靖国神社問題再考,高橋源一郎の発言にからませて基本から深耕する「素朴・原始宗教」としての日本神道の本質
※-1 日本の皇室問題-アジア辺境地域の特殊な政治問題
本日は2023年7月22日であるが,2015年8月27日に一度公表していたこの記述を,改訂増補するつもりで書きなおしてみた。当初,この記述を書くさいに抱いていた問題意識は,つぎの要点に表現できる。
要点その1 奇妙な論説を吐く高橋源一郎の議論・見解
要点その2 靖国神社の基本性格と旧大日本帝国の戦争責任問題
付記)冒頭の画像資料は,東京裁判(極東国際軍事裁判)で死刑の判決を下されたA級戦犯7名。
a) さて,現在,『毎日新聞』朝刊には「連載 皇室スケッチ フォロー」という特集記事が毎週組まれている。この「連載 皇室スケッチ フォロー」は「天皇,皇后両陛下をはじめとした皇室の方々の活動や様子を中心に,日々の新聞紙面では紹介しきれない話題も伝えていきます」という具合に,その趣旨が提示されていた。
その特集記事が最初に組まれて報道されたのは,2021年「5月29日~6月11日 植樹祭,リモートでも一体感」2021月6月12日朝刊であった。本ブログ筆者は,この皇室関係連載記事についていままで,とくに気にして目を通すことがなかった。
しかし,昨日,2023年7月21日の『毎日新聞』朝刊6面に掲載されたその「連載 皇室スケッチ フォロー」を観て,グッとくるものを観じたというよりは,ウッと感じるかたちで受けるなにかがこみあげてきた。その現物を画像資料で紹介しておく。素朴な疑念をさきに披露しておく。
憲法上「国とその民の統合のための象徴」として「存在させられている天皇」が,その妻もいっしょにして,ほぼ一体の存在としてあつかわれることになっているが,われわれに向けて「その人柄」を「伝え」るといった試図は,この国の民主主義の状態にとって,いったいいかなる政治的な含意がありうるのか。そういった種類の反応が現象してきて当然であり,なにもおかしくはない。
『毎日新聞』のその「連載」は「天皇,皇后両陛下をはじめとした皇室の方々の活動や様子を中心に,日々の新聞紙面では紹介しきれない話題も伝えていきます」という趣旨:意向を示していた。だが,関連させていえば,つぎのように報道された記事もあったことが,瞬時に思いだされた。
b) 今年の春,たとえば『朝日新聞』が「社説」を充てて,つぎのように「天皇問題」にも不可避に関連するほかない,ある出来事を報じていたことを思いおこした。以下にその社説を引用しながら説明する。
◆〈社説〉君が代暗記調査 内心の自由を脅かすな ◆
=『朝日新聞』2023年7月3日朝刊 =
--子どもたちは「君が代」の歌詞を暗記しているか。
そんな調査を大阪府吹田市教育委員会が市内の小中学校に実施していた。市議会議員の求めに応じたというが,斉唱の強制につながりかねない危うさをはらむ。経緯を検証して公表・説明する責任がある。
調査は卒業式が近づく今〔7月〕年3月,市立の全54校に対しておこなわれた。各校の校歌とともに「国歌の歌詞を暗記している児童・生徒数」を学年ごとに集計して即日報告するよう文書で求め,全校から回答をえていた。
調査の目的や確認の方法は,とくに示さなかった。音楽の先生への聞きとりで概数を把握した学校がある一方で,担任が子どもたちに教室で挙手を求めて確かめた学校もあった。
子どもたちは,先生の質問をどう受け止めたか。複数の教職員組合が「国歌の強制につながりかねない」「思想・信条の自由を脅かす」などと抗議の声をあげたのも当然だろう。
調査は2012年に始めて今回が5回目で,いずれも同じ自民党市議の質問に答えるためだった。この市議はブログで「闘う保守」を自称し,学校での君が代斉唱の徹底を求めている。市教委が調査結果を議会で答弁したのは一度だけで,それ以外は市議にだけ伝えていたという。こうした対応の是非も検証しなければならない。
君が代斉唱をめぐっては,1999年の国旗・国歌法の制定にさいし,政府が「国民に義務を課すものではない」と説明している。文部科学省は学習指導要領で「いずれの学年も歌えるよう指導する」とする一方,児童・生徒の内心に立ち入らないよう注意も促してきた。
学校の政治的中立の確保をうたう教育基本法や関連法に照らせば,特定の主義主張をかかげる政治家の求めに応じて調査することじたい,踏みとどまるべきではなかったか。吹田市教委の判断は誤りだといわざるをえず,今後はこのような調査をするべきではない。
大阪府では2011年,大阪維新の会が府議会で過半数を占めた後,公立校の教職員に君が代の起立斉唱を義務づける条例が成立。思想・信条の自由を理由に従わない教員らへの処分が相次いだ。そうした施策と対応が学校現場を萎縮させ,内心の自由を守る意識を鈍らせてはいないか。
子ども1人ひとりの尊厳を守り,多様な価値観を認めあう。それが教育の基本であり,教育の場である学校が繰り返し確認すべき原則だ。吹田市教委の今回の一件を「他山の石」として,すべての教育関係者はあらためて肝に銘じてほしい。(引用終わり)
c) ついこのあいだまで実際にあった事実としてだが,沖縄県の子どもたちは君が代を歌わなかった。というのは,学校で歌えるようには習っていなかったからでもある。もしも家庭で歌ったりしたら,おそらく両親たちからは怒られたに違いないと推察する。
1945年の3月26日から6月23日までつづいた,太平洋戦争中の「沖縄戦」では,天皇の名のもとに県民の4人に1人が死んだ地上戦となった。それゆえ,沖縄県の人びとは「君が代」を唱う行為は,冗談でないどころか,けっして口にしたくない日本の国歌でありつづけている。
君が代の「君」が誰であるかは諸説あるといえなくはない。だが,敗戦時までの大日本帝国では「天皇」,あの戦争中であれば裕仁=昭和天皇に決まっていた。沖縄県の琉球人の人びとに向かい君が代を歌えなどと要求するどころか,期待することからして本来,実に酷な話である。
