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指導者の資質-駆逐艦の艦長・工藤俊作の場合

 ※-1 前 論-「世襲3代目の政治屋」がさらにこの国を凋落させている悲惨な現況


 a) 昨日のニュースからまず紹介したい。

 「岸田文雄首相,第2次再改造内閣は『変化を力にする内閣』…初入閣11人女性過去最多5人 『刷新と安定』演出」『スポーツ報知』2023年9月14日 4時30分,https://hochi.news/articles/20230913-OHT1T51300.html だと,政府の半御用達新聞紙の「弟分のスポーツ紙」がそう報じていた。

 それにしても,このたび9月13日の内閣改造は,なんとも絞まりもなにも感じられないほどに,実質は「異次元の無改造内閣」であった。むしろ,なんの意味もないどころか,「大臣なりたい国会議員たち」の,それも興味をもてない単なる在庫一掃セールであった。

 岸田文雄が2021年10月4日に首相になってから,あれこれとコトバだけは宙を舞っているものの,とくに今回のその「変化を力にする」という想定話は,はて,なぜ「変革」という漢字ではなく「変化」をもちだし使用していたのか(?)と,これは,ごく自然・素朴な疑念として浮上するものであった。 

 このいまの首相は,もしかしたら,日本語からして勉強が足りない「世襲3代目の政治屋」とみるほかないのか。変化ならば時間の変化もその変化のひとつでありうるから,いったいなにをいいたいのかさっぱり伝わってこない。彼の口から吐かれるコトバからは,なにも主体性ある・個性あるエネルギーが汲みとれない。

 b) この総理大臣は2021年10月4日にその座に就いてからというもの,いうことが180度「変化」したというか,ひっくり返って逆立ちしたままよろよろと動いてはきたつもりらしい様相ならば,間違いなく披露してきた。

 岸田政権は以前,「資産所得倍増元年」といいだした思ったら,すぐに「貯蓄から投資へ」のシフト(変化?)を,大胆かつ抜本的(かつ軽率にも)進めてきた,という連続性において首尾一貫などない変節的な言動をしていた。

 だが,この「世襲3代目の政治屋」は,自分の口から正式に出たコトバの意味など,事後においてどのように「変化」(変質)していようが,この事実の次元で発生していた大きな食い違いをなんとも思っていない。

 それでいて,今回の内閣改造になるとこんどは,「変化を力にする内閣」だなどとのたもうた。そもそも,いうこと・やることがコロコロ変わってきたし,時間の経過とともに自分の発言がいよいよ悪酔いしたみたく,無節操と非難される以前に,ちょこちょこと変わってきた。

 ところがそういった自覚が少しもない。だから,この首相は始末に悪いという以前に,まことに正真正銘にトンデモな人物であった。「世襲3代目の政治屋」の悪例・見本であった。

【参考動画】-金子 勝の指摘-


 ※-2 さて,稲葉 剛・立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科客員教授は,『毎日新聞』への寄稿で,岸田文雄のそのあたりのグラグラで定まりのつかない発言を,冒頭しか紹介できないが,こう批判していた

 a)「『分配』はどうなった 岸田政権の看板倒れ」『毎日新聞』2022年10月14日,https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20221013/pol/00m/010/007000c の指摘・批判であった。これは,ほぼ1年前の記事である。

  「看板倒れ」どころか,倒れて粉々になった看板が最初からなかったことにされている。『分配』の問題を前面に出して国民たちに期待を持たせるのは,もう「ヤーメタ」といっていたのが,岸田文雄君であった。その反省も総括のなにもないまま,しごく簡単に,当初の理念的な主張が撤回されていた。

 いままで岸田文雄が提唱してきたあれこれの理念・目的は,いとも簡単にに塵芥のように片づけられてきたゆえ,岸田文雄首相による10月3日の所信表明演説を聞いて私が思い描けたのは,ただ荒涼とした光景であった。

 というように,岸田文雄のことを描き出した稲葉 剛は,つづけてこう述べていた。

 わずか9カ月前の今〔2022〕年1月17日,岸田氏は施政方針演説において,成長と分配の好循環による「新しい資本主義」の実現を訴えていた。この日の演説で岸田氏は,

 「市場に依存し過ぎたことで,公平な分配がおこなわれず生じた,格差や貧困の拡大」や「市場や競争の効率性を重視し過ぎたことによる,中長期的投資の不足,そして持続可能性の喪失」など,新自由主義が生み出したさまざまな弊害を列挙。

