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靖国神社と昭和天皇(1)

 ※-0 まえがき

 本稿は最初,2015年1月28日に「靖国神社と昭和天皇(1)」として公表していた文章である。その後,ブログサイトの移動を理由に未公開の状態になっていた。今日の2024年4月9日,あらためて補正や若干の加筆をおこないつつ,新訂版として公表することにした。

 本稿の中心となった話題は,明治維新以降における「大日本帝国と天皇・天皇制・天皇家」のあり方のなかで登場した〈靖国神社〉という「戦争神社の真価」,その「本当の意味=霊魂の死神的な復活・再生・悪用論」であった。

 そのさい,ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年8月(法蔵館文庫,2021年9月)を,議論のたたき台に充てたかっこうで本稿の記述が展開される。なお,平凡社から2011年に刊行された本書は,法蔵館から2021年に,文庫本で再刊されていた事実も記憶に留めておきたい。

ジョン・ブリーン2011年表紙カバー画像

 本日の「本稿(1)」の目次は,こういう構成である。

            = 目  次 =

 ※-1 ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年8月
       「付論 靖国-戦後の天皇と神社について」
 ※-2 ブリーン:靖国「論」
 ※-3 大東亜戦争の「無条件肯定」論
 ※-4 ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』
     〔⇒「本稿(2)」は明日以降につづく〕

本稿(1)・目次


 ※-1 ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年8月の「付論 靖国-戦後の天皇と神社について-」

 本書,ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年8月は,つぎのような内容になる著作であった。目次もつづけて記載する。

 幕末・明治維新期,天皇は諸勢力に担がれる「玉」として,あるいは拝礼される御真影の図像として,スタティックにあっただけではない。

 たとえば,五ヶ条の誓文の式典において,新しい権力編成を上演し,世界に刻みこむアクターとして,たとえば,主権の確立に向け諸国の公使を謁見する勲章で飾られた万国公法的身体として,また万世一系神話を組みこみ再編成される近代神道の中心として,日々みずからの役割に具体的に邁進していた。

  “儀礼と権力” の観点から,日本の近代国家と天皇のありようをとらえなおす,画期的な論考である。

   序 章 明治天皇を読む

  第1部 近代天皇と国家儀礼
   第1章 孝明政権論-将軍の上洛と国家儀礼の再編成
   第2章 天皇の権力-国家儀礼としての「五ヶ条の誓文」-
   第3章 明治天皇の外交

  第2部 近代神社・神道の祭祀と儀礼
   第4章 近代神道の創出-神仏判然令が目指したもの-
   第5章 神道の可能性と限界-大国隆正の神道論-
   第6章 神社と祭りの近代-官幣大社日吉神社の場合-

  付 論 靖国-戦後の天皇と神社について- ジョン・ブリーン

ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』目次

 著者のジョン・ブリーン[John Breen]は,1956年イギリス生まれ,ケンブリッジ大学日本学部卒業後,ロンドン大学SOAS助教授を経て,国際日本文化研究センター教授。専攻は日本近世・近代史。

 ここではさきに,ブリーンの説いた靖国「論」から聴いてみたい。ブリーンは,同書の「はじめに」においてこう断わっていた。

 イギリス人として「父親は」「王室に対する敬意はすごかった。われわれ兄弟4人に女王,王室のことをばかにする,悪くいういいかたを絶対に許さなかった」 「父はなんどもいっていた。イギリス人に言論の自由があるが,女王をけなすことだけは犯罪だ」

 「筆者にとってみれば,イギリスの王室は」「『必要悪』の範疇に入る」 「ミソは,国民に金銭的な負担をほとんどかけないこと」である(〔はしがき〕9頁)

 もっとも,イギリス人のなかには〈不敬罪意識〉を抱く人もいるようである。

 イギリスの王室の金銭的負担は,国民1人当たり年1ポンド,日本円でおよそ 137円,もしくは週2ペンス( 2.6円)であるといいながらも,ブリーンはこうもいっている。

 「イギリスの王室は,筆者にとって必要悪であって,とくに親近感を感じることはない」 「日本の皇室のばあいは,同じく『必要悪』とみなすが,不本意ながらも一種の親近感を感じる」(〔はしがき〕10頁)

 ちなみに,日本の皇室維持のための経費は国民1人当たり年に約 1570円ほどである。金銭面で単純に英王室と日本皇室の維持費を比較すると1対10。この差はどのように観察されればよいか?