そもそも,その天皇は沖縄県をアメリカにそれこそ人身御供のように提供するなどといった,トンデモない米日外交関係への横からの口出しをしていた。
「天皇メッセージ」は1947年9月中にアメリカ側に伝えられていたが,日本国憲法は1947年5月3日に施行されていたゆえ,天皇裕仁の新憲法を踏みにじる行為は,とりわけ沖縄県民にとっては忘れることができない「敗戦後の事実」である。
『君が代』に関してはこういう意見があった。
つぎの関連する感想(意見)にも耳を傾けておく余地がある。森 喜朗の理屈は「サメの脳みそ」的な思考回路しかもちあわせないゆえ,論外・法外の人物としか形容のしようがない。なおクリックで拡大・可。
「安室奈美恵は沖縄の影と1990年代日本社会の影をつなぐ存在だった」というふうな認識を提示する社会学者がいたが,この程度の応用問題になると森 喜朗程度の頭脳水準では,はなからとうてい理解不能。
「沖縄と女性,二つの周縁性を体現した存在」としての沖縄県出身の芸能人の内心まで理解しようとする気持ちがわずかでもあった「日本国総理大臣」の森 喜朗であったならば,以上に触れたごとき問題発言などするわけがなかった。
註記)以上関連する記事は「続・安室奈美恵の光と影-沖縄出身であること」『論座』2017年10月16日,https://webronza.asahi.com/culture/articles/2017101300003.html
d) ところで,前世紀のアメリカでは関連して,こういった裁判の結果が出されていた。
★ テキサス州 対 ジョンソン裁判 ★
1989年6月21日,アメリカ合衆国最高裁判所が,アメリカ国旗を燃やす行為について,アメリカ合衆国憲法修正第1条のもと言論の自由として保障されるという判断を示した裁判。
1984年8月,テキサス州ダラスで開催されたアメリカ共和党全国大会の会期中,ロナルド・ウィルソン・レーガン大統領の政策に抗議するために集まった人びとのなかにいたグレゴリー・リー・ジョンソンが,市庁舎の前で国旗に灯油をかけて火を放った。
ジョンソンは国旗冒涜を禁止するテキサス州法違反で逮捕され,罰金と禁固 1年の刑をいい渡された。判決は上告審であるテキサス州刑事上訴裁判所で,合衆国憲法修正第1条により「象徴的な言論は保障される」という根拠によって覆された。
1989年3月に最高裁判所で口頭弁論が行なわれ,1989年6月,最高裁判所は州上告審の判断を僅差の5対4で支持した。
多数意見は修正第1条による言論の自由の保障を「根本原理」とみなし,政府は「観念の表現について,単に社会が当該観念を不快または好ましくないとの理由で」禁止することはできないとした。
リベラル派判事として著名なウィリアム・ジョセフ・ブレナン・ジュニアが多数意見を書き,同じくリベラル派のサーグッド・マーシャル,ハリー・ブラックマンにくわえて保守派のアンソニー・ケネディ,アントニン・スカリアも多数意見にくわわった。
以上のごときにすでに過去,アメリカの裁判として争われ決着のついているものと同様な事件が,40年以上も経ったこの日本でこんどは国歌を歌う,歌わない,けしからぬ問題だとして浮上させた者たちが,けっこうな数いた。
例の国旗・国歌法が成立・施行されるに当たっては,当時の首相は国会のなかでつぎのように回答していた。
それは『衆議院議員石垣一夫君提出「国旗・日の丸,国歌・君が代」法制化等に関する質問に対する答弁書』平成11〔1999〕年6月11日受領,に対する『答弁第31号』内閣衆質145第31号,平成11年6月11日の「内閣総理大臣 小渕恵三」からの回答(答弁書)が,こう答えていたものである。
なお,この文章のなかに関連して打たれている連番などの符号は省略し,該当する段落から必要とみなした段落の文章のみ引用する。
「一般的には,国旗は国家を象徴する標識として,また,国歌は国家を代表する歌として認識されているものと承知している」
「日の丸および君が代が,長年の慣行により,それぞれ国旗及び国歌として国民の間に広く定着していることを踏まえ,21世紀を迎えることを一つの契機として,成文法にその根拠を明確に規定することが必要であるとの認識のもとに,法制化をおこなうものである」
「政府としては,法制化に当たり,国旗の掲揚等に関し義務付けをおこなうようなことは,考えていない。したがって,現行の運用に変更が生ずることとはならないと考えている」
「児童の権利に関する条約(平成6〔1994〕年条約第2号)第14条の思想,良心の自由とは,一般に内心(すなわちものの考え方ないし見方)について,国家はそれを制限したり,禁止したりすることは許されないという意味であると解される」
「学校における国旗掲揚および国歌斉唱の指導は,日の丸及び君が代が,長年の慣行により,それぞれ国旗及び国歌として国民の間に広く定着していることを踏まえ,児童生徒が国旗及び国歌の意義を理解し,それを尊重する心情と態度を育てるとともに,すべての国の国旗及び国歌に対して等しく敬意を表する態度を育てるためにおこなうこととしているものである」
「このような指導は,児童生徒が将来広い視野に立って物事を考えられるようにとの観点から,国民として必要な基礎的,基本的な内容を身につけることを目的としておこなわれているもので,児童生徒の思想,良心を制約しようというものではなく,同条には反しないと考えられる」
「長年の慣行により,日の丸及び君が代がそれぞれ国旗および国歌として国民の間に広く定着していることを踏まえて,国旗及び国歌の法制化をおこなうものである」(以上)