 世界では,これらの弊害を乗り越えて持続可能な経済社会を実現するための「経済社会変革」の動きが始まっているとして,歴史的なスケールの変革を日本が主導する,とまで語っていた。

 しかし,今回の所信表明演説では「格差」,「貧困」等,新自由主義の弊害を示す言葉は跡形もなく消えていた。それだけでなく,「成長」と両輪であったはずの「分配」も消え,代わりに「成長のための投資と改革」という標語が登場した。これは,アベノミクスの「第3の矢」とされた「民間投資を喚起する成長戦略」の焼きなおしにほかならない。

 演説のなかで「新しい資本主義」という標語だけは,かろうじて2回出てくるものの,その内実は完全に消失したといってよいだろう。このままでは「看板」が片づけられるのも,時間の問題である。

 b)〔この記述のつぎの段落にかかげられていた小見出しが〕「格差・貧困問題に積極的に関与しようとしない」という,稲葉 剛の文句であった。

 われわれがいまの段階で,岸田文雄の発言に関していうとしたら,こうなる。

 もともと「世襲3代目の政治屋」の世間一般に関する基本的な知覚のあり方は,「国民・市民・庶民の生活状況」の実際をさっぱり理解できていないものが多数派であった。

 当初からほとんど無理解に近い程度のその中身しかもちあわせたいないとなれば,とりわけその感性の鈍感さときたら,これだけは自慢していいくらいの実体があった。いずれにせよ,その市民的な生活感覚の欠如ぶりはいかんともしがたい。

 この首相である岸田文雄自身がみずから,「国民生活」のまっただ中を歩きまわって感じてみるものがなにかありえ,これを国家最高指導者の立場から政策として取り上げるための認知のために活用すべく努力をしたうえで,なんらかに自分なり発言もおこない,

 これを「変化を力にする」ための契機にしたいというのであれば,まだ多少は理解できる面もないではない。ところが,この人は当初からその種の問題意識とは無縁であり,完全に欠落させていた。この事実は,首相になってから1年と11ヵ月も時間が経てば,もうみえみえのスカスカになっていた。

 c) 要は,岸田文雄が首相の立場からこれまでにいったこと(!)・やったこと(?)が,事後になんの断わりもなしに平然と,昨日の昼飯は「吉野家の牛丼」ですませていたから,今日は讃岐うどんの「はなまるで塩豚ねぎうどん」にでもするかといった程度で,自国内政問題に関する発言もその基本点を気軽に変えてきた。

 そのあたりでいつもフラフラしてきた岸田文雄の発想やアイデアは,今回の改造人事では内閣官房副長官(筆頭格)からはずさざるをえなくなっていた,木原誠二からほとんど提供されていた。今回の内閣改造人事は,党務のほうの「幹事長代理と政調会長代理を兼ねる立場」にこの木原を移動させておき,従来の態勢が実質的に維持できるように手当したつもりである。

 岸田文雄の「首相として立場」は,この木原誠二がいつもその支柱となっていたこそ,維持できていた。ところが,岸田は自分の思考回線を通過させていないそれ(木原の助言・強力)であったがゆえ,前段までに指摘したごとき支離滅裂で,かつ前後不一致の諸発言を連続させていても,当人はなんとも感じずに「生きてこられた」。

 どう観ても・訊いても,自分のする「首相としての発言」に「変化が生じてきた事実」それじたい,よく把握することができていなかった。しかも,もとよりその事実をめぐって,関連する勉強をしっかりとする姿勢もなかった。

 世襲の政治屋であってもなくても,そのあまりにひどい学習能力しかもちあわせていなかった。この首相にこの国の運営を任せている一瞬,一瞬が,確実にわれわれの生活環境を劣化させ,その凋落を加速させている。げに恐ろしい事態が進行中である。

 それでも,変化というコトバを充てて理解したいナニモノかが,自分の力として利用できそうだと思っているのが,この首相らしい。だが,岸田文雄にかぎっては,いままでの実績に照らしてどうせろくでもないし,「今後の変化しか期待しえない」のだとしたら,むしろ,その期待は「しえない=できない」というよりはさらに,本来「期待するところなどなにひとつなかった」とまで,決めつけておいたほうが妥当であった。

 d) 本日,2023年9月15日『日本経済新聞』朝刊1面には,同新聞社が実施した今月の世論調査結果が報告されていた。今回における内閣改造人事は,自民党と書かれた大きなゴミ箱を逆さ吊りにしてガンガン叩いては,その底にこびりついていたゴミまで落として取り出すための所作に似ていた。

日経の世論調査にはなにも
国民がわからの反応がないのは
なぜか?