 しかし,ブリーンの「本書」「は,そうした好意的な気持を横に置いておいて,近代日本の天皇,皇室をあくまで歴史事象として分析的に,批判的に扱うものである」。とくに「靖国神社に対して肯定的ではありえない」とも強調している(11頁)。

【参考画像資料】-2020年2月1日公表-

皇室・天皇家は必要悪?


 本ブログ筆者は,ブリーンの本書「第1部と第2部」と付論「靖国」とのあいだに,一定の齟齬,それも彼の「感情」と「論理」とのあいだには溝が生じていたと観察する。それでも,この問題点はひとまず,いったんだけは無視したかたちで,そして,いきなりとなるのだがが,ブリーンの「付論 靖国-戦後の天皇と神社について-」における議論を詳細に紹介する作業から始めたい。

 

 ※-2 大東亜戦争の「無条件肯定」論

 1) 藤原不比等は伽耶系の遺臣の後裔であり,
        伊藤博文に相当する歴史上の人物である

 金 容雲『「日本=百済」説-原型史観でみる日本事始め-』三五館,2011年4月は,明治維新によって天皇制を復活させた伊藤博文に匹敵する人物が,藤原不比等(ふじわらのふひと,659-720年)であったと指摘している。

 もともと第1期ヤマト王朝(崇神)伽耶系の遺臣の後裔であって,また中臣氏(なかとみうじ)であったことを誇る藤原鎌足は,高き本貫の地〔→比自伐-フシボル-フシハラ,いまの昌原:大韓民国慶尚南道の道庁所在地〕藤原を名のり,伽耶系として政治の表舞台に登壇したのである(186頁)。

 金はさらに,日本史上最高といってもいい政治家藤原不比等は「和をもって貴しとなす。さからうことなかれ」を正面に押し出し,「言挙げせじ」を美徳にしたて,権力者にとって都合のいい思想を創ったという見解も提示する。

 しかしまた,一方では「和魂(にぎみたま)「奇魂(くしたま)」の神の存在を認め,権力の放縦を許したのではなかった。強いものの自制もあった。“一寸の虫(弱者・敗者)にも五分の魂がある” と信じ,つまり「祟り」を恐れた(214頁,215頁)。

ウィキペディアから


 「日本の重要な神社,たとえば出雲大社(大国主命),天満宮(菅原道真)がそ」のために建立されていた。「西郷隆盛も銅像でその霊を慰めてい」る。「とくに,国譲りしたオオクニヌシの祟りを恐れたヤマト勢力は思い切って大きな神社〔=出雲大社〕を創ったのであ」る。

 「敗者は祟り,勝者はそれを畏〔かしこ〕むことですべて円満になり,和の心が漲」ることになる。「日本的大和の一面には,“かしこ” の原型が発動してい」て,「恐・可畏・賢の三位一体で」ある。「とくに,神への“かしこ” は祟りの裏返しで」ある(215頁)。

 2) 靖国神社の明治史的な本質問題

 さて『靖国神社』は実は,日本の古代史からの政治・宗教的な伝統のなかで築かれてきた〈神社本来の基本思想〉とは,まったくといっていいくらい無縁なのである。

 靖国の国家宗教的な立場を本質的に理解することになれば,古来から存在する一般神社とはかけはなれた〈政治的な施設〉であることは,一目瞭然である。

 明治維新以降,国家的な立場からの帝国主義・侵略路線を,宗教精神的に臣民たちに馴致=洗脳させるために創設された《戦争用の神社》が,靖国であった。

 靖国神社がはたして「敗者は祟り,勝者はそれを畏むことですべて円満になり,和の心が漲」らせることができていたかと問えば,これは完全に否といえる。

 靖国は,日本帝国の侵略戦争路線に動員されて命を落とした臣民たちの死霊を,わざわざ〈英霊〉に祀りあげた神社である。こうなると,前段のごときに「敗者は祟り,勝者はそれを畏むことですべて円満になり,和の心が漲」らせることは,とうてい無理であった。

 そして靖国はなによりもかによりも,まだ生者である臣民たちをことさら,重ねてその戦争の道に駆り出そうとする。〈英霊〉を国家の立場から神道的に褒めあげ,利用しようとする靖国神社の宗教精神にあっては,「宗教の本義」らしく「人びとの霊魂を慰撫する」思想があるようには,全然思えない。そう思わないほうが,どだいからして,どうにかしていた。

 靖国神社は《なにも畏れるもの》をもたない「明治時代式の国営の神社」であった。ところが,1945年の敗戦によって天地がひっくり返されるような目に,かの大日本帝国は遭ったはずである。

