動物が人間を支配する非近代国家:北朝鮮だが,10年経ってなにか変わったか
※-0 いつまでつづく地獄の国か,豚児が大人の社会を支配する非民主主義反人民似非共和国〈性〉が実態である中世的強権独裁国
1948年9月9日,地理的な関係では,日本国とは日本海(東海)をはさんで存在する朝鮮半島(韓半島)に起きた出来事として,ソ連軍が占領・支配していた「その38度線以北の朝鮮の地域」に,ソ連が手先として送りこんだ金 日成--パルチザンとして抗日闘争をしてきた人物と同一姓名の人物ではない別人--が,ひとまず最高指導者になるみこみをもって,朝鮮民主主義人民共和国と名のる国家が成立していた。
なお,韓国(大韓民国)の発足は,北朝鮮よりも前,1948年8月15日であった。これに対抗して北朝鮮もその偽共和国となる新国家を設立させていた。
付記1)冒頭の画像は後段の文中に利用されており,そこに出所が記入されているものを借りた。
付記2)本稿の記述は2013年4月13日が初掲であった。ここの※-1はとくに本日2023年9月27日,全体の構成を補説するために書き下ろされた内容である。それ以降の段落でも補正・追加する記述がなされている。
当時からすでに75(76)年が経過したいまの2023年となっているが,こちら日本において「も」,なお真っ盛りである「世襲3代目の政治屋」の跳梁跋扈を,日々実感させられている。
国民・市民・庶民の視点に映してとなれば,あの『金王朝』とも呼称される北朝鮮,別名「朝鮮非民主主義反人民似非共和国」のことを,こちら日本国の立場が偉そうに批判できる資格,いいかえれば,民主主義の成熟度がいかほど担保されているかといえば,未達成とみなすほかない水準に留まっている。
というよりは,21世紀も四半世紀もの近い時が流れてきた現状の日本は,昔において一時期は先進国気取りをできていたものの,2023年9月段階になって現時点では,もう完全に「先進国からの脱落がほぼ認定済みの事項」となっていた。「経済は3流で政治はもとより4流」である国家体制に,いつの間にかズルズルと転落してきた事実は,否定しようがなかった。
ところで,数日前のニュースに以下のものがあった。『日刊ゲンダイ』2023年9月25日が報道した記事である。
統一教会ならびに極右系宗教組織味の濃い自民党と創価学会丸抱えの公明党との連立政権は,いままで長いあいだ,たがいに執権党の立場を組んだ間柄にあって,おたがいに権力のうま味を味わってきたお仲間のはずであったが,最近はギクシャクした両党の関係が,ときたま噴出される雲行きになっていた。
自民党内では老害政治屋の代表格の1人であったこの太郎が,創価学会・公明党に対して「がん」だという病気のことばをもちだして,口撃したとなれば,この自民党の典型的な「世襲3代目の政治屋」の1人であり,日本語の読解能力において大問題の持主であったこの人物が,もともと公明党嫌いであった立場からそのように自分の感情を吐き出していた。
首相である岸田文雄がこのように,太郎のいいたい放題を許しているごとき自民党の溶融ぶりは,岸田自身も「世襲3代目の政治屋」である点は触れるまでもない問題性だとしても,自民党内は完全に堕落・腐敗した政治しかなしえない「公党まがいの私兵集団」的な政党に,だいぶ以前からなりはてていた。
しかし,それでも「世襲3代目の政治屋」は,日本の選挙制度である「小選挙区比例代表代表制の金属疲労化」現象や「政党助成金制度の弊害」を足場に悪用することで,現状における日本の政治を思い切り退廃させつつ機能不全にまで貶めてきた。
しかし,現状をみればよく分かるように,政党助成法が日本の民主主義国家体制をより良き方向に改善させ,政治じたいの民主度を高めるどころか,とくに世襲政治と癒着した腐敗・堕落を助長する金銭的な支柱を提供するだけの制度になった。
2012年12月26日に発足した安倍晋三第2次政権は,21世紀におけるこの日本を完全にダメにした。ガラクタ同然にまで破壊した。アベノミクスのアホノミクス性は,世界経済の舞台における日本企業の国際競争力を削ぐだけでなく,産業経済全体を沈滞させるとともに,国民生活の水準も低下させる役割しかはたしてこなかった。
いまごろになってもまたもや,「世襲3代目の政治屋」である岸田文雄が登場していたわけだが,2021年10月4日に総理大臣となっていたこの人は,独自の政治手法,はっきりいって具体的な中身としてみるべきもの,評価に値するものを,なにももちあわせていなかった。
日本国の首相になりたかったことが,自分が政治家になった動機だといってのけるのはいいとしても,首相になってからなにが一番やりたい仕事がなにかと問われて「人事の采配だ」と応えたこの「世襲3代目の政治屋」は,この「答え」だけでもすでに,これはもう完全にダメな政治屋だという事実をみずから告白していたことになる。しかも,実際に首相をやらせてみたら,まったくそのとおりに「幽霊みたいにアヤフヤな総理大臣」になっていた。