という具合に慎重にその回答が準備されこのように「思想,良心の自由とは,一般に内心(すなわちものの考え方ないし見方)について,国家はそれを制限したり,禁止したりすることは許されない」と断わってはいたものの,その後における全国の学校で起こされていた「国旗掲揚や国歌斉唱」は,実質強制になっており,思想も良心もその自由を内心の問題として制限され否定される現実が,当たりまえになっていた。
こうしたその後における国旗・国歌法の延長線上に,前段に引用したごとき『朝日新聞』の社説が指摘・批判した「強制されてきた事態」は,日本の学校内ではいくらでも起きていた。
よくよく考えてみよ。しょせんは国旗はその印であり,国歌は一曲の歌であるに過ぎない。国旗はモノとして旗であり,国歌も同じにひとつ歌詞の歌である。こちらの特徴を絶対視するとき,物神化の逆立ち的な悪事象が,必然的に発生するほかなくなる。
ときにはその国旗の模様が気に入らないといってこれを否定する者がいてなんら不思議はない。また国歌のメロディーが陰気だから歌いたくないとか,あるいは,歌詞そのものが「天皇のためのもの」だから私はこの歌はいっさい歌いたくないという人がいても,なにもおかしいことはないし,この考え方を頭から否定できる筋合いもない。
e) アメリカで1989年に最高裁の結果が,言論の自由の保障を「根本原理」とみなし,政府は「観念の表現について,単に社会が当該観念を不快または好ましくないとの理由で」禁止することはできないとしたことは,民主主義の根本理念にかなった判断であった。
ところが,日本では21世紀の2020年代になってもまだ,それも最初から国旗・国歌法の主旨に反して,この法律にはしたがわないと意思表示しようとする人びとが抑圧されるのが,この日本社会である。
2010年代の安倍晋三第2次政権以来,この国の品質管理状態が民主主義の基本思想の「アンダーコントロール」から脱線したまま,政治4流国である実体をその政治品質面でますます劣化・腐敗させている現実も生じてきた。
が,それ以前に21世紀になってからの日本はあいもかわらず,「国旗・国歌」法の遵守のさせ方で,自国の民主主義の状態がいかに劣悪であり,しかもそれに無自覚であるかを自証しつづけているのだから,「この国における民主主義の状態」は,丸山眞男にいわせるまでもなく,いまだに未開の方向に目線が向けてきたと形容するほかあるまい。
以上の話題について付言しておくべき事件もあった。
安倍晋三が2022年7月8日に暗殺されたのを契機に,日本の自民党政治と統一教会とが骨がらみになったかたちでもって,その半封建的かつ非民主的な政治構造が,すなわち内政面においてそれが奇妙に癒着したかたちで,この国をさらに腐朽・凋落させてきた事実が,あたかもパンドラの箱のフタが空けられたごときに暴露された。
国旗・国歌の問題も,21世紀における自民党政治の19世紀的な本性に照らして吟味,批判しつくておくべき課題であったが,21世紀の現在になってもまだ未解決のままである。
以上ですでにだいぶ長くなったが,※-1の記述を終え,次段からはいまから8年前に書いてあった文章を復活させるかたちで,この記述をつづける。
※-2 作家・高橋源一郎稿「〈論壇時評〉『外注』した政治 戦後70年,いま取り戻す」のなかの奇妙な文章(『朝日新聞』2015年8月27日朝刊)から
1)その記事の本文紹介
この高橋源一郎の文章から,興味を惹いた一部分を引用する。
--加藤典洋が雑誌『すばる』の「戦争を,読む」という特集に寄せた短いエッセー〈1〉に,強い衝撃を受けた。そこで加藤は,70年前,偉大な民俗学者・柳田国男が考えたことを紹介している。
柳田は,烈しい空襲が続く東京で,夥しい死者を目の当たりにしながら,死者を弔うとはなにか,と考えつづけた。とりわけ「南の海などで非業の死をとげている若者の魂はどうなるだろう」と。
日本人は,ずっと,死んだ人間は,故郷の地に集まり,そこから生きている者を見守り,やがて,子孫から敬われ,弔われることで,すべての祖先の霊と合体してゆく,と考えてきた。だが,戦争による夥しい死のなかで,子孫を作ることなく,異国で亡くなった魂はどうなるのか。
そして,柳田は,日本人固有の死生観にもとづき,「国に残った縁あるモット若い人たちが,海の藻屑となったり,ジャングルの奥で野ざらしになった死者の養子となることで,彼らを先祖にし,その子孫となり,彼らを敬い,弔うようにしてはどうか,という」破天荒な政策を提案した,と加藤は指摘している。
私は,加藤のエッセーに導かれて,問題の書「先祖の話」〈2〉を読んだ。そして,その静かな文章の底に,戦争の災禍を前にした,柳田の怒りと慟哭が流れているのを感じた。
柳田は,戦争の死者を,ひとりひとりの個人が作る「家」が弔う,という形を提唱することで,「国家」が弔う,という靖国神社のあり方を,もっとも深いところで批判している。「戦争の死者」が戻りたかったのは,靖国ではなく,彼らの故郷や家族のもとのはずだったから。
同時に,いま柳田を読めば,もっとべつの視点をうることもできる,とも思った。柳田が憂えたのは,人びとが,かつては我が手でおこなってきた「慰霊」を,国家という「外部」に任せてしまったこと,すなわち,慰霊の「外注」だったのかもしれない。
だが,わたしたちはみんな,少しずつ,「家事」も「教育」も,「外注」するようになったのだ。そのことによって,たしかに,わたしたちは自由になった。その結果,えたものはなんだったのだろう。
--高橋源一郎について,以上に引用した記事の人物紹介は,こう説明していた。1951年生まれ,明治学院大学教授。「論壇時評」48回分をまとめた著書『ぼくらの民主主義なんだぜ』が好評発売中。
2)柳田国男の評価
だが,高橋源一郎が紹介したような,以上のごとき柳田国男の「戦没者(戦死問題)」に対する「柳田自身の考え方」は,実は,敗戦をきっかけにして,それも靖国神社を問題を介在させることによって,だいぶ遠くに放逐されていた。