「女性の登用」5名のうちには
世襲議員の3名が含まれていた

 この日経の世論調査記事に付された見出しは通常だと,内閣を改造した場合ならば多少は期待できたはずの支持率の上昇はなかった。逆に「支持しない」が1%上昇というごときに,国民側からは無反応にひとしい結果。

 e) さて,本日の話題は,第2次大戦中(日本だと大東亜・太平洋戦争の期間)が開戦された当初,旧・大日本帝国陸海軍の伝統的なありように比較してみるに,たいそう「変化に富んだ」それも「駆逐艦の艦長としての指揮ぶりを記録した人物」に関する記述となる。

 以下につづく文章は,だいぶ以前(2009年6月20日)に書きあげその後,一時期だけは公表していた記述であったが,長期間お蔵入りしていたものを,今日取りだして再掲することになった。

 この駆逐艦の艦長は,日本の昔の軍隊組織のなかではきわめてまれな,以下に,具体的に説明していくような指揮をとった人物として有名である。なお,旧日帝関係の軍人のなかから非常に立派な将官として挙げられる人物は,ほかに挙げるとしたら陸軍の宮崎繁三郎(中将)と今村 均(大将)の2人がいた。

 この2人は将官であったが,前段で触れた駆逐艦の艦長(話題の時期は少佐であった)も,日本の軍隊組織のなかでは格別に希有な存在であった。ろくでもない将官・佐官ならば,掃いて捨てるほどにいくらでもいた旧日帝陸海軍あった。ところが,本日のこの記述で取り上げる工藤俊作は記述の対象になった時期は,海軍少佐として非常に特異な指揮ぶりを記録してきた。

 これらの旧軍人のその爪の垢でも煎じて岸田文雄には飲ませてみたいが,いかんせん故人になった軍人たちの話であるゆえ,そうはいかない。ということで,太平洋戦争時の日本の海軍史のなかに,この駆逐艦の艦長工藤俊作(当時・海軍中佐)が留めた話題を,以下に紹介することにしたい。

 

 ※-3「指導者の資質」を軍隊の本質と性格のなかからその珍しい実例を紹介する


 「武士道の発露」か,「敵兵を救助をした雷(いかづち)艦長工藤俊作」の記録があった。

 1)  惠隆之介『敵兵を救助せよ!』2006年

 惠隆之介『敵兵を救助せよ!-英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長-』(草思社,2006年)は,大東亜戦争開始直後に起きた,こういう海戦史の一幕を語っている。

 日本帝国が英・米・蘭などを相手にしかけた大東亜〔アメリカ側は太平洋戦と呼んだ〕戦争は,昭和16〔1941〕年12月8日に開始されていた。その過程の,昭和17〔1942〕年2月27日から3月1日にかけて,ジャワ島北方のスラバヤ沖で,日本艦隊は連合国艦隊15隻と海戦していた。

 この海戦に関連するある出来事を主題にとりあげ執筆された著作が,惠隆之介『敵兵を救助せよ! -英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長-』である。副題にその出来事が表記されている。

 そのスラバヤ沖海戦で日本艦隊は,3月1日まで15隻中11隻を撃沈し,4隻は逃走させた。このうち3月1日にスラバヤ沖で午後1時ころ撃沈された英巡洋艦「エクゼター」,駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名は漂流をつづけていた。翌2日,彼らは生存の限界に達していたとき,偶然この海域を航行していた日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」に発見され,救助された。

 戦闘行動中の艦艇が,敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかもしれない危険な海域で,自艦の乗組員の2倍の敵将兵を救助した。これは艦長の英断であった(同書,8-9頁)。

 2) 敗残兵を救助することの歴史的意味

 江戸時代まではさておくが,明治時代に入ると日清戦争(1894-1895:明治27-28年)とき,1日の攻撃で陥落させた旅順市内へ入った日本軍は,敗残兵の残る市内の掃討作戦のさい,多くの市民を標的にする虐殺行為を記録した。

