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元号は世界に誇れる文化だと日本政府などはいうが,外務省が海外向けには元号を使わないで西暦に統一しようとしたら,安倍政権内で「デンデン(云々)」とか反対された話題

 本日の話題は当初,2019年4月3日に書かれていたものを,ここに再掲・復活させるものである。とりあげる話題について最初に「事情説明」をしておきたい。

 元号は世界に誇れる文化だと日本政府は,孤立無援にかつ誇大妄想の思いこみに,たいそうに非常なる自信をこめて騙ってきた。

 だが,外務省があるとき,海外向けには元号を使わないで西暦に統一しようとしたら,まだ安倍政権(第2政権時)の内部からそれは「デンデン」(「云々」のアベ読みだが,ここではゼンゼンとも読んでよし)ダメだとと反対された由(の話題)が,本日とりあげる素材となる。

 要点:1 「閉所独善・鎖国観念の独善性に沈没した」時代精神に囚われたまま,しかも「元号に関する浅薄な理解」が誇れたその稚拙で無理解の「元号観」

 要点:2 「日本のように天皇が交替したからといっては,改元の大騒ぎをしている国は,いまではアジアのなかでも日本だけ」といった自国のヘンテコな奇種ぶりを認識できない「明治維新史」「後的な国家精神のゆがみ」

 要点:3 元号「令和」の話題に関連させて,瓢箪から駒のようにして出てきた話は,「大昔における中国の《愚昧な時の皇帝》」が「いまの日本では誰に相当するか?」といったごとき話題にもなりえた

 

 ※-1「『令和可』,万葉集に光 書店に注文殺到,はや増刷」『朝日新聞』2019年4月2日夕刊1面「冒頭記事」

 ★ 私はこうみる ★

 1)「世界に誇れる文化」-『万葉集』に詳しい漫画家・里中満智子さんの話-

 万葉集を典拠にしたというのがすごくうれしい。1千年以上前に成立したのに,天皇や皇族のみならず庶民の歌もあり,女性の歌もある。日本が世界に誇ることができる文化資産だ。

 「令」「和」が登場するのは,梅花の歌三十二首の序。大伴旅人が開いたうたげで,そうそうたる顔ぶれが集まって梅の花をめでながら歌を詠んださいに,書いたもの。

 和歌が豊かな創作性をもち,わが国独自の文化として花開いた時期であることがよくわかる。若い世代が過去の文化をふまえつつ新時代を生きていこうと思える元号だと思う。

 補注)だが,はたして田中満智子がこう称賛したところで,すでに,小林よしのりを初め何人もの識者が,こういう問題点に言及していたことに気づかないとしたら,まずい。

 すなわち『万葉集』からの出典であっても,しょせんは中国の漢詩にその語源がみいだされると。

補注での断わり

 2)「安倍政権下ならでは」-コラムニストの辛酸なめ子さんの話-

 元号が上から授かるものから,みんなで参加,交流して楽しむ対象に変わった。前回は昭和天皇がお亡くなりになったのちで,大騒ぎできる雰囲気もなかった。でもSNS時代の今回は,著名人も一般の人もAIも予想しまくった。

 補注)この段落に披露された解釈が合っているかといえば,完全に間違えている。元号について「皆で予想しまくった」といっても,その決定者は,宮内庁の枠内に留まりつつ安倍晋三(政権)を中心に布陣していた。現実を正確にとらえない独自の説明は,事実認識を故意に脱輪させる不注意になる。

〔記事に戻る→〕 中国の古典ではなく万葉集に依拠した点も「日本をとり戻す」ことを大事にする安倍政権下ならでは。ただ,「春の訪れを告げる梅の花のように」という安倍首相の談話を聞いて,いまでは冬の時代だったのですか,と聞き返したくなった。

 補注)前項 1)への批評と同じ点は反復しないが,安倍晋三流の「春の訪れ」とは,本格的な「安倍1強〔狂・凶〕」にとってのそれの到来なのであって,辛酸なめ子や庶民のわれわれにとっては逆に「冬が来襲中である現在の状況」を意味する。

 辛酸をナメてきたといいたいらしい筆名を称しているこの彼女は,けっこうモノが分かっていないのか。もしかすると,かえって「現実の事態」を「舐めて観ているのか」と思うと,まことに残念。

 ついでに挙げておくと,『日本経済新聞』2018年12月25日(クリスマスの日だったが)朝刊1面のコラム「春秋」が,以下のように語っていた。なめ子は,まず女性である立場から,つぎに「平民でいる立場」から,女系・女性天皇を認めない日本の天皇制度をどう思うのか訊いてみたく思った。