つまり,前段において高橋源一郎が柳田国男に関して把握していた事実とは根本的に〈異なる柳田自身の考え方〉が,敗戦後状況に対峙していた靖国神社「生き残り方策」のために柳田が提案した「中身」を介して生まれていた。
本ブログは,靖国神社の問題,その歴史や本質についてはいろいろ検討をかさねてきている。だが,高橋源一郎のような靖国に関する歴史理解は出てくる隙間は,いっさいありえなかった。
柳田国男は敗戦直後,もとは国営神社であった立場・利害を剥奪されてしまい,民間の一宗教法人に変身させられた靖国神社を助けるために,「日本古来の盆行事に因み昭和22年7月〔13日から16日の4日間が恒例の期間〕に始まった『みたままつり』」の開催」を,教示した民俗学者である。
註記)本ブログにおける関説をした記述は,ここではつぎの2件を挙げておく。いずれも2014年8月中の記述であったので,ここではその日付ははずしておき,論題だけこちらで論じた内容は,ひとまず今日の期日では所与とする。
靖国神社は,帝国主義国家体制のために営造された慰霊施設であった。しかし,敗戦を契機に「英霊を合祀する」神社である1点:存在意義は,完全に消滅していたのではなかったか。英霊は官軍側の霊魂だったからこそ英霊たりえたのである。
だが,その皇軍は昭和20年(1945)に負けてしまった。あってはならぬことが起こってしまった。さて,どうするか。われわれ(靖国の立場で)が祭っている英霊は,単に犬死にしただけなのか。連合軍から「賊軍」呼ばわりされたままでは,そうなってしまう。
靖国神社が遊就館という付属施設を用いて盛んに鼓吹している「あれは正義の戦争だった」史観は,絶対にゆずれないものなのである。
註記)以上の3段落は,小島 毅『靖国史観-幕末維新という深淵-』筑摩書房,2007年,118頁参照。
この神社は,そうした歴史的な経緯:負い目を背負い,ある種の制度的な矛盾は抱えたまま,単立の民間神社として維持・運営していかざるをえなくなっていた。
それゆえ,柳田国男が創案してくれた民俗神社的な神道祭儀を新たに設営・開催し,戦没者遺族以外の一般の人びとをすい寄せられる神社経営に向かわざるをえなかった。
ここではさきに,前後する議論に関連させて,つぎのような前提事項を指示しておきたい。
a) 江戸時代までの墓式は個人単位であった。だが,明治時代から家族単位の墓を創るように,国家が指導してきた。
b) その家族単位の墓をさらに,国家イデオロギーの単位のなかに包摂・統合するために「天皇家祭祀の国家統合的な存在意義」が制作された。
c) 靖国神社は,戦没者(戦死者・戦病死者など)の遺体・遺骨を収納させる聖所ではない。そこは,国家が〈英霊→死者の魂:御霊〉のみを,しかもえり好みしながら「受け入れる仕組」を用意した霊所なのである。
そして,この靖国神社では天皇が,神道式に親拝し祭祀する。それも,明治時期に新しく創建された「国家神道」の体裁をまとって宗教行事をする《戦争推進・勝利用の神社》であった。
しごく単純に考えると,英霊を祭祀するだけであるならば,戦前・戦中のように天皇が軍服を着用して親拝に出向く必要はないはずである。だが,天皇は当時まで,英霊に対しては「軍服を着用しての親拝」に徹していた。
d) 大日本帝国は第2次大戦に完敗した。幸いにも靖国神社は,占領軍におとり潰しにされることもなく,宗教法人として民間施設の形態で生き延びることができた。
そのさい,民間神社として祭事を新しく創造し,宗教組織として他の諸神社と変わらない活動内容を,時代の変化に適応させて整える必要を唱え,具体的に助言・支援してくれたのが,柳田国男であった。
なお,敗戦後において1975年までは靖国神社に参拝していた昭和天皇は,こんどは洋装姿でもって親拝することになっていた。これは,日本帝国の敗北を認めたうえでの変更点であった。あまりにも当然の指摘でしかないが……。
e)-1「靖国神社は,近代日本の軍神の神社のいわば総本山と考えられる」註記)のは,全国各地にその分社に相当する護国神社の存在がある事実から即解できる。
註記)赤澤史朗『戦没者合祀と靖国神社』吉川弘文館,2015年,8頁。
e)-2 靖国神社・護国神社が国家次元・地方単位にわたって構えている「国家神道的な宗教の観点」は,「家がどのようにして戦死者祭祀をおこなってきたのかという視点は欠如して」いる。「また,ムラのレベルでの戦死者祭祀へ視点も弱いものである」。
ともかく「戦死者の悲劇性は怨霊信仰の体系をきわだたせる」。それゆえ「国家および国民の次元での戦死者祭祀の政治的・思想的意味を解明することも重要である」註記)と指摘されている。この指摘は,靖国神社に固有である〈歴史的な淵源の問題〉にこそ,吟味すべき重要な論点が控えていることを教えている。
註記)岩田重則『戦死者霊魂のゆくえ-戦争と民俗-』吉川弘文館,2003年,31頁。
以上の引用なども踏まえていおう。柳田国男の考えは,以上のような諸説明のなかに,矛盾した態度として現われてもいるけれども,靖国神社側の「明治以来の国家神道」を,民間側の「古代からの民俗神道」の伝統と調整しつつ,なんとか妥協的に統合させることを狙った「神道的な観念信仰の新創造」を,敗戦直後において占領軍が出した「神道指令」註記)に適応させるために提案したのである。
註記)「国家神道,神社神道ニ対スル政府ノ保証,支援,保全,監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件(昭和20年12月15日連合国軍最高司令官総司令部参謀副官発第3号(民間情報教育部)終戦連絡中央事務局経由日本政府ニ対スル覚書)」。
この「神道指令」は具体的には,こう命じていた。