 だが,日露戦争(1904-1905:明治37-38年)にさいして捕虜とした多くのロシア将兵は,国際法「ハーグ陸戦条約」にもとづき,日本は彼らを大切に処遇した。

 ところが,その後における各戦争においてこの条約がきちんと守られず実行もされなかった。南京大虐殺事件が有名である。日本帝国だけではない。これと同種の事件は,世界の各国軍隊が裏事情として隠しもっている。

 捕虜をとるのがめんどうくさいとばかり,降伏してきた敵兵士を,その場で射殺・処理することなど日常茶飯事であった。

 東京裁判ではB級戦犯が,戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」を犯した者として裁かれている。われわれの祖父母の世代がよくしっていた事実でもあるが,

 あの大東亜戦争の末期,戦闘機が日本全国を縦横無尽に飛びまわり,子どもや老人までも標的にして無差別に機銃掃射を浴びせ,多くの非戦闘員を殺していた。この戦争犯罪行為をしたアメリカ軍のパイロットは,1人たりとて問題にすらなっていない。

 たとえば,太平洋戦争末期,まだ少女だった高木敏子が書いた『ガラスのうさぎ』(金の星社,1972年)は,アメリカ軍機:P51ムスタングの機銃掃射に遭って,目の前で父親が殺された事実も描いているノンフィクション作品である。当時,日本の一般庶民を,非戦闘員を虫けらでも踏みつぶすように殺したアメリカ軍のパイロットが無数いた。

 だが,逆に日本軍人や軍属の人びとが戦地や日本国内で犯した同種の行為は,その該当者を徹底的に捜査し,みつけしだい捕まえては裁判にかけ,厳罰に処してきた。たとえば,日本を空襲したさい撃墜されたB29の乗組員を生体解剖し,その罪を問われた九州大学医学部と軍部の関係者が戦後,アメリカ側によって裁かれている(もっとも時代の変化のなかで途中であやふやにされたが)。

 3) 惠隆之介『敵兵を救助せよ!』から

  イ) 艦艇内組織風土の良質なる形成-軍事的有効性の観点から-

 本書『敵兵を救助せよ!-英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長-』を読んで感じたなかからまず,2) に記述した戦争捕虜の問題を記述する。つぎに,旧日本海軍駆逐艦「雷」の艦長工藤俊作・海軍中佐の,軍隊指導者として有していた〈すぐれた資質〉に注目したい。

 軍艦の艦長はその艦艇のなかでは最高権限者であり,絶対的な権力者でもある。この艦長の指揮しだいで,その艦の組織風土・乗組員の戦闘士気(モラール:morale)が大きく左右される。本書は,艦長の工藤中佐がその面では卓抜な能力をもち,非常に優秀な人材であった点を指摘し,これを称賛している。

 旧日本海軍にあっても艦艇のなかでは,旧日本陸軍に負けないほど兵士を殴っていた。「精神注入棒」というこん棒を使って尻を思いきり殴る〈海軍特有のシゴキ行為〉は,ときに死者すら出していた。

 旧日本海軍に海兵,それも兵卒として駆り出された日本男子であれば,自身の体験としてその〈殴られた〉体験がない〔あるいはみたこともない〕といったら,必らずウソである。日本の軍艦のなかでまかりとおっていたのが,「精神注入棒」によるシゴキ=「訓練に名を借りた暴力行為」であった。

 ところが,工藤俊作艦長は「雷」艦内ではそのシゴキ=精神注入棒による打撃行為も含めて,いっさいの訓練的・制裁的な殴打=暴力行為を禁じていた。

 そのほかにも,一兵卒の部下ともなるべく分け隔てなく対話する機会をもち,あるいは,戦闘状態に入るまでの時間を他艦よりも画期的に短縮し,敵潜水艦に対する爆雷攻撃の有効性も高くする指揮などをおこない,艦隊上層部の評判も上々であったという。

 こうした艦内におけるふだんの人間関係状況が,工藤艦長以下,いざ一丸となって戦闘行為:海戦に挑むとき,より効率的な応戦態勢を可能にしていた。

惠隆之介『敵兵を救助せよ!』

 そのせいで,敗戦後10年以上経っても,かつて「雷」の乗組員で戦争を生き延びてきた部下たちが,工藤の住居を捜しあててしばしば訪ねてきた。そのときは,「艦長,戦時中はお世話になりました」と発声するや,あとは声にならず,ただただ,工藤に肩をたたかれて,涙を滂沱する場面になるだけだったという(322頁)。