 元号についてあれこれ,それもごく軽めに感想を述べるのもいいけれども,日本の女性たちにとってみれば,安倍晋三「反動形成」政権の意味と,いったいどのように対峙させられている(「辛酸を舐めさせられている」)かも “あわせて考えてほしい” ところであった。

 付記)ここでいったん,以上までの記述は途切れるが,以上の 1)と 2)につづく 3)は,つぎの※-2に移ってから,それもこちらにおいては飛び地的に,それでも連番の体裁は保って挿入されているので,悪しからず諒解を願いたい。


 ※-2「春 秋」『日本経済新聞』2018年12月25日朝刊の引用

 歴女,鉄女あるいは鉄子,仏像ガール,山ガール,刀剣女子。日本の女性たちが関心と活動をかつてなく広げていることを示す言葉が近年,増えている。ことさら女性であると強調するのはまだまだ珍しいことの表われでもあるが,大きな時代の変化は明らかだろう。

  ▼ このところ日本女性の活躍が目覚ましい,と耳にしたのは国連などの国際機関である。日本人職員全体ではいまや女性の方が多く,幹部クラスでもほぼ半分を女性が占めるようになったのだという。たしかに,2017年に国連事務次長に就いた中満 泉氏はじめ,水鳥真美氏や岡井朝子氏らが相次いで要職に就任してきた。

  ▼ ああ,それなのに,と大むかしの流行歌を口にしたくなる。世界経済フォーラムがさきごろ発表したところによると,男女平等の度合いを示す「ジェンダー・ギャップ指数」で,わが国は149カ国のうち110位なのである。下から数えた方がずっとはやい。ふたたび古くさい表現をもち出すなら,国辱ものではないか。

 補注)その後,その「ジェンダーギャップ指数」は,日本の場合,まだ116位とか120位とかに着けてきている。いつまで経っても,その低位に定着したかの様子ならば「力強く維持してきた」。

 最近の話題でいえば,松本人志というあの「人工金髪のどうしても薄汚い顔にみえてしまう吉本興業の芸人ナンバーワンだった男:60歳」の女性観(姦?)が,このところ(2023年12月下旬からだったが)日本の世間を大騒ぎさせている。

 要は,自分の人気を悪用した「女漁り」を〈生きがい〉にしていたこの人志君には,「人間としての志」がいったいどのような実体として備わっていたのかあるいはいなかったのか,精神分析学的な分析を専門家に訊いてみたくなった。

 21世紀のいまどきになっても「いままで先進国だと自他ともにみとめていたはずの」この日本が,実は,女性の地位・立場を「後進国的・発展途上国的」にしか処遇できていない事実は,いったいいつまで延々と持続されていくのか?

〔記事に戻る ↓ 〕

  ▼ 医学部の入試不正で明らかになった教育面の差別や,経済面の格差もさることながら,調査項目のなかでとくに成績が悪いのは女性の政治参加である。なんと125位。下位の20%に含まれている。

 「女性活躍」を看板にかかげた第2次安倍晋三政権が発足してから,明日で満6年。ああ,それなのに,の体たらくである。(引用終わり)

 本ブログはたびたび指摘してきた。安倍晋三は「戦後レジームからの脱却」を提唱しているのであり,「戦前体制への回帰」(「大日本病」再発)を強く願っていたと。

 この「世襲3代目の政治家」のその希望どおりになった〔とした〕ら,もしかすると,日本の女性たちから選挙権(参政権)がとりあげられてしまい,女性たちが半人前にしか人間あつかいされなかった「敗戦前の旧大日本帝国」に祖先がえりするかもしれない。

 もっとも,さすがに参政権についてはそのようにはなりえないと考えるが,ほかの「女性の立場や権利」についていうと,破壊的な打撃がくわえられないという絶対の保証はない。いまでも,まだ不足・不備だらけである女性を囲む社会事情であるのに,である。

 前段の『日本経済新聞』コラム「春秋」のなかには,「古くさい表現」という文句が出ていた。元号とはこの “古くさい年号表示の典型例” ではなかったか? いちおうまだ,先進国でありえたしても,ひどく「女性差別の国:ニッポン」=「元号を使いたがる古くさい日本」という連想が湧いてくる。

 元号は伝統であり歴史であるといいたかったにしても,あの「一世一元の元号制」は明治半ば以来の実績しかない,つまり明治維新になってから創作された日本式の流儀であったゆえ,そのように口はばったく「1千年以上もの」「古(いにしえ)さ」を誇ることはできない。

 なによりも,その根拠(典拠)に欠落がある主張そのものを,しかも誇らしげにかつ軽々におこなっていたのは,非常にまずい。そもそもの話,説得力がない説明になっていた事実についてさえ,もしかしたらオトボケを噛まして,どこまでも「しっていて,しらんぷり」風に語っていたのか。