イ) 日本政府,都道府県庁,市町村或ハ官公吏,属官,雇員等ニシテ公的資格ニ於テ神道ノ保証,支援,保全,監督並ニ弘布ヲナスコトヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。
ロ) 神道及神杜ニ対スル公ノ財源ヨリノアラユル財政的援助並ニアラユル公的要素ノ導入ハ之ヲ禁止スル而シテカカル行為ノ即刻ノ停止ヲ命ズル。
以上のごとき敗戦事情のなかで,靖国神社がどのようにサバイバルできるかを,当時の靖国神社は必死になって模索する苦しい境地におかれていたところに,柳田国男が「民間の一宗教法人」として靖国神社がやっていける道を教示してくれた。
もっとも,敗戦後から今日までの靖国神社は国家機関ではなくなったものの,過去における戦争動員・参加によって死んだ者たちの〈英霊〉のみを都合よく抽出しては,これらを合祀するという国家神道としての宗教行為を,従前に継続してきた。これに対しては,国家側関係当局が戦前・戦中とも実質的になんら変わりなく協働・援助してきた。
その意味ではだから,戦後改革としての靖国変革はきわめて中途半端に終わっていた。それだけなく,敗戦後も合祀事務作業に国家側関係当局が関与・支援するという「官・民」間における相互事務のあり方は,神道指令などなにするものぞ,という「陰に隠れての反発・造反」の具体的な様相であった。
以上の記述については,英霊という形式で死者の霊魂だけを都合よく抜き出して利用してきた靖国神社の宗教的な不当性・専横性については,いまだに戦場に放置されている遺骨が膨大な数量ある事実を踏まえて論じられたつぎの本がある。
田村洋三『彷徨える英霊たち-戦争の怪異譚』中央公論新社,2015年は,靖国神社に固有の本性である慰霊施設の特徴を評価しつつも,実は,靖国に対する痛烈な批判を浴びせている本であった。
同書は,遺骨収集の問題などそっちのけで,同胞兵士たちの霊魂だけ選り分けて取りだすかたちで,しかも過去に「戦勝神社」「官軍神社」であった「過去の履歴」はそっちのけにしたまま,
いまでは,敗戦神社になってからの78年にもおよぶ歴史をすっかり忘却できたかのように振るまい,しかも,遊就館には旧軍の兵器・武器(米軍に比較したら性能的に見劣りするほかなかったそれらを)を展示するといったふうに,
いまだに「勝利神社」ではなくて,本当の事実として「勝てば官軍神社ではない敗戦神社」になっていた「敗戦後的な由来」を,全面的に忘れたい「この神社の根性」のありどころを,徹底的につまりちゃぶ台返し的に,それもなんどもひっくり返すような内容であった。
※-3 靖国問題に関する新聞特集記事
『日本経済新聞』が2015年8月18・19・20日,題名「戦後70年 追悼をたどる 上・中・下」の特集記事を組んでいた。靖国神社の本質と歴史をしるうえで参考になる中身がある。この記事でもって,靖国神社のすべてが判るとはいえない。けれども,かなりの線まで肉薄した内容である。
1)「戦後70年 追悼をたどる(上)「靖国」定まらぬ道筋-A級戦犯合祀で混迷深まる 遺族に賛否 外交にも影」『日本経済新聞』2015年8月18日朝刊
せみ時雨と人波であふれた境内に,一瞬の静寂が訪れた。〔2015年〕8月15日正午,東京・九段の靖国神社。目と鼻の先にある日本武道館での全国戦没者追悼式の様子が放送で流れ,参拝客らは合祀された246万6千余の祭神にこうべを垂れた。
★-1 昭和天皇,不快感(【付記】なお,この★印の通し番号は「方括弧」の連番と無為関係に,その「前後を抜き通すかたち」で振られているので,念のため)
同じころ,広田弘太郎(77歳)は東京都港区の自宅で過ごしていた。祖父はA級戦犯の元首相,広田弘毅。靖国神社に合祀されているが,弘太郎には実感がない。「祖父は靖国にはいないと思う」。
補注)この意見=受けとめ方は興味深い。戦争関連の犠牲者について,その親族が靖国神社に合祀されているかどうか,英霊としてその祭壇に居るかいないかを判断する基準が,「遺族の側にある」と確信されるとすれば,このような広田弘太郎の「実感」は絶対的な基準になりうる。
それゆえにまた,逆に国家が(昔の旧大日本帝国もいまの日本国も)靖国神社に合祀された英霊は,この国営(元国営)の神社に祀られていると勝手に判断することも,いままでどおりに可能である。しょせんは,宗教精神に関するおたがいの独断的な価値観が決定的な意味を発揮する「観念の世界」での話題である。
〔記事本文に戻る→〕 広田弘毅は元外交官で1936年の二・二六事件後に約1年間首相を,前後には外相を務めた。大陸や南方へ進出した軍部の暴走を止められなかったとされ,東京裁判で文官で唯一死刑判決を受け,絞首刑となった。
補注)広田弘毅がA級戦犯として絞首刑に処された点については,東京裁判問題を専門的に研究する学究からは,過当・過酷な判決であったという指摘がある。
靖国神社は戦後,旧厚生省が遺族援助の目的で作成した戦没者名簿にもとづき,公務死した軍人・軍属らを遺族の意向とは関係なく合祀してきた。
同省はA級戦犯14人も名簿に載せ,1966年に神社側に通知。当時の宮司,筑波藤麿は合祀を留保したが,1978年に後任の松平永芳が「昭和殉難者」として踏み切った。
「祖父は軍人でも戦死でもない。国に殉じた人を祭る神社はあっていいが,一方的な合祀は納得しがたい」。弘太郎は表情を曇らせる。
A級戦犯の合祀をめぐっては〔別にも〕,昭和天皇が不快感を示していたことが2006年に元宮内庁長官の富田朝彦のメモから判明。天皇陛下の参拝は1975年11月の昭和天皇を最後におこなわれていない。中国や韓国が首相参拝に反発を強めるのも合祀後であった。
もっとも,A級戦犯の遺族の受け止めは一様ではない。広田弘毅と同様に文官で合祀された元外相,東郷茂徳(禁錮20年の刑で服役中病死)の孫で,元外交官の京都産業大学教授東郷和彦(70)は年に1度,学生を連れて靖国を参拝する。「靖国には日本が大切にすべき歴史の記憶が残っている」と考えるからだ。