 つまり,旧日本海軍艦艇の艦長としての工藤は,非常に珍しくも,自分の指揮下にある軍隊内組織=駆逐艦「雷」の内部を,いかにして「合理的かつ感情的にもよい:それじたい健全な状態」に形成・維持・管理するか,ということに長けた人材であった。

 軍艦であるから,戦闘行為が始まったときは,敵艦を撃破するために効果的であるべきそうした「艦内の空気」(風土:climate)作りが肝要でなる。工藤は,自分が艦長として指揮をとる軍艦において,軍事作戦的にあるべき有効な状態をつねに維持しうるよう,艦内の技術的・組織的な管理万端に細心の留意を払い,これを実行・実現してきたといえる。

  ロ) ライフジャケットを付けたイギリス海軍士官

 ところで,「雷」に救助された英巡洋艦「エクゼター」および駆逐艦「エンカウンター」の乗組員4百数十名のうち,イギリス海軍士官たちはライフジャケットを付けていたという記述がある。当時,日本の駆逐艦の救命具は,艦内に特別短艇員用のライフジャケットが4個しか備えていなかったとも註記されている(254頁,263頁)。

惠隆之介『敵兵を救助せよ!』

 現在は,旅客機に乗るわれわれ全員にライフジャケット〔救命具〕が用意されている時代であるが,昔に軍艦に乗っていた兵隊は,自艦が沈没させられてときは泳ぎつづけるか,近くの浮遊物に掴まるかして救助を待つほかなかった。人的資源として軍人のあいだに上下の階級差はあることは当然としても,イギリスの海軍士官がライフジャケットを身に付けていたという「当時の事実」は興味深い。

 惠『敵兵を救助せよ!』の表紙カバー裏側のその写真・画像に写っている救助時の写真は,あまり鮮明に写っていないが,ライフジャケットを付けているイギリス海軍将兵(写真では士官か兵卒か分別不能)が相当数いる。また,あとで別に,駆逐艦「雷」に救助されることになったアメリカ駆逐艦「ポープ」の乗組員の場合は,写真に映っている5名は,全員がライフジャケットを付けていた。

 話を空軍のパイロットに移す。もちろん第2次大戦における話である。日本のパイロットは撃墜されるとほぼ戦死ということになるが,アメリカ軍は撃墜されたパイロット者を徹底的に捜索・救助する態勢を整えていた。戦闘機乗りを1人育てる経費を考えれば,アメリカ軍のパイロット救助態勢は,経済計算的にも軍事作戦的に十分に合理性がある。

 アメリカ元大統領のパパ・ブッショは,太平洋戦争では〈アヴェンジャー艦攻:雷撃機〉のパイロットとして日本軍と戦い,2度も撃墜されていた。だが,戦後に生き延びて,アメリカの国家最高指導者にまでなった。

 戦争に送る将兵を人的資源としてどのように,それも最大限に有効活用していくのか。兵卒は消耗品あつかいされるが,将校〔士官〕は,前段のように自艦が撃沈されて海に投げ出されたとき,イギリスの海軍士官がライフジャケットを付けていたことからも分かるように,軍隊組織として明らかな差別〔別格〕待遇を受けて大事にされている。

  ハ) 捕虜になって敵陣を攪乱せよ

 『大脱走』という1963年に公開されがあめりか映画は,以前であったがテレビでもなんども再放送されている(いまはユーチューブ動画サイト)。

 スティーヴ・マッキィーンが主演したこの映画は,ドイツの捕虜収容所からなんども脱走を試みるイギリスやアメリカの航空将兵たちが,捕虜としての権利を行使しつつ,敵国ドイツを収容所を拠点に攪乱しようとして脱走を繰りかえす。彼らは,その意味での国際法を意識・利用しながら戦争行為を継続していた。しかし,彼らは最後に,ドイツ軍に処刑され,殺されてしまうが・・・。

 惠『敵兵を救助せよ!』は,こういう記述も与えている。

 「米国では捕虜になって帰還した場合,1階級昇進するのが普通であるのに比べて,わが国は,とくに陸軍では自決を強要される場合があった」と書いている(242頁)。

 もっとも,ここで「場合があった」と記述するのは,正確とはいえない。「強要された」とだけ書いたほうが事実に即している。「場合があった」という修辞は,事実をあいまいにする。もしかすると,そのように書きたい,あるいは書かねばならない特殊な事情でもあったのか。