こうなると,岸田文雄が自分の政権を発足させた時点から「この日本国は没収試合も同然」であった。実際,岸田文雄の政権が発足してからもうすぐ2年になるが,この「世襲3代目の政治屋」のやること・なすことには,なにひとつ衝迫力がなかった。国家官僚に操られる腹話術の人形。
安倍晋三のほうに戻ると,アベノポリティックスはこの国の民主主義の水準を地に落とした。政治の私物化現象はいまでは通弊というより習慣になってしまった。アベはこの日本の政治を,まさしく「死物にした」のである。
最近,ロナルド・ドーアが1997年に筑摩書房から公刊した『「公」を「私」すべからず』という本は,「公」におおやけ,「私」にはわたしとルビを振った書名にしていたが,その「すべからず」を「すべて地でいった」のが,2010年代に登場した安倍晋三というボンボン首相の悪華であった。
しかもアベノポリティックスのほうの,非常にタチの悪い,民主主義を破壊してきた負の実績は,もちろん大問題であったが,アベノミクスというダメノミクスは,最近における日本の経済的な地位を,世界経済のなかでは完全に「発展途上国」に変転させた。
新型コロナウイルス感染症の影響で2020年からはすっかり消えていた訪日外国人による観光業が,この2023年になってようやく回復してきた。安倍晋三の失政の思わぬ成果があったものの,訪日外客数(2023年8月の推計値)は215万6900人まで復調した。
7月中に関連する関連の報道は,すでにこう伝えていた。
外国人観光客が日本に来て口をそろえて喜ぶのは,物価の安さである。しかし,その事実は,購買力平価が日本国内では世界水準に対して大きい差をつけられてきたのであり,日本に暮らすわれわれの生活水準じたいが「相対的にも絶対的にも貧困化してきた経済現実」を,正直に物語っている。
アベノミクスがリフレ目標率を2%に据えていたけれども,2010年代において日銀総裁をやらせていた黒田東彦は,完全に裏目に出るほかない経済政策を飽きもせずに展開させるしか能がなかった。
しかも,肝心な点,デフレ傾向はいっこうに収まららないなかで,しかもその過程において商品価格の,ゲリラ的という意味での実質的なインフレ的な趨勢は,巧みに包みかくす形態で進展させられてきた。
品物の値段そのものは上げないが,その中身の数量や正味を減らしたり,あるいは容器そのものを小さくする工夫など,それもなるべく目立たない方法でおこない,目先でもごますごとき「デフレ基調だがインフレ副調こみ」の,だから実質的には,「スタグフレーション傾向を基底に踏まえたステルス的な値上げ操作の進行」といったらよい「消費経済の基本動向」が長期間つづいてきた。
ところが,そのあいだに海外の諸国は,インフレ率がより高く,またこれに追いつく賃金上げが遅い歩調であったしても,そのような関係がつづくうちに,日本だけが購買力平価ではすっかり落ちこぼる一国になった。
この2023年9月になってからは円ドル相場が,昨日(9月26日時点)だと149.00-06円まで落ちていた。しかも,この実質的な購買力平価としての水準は20世紀中に1ドル=360円だったときの,その「円の実力」よりもとうとう低くくなった,というのだからたまらない。
そうとなっていたからこそ,日本に来た外国人観光客が日本は物価が安いヤスイといって喜ぶのは当然である。昔ならば,日本に観光客を送りだしていなかった国々からも,最近では多くの人びとが来ている。
だが,その一方で,この国の庶民の財布の中身は,「プーチンのロシア」が始めたウクライナ侵略戦争のために「物価が高くなるばかり」である最近の生活経済情勢のなかでは,台所事情がきびしくなっている。ネットのユーチューブ動画サイトには,「シングルマザー世帯」の子どもたちが3食にもこと欠く窮状を助けようと呼びかける放送まで,なされているが。
訪日する外国人観光客の実態に照らして思うに,海外と日本とのその「対照的な経済事情」は,たとえば東電福島第1原発事故現場から放出される「核・汚染水問題」のために,とくに中国との関係でこじれている日本の海産物輸出が,相手側からは輸入禁止の措置が採られている現在,たとえばホタテについては,日本国内で販売するといった場合,「100グラム,千円」で店頭に出されている。
いまの庶民の生活経済の状況に照らしていうと,そのホタテ(生食・刺身用)が「100グラム,千円」という価格は,わが家の配偶者にいわせると,「冗談じゃないよ,そんな値段で簡単に買えるか」という反応であった。
要するに,アベノミクスとアベノポリティックスは日本の政治・経済を根幹から腐食させ破壊してきた。(以上,2023年9月27日補述)
※-1 北朝鮮・金王朝3代目の孫は〈独裁者の資質〉に恵まれているのか?