和彦は,国民全体が受け止めるべきだった戦争の責任をA級戦犯が引き受け,それが敬いの対象になっていることは不自然ではないという。「多くの人が『靖国で会おう』といって死んでいったことは無視できない。追悼の場は靖国しかない」とも語る。
補注)この「追悼の場は靖国しかない」という単純な現状追認の観点・立場が,この元「国家のための(そしていまも)戦争神社(war shrine)」の本質と歴史をあえて問わない思考方法として,近隣諸国の猛反発を買う原因になっている。いわゆる東京裁判史観の否定・排除になるほかないのが,この東郷和彦の靖国神社に対する接し方である。
★-2 政治絡み停滞
A級戦犯の合祀は戦没者の追悼のあり方とも絡み,世論を割ってきた。2013年10月3日には,米国のケリー国務長官とヘーゲル国防長官が,身元不明の遺骨を納めた無宗教の千鳥ケ淵戦没者墓苑(東京・千代田)を訪れ献花していた。画像はクリックで拡大・可。
補注)アメリカ側によるこうしたお節介な「日本を指導する同盟国家としての基本姿勢」は,安倍晋三首相が2013年12月26日午前,第2次内閣発足から満1年のこの日に靖国神社に参拝していたけれども,この予兆を意識して対応に及んでいたアメリカ高官の行為であった。なお,現職首相による靖国参拝は,2006年8月15日の小泉純一郎元首相の参拝以来,7年4カ月ぶりであった。
それにしても,以上のような「上から目線の政治的指導」が,アメリカから日本国首相の行為に対して発動されるという「両国間の政治関係」が,いったいどのような国際政治秩序に関する現象であり,さらに本質がのぞけるかについては,ここではあえて言及しない。いわずもがな,であるゆえ……。
〔記事本文に戻る→〕 『靖国問題の原点』(日本評論社,2005年。増補版 2013年)などの著書がある東京理科大学嘱託教授の三土修平(66歳,当時の錬成)は,富田メモの発掘註記)と米閣僚の千鳥ケ淵献花の2つが事態を前進させる好機だったとみる。だが「政治家が逸してしまった」と指摘する。
註記)『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊は,1面の冒頭(トップ)記事を,「昭和天皇,A級戦犯靖国合祀に不快感」という見出しで報道した。日本経済新聞社は通常,経済関連の重要ニュースを一面トップ(冒頭)に置く編集方針を採っている。だが,この記事のときばかりはそのように「異例の対応(扱い)」をしていた。
「祖父の合祀は遺族としてありがたい」という東郷和彦も,現状のままで良いとは考えていない。「問題の解決は日本に対するアジアや世界からの信頼にもつながる」として,合祀のあつかいを含めた改革の必要性を説く。
A級戦犯の分祀は自民党や日本遺族会でとりざたされたこともある。だが靖国神社は「一度合祀された御祭神はとり下げられない」との立場を堅持する。膠着した現状の打開を求める声はあるが,具体的な道筋はいまもみえない。
ところで,この靖国神社側の理屈=「英霊の分祀はできない」は,詭弁まがい,もしくはヘリクツにもならない抗弁である。
天照大神でもかつては植民地朝鮮の京城神社にも分祀していた(この神社の祭神は天照大神・朝鮮国魂大神・大己貴命・少彦名命などであったが,敗戦を機にすべて廃祀処分にした)ように,分祀の実例は無数,いくらでもある。
しかしそれでも,A級戦犯に限っては分祀できないというのであれば,ここにこそ,明治以来に創設された「靖国神社の国家的な本性」が,みずから暴露され告白していたことにもなるい。
古代からの民俗神道神社とは基本性格からして違う,つまり,旧大日本帝国陸海軍直轄の国営神社の《明治的なゆえん》は,いまもなお,それ以来にわざわざ新たに創ってきた格式を堅持されねばならない,というこだわりがうかがえる。
2)「戦後70年 追悼をたどる(中)戦没者と広がる距離-慰霊祭,若者には『同窓会』遺族から次代,継承難しく」『日本経済新聞』2015年8月19日朝刊
大小3万超の提灯が照らす境内を,浴衣姿の若者らが談笑しながら歩く。「こんなに人の少ない『みたま』は初めてだよねー」。参道のあちこちで驚きの声が上がった。
★-3 露店と酒宴禁止〔の問題〕
今〔2015〕年で69回目を迎えた靖国神社(東京・九段)の「みたままつり」。7月13~16日の期間中の来場者数は約15万5千人で,昨〔2014〕年の約33万人から半減した。毎年訪れている墨田区の女子高校生(18歳)らは「だって,今年は屋台が出ないから」と口をそろえる。
1947年に「国のために尊い命をささげた英霊を慰める行事」として始まった都心の夏の風物詩。靖国神社は今〔2015〕年,例年200店が並ぶ露店の出店を中止し,境内での酒宴も禁じた。数年前から交流サイト(SNS)などで誘いあって大勢の若者が集まるようになり,騒音やトラブルといった「さまざまな問題が発生した」(靖国神社広報課)のが原因だ。
杉並区の私立大4年の男子学生(22歳)に聞くと,「靖国は夏休み前に大学のクラスや高校時代の友人と同窓会感覚で集まる場所」。戦没者を祭っていることは「よくしらない」という。
補注)21世紀いまの段階に至って,庶民の感覚でとらえられている靖国神社の姿容は一般的にいえば,全国のあちらこちらにもありそうな,地元の大きくて〔この靖国神社であれば東京都の真ん中に所在する〕とくにりっぱな神社だ,という具合に認知されている。つまり,東京都民などが参拝に行く・来る一般的な神社のひとつだというふうにも,もっぱら認識されている。
前述にも言及したが,敗戦直後における柳田国男の適切といっていい指導があった,それから70年以上かけて形成されてきた「この神社にまつわる歴史の事情」は,どういうものの変質してきたか?