 侵略戦争路線を突きすすんできた日本帝国が〈敗北〉したのである。それゆえ,靖国に特有の国家的な論理性・神道的な宗教観は,完璧に破綻・瓦解させられたはずであった。

 ところが,アメリカという国家は,昭和天皇=「靖国の祭主」を日本帝国に固有の戦争問題から免責させる占領政策を採用した。このために靖国神社は,その戦争神社という基本性格をわずかも払拭させることのないまま,一宗教法人に衣替えさせるだけで,敗戦後にも生き延びることができた。

 この歴史の事態は,伝統的な民間神道を真似て創られた靖国神社の宗教理念が,国家的次元の教理目的にすり替えられていた現実から目を逸らせる「結果:歴史に対する無責任」をもたらし,

 その後において,敗戦した「督戦神社=靖国」に参拝にいくのだといいはる「歴代の首相」が何人もいた。これらの首相たちが,いかにバカげた,かつコッケイな国家神道的な宗教行為をしたがっていたかは,歴然とした事実であった。

 だが,いかんせん「靖国神社の本来的な国家機関」としての歴史的な本質を,なにもしらない彼らにとってみれば,ここに指摘したごとき「靖国問題」の争点は,いずれにせよ,完全に理解不能な〈現実問題〉であったのだから,その無理解ぶりに反映されている宗教的な悟性の貧困性,いうなれば「宗教哲学の貧困状況」は,飛び抜けていた。

 以上にように本ブログ筆者が指摘した論点については,ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』も,戦前・戦中から戦後における靖国の性格不変を,つぎのように議論・指摘していた点に鑑みれば,より明白になるに違いない。

 

 ※-3 ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年

 1) 靖国の特殊性と普遍性

 ブリーンはまずこう議論する。靖国神社が戦没者を追悼する場である以上,記憶の場でもあるから,戦争体験者個々人のみならず,これを包摂した〈公共的な〉戦争記憶を形成するための空間でもある。

 ただし,記憶形成の機能はなにもこの靖国に特有ではなく,追悼する場に共通の普遍的な機能である。ところが,従来の靖国論はこの基本的な「記憶の場」としての性格を十分に認識していなかった。

 右翼・左翼,護憲派・反対派の堂々めぐり,いいあいの域を越えない議論が多い(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』263頁。以下も断わらないかぎり,ブリーンからの引用)。

 靖国が展開する記憶の手法は,以下の3点に分類・整理できる。

  a) 本・パンフレット・ビラ・インターネットといった類い,
  b) 展示をする遊就館という軍事史図書館,
  c) 儀礼=祭祀の執行。

 ブリーンがとくに問題にするのは「記憶の場としての靖国」「靖国が形成する記憶」である。これは「きわめて偏った,歪曲されたものである」点であった。

 とりわけ「そのような歴史の記憶は,語りかたは,もちろん神社の自由である」としても,たとえば,小泉純一郎の首相在任時(2001-2006年)において重大・深刻な国際政治問題にもなったように「総理大臣による参拝の是非を議論するばあいは,また国家が神社を保護するといったばあいには,考慮しなければならない」(264頁)難題が,あまた浮上していた。

 2) 儀礼が記憶する「大東亜戦争」

 靖国の神職は毎朝・毎晩,朝御饌祭・夕御饌祭という儀礼を執りおこなっている。いうまでもなく,神として祀り「英霊」と呼ぶ戦没者が,その対象になっている。その儀礼はつぎの2種類に大別される。

 ★-1「霊璽奉安祭」 
 これは合祀祭という神職もいる。戦死者を神にする躍動的な儀礼であって,戦時中にはもっとも重要であった。だが,敗戦後になると当然のこと,変則的にしか執りおこなわれていない。

 補注)敗戦後66年めになるが〔2015年であればちょうど70年目を迎え,2024年であれば79年目になるが〕,日本国防衛省自衛隊3軍は,軍事訓練や演習中に発生した事故死者を除外する話となるの,これまで戦死者を出したことがない。

〔記事に戻る→〕 なお,戦時中の靖国神社の例大祭・臨時大祭の式次第は,たとえばこう描写されている。

  イ)「招魂式」 合祀祭の前夜に招魂斎庭で,陸海軍要人列席のもとでおこなわれる儀式である。戦場でまだ宙に漂い迷っている霊を,靖国神社の境内に招きおろす儀式といわれる。この儀式によって祭壇の上にある霊璽簿(れいじぼ,戦没者の名簿)に霊が依りつくと「信じられている」

 その霊璽簿を御羽車(おはぐるま)と呼ばれる御神輿のなかに入れ,神職たちが担いでそろりそろしと暗闇のなかを運び,本殿のなかに納める。そのさい通路の両側には遺族がむしろを敷いて座ってみまもる。 

