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靖国神社と昭和天皇(2)

 ◆「前置き」としての断わり ◆

 本稿は最初,2015年1月29日に「靖国神社と昭和天皇(2)」として公表していた文章である。その後,ブログサイトの移動を理由に未公開の状態になっていた。今日の2024年4月11日,あらためて補正や若干の加筆をおこないつつ,新訂版として公表することにした。

 明治維新のあとに成立した大日本帝国において「天皇・天皇制・天皇家」などにこめられた近現代史的な意味づけ,その役割は,21世紀の現在になってもなお,この国のあり方に多大な影響を与えている。

 その歴史のなかで,帝国主義的に「戦争神社たる本性」をになわされてきた靖国神社の真価,その本当の意味を外国人研究者として考究した,ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年8月を題材に,つづけて討議するのが「本稿(2)」の目的である。

 「本稿(1)」の住所:リンク先はつぎのものである。できればこちらをさきに読んでから「本稿(2)」に戻って読むのが,好都合である。

 つぎに「本稿(2)」の「目次」を一覧しておく。

             = 目  次

 ※-1 ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』2011年8月
       「付論 靖国-戦後の天皇と神社について」
 ※-2 ブリーン:靖国「論」
 ※-3 大東亜戦争の「無条件肯定」論
 ※-4 ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』
   〔以上「本稿(1):2024年4月9日記述〕

   〔以下「本稿(2):2024年4月11日記述〕
 ※-5 靖国神社はなにを祀っているのか
 ※-6 鎮霊社の異様さ
 ※-7 遊就館の雄姿
 ※-8 大東亜戦争肯定論
 ※-9 「礎(いしずえ)」論など
 ※-10 「語りのフェティシズム」論
 ※-11 小 括

本稿「目次」


 ※-5 靖国神社はなにを祀っているのか

 1) 飯田 進-B級戦犯の靖国批判-

 飯田 進は『魂鎮への道-無意味な死から問う戦争責任-』不二出版,1997年4月,岩波書店〔この岩波現代文庫となった版での副題は「BC級戦犯が問い続ける戦争」に変更〕,2009年6月,『地獄の日本兵-ニューギニア戦線の真相-』(新潮社,2008年7月)などをもって,自身の戦争体験にもとづく著作を公表していた。

飯田進・画像

 飯田 進(いいだ・すすむ)は,1923〔大正12〕年京都府生まれ,2016年10月13日,93歳で死去していた。昭和18年2月海軍民政府職員としてニューギニア島へ上陸する。敗戦後,BC級戦犯として重労働20年の刑を受け,1950〔昭和25〕年スガモ・プリズンに送還される。現在,社会福祉法人「新生会」と同「青い鳥」の理事長を勤めている。

 ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年は,飯田が靖国神社をつぎのように批判したことを紹介している。

 靖国神社が殉国の英霊を慰霊顕彰するという美しいことばは,遺族・戦友会をはじめ国民の心情に訴えるものがある。しかし,戦争に参加した立場からいえば,そういう立場:「殉国の英霊が顕彰される」は違う。

 戦場となったニューギニアで「10万人を下らない将兵」が餓死,野垂れ死にした。この兵隊たちは誰を恨んだか? そういう作戦をした軍の中枢にいた参謀たちである。この事実を「殉国の英霊」ということばでぼかされることは,とても耐えられない。それでは「戦争の真実が忘却される」

 註記)ジョン・ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』平凡社,2011年,269-270頁参照。

靖国神社の欺瞞

 ところで,靖国神社拝殿の南側には,慰霊祭が執りおこなわれるもうひとつの場がある。1965年に創建された「鎮霊社」という祠である。ここにはふたつの座,つまり神が「座る」「宿る」場所がある。