北朝鮮では,建国の翌年の1949年6月30日,北朝鮮労働党と南朝鮮労働党が合併し,朝鮮労働党が成立していた。その名を労働党とは称しているがその中身はその後,金 日成という1代目が私的に占有する国家になっていった。
1)「凍土の共和国・暗愚の共和国」から「豚児の独裁国」へ -『朝日新聞』2013年4月13日朝刊「天声人語-独裁はなぜ続くのか」参照-
『朝日新聞』2013年4月13日朝刊「天声人語」は,最近『ミサイルを飛ばすぞ,発射させるぞ』いって世界を騒がせており,それも子どもの戦争ゴッコにも似た「自身の狂気」を発揮しつつあって,おまけにその「自分の幼さ」をわずかも意識できていない《お子さま:独裁者》支配国による「田舎芝居そのものの演技」を批評していた。
いわゆる「朝鮮非民主主義反人民似非共和国」ではいまもなお,チンピラ・やくざ風情の強がりが盛んに息巻かれている最中であるが,この北朝鮮の偉大なる先軍政治体制国家を,世襲の3代目として踏襲した「肥満デブちゃん:金 正恩君」の迷俳優的な大根役者ぶりが批判されている。
2) ナディア・エレーナ・コマネチ
何日かまえテレビの番組で,オリンピックで数多くのメダルを手にした体操選手のナディア・エレーナ・コマネチが,ルーマニアのニコラエ・チャウチェスカ独裁政権のもとでの生活に耐えきれず,脱出・亡命する実録物語を放映していた。
それは,社会主義・共産主義を国是とする独裁国であった東欧の一国で,ただし20世紀の終わりころに起きていた実話である。そして,北朝鮮の「金王朝」といえばこれは,現実にいまもその政権がつづいている〈東洋の神秘(=恥?)〉的な独裁国の話題であるが,のちにあれこれ議論する題材となる。
さて,ナディア・エレーナ・コマネチ(1961年11月12日生まれ;女性)は1976年のモントリオールオリンピックで3個の金メダルを獲得し,とくにこの大会では体操競技選手として初めて,10点満点を獲得した「歴史的な人物」である。
1980年のモスクワオリンピックでも2個の金メダルを獲得し,彼女はオルガ・コルブトと並び,世界中でもっとも有名な体操競技選手となり,競技の人気を高める役目も果たした。
彼女は1984年から1989年まで,ルーマニア体操協会のコーチとしてジュニア選手の育成にあたっていたが,1989年11月,ルーマニア革命の直前にハンガリー,オーストリア経由でアメリカに亡命した。
ニコラエ・チャウシェスク大統領の独裁政権のもとで,大統領の次男ニク・チャウシェスクが一方的に愛人関係をもとうとしたことを拒むこともできず,その事に耐え切れなくなったためという報道もなされた〔前述のテレビ番組では「〈勝手にニクの愛人である〉ということに『される目に遭った』(→独裁国が発行する新聞にそう報道された)」と解説していたが〕。
アメリカに到着したさい,厚化粧と安っぽい服装で登場した彼女に対して,ネガティブな報道もされたという。
アメリカに定住した彼女は,エアロビクスやフィットネス,ウェディングドレス,騎手のアンダーウェアの広告などに出演し,その後,1976年のアメリカンカップでしりあったバート・コナー(ロサンゼルスオリンピック男子体操金メダリスト)と再会し,1994年11月12日彼女の33歳の誕生日に彼らは婚約した。
そして,亡命以来初めてルーマニアに戻った2人は,1996年4月27日にブカレストで結婚した。結婚式は生中継され,レセプションは大統領府でおこなわれた。民主化したルーマニアに「犯罪者」と呼ばれることさえ覚悟してコマネチは帰国したが,国民は温かく彼女を迎え入れた。
註記)以上,http://ja.wikipedia.org/wiki/ナディア・コマネチ 参照。
というのも,彼女が亡命した時期〔1989年11月〕は,すでにソ連・東欧諸国の社会主義体制が崩壊する寸前であったせいで,彼女を「亡命者として逃げた」といって指弾する社会状況ではなくなっていた。
とはいえ,ルーマニアを独裁から解放するためにはむしろ,有名人であった彼女の亡命が逆に役にたった評価された,とみなされたからである。なおコマネチは2001年6月29日アメリカの国籍を取得している。ルーマニア国籍も放棄していないため二重国籍をもっているという。
2) 北朝鮮難民問題