〔さてここで,前段で断わりを入れてあったが,※-1の記述,『朝日新聞』夕刊の記事の 1) 2)の続きとなって,この 3)に飛んできて戻る ↓ 〕

 3)ひらがなでもよかった-放送プロデューサーのデーブ・スペクターさんの話-

 「令和」は悪くはないけど,響きはよくない。令は命令の令だし,「冷」の字を想像させ,冷たい雰囲気がまずある。しかも,「平和に従え」みたいに読める。上から目線が,安倍政権っぽい感じ。

 中国の古典ではなく,万葉集からとったのもなにか意図があるのかと推測してしまう。漢字はどうしたって中国のもの。日本にこだわるのなら,ひらがなにしてもよかったのでは? 西暦の方が便利だけど,だからこそ元号は残してほしい。なにもかも世界標準にして文化をなくすとつまらなくなるでしょう。(引用終わり)

 補注)そうである,「日本の文化」としての元号を残しておくのもいい(そうしてほしい)といったこのスペクターの意見は,たいそうもっともらしく聞こえる。だが,東アジアの諸国は,元号に相当する年号をとうの昔にお蔵入りさせていた。捨てていたのである。

 新しい元号「令和」の出処が『万葉集』であるといったうんぬん〔デンデン〕の話題も,既述のとおり,格別に強調してとりあげられるほど価値があるとは思えない。もともと,中国の漢詩に片足を突っこんでいる(引っぱられている)漢字なのであって,中国と縁切りのできない深い関係がある。

 補注)さてここで,つぎのような補述2点を,本日の時点(2024年1月29日)で挿入しておくことにした。


「こちら」という立場は本ブログ筆者と読者たちのことを指すので
念のため
オヤジの晋太郎は忙しくて自分のこの息子を
本当に愚息のまま放置・放任してきた

 大昔の日本では,平仮名で書かれたものは私的な性格が強い文書に使われ,地位が低くみられていた時期があった。そもそも小学生水準の「漢」字すら書けず,どだい,自分の就学していた年数の全部を過ごしてきた学校(小学校から大学まで)の名称に入っているある一字の「『漢』字」すら,

 まともに書けなかった安倍晋三「首相(在任中・当時)」が,なぜか,新元号(「漢」字)選びで大はしゃぎであった。これでは,2019年4月1日午後からの元号騒ぎの様子は,ほとんど漫画絵にもなりえないような「バ ▼ 騒ぎ」であったと形容するほかない。

 なかんずく「令和」などいった漢字をみた瞬間,安倍晋三の命令に従え,政府のいうことには無条件に「和せよ」としか読めなかった人も,大勢いたはずである。

 ともかく,同年の4月1日の夕刊から2日朝刊までの新聞報道をみると,ふだんであれば「報道されるべきだったニュースの材料」が,なにもありえなかったかのように消される報道体制になっていた。

 それにしても,元号問題でそれほど浮かれて喜べるような「この国の現在」か? このような疑問を抱く人もまた大勢いたはずである。『万葉集』だといってこの “大和性” を歓迎したがる人びともいる。

 だが,つぎの ※-3のような解説を読んでみたら,そのような〈感慨〉に対して「水を差された」気分になるに違いあるまい。

 

 ※-3 内弁慶である元号だが,それは当然であって,あくまで国内専用

 1)「外務省『西暦』使用,外相トーンダウン 官邸・与党から異論」2019年4月3日『朝日新聞』朝刊4面「総合」

 河野太郎外相は〔4月〕2日の記者会見で,外務省内の文書での西暦表記について「なにか大きくルール変更をするというわけではない」と述べた。外務省は原則として元号を使った和暦ではなく,西暦を使う方向で検討していたが,首相官邸や与党から異論が出てトーンダウンした。

 外務省の文書は,外交交渉に西暦を使う一方,省内向けには元号を併記するなど表記が混在している。河野氏は元号からの読み替えの煩雑さを理由に西暦表記の検討を指示していた。

 これに対し,菅 義偉官房長官は〔2019年4月〕2日の記者会見で「外務省がそのような方針を固めた事実は聞いていない」と真っ向から否定。自民党の萩生田光一幹事長代行も同日の会見で「元号も大切にする役所であってほしい」と苦言を呈した。

 河野氏は会見で「外国とのやりとりは西暦での表記を徹底する」と強調した。ただ,同省関係者によると,外交上のやりとりについては内部文書に西暦のまま記すことなどで収まる見通しだという。(引用終わり)

 世界に向けては通用しないが,日本国内向けであるならば「理屈もへちまもない」まま,ともかく元号を使うのだという主意だけは,恣意的にであっても,まことに力強く主張されていた。