靖国神社境内にある小さな祠「鎮霊社」
靖国神社境内のどこに位置するかについては後段で言及する

  a) そのひとつの座は,いわゆる官軍でない「賊軍」の戦死者の座があって,戊辰戦争で官軍と戦って倒れた会津藩・盛岡藩の武士,江藤新平・西郷隆盛のような王政復古後,維新政府に対して反乱を起こし敗れ,自決した人びとが祀られている。

  b) もうひとつの座は,さらに興味深い。全世界の戦死者を祀る座で,そこにはイギリス・アメリカ・東南アジア・韓国・中国などの国籍の,戦死あるいは戦災死した人たちの霊が祀られている。この全員が「軍」もしくは「軍属」として戦死した人びとである。

 この鎮霊社は本殿の「中央」に対し,まさに周辺的な存在に過ぎない。だが,それでも神職が毎朝・毎晩供え物をするし,例祭は7月13日と定められている。

 補注)この7月13日という日付は,敗戦後になってから毎年靖国神社が催している祭事「みたままつり」(7月16日まで4日間)の初日に当たる。

 2) 鎮霊社が重要なのは,より微妙で複雑な過去,被害者も加害者も存在し,おびただしい数の日本人が無駄死にをした〈凄惨な戦争〉を記憶する場所だからである。

 この鎮霊社は,敗戦後2代目の〔元軍人の〕松平永芳宮司が鉄柵をめぐらして一般人が参拝できないようにしたが,南部利昭宮司(2005-2009年在任)が,それをまたとりのぞいた。いまでは誰でも事由に出入りできる(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』270-271頁)。

 日本の神道の伝統的な宗教意識のなかには「祟り・畏れ」がある。ところが,靖国は戦争のための・戦勝のための神社,そのために戦死:戦没した〈英霊〉を合祀する「場:座」しか設ける気持のない「国家政策的な宗教施設」であった。

 要は,神道本来の宗教精神であるはずの「その祟りや畏れ」には,まったく関心をもたない。

 日本帝国が敗戦するまで体験してきたもろもろの戦いは,「微妙で複雑な過去」を数多く記録してきた。そこには「被害者も加害者も存在し」ていたし,そのどちらでもない犠牲者もいた。これらの事実はそう簡単には忘れられない。

1937年7月7日に開始した日中戦争から
戦争犠牲者が一気に増大した

靖国神社境内がそれではたして
大混雑したかといえばそうではなく

死者の霊魂だけを都合よく取りだしてはさらに
戦争をするために悪用してきたに過ぎなかったから・・・

この陸海軍の直営だった神社は
日本伝統の神道本来の宗教精神とは無縁どころが
それには完全に反している

 つまり「おびただしい数の日本人が無駄死にをし」「凄惨な戦争を記憶する場所」が戦場のあちこちに残された事実があった。にもかかわらず,靖国神社はそうした歴史を,どうしても峻拒しておきたい。

 その意味でこの神社は,日本古来の伝統ある諸神社とはその宗教精神をまったく異にした《似非神社》であった。この種類の国家神道的な神社が東京都の中心部に存在させているこの国のありようは,異様だという印象をはるかに超えていたなにものかを示唆してきた。

 ここで,靖国神社の第6代宮司であった松平永芳と,最近,靖国神社の宮司に決まった自衛隊関係の人物も,再度紹介しておく。

松平永芳宮司は元軍人であったことに注目したい

関連してすでに一度かかげたあった新聞記事を再度参照しておきたい
軍人が靖国の宮司になったが敗戦後初めての出来事


 3) 1978〔昭和53〕年10月17日,元軍人の靖国神社宮司松平永芳は,「昭和殉難者」(国家の犠牲者)だみなしたA級戦犯を,靖国神社に合祀していた。そのさい「昭和天皇の複雑微妙な心理葛藤」など眼中にはなく,世間の目も避けたかたちで密かにその合祀をおこなっていた。

 その松平永芳が,靖国神社の戦争的性格に合わない・ふさわしくないとみなした「鎮霊社」の周囲に,鉄柵を設けて「一般人が参拝できないようにした」というのであるから,これは穏やかではない。