日本の近くの国:北朝鮮からは,メダリストではないけれども,何万人あるいは何十万人の人びとが『脱北』(政治経済的な理由による国外亡命を)している。つまり,北朝鮮の住民(それも「敵対層」に分類される人民たちを中心に)が,これまで国外に脱出してきた「歴史」は,ここでわざわざ指摘するまでもない事実であるが,韓国には以前から流入してきた北朝鮮からの亡命者が2万5千人にも達しようとしていた。
補注)その後においてはその「脱北者」の数は激減している。2002年から千人を超えていたその数は2019年まで続いたが,2020年は229人,2021年は63人に激減した。その理由としては,2017年に成立した文 在寅政権(2017年5月-2022年5月)の北朝鮮に対する姿勢変更があった。
文 在寅の父は朝鮮戦争の時期,北朝鮮軍の将校として韓国軍側の捕虜になっていたが,この関係で在寅の出自に関しては,不詳・不明のままにされた疑念が残る点に関して,特定の指摘がなされていた。文の在任中に韓国のユーチューブ動画サイトには,その点を追及するものがいくつも登場し,甲論乙駁していたしだい。
以上の記述を通して提示されるべき論点といえば,社会主義国家体制という名の独裁国の歴史的な興亡や,二重国籍の問題があった。だが,ここではそれらについて具体的に論じることはせず,ただ問題点の指摘として触れておく。次項の※-2にすすんでさらに新しい問題を議論していきたい。
※-2 在日韓国人被爆者の話
1) 在日韓国人被爆者
『朝日新聞』2013年4月13日朝刊2面には「〈ひと〉李 鐘根さん-在日韓国人被爆者としてニューヨークで高校生に証言する」というコラムが出ていた。
いま〔当時〕84歳にもなる李 鐘根(イ・ジョングン)という在日2世の語る言葉:「米平和団体のヒバクシャ・ストーリーズに招かれて,今月下旬から5月上旬に,ニューヨークで高校生らに被爆体験を語る」を紹介している。
李は,広島市在住の在日韓国人2世である。爆心地から 2.2キロで被爆した。首や足に大やけどを負い,体にうじが湧いた。母は涙ながらに「お前,もう生きてても仕方ない。早う死ね」といった。「あんなに惨めだった自分のことを,他人にしられたくなくて」。
被爆体験と本名を秘し,トラック運転手や健康食品の販売をして,生きてきた。2011年の秋,国際交流NGOのピースボートが地球を一周し,各地で被爆証言をする人を募っているとしった。「ただで旅行にいけるなら」と応募。話が決まって韓国のパスポートを手にし,「ルーツを含め,自分のすべてを伝えるべきではないか」と思い至った。
旅は昨〔2012〕年。実名を明かし,封印してきた記憶の箱を開けた。各国の若者に「私は国をとられ,名前もとられて被爆した」と語った。ヒバクシャ・ストーリーズ代表で元国連軍縮局顧問キャサリン・サリバンさんが船旅をともにしていた。「説得力と勇気のある話を米国でもしてほしい」と頼まれた。
帰国後の昨秋から広島でも被爆者たちと交流し,修学旅行生らに体験を語っている。「本当の自分をとり戻し,もう1回青春が来たみたい。米国でもまっすぐな高校生たちの心に訴えたい」。「ここには実名を明かし,封印していた記憶の箱を開けた」,つまり「私は国をとられ,名前もとられて被爆した」という在日韓国〔朝鮮〕人の過去,それも戦争の時代にまでさかのぼる〈歴史〉が語られている。
つぎの記述にも,在日韓国人被爆者の問題を語らせてみたい。
厚生労働省のホームページに掲載されている「被爆者数(被爆種別・都道府県市別)」(平成24年3月末現在)は,被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)を「被爆者別人数」として,つぎの数値を出している。
この統計は,現在における都道府県別人数を挙げているものの,このなかに内数として含まれているはずの在日韓国人被爆者数は具体的に明示していない。
1号被爆者 129,898人 2号被爆者 51,140人
3号被爆者 22,460人 4号被爆者 7,332人
註記)「被爆者数(被爆種別・都道府県市別),被爆者数(被爆者健康手帳所持者数)」『厚生労働省』2013年3月末現在,