 まあ,せいぜい身内だけでごく内々に使えばいいという程度でしかありえない「元号」であったにもかかわらず,なにゆえここまでこだわりつづけているのか,不思議・不可解であった。

 2) つぎに,「〈声〉新元号と国民主権との間には」『朝日新聞』2019年4月3日朝刊10面「オピニオン」を紹介してみたい。

 この声欄への投書主は「府川恵美子,主婦 神奈川県 67歳)である。

 新元号「令和」は,万葉集巻五に載る梅花の歌32首の序からとられたという。序を書いた歌人の大伴旅人(おおとものたびと)は,東国などから徴発した防人(さきもり)を所管する大宰府の長官であった。

 万葉集の防人の歌は,農民たちが出征途上で防人にとられていく悲しみを切々と歌ったものだ。東歌(あずまうた)で,素朴な東国方言を用いておおらかに生活を歌ったのも農民たちである。「今日よりは顧みなくて大君(おおきみ)の醜(しこ)の御楯(みたて)と出(い)で立つわれは」という防人の歌は,アジア・太平洋戦争で戦意高揚に利用された。

 「令」には,令室,令嬢のように,良いとか美しいという意味がある。「令和」は「美しい和」を祈念するのだろう。だが,私は「令」の字に使役の意味がまず浮かび,仰天した。憲法がかかげる平和主義は,国民が主権者として構築するものだ。誰かから命令されるものではない。

 「和」には「昭和」への郷愁もみえ隠れする。同時に,安倍晋三首相の「積極的平和主義」をも連想させられる。考えすぎだろうか。元号法がある以上,時の政権が制定に関与するのはやむをえないが,必らずや政治的な意図がにじむ。私はやはり,西暦を使うことにする。

元号とは?

 この投書の意見は,デーブ・スペクターがいったのと同じこと,つまり,本ブログ筆者だけでなく,ネット上にも数多く指摘されていた点であるが,この元号名の「令和」は “「命令」に「和」する=服従” という意味の連鎖を,不可避にかかえこんでいる。

 さきの日経コラム〈春秋〉の表現を借りていえば,安倍晋三政権の考えていることはせいぜいお里がしれていた。まさしく,ただ「古くさい表現をもち出すなら,国辱ものではないか」とか「体たらくだ」とかいった帰結(周囲からの判定)を,「令和」という元号は,わざわざ示唆し,誘引したことになる。

 3) 「『令和』公的文書は? 戸籍・出生届は元号原則 許出願は西暦表記」『日本経済新聞』2019年4月3日朝刊34面「社会」

 この記事については引用する前に,こういう疑問を提示しておく。たとえばいまから100年後,その戸籍を観て仕事をする役所の職員は,きっと元号に関する「西暦との換算年表」をわきに置いていて,これを参照しつつ確認を入れながら事務を執っているはずである。

 ここまで「西暦」と「元号」との相互対照をつねに配慮していなければならないという実務態勢というものは,深く考えてみるまでもなく,実に煩瑣(面倒)というか無駄(余計)である。

 そもそも世界には通用してもいない元号が,日本国内だけでは世界に誇れる元号だと自慢されがちでありながらも,本当のところ,世界のほうからはたいして注目を受けていないどころか,基本的にはもともと相手にもされていないできた「元号」(の存在・問題)であった。

 それでは,元号をもっていたアジア諸国はどう観ているか? その意味でも完全に「ひとり芝居」を,いつまでも演じつづけていながら,それでも自己満足的に元号,元号・・・と口ずさむ「珍妙な国家」であった。

 以上をさきに断わっておいてから,この 3)の「記事の本文」を以下に引用する。

 --新元号「令和」が〔2019年4月〕1日に公表され,5月の改元以降,日常生活のさまざまな場面で新たな元号に触れることとなる。

 各種登記など市民みずからが記載することもある公的文書は多岐にわたり,元号と西暦のどちらを使用するかは書類によって異なる。元号が主流ではあるが,婚姻届などでは西暦表記も事実上容認している。国際標準に合わせて西暦を正式採用している書類もある。
 
 法務省によると,戸籍法にもとづく各種の書類には元号を使うよう通達で規定。昭和から平成に変わったさいも通達を出したといい,今回も平成から令和への変更を求める通達を各自治体などに向けて出す予定だ。

 このため戸籍法にもとづく出生届や婚姻届も元号での提出が原則となる。ただし同法施行規則が指定している標準的な様式には「年月日」との記載しかない。窓口で提出する市民にとっては西暦,元号のどちらでも記入ができるようにみえる。

 補注)この「同法施行規則が指定している標準的な様式には『年月日』との記載しかない』という事実は,理解に苦しむ。窓口では元号の使用(記入)を強要ないしは半強制してきている現状に鑑みても,そうだとしかいいようがない。