 補注)2002年2月から2012年2月まで日本遺族会会長を務めた古賀 誠(元自民党議員)は,小泉純一郎自民党政権時のとき,靖国神社に合祀されているA級戦犯について,「一部の英霊を分祀することも検討の対象となりうる」との見解を示したことがある。

 その後,最近(ここでは2015年1月のある日)テレビ番組に出演したさい,鎮霊社の存在に触れ,この祠には合祀される以前のA級戦犯の霊が祀られていたとも発言した。

〔記事に戻る→〕 さて,ここでの議論のためには,次段のような「過去における経緯」が参考になる。

 A級戦犯合祀には靖国内部の路線対立が投影されており,さらには,経済成長と神社経営の問題も絡んでいた。2002年5月,境内の靖国会館であった崇敬奉賛会総会で,会長に就任した久松定成元愛媛大学教授は「内外の戦没者を祭った鎮霊社が示す愛の小世界にも心を打たれる」,この「宣伝を強化すべきだ」とあいさつした。

 久松定成は,旧伊予松山藩18代目の当主,父は筑波氏の従兄弟。鎮霊社を「昭和天皇の御心がかなった社」と訴えたが,神社側の反応は鈍かった。

 実は,会津白虎隊や西郷隆盛ら明治政府の「賊軍」は,鎮霊社に祭られている。A級戦犯も,合祀されるまでは「ここに祭られていたと考えられる」(神社関係者)が,1978年10月17日から本殿に祭り上げられたわけである。

 ほとんど忘れ去られた鎮霊社をよそに,「大東亜戦争は避けられない戦争だった」と宣伝する遊就館は,夏休みで連日にぎわっている。

 註記)以上の引用は,http://members3.jcom.home.ne.jp/sss.hirohiko/newpage[1].html を参照〔したが,本日2024年4月11日,リンク先住所を確認したところ,現在は削除されていた〕。とくに関連する出典は『毎日新聞』2006年8月9日〔東京〕朝刊。

 とはいっても,松平永芳に固有の深層心理機制は容易に理解できる。戦争神社である靖国の境内に〈戦勝(?)に貢献しえなかった戦没者・犠牲者〉がともに祀られ ることは許されない(!)。松平にとってすれば,その存在じたいからして絶対に認められなかったのが,その「鎮霊社」であった。
 
 その鎮霊社は,こう解説されていた。前段にかかげた写真の左側には「案内板」が写っていたが,ここではその案内板だけを撮した画像をかかげておく。

この文句のうち「萬邦諸国の戦没者も共に鎭齋する」と書いてあるが
このいいぶんは欺瞞に富んだセリフ

 

 ※-6 鎮霊社の異様さ

 「明治維新以来戦争・事変に起因して死没し,靖國神社に合祀されぬ人々の慰を慰める爲,昭和40年(1965)7月に建立し,萬邦諸国の戦没者も共に鎭齋する」という〈主張〉は,身内にしか通用しない手前勝手(手前ミソ的)な理由づけをおこなっていた。

 註記)毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史-A級戦犯を合祀した男-』毎日新聞社,2007年,4-5頁に掲載されていた靖国神社関係の年譜を参考にまでだしておく。上段に,敗戦後における歴代宮司の氏名が並んでいる。

筑波藤麿は第5代宮司
松平永芳は第6代宮司

 次代〔第9代〕宮司の南部利昭がその鉄柵を除去したのは,いくら靖国といえども日本の神社としての歴史的な伝統を,最低限は配慮せざるをえない事情を示唆していた。ましてや〈敗戦後は一般の宗教法人となった神社〉にひとまず変身していたゆえ,1947年からは「みたままつり」という祭事を,それらしく〔というのは一般の神社の真似をしてという意味だが〕催してきた。

 その境内のなかで「鎮霊社」を鉄柵で封鎖するという乱暴は,国際社会において靖国をどのようにみるかという問題を惹起させる。さらにはそれよりも,日本社会そのものがこの靖国のしぐさをどのように受けとめているかという配慮もなされたからこそ,その鉄柵は排除されたと解釈してよい。