  ロ)「合祀祭」 翌日,天皇または勅使が参拝し,祀られた戦没者の霊を正式に神とする儀式が執りおこなわれる。戦没者の天皇への忠節と勇敢な戦闘行為が讃えられ顕彰され,戦没者の霊は慰められると「信じられている」「慰霊」するためには,戦没者の霊が慰められると「信じられねばならない」

 遺族もそれによって慰められると「信じられねばならない」 いままで落胆と悲しみにうちひしがれていた遺族も,死んだ肉親が「神:英霊」とされ,天皇に喜ばれることによって,それを名誉として「受けいれねばならない」

 註記)三浦永光『戦争犠牲者と日本の戦争責任』明石書店,1992年,107頁参照。

 ★-2「慰霊祭」
 霊御奉安祭により〈神:英霊〉となった戦没者を,文字どおり慰霊する儀礼である。「神を公に認め,鎮め,そして神として敬うのがその目的である」。靖国の大多数の儀礼はこの慰霊祭に範疇に入る。

 春季例大祭と秋季例大祭には「勅使(天皇が派遣する使い)」の姿が特徴となる。慰霊祭において注目すべきは「勅使をはじめとする生者」と「神=英霊たる死者」との「複雑な力学」が,「歴史の記憶:歴史の語り」となってどう関連するかである(265頁)。

 補注)敗戦後,靖国神社は毎年7月中旬に恒例化した宗教行事として「みたままつり」をおこなってきた(7月13日-16日の4日間)。靖国神社のホームページはこれをつぎのように解説している。

 日本古来の盆行事に因み昭和22年に始まった「みたままつり」は,今日,東京の夏の風物詩として親しまれ,毎年30万人の参拝者で賑わいます。
 
 期間中,境内には大小3万を超える提灯や,各界名士の揮毫による懸雪洞がかかげられて九段の夜空を美しく彩り,本殿では毎夜,英霊をお慰めする祭儀が執りおこなわれます。

 また,みこし振りや青森ねぶた,特別献華展,各種芸能などの奉納行事が繰り広げられるほか,光に包まれた参道で催される都内で一番早い盆踊りや,軒を連ねる夜店の光景は,昔懐かしい縁日の風情をいまに伝えています。  

「みたままつり」説明

 しかし,靖国によるこの解説にはきわめて嘘っぽい内容が含まれている。厳密にいうまでもなく,靖国神社じたいが,そもそもからして日本古来の「昔懐かしい」神社ではない。千年単位で述べられる話題を,百年単位のそれで勝手に入れかえてはいけない。

 明治維新を契機に創設された「帝国主義御用:専用の戦争勝利用の神社」である1点以外に,靖国の本質は求めるほかない。この性格は,いまもかえられずにその核心に控えている〈根っからの本性〉であった。

 ただ,敗戦後になるとしかたなく,それも庶民の受けを狙って,1945年までであれば想像しにくかった方向性になっていたが,「〈日本古来〉の神社様式」に倣った「昔懐かしい」祭儀を密輸入的にとりいれ(毎年7月13日から16日まで開催される「〈顕教〉的なみたままつり」がそれ),「戦争神社としての風貌・容貌=歴史的本質」を少しでも和らげる操作:化粧をほどこした。

 まさに「衣の下の鎧」の類いである。しかも〈英霊〉を〈みたま〉に呼びかえさせているところなどは,正真正銘,まさしくこれ以上の「羊頭狗肉」はない,それこそものすごい「厚化粧をした《戦争神社》だ」という批難を受けて充分な事由を,靖国側みずからが提供してきた。

 3)「秋季例大祭」-この大祭は3幕からなる-

 「第1幕」は,神職たちが本殿のきざはし(階)を昇り,内々陣に宿る英霊にさまざまな物〔通常の神饌にくわえてタバコ(とくに戦前のタバコの味にもっとも似たピースやホープ)や兵士がもっとも欲したビール〕を供え,宮司が上段の間から祭神に向かって幣帛を捧げ,祝詞を唱える。

 「第2幕」は,天皇の名代たる〈衣冠束帯に身を固めた勅使〉が,本殿の上段の間に移行して,神鏡をまえに祭神に幣物を供え,祭文を奏上,最後に玉串を捧げ,拝礼する。

 「第3幕」は,防衛省・日本遺族会・英霊にこたえる会・神社本庁などの代表,さらに遺族・戦友・一般参列者が拝殿を本殿に渡り,玉串を祭神に供え,拝む(266-267頁)。