「英霊を合祀する」元国営神社としての基本性格の上に,ごく一般的な民俗神社としての性格が着衣されていた。正直にいえば,いまもこの神社は「戦争神社」である由来(本質)を捨てていることなどはない。だから,現状における姿容は「衣の下に鎧(よろい)」そのものと形容されて間違いではない。
毎年開催されているのが,それも一般の神社の祭事とまったく同質である「みたままつり」である。しかし,この「みたま」が指示するのは「英霊」以外にありえない
そのかぎりで,戦争神社(=鎧)が「みたままつり」という祭事を背負いながら開催している関係性こそは,まさしく「衣の下に鎧」であるこの「戦争神社の21〔20〕世紀版」の本体であり,真相なのである。
靖国神社本来の宗教的な使命からいえば,「今年は屋台が出ない」という参拝者(?)の不満・不平は枝葉末節どころか,厳密に形容するのであれば,不謹慎とも非難・批判されてもよい〈感想〉なのである。
〔記事本文に戻る→〕 戦後生まれの祖父母や両親と戦争について話した記憶はない。「戦争はダメだと思う。でも『戦没者を悼む』『悲劇を繰り返さない』と聞いても,どこかリアリティーを感じられない」。学生は真剣な表情で語ったあと,スマートフォンで提灯と仲間を写真に収めた。
終〔敗〕戦から70年。戦後生まれの割合は〔2014~15年時点で〕日本の総人口の8割を超え,戦没者の追悼を支えてきた「子世代」は高齢化が進んでいる。靖国神社も例外ではなく,寄付で神社を支える「崇敬奉賛会」の会員数は2002年の約9万3千人をピークに減少。昨〔2014〕年11月現在で約6万3千人にまで落ちこんだ。
「時代は移りゆくとも慰霊の心は永遠に」。靖国神社が70年の節目にかかげたメッセージに応えるように,日本遺族会は,戦没者追悼を次世代に引きつごうとしている。昨〔2014〕年3月,都道府県の支部組織に戦没者の孫らによる「孫,ひ孫の会」を立ち上げるよう呼びかけた。今春までに9県の遺族会が結成した。
★-4 組織化に二の足
ただ,日本遺族会事務局は「戦没者遺児と,孫やひ孫で戦争に対する考え方にギャップがあるのは否めない」と打ち明ける。若い世代を組織化するのは容易でない。
新潟県連合遺族会会長の横山益郎(79歳)も孫,ひ孫の会の結成に踏み出せずにいる。3歳のとき,中国に出征した父は遺骨となって帰国した。20代のころから遺族会活動に携わり,毎年,靖国神社への参拝も続けているが「自分の代で遺族会も終わりかも」との不安は拭えない。追悼行事をやめた下部組織もある。
横山は父の戦死を報じる古い新聞記事をみつめ,「戦争の記憶はずっと語りついでほしいが……」と黙りこむ。父が戦死したため幼いころから田植えを手伝い,働きながら定時制高校に通った。「戦争さえなければ,という切なさを抱えてきたから遺族会の活動を頑張り,靖国にも参拝した。子や孫に,同じ気持で手を合わせろというのは少し酷じゃないかな」。
戦争をしらず,戦争で肉親を失った悲しみもしらない世代は,戦没者とどう向きあっていくのか。遺族会の現状は,将来の慰霊のあり方を問いかける。
--以上のいいぶんについては,いくらか視野を広くとって考えてみる必要があった。
過去に大日本帝国から侵略を受けてきた「外国側の国家・国民・市民・人びとの立場」における歴史の記憶が,他方にあっては確固として存在している。
だが,現代における日本国のこちら側においてそれは,いったい,どのように照らしかえされて,再考されれればよいのか。こういった疑問が生じてきて当然である。だが,以上の特集記事のなかにおいては,こういった問題意識はほとんど感じられない。
前段のように指摘してみた特性,つまり「国内に閉塞する〈靖国神社の問題〉」に対してはいつも重大な問題を投じているのが,「近隣諸国=かつて日帝の侵略を受けてきた国々」から繰りかえし発信されてくる批判であった。
さきほど,2013年12月26日に安倍晋三が,自政権の成立後1周年を記念してなのか,靖国神社を参拝したことに言及した。ところがそれ以前の時期に(10月3日),アメリカ側から国務長官と国防長官の2人〔も〕がわざわざ日本に来て,しかも,千鳥ヶ淵戦没者霊園に献花しては,安倍晋三に対して露骨に〈慰霊の作法〉を指南していた。
一方では,近隣諸国から靖国神社の存在とこれへの参拝のあり方について批難されるかと思えば,他方では,宗主国であるアメリカからはじかに,戦没者慰霊の方法じたいについて善導される始末である。いったい,この国の主体性・自主性はどうなっているのか?