 補注)以上の議論については,前掲,毎日新聞「靖国」取材班『靖国戦後秘史-A級戦犯を合祀した男-』毎日新聞社,2007年が,そもそもこの書名からしても,参考文献として有益であった。

 しかし,以上の論述に関していえば,つぎのような疑念が出てくる。これは,あの本当に立派で豪奢な「拝殿や本殿」などに「鎮霊社」を比べてみたうえでの話になる。

右向き赤色の矢印で支持した場所に
鎮霊社と元宮が左右に並んで建てられているわけだが

この案内図においてはその建物がある場所に対して名称が記入されていない

しかし,本日2024年4月11日検索したつぎの案内地図には
鎮霊社と元宮の文字は ⑤ ④ として記載されていた
このように鎮霊社と元宮だけが明示されなかったり・されたりしていた
なにか特別の事情なり経緯なりがあった点をうかがわせる

 靖国神社の境内にわざわざ,「子どものオモチャ同然のこの小さな祠:鎮霊社」を置いておき,このなかには「賊軍」も祀ってあるとされている。そして,以前はA級戦犯も祀ってあったのだと「定義し,信仰する」靖国神社側の神道式宗教理解そのものが,実は,あまりにも雑駁かつご都合な観念・意識を表白していた。

 つまり,この鎮霊社に担わされている神道的な役割は,差別的方法を露骨な使った「一時しのぎの奇妙な祭祀の方法」であった。かつてまでのA級戦犯や,いまも祀られているとする賊軍集団が,主にこの祠の霊的な主人たちである。

 

 ※-7 遊就館の雄姿-敗北した旧日本軍の兵器・武器を陳列する意味-靖国神社の「鎮霊社」とは反対側に戦争博物館「遊就館」が位置している。

 この「博物館である遊就館」は,靖国の慰霊祭などの「絵入り解説書」のような役目である。ここでは靖国神社の主な展示物を写真で紹介したいが,とりあえずは,同社ホームページの参照を期待しておき,本論であるブリーンの記述に戻ろう。

 さて,「国のために死んだ人びとの勇敢さを賞賛するのは,なにも遊就館だけではない。むしろあらゆる戦争博物館の存在理由だ」といっていい。「そして戦争博物館に共通の特徴がもうひとつあ」り,「それは戦争のテクノロジーに参観者の目線を集中させ,過去の記憶を『消毒する』ことである」(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』271頁)。

泰緬鉄道で運用されていたC56


 遊就館には泰緬鉄道で使用されたC56形式の蒸気機関車を展示されている。だが,泰緬鉄道の「敷設は困難をきわめた」とあるだけで,その鉄道の建設過程で9万人もの捕虜・現地労働者が犠牲となったことは無視している。

 ロケット特攻機「桜花(おうか)」,人間魚雷「回天」(原文は〈回転〉と入力ミス)や実物大の模型も陳列されている。しかし,これらの解説文は技術面では詳細にわたり興味深いものの,人を殺す機械であることは,なかば隠蔽されている(271-272頁)。

 ということで,この遊就館において目立つ,つぎのごとき特徴に触れておく必要もあった。

 遊就館の「もっとも顕著な特徴は,敵の姿の,不思議な不在」であり,「勝利をおさめた敵の姿が15年戦争の語りから消えている」。蒋 介石および汪 兆銘の顔写真は出ていても,米英の軍は姿のかけらすらない。

 ロンドンの帝国戦争博物館(Imperial War Museum)とは違っている。要は,遊就館は博物館ではなく宝物殿であり,その使命は英霊を顕彰することのみにある。と同時に「近代史の真実を明らかにする」こともその使命であると謳っている。

 とはいえ,敵不在のまま「近代史の真実」どこまで語られるか問題である。靖国が語れるのは顕彰に合わせた歴史のみであって,敵を不在にする結果は,もっとも痛ましい記憶・敗北の記憶・加害の記憶・戦争の虚しさの記憶などを,すべて抹消することになる。どうやら遊就館はそれらの史実を直視できないらしい(272-273頁)。

