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第14話 帰っていいよ(ありがとう)

母が病気になりました。
病名は急性白血病です。

2018年10月27日、私は母の部屋を訪れ体調を確認し、武道館に行ってくると伝えました。その日は、大好きな岡村靖幸とYUKIのツーマンライブという、私の中ではとても楽しみな日でした。

母は、「どこにぶどうを買いに行くの?」と言いました。

『武道館に行く』、が、『ぶどうを買いに行く』、に聞こえたようでした。

説明をしたら納得したようで、再度、体調を確認すると大丈夫と母は答えました。私は、安心して、ライブに行きました。

9時過ぎまでおよそ3時間に渡る素晴らしいライブの後、九段下でラーメンを食べて帰宅しました。

母に帰ったことを伝えてから、しばらくしてのことでした。

母が、体調が悪いと訴えてきました。


私は、ライブイベントの運営の仕事をしています。
2か月に1回、ライブハウスでイベントを行っています。

翌日の2018年10月28日、日曜日は9回目のライブ当日でした。
母には前々からこの日は、1日居ないと伝えてありました。
場所も池袋なので、具合が悪くなったときにすぐに戻ってこられる距離ではありませんでした。

母は、そんな大事な日に迷惑をかけたくないので、入院したほうがいいかなと言ってきました。普段は文句ばかり言っている母が弱気だったのは、本当に辛かったんだと思います。

私は、これは普段と違う雰囲気だと察して、すぐに病院に行く準備をしました。自分の準備を済ませた後、母の保険証や、すでに準備済みの入院セットを持ってきて、救急車を呼びました。

24時を過ぎ、日付は変わり日曜日になりました。

救急車で病院に到着した後、深夜なので担当医はおらず、宿直の先生が診察をします。酸素マスクをつけるなどの処置はしましたが、それ以外は、血液検査の結果が出ないとなにもできないと言われました。

母は、苦しい。苦しい。
今までにない、辛そうな表情で気分を訴えていました。

そんな矢先、母の意識がある間に、もしもの時の為に延命措置の選択はどうするか?病院から提案がありました。

母の呼吸機能が著しく低下しており、最悪の場合、呼吸停止で死んでしまう可能性があると説明を受けました。その際に喉を切開し、直接人工呼吸器をつけてもよいか?との判断をしてくれとのことでした。

病気になる前から、母は、延命措置拒否を何度も言っており、この処理がそれにあたるのか私は悩みました。

なぜなら、母の病気は白血病なので、免疫力がとても低いのです。切開処置による様々な理由で生命維持が不可能になる可能性も非常に高いので、リスクを伴う決断だったからです。

その時でした、苦しんでいた母が私を呼びました。

苦しいのに、医者がなにもしてくれない。さっきから、苦しいって何回も言ってるのに、どうなってるんだ!

母は、一言発するごとに苦しそうに息を吸い、また一言話しては、ヒューという音を立てながら呼吸をしました。

まだ怒りの感情がある、母の生命力を感じられた私は、先ほど医者に言われた選択を、何度も繰り返さないように、簡単な言葉を身長に選び、1回で伝わるようにゆっくりと母に説明しました。

母は、喉の切開はしたくない。そこまでして生きたくない。
お願いだから延命装置はやめてちょうだい。

ハッキリと言いました。

点滴を受けながら、会話をしたがる母、しかし、話せば余計苦しくなるので、しゃべらないでいいよ。そういうのが精一杯でした。

即、入院の手配をします。

そう告げられましたが、いかんせん、日曜日の早朝(土曜日の深夜)ですから、いろいろな手続きも進みませんし、人員も限られているので、待たされました。

母は、30分~40分おきに、大事な日なのに悪いね。と謝りました。

自分は、息をするのも辛いのに。


明け方5時過ぎ、ようやく母は病棟に行くことができました。半年間お世話になった、病院の10階に戻ってきてしまいました。

6時過ぎだったと思います。主治医の先生が到着しました。

血液検査の数字だけを見ると、生きているのも不思議なくらいです。遠まわしに覚悟してください、そう伝えられました。

本当ならば、4月の時点で退院を許せるような状態ではありませんでしたが、母の意思を尊重してくれたことも理解しておりました。約7か月でしたが、家で暮らせることを選んだのは母でした。

個室に入り、疲れからか眠りについた母でした。

主治医からは、このまま目を開けない可能性もある。そう言われました。

私は一旦家に帰り、1時間30分程仮眠をしました。

いつもより熱いシャワーを浴び、身だしなみを整え、会社に向かい仲間に説明をし、ライブ会場に向かいました。ライブは出演者の皆様、ライブハウスの方、お客様、そして仲間に支えられ無事に終わりました。

翌日10月29日、月曜日、病室へ向かうと母は、何もなかったかのように、前回入院した時と同じように、電気ケトルをもってきてくれ、あれをしてくれ、これをしてくれ、と頼んできました。

今思い出していても、私の記憶はもう既にあやふやです。

母は、話をしたがるのですが、話すと苦しくなるので、酸素マスクをつけたままでした。

色々、お願いを聞いた私は、もう話さなくていいよ。大丈夫だよ。そう言いました。

母は、「(来てもらって)悪いね。(仕事があるだろうから)帰っていいよ。」

そう言いました。


母が放った最後の言葉でした。

11月2日、金曜日、朝4時45分頃、私の携帯がなりました。病院からでした。至急、来てくださいとの連絡でした。

看護師さん、主治医と共に、母の死を確認しました。

私は、心の準備はできていたつもりでした。でも、頭の中がぐちゃぐちゃでした。言葉では表せない感情でした。悲しくて涙が溢れるのでもなく、かといって平然といられるのでもありませんでした。

主治医から、一緒にお母さまのおからだの拭きますか?との急な問いにも、きちんと答えられませんでした。

ただただ、慣れた10階の病棟から見えた、景色をスマホで撮り、twitterで投稿することで、自らの言葉にならない思いを表現していました。

(続く)

イラストは元吉茉莉花さんです。twitter(‏@marika_3o210 )

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