 ブリーンいわく,この慰霊祭の基本力学は「古代以来の御霊信仰」の系譜を受けつぐ。

 不慮の死を遂げた人たち〔多くは貴族たちであったが〕の霊が,生者に対して恨みをもって怨霊と化して祟るという信仰にみいだせる。荒魂(あらみたま)は生者が祀りさえすれば和魂(にぎみたま)に変化し,こんどは生者をみまもってくれる。

 靖国の慰霊祭はこの御霊信仰の近代版ともいえるけれども,この系譜から逸脱したところも当然ある(266頁)。

  a) 靖国の神として祀られるのは貴族ではなく,天皇や国のために戦死した臣民たちにかえられていた。

  b)「慰める主体の天皇:この代理人の勅使」と「英霊として慰められる対象の戦没者」とには「一種の緊張感」が存在する。なぜか? 「勅使に代理される天皇」は,本殿において幣帛を供え,祭文を唱え,玉串を捧げることで戦没者を慰め「彼らを英霊として:神として拝む」。

  c) しかし同時に,不可避な『再帰性』を帯びる儀礼的な焦点が「祀られる戦没者」と「祀る天皇自身」のあいだを微妙に移行する(267頁)。

  d) 靖国のある神職は,こういっている。

 「まさに天皇が主で,祭神が従だからで,戦没者こそ天皇を拝むべきだとの立場だ」

 結局「英霊としての戦没者に与えられた主な任務は,軍人として戦っていたときの任務となんらかわりはしない

 「あの世からも天皇,あるいは天皇の御国たる日本に仕え,天皇の『大御代』を護ることとされている」(267頁)

 ここまでブリーンの論及を聞いたところで,本ブログ筆者の意見をはさみこんでおきたい。

 このように戦争遂行:戦勝目的のためにのみ設置された神社であるはずの「靖国」が,敗戦後も戦前・戦中体制とまったくかわるところもなく,いいかえれば,大日本帝国時代の政治理念・目的と瓜二つのままに,そこでの祭祀を継続させているという宗教的な役割に注意しなければならない。

 つまり,靖国神社は,全国津々浦々に散在する一般の神社を真似して,昭和22:1947年7月から庶民向けの「みたままつり」をはじめていたが,これは単なる「お飾り程度の年間行事としての祭事」「縁日のまがいもの」であって,その向こう側に控える本当の姿は,明治になって創作された近代版「国家神道:戦争神社」にこそみいだされる。

 だからここではひとまず,以下のごとき2点に整理を提示しておく。

  ▲-1 国家神道・神社神道・皇室神道 ⇒ この靖国神社が位置する圏域においては「敗者は祟り,勝者はそれを畏むことですべて円満になり,和の心が漲」ることは,宗教としての神道の本来的な立場に照らして判断するに,もともとありえない狙いであった。

  ▲-2 教派神道・宗教神道・民俗神道 ⇒ 古来から近現代まで民間側において勃興・普及・拡大してきた神社に表現される神道諸派に対して,▲-1のごとき特性を有する国家全体主義と合体的に登壇していた靖国神社は,基本的に宗教的な意義においては無関係のシロモノ。

 敗戦後,7月中旬に毎年開催することになった「みたままつり」は,英霊という霊魂理解からはもっとも疎遠であるほかない,すなわち「戦争神社」に扮装(カムフラージュ)をかぶせておくための「縁日催行」を意味する。

 「縁日(えんにち)」とは,特定の神仏と特別に繋がり,その縁が深くなる日として,観音様や不動明用様など,それぞれ特定の神仏に割り当てられた日にちだと説明されているのだから,本来「戦争督戦のための靖国神社」ならば,通常における民間の神社とは真逆どころか,こちらの神社一般の特徴をハナから否定しつくす真義しかもたない。

 4) 皇室と密着している靖国-過去も現在も-

 靖国神社の大門に代表されるように,この神社の拝殿・本殿にかかっている帳(とばり),本殿の提灯・灯台などには,これみよがしに,金箔に被われた「天皇家の十六弁の菊の紋章」が描かれている。

 靖国は,皇室の儀礼たる神嘗祭・新嘗祭・祈年祭の当日祭を斎行し,校面天皇・明治天皇・大正天皇・昭和天皇それぞれの陵の遥拝式も執りおこなうのである。
 

 この写真は,2014年1月1日夜明け前に撮影された靖国神社の「神門」
この神門は1934〔昭和9〕年に建造された

中央の両扉それぞれに直径 1.5 メートルの菊花紋章が飾られている
この左側の門の菊花紋章がこれ
この菊の紋章部分だけを拡大した画像がつぎ
この大本の使用者はつぎの旗印の人である
天皇系の紋章を神門に配している