 戦争に完敗した旧大日本帝国のぶざま,全国津々浦々を焦土にされ,あまつさえヒロシマ・ナガサキには原爆を落とされた戦史は,けっして語りたくもないのである。

 遊就館は沖縄戦を展示しているけれども,その記憶はきわめてあやふやであって,軍が沖縄県民を虐げてきた事実には触れない。沖縄県民にとっては周知の事実,悲惨な史実が記憶の取捨選択のせいでないものとされている(273頁参照)。

 以上に記述した遊就館の展示物に表現される「皇国史観」が,司馬遼太郎の歴史観「坂の上の雲」に通じていくことは,理の必然的ななりゆきであった。

 しかし,そのことが容易に感得できたとしても,遊就館の立場と司馬の立場において決定的に異なったのは,その間違いを司馬のほうは生前より認識していた事実である。


 ※-8 大東亜戦争肯定論

 1) パール判事の無罪論 
 遊就館の展示は,完全に「敵が不在でも外国人がまったく不在というわけはない」 「東京裁判の判事」「ラノハビノッド・パールの肖像写真」は「大きく出ている」

 極東国際軍事(東京)「裁判で被告全員無罪の意見を出した」「有名なパール」「の写真の横には著名な台詞(せりふ)」「欧米こそ憎むべきアジア侵略の張本人である」「が大きく書ラダ・ビノード・パールかれている」

 しかし,だからといって,パールの観方が妥当な歴史記憶になるとはかぎらず,また日本の陸軍が罪を犯していないとはいえない(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』273-274頁)。

 「終戦〔実は敗戦〕を扱う最後のパネルは」,大東亜戦争の「日本軍による一連の戦いは,アジアを侵略した憎むべき欧米人から諸国民を解放する,名誉ある戦争だった」ことになる。

 つまり「日本の兵士は皆,天皇の名において生命を捧げた,忠誠心に満ちた英雄なのであって,けっして無駄に生命を落とした,犬死になどしたわけではない,ということになる」。なかんずく「遊就館は」「陸軍が実際に犯罪を犯したこと,中国や東南アジアに対し,実際に侵略行為を働いたことをみごとに忘却する」のである(274頁)。

 要は,天皇の名のもとに軍を東アジア諸国などに進軍させた旧日本帝国は,完全に敗北していた。しかし,その総責任者:大元帥陛下である昭和天皇は,敗戦後に開廷された戦争裁判に出廷することもなく,戦勝国,主にアメリカの都合によって戦責を免罪されていた。

 2) 最高責任者がそのように罪を免除された事実は,20世紀後半から21世紀にかけてのアジア史の政治世界に多大な影響を与える要因になっていた。

 この天皇個人のために,たった「一銭五厘」の生命(値段)となって戦場で命を落とした,換言すれば「鴻毛より軽しと心得よ」「天皇のため国のために,命を捨てよ」と教育され,実際にそのような運命に放りこまれた帝国臣民が数十万・数百万もいた。

 忠良なる帝国臣民となってだが,天皇陛下に赤子としての熱誠を捧げた彼らであった。この死霊たちがいまとなっては,それこそ「怒髪天と衝く」ような感情の表現をしても当然といえ,なんら不思議はない。

 それでも,彼ら〔戦争の死者〕とその遺族たち〔生者〕の敗戦後は,まったく立つ瀬がなくなっていた。それどころか結局,ただただ踏んだり蹴ったりの目に遭わされてきた。遺族年金を支給された遺族たちは,まだ多少はマシであった。

 そういった・こういった事情があったせいで,「彼ら」の遺族側の大多数は「かつて帝国臣民であった」にせよ,東アジアの諸国・地域の人びとに対して罪の意識をもたずに済んでいた。それでもって少しの不思議もなく,「敗戦後の歴史」を生きてこれたのである。
 