 すなわち,「あいまい」のなかにこそ「国家側が正直に規定しない恣意的な立場」を強制しようとする意思が貫徹しているとすれば,民主主義国家体制の仕組そのもののあり方について疑いが抱かれて当然である。その「あいまい」性が「ゴマカシのための温床」を提供している。

〔記事に戻る→〕 法務省担当者は「西暦で提出を受けた場合,窓口で修正をお願いするのがむずかしければ,元号に変換して事務処理することもある」。せっかく提出した婚姻届が受理されない,といった事態は心配いらないようだ。

 補注)この段落の内容は奇怪である。西暦で届けたら「何年であること」が分からないのだとでも,いいたげな法務省の口吻である。西暦を「元号に換算」する(?)という表現が,もっとも奇怪である。

 通常であればその反対のいい方が当然かつ自然なのであって,いまの「時代」であれば「元号が西暦に換算される」と表現したほうが,「年数」に関してはしごく自然な理解になりうる。

〔記事に戻る→〕 不動産登記や法人登記などの登記記録も元号だけしか使用できない。ただコンピューター処理の都合で「元年」は「1年」と入力。登記簿をプリントするさいも「1年」と印刷される仕組になっている。

 補注)「元号に関する年数の数え方」のうち「元年」は,コンピュータが受けつけないから「1年」にすると指摘されているが,ここまで話が進むとなれば,これまた実に奇怪な「事実の指摘」になっている。それならば,逆に数字も「漢」字で書いたらどうかといって,混ぜっかえしたくもなる。

 だが,ホントのところ,実にクダラなくも聞こえる議論を,ここまで「深めている」政府の立場は,関連させてあれこれ討議している側の立場を,間違いなく,どっちらけにさせてくれた。

〔記事に戻る→〕 住民票交付や転居届など住民基本台帳に関する届け出では「年の表記に特段の規定はない」(総務省)。慣例で主に元号を使う自治体が多いとみられるが,元号に不慣れな外国人などは西暦を使うことができる。住基ネットワークも元号と西暦の両方で管理している。

 補注)「元号に不慣れな外国人などは西暦を使うことができる」と書かれているが,これは正確とはいえない説明である。在日・定住外国人は3世や4世になっても「日本国籍」を取得しないかぎり,役所から交付される関係書類の日付は「西暦」である場合がある。

 したがって彼ら・彼女らの場合,絶対に「不慣れである・ない」の問題の次元おける事項にはなりえない。それゆえ,ここでもち出されている説明は,日本の役所における業務全般に関していうとき「普遍的に通用し,妥当するか」いう意味においては,まったく一貫性が保持できていない。

 要するにいうこと・やっていることが支離滅裂で,もちろん一貫性・論理整合性など,いっさいない。

 総務省が普及を進めるマイナンバーカードでは,生年月日は元号なのに有効期限は西暦で表記され,混在している。「約10年先の未来の日付の表記には西暦の方が適している,との判断ではないか」(同省の担当者)。

 補注)ここの説明も興味深い。「約10年先の未来の日付の表記には西暦のほうが適している,との判断ではないか」という指摘については,これに対してもまた,つぎのように混ぜっかえしていうほかなくなる。

 現時点の「10年前からでも十分に,日付の表記には西暦のほうが適していた」と。こちらの思考方式のほうが,より不当でもより非合理でもない点は,これまでの経緯に照らして判断すれば,ただちに了承してもらえるはずである。

〔記事に戻る→〕 公立学校の卒業証書などは自治体によって対応がマチマチだ。元号で統一している自治体もあれば,要望に応じて元号と西暦を使い分ける自治体もある。東京都教育委員会では「慣行として元号表記を原則としているが,外国人生徒などが希望すれば校長の判断で西暦の併記も可能」という。

 補注)東京都立の学校においては,日本人は希望しても卒業証書に西暦では書いてくれないのか? 外国に留学するときとか,そのほか仕事の関係で卒業証明書のなかに記入する年は,元号でしか書かないのか? いまの時代にあってそのような年号の表示方法など押しとおせるわけがない。

〔記事に戻る→〕 例外的に西暦を正式採用しているのは特許庁所管の特許出願番号。2000年1月から元号ではなく西暦を使う。知的財産をめぐる国際標準に合わせる必要性があったためという。ほかに旅券なども海外での利用を想定して西暦を記載している。(引用終わり)