https://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15a.htmlhttp://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/genbaku09/15a.html 参照。
2) かつて帝国臣民であった韓国人被爆者
在日の人びとが被爆者として日本国籍人と同じに処遇されるのは,日本国の歴然たる国籍差別のために,だいぶのちのことになっていた。
関連する事情としては「孫 振斗裁判」の影響が指摘できる。この裁判は,原爆症の治療を理由として日本に密入国した孫 振斗が,被爆者健康手帳を交付しなかった福岡県を相手どり却下処分の取消を求めて起こした訴訟であった。
1974〔昭和49〕年の福岡地裁判決,1975〔昭和50〕年の福岡高裁判決,1978〔昭和53〕年の最高裁のいずれも,原告側全面勝訴の判決を下した。この裁判の過程を通じてあらためて韓国人・朝鮮人被爆者問題が注目されることになった。
当時の『朝日新聞』1978年4月1日の記事「援護法制定へはずみ」によれば,この最高裁の判決についてこう評価していた。
最高裁が『現行の原爆医療法には社会保障的な性格もある』との判断を示した結果,韓国人被爆者も日本の被爆者健康手帳を受けとることができる道を開き,外国人被爆者の救済問題に突破口となった。そればかりでなく,日本で20余年間にわたってつづけられている被爆者援護法制定運動に対しても,大きなはずみをつけることになる。
すなわち,この評価(新聞の論評)は率直に,「孫 振斗裁判」が日本人被爆者の社会保障上の救済水準の向上=底上げに貢献するという観方を示していたわけである。
3) 韓国・朝鮮人被爆者数
朝鮮人被爆者数,死者数については諸説ある。
韓国原爆被害者援護協会(現韓国原爆被害者協会)が1972年に発表した被害状況は,被爆者5万人,死者3万人と記す。
広島・長崎両市の原爆災害誌編集委員会が発行した『広島・長崎の原爆災害』岩波書店,1979年は,それも判断材料に,被爆者2万5000~2万8000人,被爆直後の死者 5000~8000人と推定した(いずれも広島に限った数)。
とくに韓国人(朝鮮人)被爆者数の推定は,創氏改名の強制など同化政策の影響もあり,「その把握はきわめて困難」と同書は強調している。
当時の広島市には,台湾出身の軍人・軍属や旧満州(中国東北部)からの留学生,強制連行された中国人,インドネシアやマレーシアなど東南アジア各地からの「南方特別留学生」もおり,犠牲者が出た。
市内に収容された米国人捕虜も十数名の死亡が確実とされている。
厚生労働省は,現在,海外に住む広島・長崎での被爆者数を韓国約 2100人,北朝鮮 900人,北米 1000人,南米 180人など,合わせて約 5000人と推計している。
在韓被爆者に対しては1980年,日韓両政府が渡日治療を開始した。政府間レベルでは1986年に打ち切られ,民間団体が継続した。1990年代には日本政府が医療支援基金として40億円を拠出した。一方,国交のない北朝鮮に帰国した被爆者には,いまだ具体的な支援は実現していない。
註記)「在外被爆者訴訟相次ぐ援護 なお高い壁」『ヒロシマ新聞』(中国新聞の労働組合が発行元),http://www.hiroshima-shinbun.com/no_pauses/nop_zaigai.html,2023年9月27日閲覧。
広島・長崎への原爆投下による被爆者の総数は70万人以上,そのうちの40万人以上が死亡したとされている。また,その1割の7万人が朝鮮人被爆者と推定される。当時,両市には軍需工業が多く,強制連行などによる朝鮮人の割合が高くなった。
この朝鮮人被爆者の約半数が死亡し,生存者のうち,約2万人が韓国へ,約3千人が北朝鮮に帰国し,日本にそのまま在留した人が7千人といわれている。いずれにせよ,正確な実態調査がなされていない。このうち,北朝鮮に帰国した被爆者の状況は,日本と外交関係がないこともあって,まったく判っていない。
註記)林 建彦・阿部 洋編『ニッポン・コリア読本-教科書に書かれなかった歴史と真実と日韓・日朝関係発展の課題-』教育開発研究所,平成3〔1992〕年,352頁。
日朝が国交を樹立できていない現状については,日本はもちろんのこと,北朝鮮「独裁国」にも大きな責任があるといってよい。