 この神門は,1994年の修復工事で屋根の葺き替えをおこなった。また,2011年12月26日午前4時15分ごろ,この神門が放火される事件が起きていた。

    ★ 靖国神社ボヤ,中国籍の男が放火か…女と撮影も ★
    =『読売オンライン』2018年12月12日 13時40分 =

 〔2018年12月〕12日午前7時ごろ,東京都千代田区九段北の靖国神社の神門付近で,新聞紙が燃えるぼやがあった。火は間もなく消え,けが人や建物への被害はなかった。

 警視庁公安部は,神社敷地に侵入したとして,中国籍で住所不詳,自称公務員,A容疑者(55歳)を建造物侵入容疑で現行犯逮捕した。容疑を認めている。

 A容疑者は,旧日本軍による「南京事件」に抗議する旗を持っていた。一緒にいた女と,燃える新聞紙をカメラで撮影していたとの情報があり,公安部はA容疑者が火を付けたとみて調べている。

警視庁が捜査に当たらせた部署が公安部というところが興味深い

 そのほか,たとえば「今上」天皇〔平成〔前〕天皇のこと〕の即位礼および大嘗祭に合わせ,即位礼当日祭,大嘗祭当日祭を天皇から幣帛を受けておこなっていた。さらに,靖国と皇室の関係は,人的な側面を有する。

 平成〔前〕天皇は父の遺志を守り一度も参拝しなかった。〔だが,昭和天皇の実弟たちの〕息子たち(=親王たち)はたびたび参拝してきた。毎年の春季・秋季例大祭には,三笠宮夫妻が参列するしきたりとなっていた(267-268頁参照)。

 ここまでブリーンの論及を参照したとなれば,われわれがすぐに想起するのが--ただし,いまは参照できない旧ブログのなかで論及した話題であったので,詳細については言及できないが--,標題としては「石橋湛山『靖国』廃止論」「敗戦という〈歴史的な意義〉を活かせていない日本政治」「天皇中心社会の日本国家,その反時代性」というごときに表現して議論してみた諸話題であった。

 その記述は,『日本経済新聞』2006年7月20日朝刊1面冒頭記事に報道された元宮内庁長官の残した「富田メモ」の中身を問題にとりあげていた。昭和天皇は靖国神社に参拝に出向きたいけれども,つぎのような事情があっていけなかった。

富田メモ

 要は,1978年10月17日,靖国神社宮司松平永芳がA級戦犯を合祀したがために,敗戦後において「免責されていた」はずの「昭和天皇の戦責」問題が,否応なしに再浮上させられた。

 その歴史的な意味は,靖国側によるA級戦犯合祀という宗教上の措置は,それまでは裕仁自身が〈頬かむりできていた状態〉で過ごせてきた「戦争責任」という重大問題が--これにもちろんアメリカ側のお目こぼしがあってのこととはいえ--再提起されたことにあった。

 いまさらながらとはいえ,ここではつぎの諸点を確認しつつ,再度議論をしておく必要がありそうである。

 ▼-1 靖国神社は,戦争:戦勝のための国家的宗教施設である。

 ▼-2 靖国神社は,この祭主である天皇のために創設され存在する。

 ▼-3 1945年夏,大日本帝国は戦敗し,崩壊していた。

 ▼-4 しかし靖国神社は,戦敗を予定しない・できない国家神道のための国営宗教施設であった。それゆえ,そうなったのであれば,この神社の存在意義は雲散霧消していた。しかしながら,21世紀の現在もこの神社は実在する。

 ▼-5 つまり,靖国の根本義が否定される敗戦という出来事が発生していたはずだが,けれども不思議にも靖国はなくならなかった。その祭主である天皇は退位することもなく,そしてこの神社も生残しつづけた。

 1975年11月21日まで昭和天皇は,そこに参拝しつづけた(同日が最後の参拝なった)。

 だが,敗戦前であれば当然に「戦勝を当然の大前提としていた」この神社が 敗戦後は間違いなく敗戦神社に急変させられた時代になっても,なお祭主として振るまうために「参拝」(親拝)していた。

 以上のように天皇と靖国神社とのあいだに醸し出された「戦後事情」は,靖国神社が本来になっていた「勝利神社」としての「役目」を無化させた。そうなっていたからには,この神社の由来が全面的に瓦解した事実は,「みたままつり」という神道一般にちなむ行事の創設がなされたとしても,そう簡単には隠蔽できなかった。