 ここで著者,惠隆之介の経歴を紹介しておく。

 1954年沖縄コザ市生まれ。1978年防衛大学校管理学専攻コースを卒業。1978年海上自衛隊幹部候補生学校(江田島),世界一周遠洋航海を経て護衛艦隊勤務。1982年退官(二等海尉)。琉球銀行勤務などを経て現在,米軍基地就職専門学校グロリア・ビジネススクール校長。

 惠は,2006年に以下のように語っている。彼の軍事思想的な立場が理解できる。軍事は分かっていても,政治には疎い語り口である。日本人-琉球人とのあいだにおける矛盾・葛藤などは,惠にはなにもなかった。

 --沖縄の問題に着地点がないのも結局,国政の根幹である防衛を日本が米軍に全権委任している矛盾があるためだ。だから,本当は改憲をして交戦権を明記し,普通の軍隊を持つべきだ。そうすれば,沖縄県民にも当事者意識が生まれる。

 米軍基地の周辺住民だって,F16戦闘機をうるさいと感じている。でも,パイロットが自分の息子や孫なら「今日も元気に頑張っとる」と思い,騒音も気にならないはずだ。経済的にも,反基地の見返りに補助金を取るなんて卑屈な話はなくなるでしょう。

 補注)この発言はやはり沖縄県民の歴史に根付いた歴史意識をしらない。「パイロットが自分の息子や孫なら・・・」というのは,たとえ話であっても他人事の話法である。要は人ごとの口調。

〔記事に戻る→〕 日本帝国が大東亜戦争を開始する直前の昭和16〔1941〕年1月,東條英機陸軍大臣が訓令(陸訓一号)で文書『戦陣訓』を示達した。この文書は,日本帝国の軍人がとるべき行動規範を示していた。

 この文書のなかにある一句「生きて虜囚の辱を受けず」は,日本軍将兵が降伏して捕虜になる行動を禁止させる根拠となるだけでなく,戦争の過程で生起した日本軍の玉砕・全滅,民間人に対する自決強要などの原因にもなった。

 米英の軍人が捕虜になっても,捕虜収容所で懸命になって後方攪乱の戦闘行為をつづけるのに対して,日本軍将兵は捕虜になることより死ぬまで戦うことを選ばざるをえなかった。

 前段でも触れたとおり,1939〔昭和14〕年7-8月のノモンハン事件で,日本軍の将校は,ソ連軍の捕虜になって戻されたり,あるいは壊滅的損害を受けても生き残ったりした者は,事後に自決を強いられていた。

 旧日本帝国が連合軍との戦争に敗北したひとつの原因に,結局は消耗品でしかない将兵であっても,戦術面でどこまでも有効に利用しつくすという合理主義の精神がなかったことがある。その代わりに「敢闘精神の大和魂」があった。精神一本槍で戦争に勝てるのであれば,イージス艦もステルス戦闘機も,そして核兵器も不要である。
 

 ※-4 関連する記述を今回の改訂作業にさいしてみつけた

 『くさかり小児科』https://www.kusakari-shounika.or.jp/ のホームページに「平成21〔2009〕年 年頭所感 草刈 章「敵兵を救助した駆逐艦『雷(いかずち)』艦長」という記述がある。住所はつぎのものである。

  ⇒ http://www.kusakari-shounika.or.jp/library/57b57ffcd8f117112ca60ac2/57ff0b6f6d5c662c1b1b2813.pdf

 惠隆之介『敵兵を救助せよ! -英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長-』は,草思社から2006年に公刊されていた。上記の住所にはPDF文書で4頁余の分量で記述がある。

 要点は,本ブログ筆者のこの記述と同旨になるが,この本を読めば誰でも受けとることになるはずの核心に触れていた。

 また,その文章のなかには,参照に値するつぎの中身があるのだが,この段落からは,日本側におけるなんらかの反応の鈍さを感じとることも可能である。多分,なにか触れられたくないなにか(いまにもなお残る,多分悪しき伝統精神)が,示唆されている。

 海上自衛隊の護衛艦が英国を親善訪問するたびに工藤艦長の消息を調査
するよう依頼しましたが,自衛隊側が本気で調査した様子はなく進展ありませんでした。

原文に頁は振られていないが,3頁から引用

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