※-3 北朝鮮王朝の3代目:お子さま書記風 独裁者の火遊び
前段まで述べてきたごとき,社会主義を騙ってきた諸国家の政治体制面の欺瞞,くわえて,核戦争そのものの愚かさに関する歴史を少しでもしれば,北朝鮮という20世紀の社会主義風の遺物(異物)国家の,21世紀国際社会におけるチンピラ・やくざ風の言動は,赤子の右手に出刃包丁,左手に刺身包丁をもたせて遊ばせるのに似た風景。
1) 『青木義明 公式ブログ(競馬一直線)』が,2013年2月12日の記述で,こう語っていた。
北朝鮮が3度目の核実験を実施した可能性があると,日本政府が発表した。金 正恩体制にかわってもつづく北朝鮮の強硬姿勢に,広島や長崎の被爆者は「許されない」と強く非難した。
拉致被害者の家族は日朝協議への影響を懸念し,在日コリアンからも北朝鮮の姿勢に疑問の声があがった。「外交手段で核実験をしているのかもしれないが,実用される可能性もある」。国民学校3年のとき,母と弟を捜して入市被爆した広島市安芸区の豊永恵三郎さん(76歳)は,そう憤った。
現在,在外被爆者の支援にとり組む。北朝鮮には約300人の被爆者がいると推定されるが,国交もなく,被爆者健康手帳を持っているのは1人だけ。豊永さんは「北朝鮮は,被爆者援護がもっとも遅れた地。そんな国での核実験は,苦しんできた被爆者のなかでもとり残されている人たちのことが気の毒だ」。
広島県朝鮮人被爆者協議会の李 実根(リ・シルグン)会長(83歳)は,「いかなる国,いかなる立場であろうと,核を作ること,もつことは絶対に許されない」と話す。16才のとき,原爆投下翌日の広島に入り,被爆した。
1昨年(2011年)に米ニューヨークを訪れ,核兵器を保有する9カ国の在米大使館などで非核を呼びかけた。「北朝鮮だけが,自国民である私に面会してくれなかった」。
一方で,米国も大量の核弾頭を保有し,日本も実質的に米国の核の傘に入っていると指摘する。「米国が核から手を引かない限り,北朝鮮としても引かないのでは。日本も核の傘から離脱してほしい」と話した。
【参考記事】-李 実根訃報記事-
長崎原爆被災者協議会の谷口稜曄(すみてる)会長(84歳)は「肝心の日本政府がきちんとした態度を示さなければ状況は変わらない」と話す。「被爆国の政府として,核が人間に与える恐ろしさと核兵器廃絶をしっかり訴えるべきだ」。 --中略--
30代の在日コリアンの女性は「軍事費に回すお金があればなぜ国民のために使わないのか」と北朝鮮を批判した。朝鮮学校では社会主義の理想は「平等」だと学んだ。
3代にわたる世襲,繰り返される核実験,平壌と地方との貧富の差に「冷めた目でしか北朝鮮をみることができない。一刻も早く独裁政治から抜け出してほしい」。
一方,北朝鮮だけを非難する日本社会の姿勢にも疑問を覚える。「北朝鮮とは比べものにならない数の核兵器を保有する国があり,日本もその傘に守られている」。
朝鮮学校に子どもが通う都内の女性は「核実験は許されることではないが,北朝鮮の脅威のみが誇張されつづけるのが怖い。子どもへの嫌がらせが起きないか心配だ」と話した。
註記)以上,http://blog.aokiyoshiaki.com/?eid=935507 『青木義明公式ブログ「競馬一直線」』。このブログは現在は削除。
2) 核兵器ミサイル・ゴッコ国家:北朝鮮
北朝鮮と日本の政治姿勢に関していえば,「米国が核から手を引かない限り,北朝鮮としても引かないのでは。日本も核の傘から離脱してほしい」という認識は,軍事的な方面からすれば,必ずしも正しい理解とはいえない。
北朝鮮が核で日本を脅しているつもりであれば,アメリカの核の傘がなくなれば,日本もすぐに核をもつようになるはずである。そもそも「北朝鮮を攻めて得をする国などない」。この国をこれから立て直すには膨大な予算と労力を必要とする。
そのようなダメな最貧国家にした張本人:その親子の3代目が,ミサイル・核兵器ゴッコで世界に向けてダダをこねている。このダダのそぶりが狙っている獲物がなんであるかといえば,この3代目がいつまでも独裁を安定的に維持・継続できるネタ:保障を各国が提供しろ〔いままで中国が北朝鮮に与えているように〕,そうすれば「わが北朝鮮の独裁体制はより万全なものになる」という屁理屈である。