しかし思えば,それもこれも,明治維新以降における旧大日本帝国の侵略主義・軍国主義の総決算が済まされていないままである「今日の日本における国際事情」に関した話題であった。
3)「戦後70年 追悼をたどる(下)鎮魂 どう心合わせる-戦争知らない世代,大半に 向きあい方,考える好機」『日本経済新聞』2015年8月20日朝刊
1964年の全国戦没者追悼式。終戦の日に天皇,皇后両陛下が臨席し,白木の標柱に鎮魂の祈りをささげる。厳かな式典の内容は現在と変わらない。だが,この年の会場だけは特別だった。靖国神社(東京・九段)の境内。大鳥居と拝殿のあいだ,大村益次郎像前の「広場」に張った天幕に約2千人の遺族が集まった。
遺族代表として式辞を述べたのは南方戦線で夫を失った久礼信子(当時,45歳)。久礼は式典後の取材に「靖国神社境内で式がおこなわれることになり,夫に一歩近づいた気がします」と答えている。
★-5 靖国で一度だけ
1964年に東京大学から通産省(現経済産業省)に入省し,駐英公使などを歴任した久礼の長男,彦治(76歳,当時)は「あの日のことはよく覚えている。でも母は『靖国で』ということがそれほど特別だとは思っていなかった」と振りかえる。
追悼式が8月15日に初めておこなわれたのはこの前年の1963年。会場は日比谷公会堂だった。「宗教的儀式を伴わなくても,その場所を借りるというだけで誤解を受ける。宗教的な匂いのある場所は適当ではない」。当時の厚生相,西村英一は国会で会場選定の理由を説明している。
池田勇人内閣は翌1964年もいったんは日比谷公会堂を会場とすることを閣議決定したが,7月に入いって会場を靖国神社境内に変更した。「自民党総裁選を間近に控え,遺族団体の票を背景にした議員たちの圧力に折れた」とするみかたが広がった。
「政教分離の原則に反する」「特定の宗教の空気がみなぎる場所では国民的な行事にならない」。野党は突然の変更に反発したが,政府は「遺族の要望」を強調,靖国神社の拝殿から約300メートル離れた「大村像の近所ならば批判は免れる」として開催に踏み切った。
その後も靖国神社で政府主催の追悼式をおこなったことに対しての批判は強く残り,1965年からは会場を日本武道館とするのが通例となった。同神社での開催は1964年が最初で最後だ。
★-6 みえない具体像
多くの国民が参加し,近隣諸国にも理解される国の追悼行事,施設とはどんなものなのか。
小泉純一郎内閣の官房長官だった福田康夫(79歳,当時)が2001年に設置した「追悼・平和祈念のあり方を考える懇談会」で委員を務めた東大名誉教授,御厨 貴(64歳)は「敗戦から70年の節目にいま一度,考えてみるべきだ」と話す。
懇談会は国立の戦没者追悼施設の必要性,性質,名称,場所などを1年にわたって議論したが,「無宗教の恒久的施設が必要」と「指摘」しただけで,具体像を示すには至っていない。
「詳細な結論をとりまとめようとすれば,懇談会は決裂しただろう」と御厨は振り返る。「靖国の位置づけ」をめぐる委員間の隔たりは大きかった。
◆「靖国神社は国民の大多数の意識のうえでは追悼の公的施設だ」とする意見。
◇「日本人以外の戦没者も含めた無宗教の国立施設を創るべきだ」という考え。
補注)この2とおりの意見の相違は,あくまでもどこまでも「国内問題の次元に限られた問題点」でしかない。
そこには「戦争に敗北した神社」になっていた靖国神社が,結果的に露呈させてしまった反「戦争神社」的な性格の問題点が集中的に反映されている。
いいかえれば,国際政治の次元に向けて変換させてみるに,あの大戦争に「敗戦したために賊軍神社」に変質してしまったこの神社の「歴史の事実」じたいは,どうしても否定しえないものの,それでもなお,この事実を無視する意見が ◆ であり,そうではない意見が ◇ であった。
元来,敗戦そのものを認めえない神社,あるいは,敗者側の戦没者の合祀を認めるわけもない基本性格を有するのが,靖国神社であったはずである。
創建時からのその本来的・根源的な国家特性を考慮すれば,敗戦後から21世紀の現在まで,これほどまで極端に尖鋭的な矛盾をかかえさせられてきたのが,靖国神社である。
〔記事本文に戻る→〕 だが「戦争を知らない世代が国民の大半になることが予想されるいまこそ,『戦争と平和』に思いをめぐらし,『平和国家』日本の担い手としての自覚を促す節目のときに違いない」という報告書の問題提起はいまに通じる。
御厨 貴はいう。「すべての国民がわだかまりなく心を合わせ,犠牲者に思いをいたす場所がこれから必要になる。今夏はそれを考える好機ではないだろうか」。
--御厨 貴がこのように主張した「日本の政治学者としての発言」についていえば,この立場にはおのずと「彼なりの限界」がまとわりついている。
靖国神社という神殿じたいの存在に対して〔ここでは仮にする話題となるが,御厨が〕全面的に反対である立場・思想であっても,けっしてそういった意思は,おくびにも出さない。この点が日本国内の事情・背景として重くのしかかっている。
前段に出ていた赤澤史朗は別著の『靖国神社-せめぎあう〈戦没者〉のゆくえ-』(岩波書店,2005年)のなかで,こう述べていた。いまもなお矛盾だらけでしかありえない靖国神社の姿容について,その淵源にかかわる事情を,つぎのように指摘している。
明治帝政時代〔19世紀後期〕から続く「大日本帝国の行跡(失敗)」を,すなおに否定できない『靖国神社の基本性格』が,今後にも維持されていくかぎり,これからもとくに夏になるたびに,この元国営神社は「戦争の時代の記憶」をめぐって,東アジア諸国との軋轢・摩擦・対立の種を提供しつづけていく。
あの20世紀の大戦争の思い出を「日本は敗けたけれでも,あそこまでよく,戦かえり」といった気分でしか回想できないかぎり,そのために存在するかのような幻想に浸りきっている靖国神社という存在は,宗教機関として普遍性をもちえないままである。
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