 ここまで書いてくるともはや,なんとも「呆れる」としかいいようがない。よくいわれる文句に「日本の常識は世界の非常識」という常套句(?)があった。

 それと同じで,「例外的に西暦を正式採用しているのは特許庁」といったふうに,諸官庁「以下」が存在している日本のほうが,どちらかといえば,自分たちの立場のほうを「国際標準に合わせる必要性そのもの」を完全に無視しており,しかもその線から大きく外れているに過ぎない。

 ここまでさらに書いてくるといやはや,「年数の数え方」に関しては「世界の常識」すら逆に,非常識にしかねない「日本の非常識」の高度さ,密度の濃さには,皮肉をもってだが大いに感心する。

 つまり「元号」問題については「感心するやら」,とても「 ▲ カ にするやら」で,結局は単に「噴飯モノだ」と批判するよりは,そこには処置なし(まともな意味での世界標準から逸脱する)の思考方式が控えていたと,ただ批評しておくだけである。

 そして,つぎの※-4に引用する『日本経済新聞』本日(2019年4月3日)朝刊1面に掲載された記事となるや,ほとんど理解不能の内容が含まれていた。相手側の「国連側の立場」からすれば,ただ「ああ,そうですか……」程度に応えるほかない話題であった。


 ※-4「政府,改元へ準備加速 自治体に円滑移行促す / 国連などに新元号通知」『日本経済新聞』2019年4月3日朝刊1面

 政府は,皇太子さま〔徳仁〕の新天皇即位に伴う新元号を「令和」に決めたことを受け,〔2019年〕5月1日の改元に向けた準備を加速する。

 総務省は〔4月〕2日,全国の地方自治体に「令和」になったことを通知し,システム改修などの対応を急ぐよう促した。〔4月〕1日に閣議決定した新元号を定めた政令や首相談話など5つの文書を付けた。(関連記事総合1,政治面,社会2面に)
 
 石田真敏総務相は〔4月〕2日の記者会見で「円滑に対応がおこなわれるよう,必要な情報を提供する」と述べた。通知の宛先は全国47都道府県と20の政令指定都市。都道府県には政令市を除く市区町村にも周知するよう求めた。

 外務省は諸外国への周知に乗りだし,西暦と和暦の使用が混乱しないよう注意を呼びかける。1日,日本が国交をもつ195カ国と国連などの国際機関に「令和」の決定を通知した。

 河野太郎外相は同日,外務省内でハガティ駐日米大使と会い新元号が「令和」に決まったと紹介。「新しい時代の始まりに日米関係をさらに深めていく」と伝えた。

 補注)一言いわせてもらうと,だいたい「西暦と和暦」といった対照法jには,そもそも疑問があった。

 一国・日本だけの和暦であるに対して,ほかの国々の暦はそのすべてが完全に「西暦」を仕様している事情にはないけれども,日本のように「和暦」だとか自称して本気で,しかも世界のなかでは他国にはないすばらしい元号だといっては,

 いつも,天皇が代わるたびに(昔は「1人の天皇=ひとつの元号」ではなく,天皇自身が何回でも元号を新しく替えてもいたが),その元号を創作し,制定する「暦のいじりかた」をしてきた「よその国」は,めったになかった。しかも,あくまで昔の話に属する出来事であった。

 補注)この記事は,日本の外相が「新しい時代の始まりに日米関係をさらに深めていく」と伝えたと報道しているが,これに対してアメリカ側の反応が具体的にあったのかに関する報道には,まだ接しえていないでいる。

 この「日本側に特有である〈新時代の開始〉」に関する『時間の観念』がアメリカ側に伝えられたところで,はたしてどれほど意味(その反応が外交辞令の範囲内であっても)がありうるのかは,まったく未知数。はたして,アメリカ側においてそもそも「西暦と和暦の使用が混乱しないよう注意」する必要があったのか?

〔記事に戻る→〕 一方,河野氏は〔4月〕2日の記者会見で,公電をはじめ外国とやりとりする文書では西暦の使用を省内で徹底する考えを示した。「公電などは先方と西暦を使って話したものを文書化する。わざわざ和暦にする必要はない」と語った。閣議など各省庁が共通して保有する文書は和暦の使用をつづける。

 補注)この文句:「公電などは先方と西暦を使って話したものを文書化する。わざわざ和暦にする必要はない」といわれた点は,ここまでの記述内容に絡めて “厳密にいう” としたら,ほとんど意味が不明というか,いったいどう解釈したらいいのかについても,ただ困惑させられるだけであった。

 日本に向けて公電を送信してくる相手国(他国)がその日付を元号で書いてくるはずなど,おそらく百%(!)ない。そもそも,この種の「事実」に関した「発言」の内容じたいが「?」であった。ある意味でも,ほかのいかなる意味でも,つまり日本政府側の「ひとり芝居」にならざるをえず,場合によっては猿芝居にみえなくもない。