靖国神社の本質

 しかし,▼1から▼-4までと▼-5とのあいだに発生していた完全なる自家撞着,いいかえれば昭和天皇自身に内包されていた大矛盾が,A級戦犯の合祀によって突発的に暴露させられたのである。この大矛盾に関する歴史的な認識じたいを,誰よりもよく認知していたのが,まさしくほかならぬ昭和天皇自身であった。

 1970年代後半まで,靖国問題は世間を大きくさわがす話題になっていた。この動向・推移を,自分自身に深くかかわる政治・社会問題として注意深く観察していたヒロヒトは,A級戦犯の靖国合祀という出来事にによって,自分がとうとう九段下にはいけなくなったことを悟り,つぎのように嘆いたのである。

 なお,これは前段に画像資料として紹介してあったものであるが,ここでは文字のかたちに書き出し,再度紹介しておく。

 私は 或る時に,A級〔戦犯〕が合祀され
 その上 松岡〔洋右〕,白取〔敏夫〕までもが

 筑波〔宮司の松平慶民〕は慎重に対処してくれたと聞いたが
 松平の子の今の宮司〔松平永芳〕がどう考えたのか 易々


 松平〔松平慶民〕は 平和に強い考えがあったと 思うのに 親の心子〔松平永芳〕知らずと 思っている

 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ

A級戦犯合祀に恨み骨髄であった昭和天皇

 この富田メモの日付は1988年4月28日であった。この日付でいえば,昭和天皇が死んだ1989年1月7日まで残す時間は1年を切っていた。当時の昭和天皇は死が近づいてきたその時期に,A級戦犯の靖国神社合祀問題に関するホンネを,宮内庁長官の富田朝彦に対してもらしていた。富田がその発言をもらさずにメモにして記録に残すことになった。

 その嘆きの文句は,天皇の心情を察知してA級戦犯を長らく靖国に合祀しようとしなかった第5代宮司の筑波藤麿とは違い,第6代宮司に就くや否やすぐに,A級戦犯を合祀してしまった「松平永芳」という人物を恨むものであった。

 5) 天皇のための靖国

 ブリーンの論及に戻ろう。靖国で執りおこなわれる慰霊祭は,天皇に対しても,また戦没者が体現したとされて天皇が意味づける価値観に対しても,畏敬の念を繰りかえし生産することを目的とする。だが,問題はその儀礼的過程において「記憶する歴史の意味」にある。

  a)「天皇のための名誉:英霊」 あの戦争によっておびただしい日本人が戦争にいった。天皇・祖国のために命を投げうった彼らは,忠誠心・愛国心・犠牲心という至上の価値観を体現して戦没した。

 これら戦死者の〈死〉は,悲しむべき悲劇ではあっても称賛すべき名誉である。靖国神社で《英霊》という敬称を付与された『神』として祀られている事由も,そこにある。

 ところが,敗北に終ったあの戦争は,やはり有意義で,名誉ある戦いであったということなのである。このような記憶は,歴史というよりもまさに神話と称したほうが適切である。苦闘・犠牲・戦死による勝利が,慰霊祭の戦争記憶にすべて揃っている。

  b)「靖国:天皇が無視するもの」 しかし,靖国の慰霊祭が完全に意識的に忘却しているものは,戦争に巻きこまれた非戦闘員の犠牲である。靖国神社が〈英霊〉として慰めるのは軍人・軍属・準軍属の範疇に入る人びとのみである。靖国の慰霊祭は軍だけの戦争,現実とは乖離した記憶をもつだけでなく,軍の役割についても記憶の取捨選択がめだつ。

 ◆-1 想像を絶する勇気をもって命を絶った軍人も〔一般人も〕多くいれば,病死・餓死した軍人も多くいた。

 ◆-2 忠誠心・愛国心・自己犠牲を体現して戦死した者でも,軍国主義の犠牲者であって,彼らの戦死はそれがための無駄であった。

 ◆-3 戦没者が命を奪われたあの戦争が凄惨で野蛮きわまりないものであった(以上,268-269頁)。

 ところで,天皇ヒロヒトにとって臣民:民草は,どのような存在であったのか?