 3) 中国侵略にかかわる日本臣民側の立場,その歴史的な意味
 大東亜戦争中,1943〔昭和18〕年9月ころの日本軍は,全70個師団のうち中国に26個師団,満州・朝鮮に15個師団,南西戦域に13個師団,本土に11個師団,南東戦域に5個師団と戦力を分散させていたが,それまですでにガダルカナル・アッツ・キスカが米軍の手に落ちてもなお,陸軍の主な戦線は中国にあった。

 この中国の戦線においていわゆる「三光作戦」に代表される日本軍の残虐行為=戦争犯罪は,化学・細菌兵器の使用と併せて重大な軍事的犯罪を記録していた。

 当時,中国に将兵として動員された日本軍人が,幼児期より帝国臣民として根本精神に叩きこまれた「天皇のため・国のために,命を捨てよ」,すなわち自分の命を「鴻毛より軽しと心得よ」という絶対的な命題は,この自分たちよりも「さらにもっと軽い人間存在」として中国の民衆までをみくだし,平然と殺せる精神構造を,当然の世界観・価値観・人生観として抱かせていた。

 その意味でも,遊就館の戦争展示に表現された「戦争を回顧する思想」=「被害者意識は強くあっても・加害者意識はほとんどなし」は,1945年夏以前までの時代思想としてだけでなく,21世紀におけるその「二重意識」としても,いまなお「靖国神社の境内では根強く生きつづけている」

 

 ※-9 「礎(いしずえ)」論など

 1) 死者を褒めたたえる靖国神社の根本矛盾
 遊就館の展示方法は歪曲された歴史記憶を再生産し,いうなれば「無意味に思える戦死に意味をみいだそうとする試みと位置づけられる」

 「靖国神社関係者が戦争の虚しさ,戦没者の死,日本の敗北を直視しないで,できない結果でもあるが,その傾向は神社および関係団体が発行する出版物においていっそう明らか」である(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』275頁)。

 それら出版物でまず注目すべきは,こういう「礎(いしずえ)」論の展開となる。

  a) 現在の私たちの生活は,先人たちの築いた「礎」の上にある。

  b) 殉国の英霊,250万柱の貴い「礎」の上に今日の日本があり,そしてあなたがおり,家族がある。

  c) その「礎」となった人びとを祀る靖国神社は,戦没者追悼のための中心的施設として長く国民から大切にされてきた・・・(275頁)。

 こうした理屈ないしは因果の積み重ねは,実は,ずいぶんもろい歴史的認識に依拠している。というのは,本当のところから考えれば,それほど『貴いという〈殉国の英霊〉』を出さないようにする点にこそ,「国家の役割」の一番だいじな役目があったにもかかわらず,

 ともかくも「死者とならねば:殉国しなければ」,その〈国家の礎〉にはなれないと観念させる点を,無条件的に「絶対・至上の価値」とみなしていたからである。

 ところが,「尊い命」などど形容する死生観の本質は,数多くの兵士たちを不用意にむざむざ殺しておいていながらも,この人間の命に対する尊厳・その魂に対する尊崇ということがらになると,こちらのほうは「後追い的に急にとりつくろいながら」に表現される「虚飾の実体(!)」であるに過ぎなかった。

 「靖国神社」側は国家神道の立場から,戦没者たちは「尊い命」を「もっていた」(?)と,無理やりに一方的かつ一律に「記憶する」。帝国臣民は,そういう宗教精神を構えた明治式の国営神社に対する信仰心を,一律的に反映する精神姿勢を強要されてきた。

 しかし,大日本帝国が旧帝国臣民に対して措置していたその「英霊に対する実質的な処遇」は,実は,その真価:核心においてみれば,口先で唱えられる大仰な英霊観の「価値の高さ」はさておき,実質的においてはほんのわずかの「尊崇の念」すら注ぎえたものではなかった。

 その意味でも,国家が臣民に強要してきた戦没者に関する「英霊・死観」は,神道宗教的なゴマカシの回路によってのみ,成立させられていたというほかない。かつて,帝国陸海軍は「人間の死」というものを軽々しくあつかっていた。