日本はその一番手のカモとみられているかもしれない。なにせ,いまだ国交を樹立しておらずこれが実現したあかつきには,日韓国交正常化並みの祝い金をもらえる可能性がないとはいえないからである。
北朝鮮の場合,この国が命令を下しながら現に,その指図どおりに動かしているのが,在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総聯)である。そして,この傘下にある朝鮮学校の教育方針も推してしるべしある。
朝鮮総聯に支配されている朝鮮学校関係の諸組織が,日本政府に対して高校の無償化を要求している事実との関連でいえば,あの洟垂れ小僧の独裁者が身の程もしらずに無理をして,ミサイルをなんども飛ばして何百億円をも浪費する実態についても,
そこまで金を使う余裕があるならば,その一部でも朝鮮学校に「都合して回してくれ」と--いまは数年に1度,涙金程度の援助しかできず,金 日成の時代の支援金額に比較すると「ないも同然」の現状であるから--,真っ先にこの「彼に対して要求する」のが筋である。
過去においては,朝鮮学校の運営・維持に関していえばそうして,日本政府の補助金など相手にしないと威張ってもいたはずである。ところがそれなのに,いまごろになって,過去からの経緯や実状にはいっさい触れないまま,ただただあれこれ文句ばかり申したてる朝鮮学校〔朝鮮総聯〕側の態度は,一方的に過ぎた偏狭なご都合主義に走っていた。
国際関係のはざまにある教育問題のことであれば,そのなかにまで政治が勝手に介入してくる出来事は,理不尽ではあっても完全には否定できない,ある意味では当然の出来事である。この現実を解決する意識的な努力が必要であることも当然である。
とりわけ,いままでこの種の問題現象を生起させてきた「日朝双方における政治的な姿勢のありかた」が,もっと冷静にかつ客観的に理解されねばならない。北朝鮮という独裁国家では『教育=政治の典型』である。
北朝鮮が日本の経済力を本気であてにしたいのであれば,日本人拉致問題の解決などお茶の子さいさいに解決できなくはないはずである。
「金 正恩のオヤジ:金 正日」が,日本人拉致問題の犯人は「北朝鮮自身=つまりボクです」と,2002年9月17日に小泉純一郎が訪朝したときに告白したのは,そういって謝っておけば「これに何億万倍・何十億万倍する見返りが獲得できる」と《捕らぬ狸の皮算用》をしていたからである。結果的には大失敗となっていたが・・・。
3) 4月15日は偉大なる指導者同志〔正日〕,首領さま誕生日-この日に向けての虚勢を張らねばらない,その孫の正恩-
『朝日新聞』2013年4月13日朝刊だったが,見出しを「米韓,出口戦略探る 北朝鮮に『信頼構築を』」とした記事は,「米韓は『対話』を持ち出して緊張緩和を探り始めたが,北朝鮮からの反応はない。逆に,11日夜には『攻撃手段は発射待機状態にある』と威嚇し,12日には原子力工業省の設置を公表するなど強硬姿勢をゆるめておらず,事態がどう転ぶのかは不透明だ」と報道していた。
だが,同じこの『朝日新聞』朝刊は他面で「平壌,見えぬ危機『全く平穏』各国,退避せず」という見出しでの記事も報道していた。そういえば,4月15日は北朝鮮独裁者1代目の金 日成の誕生日だそうである。
いくら最貧乏国を代表するのが北朝鮮だといっても,この独裁国建国の父である「オジイチャンのために」打ち上げ花火の1発くらい上げねば,国家の威信が保てないとでも考えた孫がいて,なんらおかしくない。あの狂信的な独裁国家に関する認識としてみれば,どこの誰からも異論が出てこないはずである。
朝鮮総聯がいままでと同じに,北朝鮮を民主統制的にまともに批判することができないかぎり,この在日朝鮮人の政治組織が同じくまともに「在日同胞のための政治組織」として,本来もつべき役割を果たすことなどできるわけがない。
金 日成の誕生日さえ祝えれば同時に,人民の生活も豊かに幸せになれるのであればけっこうであるが,この2つの事象が正反対に出来する国,それが「北朝鮮非民主主義反人民似非共和国」の真骨頂であった。
4) 佐藤勝巳の話-朝鮮総聯批判-