 さて,ブログ『ノーネクタイの My Way』は,2018年12月6日の記述「平成が終わる。パスポートは西暦なのに『元号』をナゼ欲しがるのか」https://www.gunjix.com/entry/2018/12/06/210522 は,こう書いていた。

 平成30年のあいだ〔1989-2019年の期間〕に,「 元号」派が減少し「西暦」派が増加した……。キャッシュカードで求められる生年月日の年号は「西暦」,パスポートの表示も「西暦」と世の中の表示が「西暦」表記へと変わりつつあるという時代に,なぜ「元号」表記が必要なのか。

 そもそも「元号」が新天皇即位に合わせてあらためられるようになったのは明治時代以降からのことで,それ以前は天皇の代替わりのさいだけでなく大きな吉事や厄災があるたびに改元したり,民衆は「干支」を年号変わりにしていたというように年号は実にいい加減な「定まりごと」であった……。

 たかだか150年前の明治以降に定められた年号の「しきたり」を大事にしたいのか西暦で十分だとするのか,あなたはどっち派ですか?     

あなたは西暦派,それとも和暦の元号派?

 あなたは「どっち派」(?)と問われているぶんにはいいのだが,国家側がこの古代史に由来する「年号である元号」を,正式の制度「名」として実質的には国民たちに「強要している」ゆえ,関連する事情はそう簡単ではなくなっていた。

 

 ※-5 「新元号『令和』の隠された意味がヤバい! 真の原典は暗愚な時の権力者を批判する漢詩」『論壇 net』特集「日本国紀」2019年4月2日,https://rondan.net/19271

 この記事から適宜に摘出する。なお「目次」の構成は以下のようであるが,引用は3までの参照となる。ここまで議論を引っぱってくると,4月1日午後からの「令和」騒ぎを,なんとか冷静に振り返って観ることができそうである。

  1 国書から引いてくるハズだった新元号の理想と現実
  2 新元号は日中両国の古典に由来する折衷案?
  3 「帰田賦」は時の皇帝権力を批判する漢詩だった!?
  4 新元号「令和」考案者は漢詩にも精通する比較文学者
  5 「小室親子は “死神” で “疫病神” ! お母さんはヤバい人」竹田恒泰氏が断言

 1) 国書から引いてくるハズだった新元号の理想と現実

 「大化」(645年)から「平成」まで計247〔「令和」で248〕ある日本の元号は,これまですべて中国の古典に由来してきたのですが,新元号は安倍首相の強い要望で,国書から引用する初の元号となる「はず」でした。そして,新元号「令和」が発表された直後には,日本の古典万葉集由来の新元号にネトウヨ評論家の皆様方は大喜び。

 ですが,実は万葉集からとったというこの「令和」の新元号。どうやらさらに遡ると中国古典の漢詩「帰田賦(きでんのふ)」にまで遡れるようです。日本の古典の多くは,漢籍をもとにしており,どうやら純粋に日本の古典作品から出典を求めるのはむずかしいようです。

 2) 新元号は日中両国の古典に由来する折衷案?

 結局,新元号はこのように日中両国の古典に由来する妥協的な折衷案となったのですが,このあたりの意思決定プロセスには皇室が深くかかわっていたのではないか,と噂されています。

 a)〔ところで〕日テレの報道に〔は〕,注目させられた。こう報道していた。「政府関係者によると,安倍首相はかねて『元号の出典は日本で書かれた書物がいい』と話しているということだが,日本の古典は,中国の古典を引用しているものが多いことから,日本と中国の古典の両方を出典とすることも検討しているという」ことであった。

 これが事実なら状況が少し変わったことに気づく。(中略) なぜ,安倍晋三氏は方針を変え,本命を変えたのか。理由として考えられるのは,東宮(皇室)の抵抗しかない。皇太子(と両陛下)が,日本会議的なイデオロギーに染まった元号になることを快く思わず,拒否の内意を内閣に伝えたのだろう。

  b) 「新元号,皇室の反対で本命封印か。安倍首相の方針転換と,マスコミによる『安』の刷りこみ=世に倦む日日」『MONEY VOICE』2019年3月31日から。

 どうやら,反中国的なイデオロギーから漢籍を排して,純粋な日本の古典由来の元号にしたいという安倍首相の思惑と,過去からの伝統を守り,急進的な国粋主義的思想を敬遠する皇室との対立があったのではないかと噂されているのです。

 補注)安倍晋三君は生前,「戦後レジームからの脱却」という標語を叫んでいたが,以上のごとき思惑は「明治(維新)レジームからも脱却」という方途にもなりかねなかったのではないか?