 「朕ガ股肱」といえばもっぱら,政府高官レベルの人物たちを指していたけれども,それ以下の一般臣民:民草などは,天皇が踏みつけにできる足場に溜まっている多くの人びとを意味していた。

 「赤紙:一銭五厘」で戦場に駆り出され,そこで露草のはざまなどに果てた帝国臣民は,無慮・無数である。しかし「朕は生き延びた」。それも自身の戦責はなにも負わずにであった。

 はてと,彼は考えた。

 靖国に合祀された英霊たちに対してだけはせめて,戦争中は「朕のためによく戦い,命を捧げてくれた」〔せいで,殺してしまった〕のだから,敗戦後も慰霊しておかねばなるまい。

 もっとも,「その行為はそもそも朕のための忠誠心から出ていたものであって,もとより旧日本帝国的な価値観にもとづく自己犠牲の熱誠発露であった」〔と解釈しておけばよく,つまりしかたのない結末であった〕というほかないものであった。

 敗戦後もそのように彼は,戦前・戦中とまったく変わることがなく,英霊を称賛し,慰撫するための祈祷の場「靖国神社」の真義を,しかもいまでは「敗北の体験」を味わされてしまった「自分の立場」になっていても,すなわち,その意味転換を十分に自覚しつつも仕方なく把握しつづけていくほかなかった。

 とはいっても,あの「大東亜戦争」は結局,「一将功ならずして,ただ万骨枯れただけ」であった。だから,「大東亜戦争」がもたらした「無数の犠牲者たちの霊前」に「再び立つという間柄」を,成立させるほかなくなっていた舞台そのもの靖国じたいは,これがいままで,そのまま存在してきたという事実関係によって判断するほかないのだが,歴史認識としては根柢から四分五裂を来していたとみなすほかなかった。

 「敗戦以前は国営の『戦争〔勝利〕神社』に対して,それも「生ける者の高み」から求められていた靖国観そのものが,それ以後は『敗戦〔賊軍〕神社』に転換させられながらも,「残された英霊たち」に対する拝礼の儀式そのものは継続させていくという「靖国の宗教性」は,いまでは,「道徳・倫理」観の次元からしても,基本的な自家撞着のなかにどっぷり漬かったままにある。


 ※-4 大日本帝国の敗北と靖国神社の敗退

 1)死霊のための靖国神社における天皇の根本矛盾

 戦争に負けていながら,いったいなんのために「靖国(勝利・神社)」がそのまま必要なのか? これほど存在価値がなくなっていたにもかかわらず,厚顔無恥にも存続しつづけている神社がこの靖国なのである。

 天皇裕仁は,敗戦という現実,いいかえれば,この戦争で310万もの赤子(自国民だけでも)を殺してきた事実を,悔いていなかったわけではなく,よく自覚していた。あの大東亜〔太平洋〕戦争のために2千万人もの犠牲者が出た事実に「彼が無関係であった」などと,どこの誰がいえるのか?

 結局のところ彼は,政治的にも倫理的にもなにも責任を負わなかった。その代わりに「自分が親拝する」という靖国神社への参拝は,1975年秋までは欠かすことがなかった。しかし,そこにいると国家神道の宗教精神でとり決めた「英霊」だけが,帝国日本の起こした戦争の犠牲者ではなかった。

 天皇が靖国神社に参拝する宗教的な行為は,日本国憲法に規定されている国事行為とはいえない。それは,彼の個人的な行動に属する性質の神道という宗教の信仰心の発露である。敗戦後においても「皇室・皇族」における《政教分離の原則》は,ないものに等しいことになる。

 2) 天皇裕仁も天皇明仁も令和天皇も参拝できない21世紀の靖国神社

 いまの天皇が父の遺志を引きついで靖国神社に参拝しないのは,A級戦犯が合祀されているからである。靖国神社がA級戦犯を合祀した行為は,天皇家にとって世紀が替わっても代々にわたり「怨恨」となっている。

 しかし問題は,A級戦犯の英霊(「昭和殉難者」-戦没者ではない-)を合祀するとしないとにかかわらず,さらには天皇の参拝の有無にもかかわらず,靖国神社において明治以来しこまれていた「国家と個人の国家宗教的な間柄的秩序」,そして,これにまつわる「宗教問題」の持続的な発生状態は,敗戦後にあっても依然「未解決のまま」放置・放任されつづけている事実に残置されていた。

 その過去から現在までの状態が,「言挙げせぬ」この国の伝統文化のうるわしき「和の偕調」の一事例だと強弁するのもよい。だが,ここまでおめでたくもむごい日本的精神を発揮できる「日本民族の国家宗教的な悪弊」が,まだ従前に残存しているとすれば,これは〈救いようもない愚民国家〉だからこそ繰りひろげられている珍風景といえないか? 

 

 ※-5 追補:靖国神社に関連する最新の報道

人物しだいであるが松平永芳的な思考回路の持主ならば
問題を起こさないとはいいきれない

【関連記事】-もう一度戦争に負けてみないと懲りない面々がいるのか?-


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