あふれる

ラテン語ってなんかかっこよさそうでいい感じじゃないですか。

そんで英語と韓国語と中国語は私にとって身近な音楽でありまして、日本語は私に苦痛も併せてもたらします。なんて業が深いんだとか思いながら、接客中は英語が通じると笑顔になるくらいには意思疎通が出来ると嬉しいんです。実践。吹き替え。Google翻訳からのお勉強。そんな感じで言語を学んでいくほうが私には性に合ってましてね、それにようやく最近気づいて、なんだか気づけてよかったなって感覚なんですよ。

この感覚を幼い頃から持っておけたらまた世界の見え方は違ったでしょうし、私は私ではなかったでしょうけれど、存外、私は私を気に入っておりまして。そんなこんなでいま真夜中な訳なんですけども、言語なんて多いに越した事はないと思うんです。

どんなものでも言語になり得るわけで、わたしはわたしの言語を増やす努力は諦めたくないなと思うわけです。文字、色、音、形、学問、自然、無形、全ては全てが言語足り得る値する。

その眼を閉じてしまわなければ。何事もそうかと思うのです。そうやって君の全てを否定しないでそのままに。あふれてしまえばいいとおもう。私の全てが。そうしたら少しは私は掌を開いて前に差し出せるのではないのかなと思う。たとえ誰も握らなくても。握られたくて掌を開くんじゃない。ただ私が空っぽの掌を開いて前に出しておきたいと祈るからわたしはそう在ろうとするんだ。わたしの王が望むこと。わたしの宰相が望むこと。私の民が望むこと。わたしが心から望むこと。

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