 もっとも,当人がそこまで思考を深耕させうる見識の御仁だったとはとても思えなかったので,ひいきの引き倒しにしないためにも,ここでの「議論としての推理」は寸止めにしておく。

〔記事に戻る→〕 さらに付けくわえると先に説明したように,中国の古典に由来しない純粋に日本の古典からの引用をみつけるのが現実的にむずかしい,という事情もあったのかもしれません。ともあれ,結果的に漢籍と日本の古典両方に由来を求められる折衷案が採用されることとなりました。

 3)「帰田賦」は時の皇帝権力を批判する漢詩だった!?

 ところで非常に面白いのが,実は新元号「令和」のもっとも古い出典であるとされる「帰田賦」ですが,なんとどうやら当時地方出身の役人であった張 衡(ちょう・こう)が “愚昧な時の皇帝であった安帝” に愛想を尽かせて失望して田舎に帰るという内容であったそうです。

 補注)大昔の「中国での〈愚昧な時の皇帝〉」=「現在〔当時〕の日本での〈傲慢で幼稚な今の首相〉」(⇒2019年の記述で指したその人のこと)だと読みかえても,なんら間違いではなかったのが,正真正銘,「この国における当時の現・風景」であったはず……。

  “愚昧な時の皇帝であった安帝” については,〔2019年〕「4月3日」になった「日の朝の時点」ですでに,いろいろと関連するネット記事が飛びかっていた。しかもそれらは「冗談にもなりえない冗談」みたいなものが多かった。しかし,それでも「これ,冗談ではないよね」と念押ししておかねばならないくらいに,より本格的に「冗談的でありえた話」がほとんどであった。

 それにしても,今回における元号問題では個人プレー本位で動いていた安倍晋三の関与,これに対する皇室側(皇太子と平成天皇)の応答(やりとり)が本当に介在していたとしたら,日本国憲法のあり方に関して疑念が生じていたことになる。

 そして,今回における改元騒動においては宮内庁の存在がほとんど不可視であった点も,よく透視できないながら,それなりに「目立つ事象」であった。宮内庁という官庁組織は,いったいなんであるのか?

【参考記事】-ほぼ無難というか準に順当な元号に関する議論の一例として,つぎの記事を挙げておきたい-

 「今年は平成31年というのと,2019年というのとは大きな違いがある」などと議論した『長周新聞』のつぎ記事も紹介しておく。こちらの記事は長めになっているが,本質を突いた歴史的な考察を元号の問題にくわえている。



 ※-6「安倍首相『令和は国書典拠』自慢の間抜け! 大元は中国古典で作者の張衡は安倍政権そっくりの忖度政治を批判」『リテラ』2019年4月3日 11:40 から,つぎの2段落を引用しておく

 ▼-1 ただし,相手は,ネットでいわれているような「安」の字をもつ安帝ではなさそうだ。

 『後漢書』によれば,張衡は安帝(6代皇帝)のときに都・洛陽に呼ばれて大史令という官僚知識人の地位を与えられる。順帝(8代皇帝)のころに再び大史令となる。前述の意見書を上奏した相手は順帝であり,「帰田賦」もその時代に書かれたものだ。

 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_2.html

  ▼-2 今回の新元号制定であらためてはっきりしたことがある。それは,安倍首相が押し出すナショナリズムがいかに浅薄でインチキなシロモノであるか,ということだ。

 「令和」の大元ネタがどうという以前に,そもそも日本の古典文学は,基本的に中国や朝鮮の影響下で作られているものであり,いくら「国書典拠」を強調したところで,日本固有の文化,中国排除などできるはずがないのである。

 それを,皇室の伝統を排して「国書典拠」などというのは,無教養とバカのきわみといっていい。

 註記)https://lite-ra.com/2019/04/post-4640_4.html

 なお,「令和」のとくに「令」という漢字について政治学者のなかには,英語で該当する文字を引っぱり出し,この「令」という漢字を説明している者がいた。はたして,適切な比較政治学的な議論になっているか疑問あり,であった。「漢字」での議論,「漢の字」に関する議論が最優先されるべきであった。

 安倍晋三は生前,国会のなかにおいて放つヤジそのものからして,一番品がない発言が多かった。国会のなかをゆきかうヤジのなかには,ユーモア(諧謔)が効いたものがないわけではないが,最近では,その品格を欠いたヤジとして,丸川珠代自民党議員の「恥をしれ!」が有名になったことがある。

 「恥を知れ!」と叫んでいたその「恥ずかしい人:丸山珠代」が,自民党国会議員として記録した出来事は,以下の記事にようにまとめられていた。

厚顔無恥の自民党議連から「恥を知れ」といわれてもネ
「この恥知らずの国会議員」丸川珠代こそ
もしかするとジャンヌ・ダルクきどりだったが
品性・品格のなさだけは合格点

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