおうか、神流への恨み言を開口一番、
「おう神流お前――――」
と言い終わらないうちに、
「おかえりサカエ!」
応接用のソファに座っていた人影から弾けるような声が届く。
「神流さんから聞いてた時間より随分遅いじゃない!あと一〇分遅かったら私、諦めて帰っちゃうところだったよ~」
そこにいたのは等々力ひなた――高校時代からの知り合いで、オレが病魔発症者だと知ってなお対等に接してくれる数少ない人間の一人――だった。
いつもの土曜なら事務所で見かけるはずがない人物の来訪に、出しかけた文句が引っ込んでしまった。
代わりに疑問が口をついてしまう。
「等々力……?どうして」
「うわ傷つくなその反応。せっかく午後の講義が休講になったからって、わざわざサカエの顔見に来たのにさー」
オレの反応がご不満らしく、ひなたのヤツは口を尖らせてわかりやすく拗ねてみせる。
かと思うとソファから身を起こしてこちらに駆け寄り、
「日々学業で忙しい隙間を縫って甲斐甲斐しく逢いに来たカノジョにかける言葉、もっと他にあるでしょ?」
ホラ、ホラ!と茶色のポニーテールを揺らしておねだりする仕草を披露する。投げたボールを咥えて戻ってきた犬っコロみたいだ。
確かに、たまさか休講が発生したからといって、キャンパスから一時間以上掛かる道程を経てここまでやって来る行動力は目を見張るものがある。
ただし、その前に訂正すべきことがひとつ。
「等々力。オレとお前の関係はそういうものじゃない。彼氏彼女関係を既成事実化するのはよせ……って、前にも頼んだだろ」
「またそういうこと言うー。私もその時に言ったじゃん、『じゃあ私はサカエがどう思っていようとサカエの彼女で居続けるから』って」
彼女の反論はまるで恋愛映画の一大告白シーンみたいな台詞だけど、これを告白でもなんでもない、ただの日常会話で平然と披露してしまえるのだからコイツはすごい。
普通、彼氏彼女関係ってお互いの同意があって初めて成立すると思うんだけどな。
この自称彼女さん的には解釈が違うらしかった。
「………………………」
ざっと脳内シミュレートをしてみる。
こちらの主張は「彼氏彼女関係なんて結んでないんだからそういう振る舞いはよしてくれ」。かたやひなたの主張は「別谷境の意見なんて関係なく勝手に彼女やらせてもらうからね」。
……………………。
…………。
うん、飛行機雲みたいに清々しい平行線。そんでもってこの場合、オレがどんな理屈で反論したとてアイツの行動に変化は無いだろう。だってオレの意見関係ないんだもの。
結論。
「ったく、お前のアグレッシブさには呆れを通り越して尊敬の念すら抱くよ。……ほんと、会った時から変わんないよな、お前は」
説得を諦め、ひなたの頭に手をのせる。そのまま前髪を指で梳くように撫でつけると彼女は、はにかみながらも満足げな笑顔を見せた。
「えへへー。なんだかんだ言いながら優しいサカエだって、変わってないよ」
「お前のその思い込みも。昔のまま、だ」
いくら労力を割いても結果が同じなら、そんな徒労をオレは選ばない。
やや行き過ぎなきらいはあっても、彼女が好意を向けてくれる事実は有り難かったし、その想いがこの世のどんな果実よりも瑞々しく甘いもので満ちてるであろうことをオレは知っている。
分かっているからこそ、その至上の銘果をオレの真っ黒な顎で食い荒らすことだけはしたくなかった。
オレに許されるのは、差し出される果実を手に載せ眺めるところまで。
それに口をつけてしまうことなど、あってはいけないのだ。
次回
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