佐藤勝巳は,『統一日報』2013年3月27日「回想記 51,総聯のメディア攻撃2 コメンテーターは無難な仁川に,北朝鮮の実態を報道せず」において,こう語っていた。
「北朝鮮の実態を統一日報に連載した在日朝鮮人,金 元祚『凍土の共和国』(亜紀書房,1984年)が単行本になったのが1984年3月25日。30年前である」。
「総聯系在日朝鮮人に『俺の北認識(ひどい国だという:引用者註記)は誤りではなかった』という北認識の共有化と図ったという意味で,誇張ではなく歴史を変えた本であった。10万部以上売れたように記憶している。この本をもって,総聯の崩壊が始まったとみていい」。
佐藤勝巳はさらに,『統一日報』2013年4月10日「回想記53,総連のメディア攻撃4 北朝鮮の悲惨な現実を報道 直後に総連関係者から出版社に抗議殺到」では,話をづづけてこう語っていた。
1984年4月10日発売の『週刊朝日』は,「感動のドラマ25年後の現実 ついに在日肉親が語り始めた北朝鮮帰国者10万人の “絶望" 」というタイトルで6ページにわたり,北朝鮮の悲惨な現実を大々的に報道した。
発売翌日の4月11日午後3時を期して,朝日新聞東京,西日本,大阪,名古屋各本社に電話抗議が始まった。他方,4月12日から19日までの8日間,東京本社には多い時で200人,平均100人の抗議団が押しかけた。
抗議の中身は,報道が著しく「事実と相違する」ということと,記事のなかで金 元祚著『凍土の共和国』を一部引用したが,同書は韓国情報部(KCIA)のでっち上げであるから,記事をとり消し,謝罪せよ,という不埒な言論干渉であった。
思想が相対的に右の人たちのなかには,朝日新聞というと「北の手先」のようにいう人がいるが,1984年春の段階で,6ページにわたって北と総聯のでたらめさ加減を報道したメディアは,週刊朝日以外なかった。
しかしどこの報道機関も総聯の抗議に恐れをなして,週刊朝日が総聯から不当な抗議を受けているという事実を,『現代コリア』を例外として報じなかった。朝日新聞も黙った。私は,当時の週刊朝日を高く評価している。
担当記者たちは体を張って取材をしていた。あのころの記者たちには志があった。われわれが瞳のように守らなければならない「言論の自由」が抗議という名の「暴力」に脅かされているとき,日本の報道機関は戦おうとしなかった。きわめて深刻な問題である。
そのころ『凍土の共和国』の著者が「解説」を書いた私に会いたいといってきたが断わった。理由は,会うとどこかで著者のことを話してしまうかもしれないという懸念からだった。もし私の言葉から著者が特定されたら,彼は間違いなく消されていた。
だが,金 元祚氏の著書は日本のメディア(『週刊朝日』)を動かした。その一方で,家庭内では金 元祚氏の目の前で朝鮮高校に通う孫娘が,「韓国情報部のでっち上げだ」と朝日新聞に抗議の電話をかけていたという。著者は耐えられず外に出て耳を塞ぐという悲劇に直面した。
韓半島は,日本に最も近い国であるが,歴史と置かれている環境が違えば想像さえできない現実があることを『凍土の共和国』の出版に関与してあらためて教えられた。日本の価値観で量ってはならないのだ。
補注)以上に『統一日報』から引用した佐藤勝巳の文句は,単著『「秘話」で綴る私と朝鮮』晩聲社,2014年に収録されている。
5) 1985年6月1日の金 元祚「発言」紹介(『統一日報』1985年6月1日3面から)
この記事から28年も経った2013年4月現在になっても(ついでにいえば2023年9月現在になっても),北朝鮮がそれより少しでもいい国になっているようにはまったくみえないところが悲しい。
唯一の変化(進展!?)といえば,独裁者の3代目がデビューしたことであるが,これもとてもではないが,少しも「笑えない」。
だいぶ以前,どこかの国の王様は,「広島・長崎への原爆投下」に関して「私としてはやむをえないことだった」し,自分の戦争責任のことを「文学方面のことばのアヤ」といって撥ねのけていた(1975年10月31日の記者会見で)のだから,あちらがあちらなら,こちらもこちら,である。
共通しているのは,日本人自身も韓国(朝鮮)人もともに,その被害者になっていたことである。
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