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酒無くて 何の花見が 桜かな

桜の季節になると、師匠は決まってこの句を口にしてぼくを花見に誘った。

「酒無くて 何の花見が 桜かな」

歳が40以上も離れたぼくと師匠だったけれど、酒を飲み交わすことに関しては全く問題にならなかった。居酒屋で一緒に野球を見ながら焼酎を飲みまくり、ファミレスでは時事問題について語りながらビールと酎ハイを飲みまくっていた。いつだってなんとなくまた飲みに行くか、という流れで週末の夕方5時に集まって飲む。飲みに飲みまくった。

四月
桜が咲き始めるとおもむろに桜の句を口にする。それが二人の花見の合図。今週末の土曜日だ。集合時間と場所を決める。了解。事務的に物事を決める。義務感でも期待感でもない、これはなんというか、そういうものだという、朝に起きて夜に眠るくらいに当然なぼくたちの営みだった。

桜が咲く公園近くのコンビニが集合場所だ。コンビニでカップの日本酒を買う。師匠はカップを四本買う。だからぼくも四本買う。師匠が飲む分だけぼくも飲む。それがぼくたちのルールだ。焼酎の水割りを飲むときでも、ビールを注文するときでも、二人同じペースで飲む。そういう一体感みたいなものを大事にしていた。それができる二人だったことがぼくたちの関係を成り立たせていたのかもしれない。共通の話題が無かったとしても、その一点だけは常に共通していた。

公園に入ってすぐの満開な桜の木の下で、最初のカップの蓋を開ける。ふわりとした甘くて柔らかい香りが漂う。桜の香りだ。すでに満開の桜の花々が更に花開いたような錯覚がする。
「酒無くて 何の花見が」
「桜かな」
二人で句を継ぎ乾杯。一息に半分ほど飲んでしまう。
嗚呼、今年もまた春がやってきた。
そのまま公園を散歩する。散在するベンチにたまに座って昨今の政治についての師匠の意見を聞きながら、関心が無いものは聞き流し、意見があることについては率直に意見を言い、ややこしい話になりそうな時にはゴルフの話題にすり替えた。
時折吹く風で桜の花びらが舞い散ると、手を掲げてカップ酒に花びらを集めた。初めてのときは衛生的に問題があるなと思ったけれど、今では全く気にならなくなった。そんなに繊細な身体でも無いし、師匠曰く、年中酒漬けで消毒は常にばっちりなのだからそんなことは気にする必要がないとのことだった。その意見には全くの同意だった。

「花嵐」
「酒に捧げし 我が命」
師匠の五の言葉に適当に七・五をつけて笑い合った。字余りも字足らずも関係なかった。俳句とも言えない詩情を感じさせそうな言葉を言ったりした。師匠は詩や文学には実際のところ全くの無関心で、うまく五・七・五にはまった時は笑ったがはまらない時には全く無視された。うまくいこうがいくまいが、ぼくらは気にせずに酒を飲み、桜をカップに集めて酒もろともまた飲んだ。買った酒を全て飲み終えるまで、休みつつそぞろ歩いた。

今年もまた春がやってきて、また過ぎ去っていく。一つひとつ年を経ていく。そしてまた春がやってくるのだろう。いつまでもまた、次の巡りが来たる体で今日を過ごしていこう。

元気でね、師匠。

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