 ところが,この両省の直接管掌する靖国神社は,兵士が死んだとたん,臣民に対する態度を180度「大」転換させる。「英霊になった」と盛んにおだてあげていた。この豹変ぶりに驚かないでいられる者など,いるわけがない。

 靖国神社が個人・肉親・家族・知人の死(戦死)を完全に吸引・収容しようといくら努力しても,この遺族の悲しみが国家側にまるごと回収されつくされる保証はない。靖国を拒否する人びとはいくらでも存在する。しかし,それでもなお,国家側は靖国神社という宗教施設を利用しながら,その吸引・収容のための努力を継続する。

 その国家と個人の関連性にあってはもともと,「国家(全体)と国民(臣民)」のあいだに潜在する基本的な矛盾が隠されていた。この矛盾は敗戦後も残っている。戦後における民主主義国家体制は,靖国神社の宗教問題を解決できないまま,近隣諸国との軋轢・摩擦の基本原因も除去できない。

 「礎」論とは,侵略する国家の側でも侵略される国家の側でも,非常に便利に使いまわしできる「戦争犠牲者の記憶方法」であり,その「国家概念化としての処理方法」である。昭和に入ってからも断続していった日本帝国の戦争過程の深化構造は,この礎「論」にもとづけば,いとも簡単に無視・忘却できたかのように映っていた。

 しかし,礎「論」にはみのがせない重大な陥穽がある。戦前・戦中の軍事体制国家・兵営国家「日本帝国」は,明治憲法が支配する政治社会であった。この基本的事実に照らしていえば当時の日本は,教育勅語やその倫理・道徳が絶対的で聖なるものとして仰がれていた。

 靖国神社の国家宗教的な精神背景には,明治維新精神の古代史的な桎梏の実在が指摘されてよい。

 2) 陸軍省新聞班『国防の本義と其強化の提唱』昭和9年10月
 1934〔昭和9〕年10月2日に陸軍省新聞班が発行したこの『国防の本義と其強化の提唱』(B6判・56頁)は,「戦ひは創造の父,文化の母である」との書き出しで始まっていた。

「戦ひは創造の父,文化の母である」だと定義していたけれども
その結果は1945年8月にでていた

 この「陸軍パンフレット」が新聞で大きく報道され,衝撃を与えた。この陸軍パンフレットの正式名称で計60万部が刊行されたという。

 この『国防の本義と其強化の提唱』(陸軍省新聞班,昭和9年10月)は,57頁で付図2枚の小冊であり,「国防観念の再検討,国防力構成の要素,現下の国際情勢と我が国防,国防国策強化の提唱,国民の覚悟」の5章の構成からなっていた。

 とくに「国防観念の再検討」は,こう謳っていた。

 たたかひは創造の父,文化の母である。

 試練の個人に於ける,競争の国家に於ける,斉しく夫々の生命の生成発展,文化創造の動機であり刺戟である。
 
 茲に謂ふたたかひは人々相剋し,国々相食む,容赦なき兇兵乃至暴殄ではない。
 
 此の意味のたたかひは覇道,野望に伴ふ必然の帰結であり,万有に声明を認め,其の限りなき生成化育に参じ,発展向上に與ることを天與の使命と確信する我が民族,我が国家の断じて取らぬ所である。

 此の正義の追求,創造の努力を妨げんとする野望,覇道の障碍を駕御,馴致して遂に柔和忍辱の和魂に化成し,蕩々坦々の皇道に合体せしむることが,皇国に與へられた使命であり,皇軍の負担すべき重責である。

 たたかひをして此の域にまで導かしむるもの,これ即ち我が国防の使命である。

『国防の本義と其強化の提唱』


 その「たたかひ」によってこそ,靖国神社に英霊として合祀されていった戦没者は,たとえば「靖国神社戦争別合祀者数」の統計によれば(前掲の図解を参照),全合祀者数250万名のうち大東亜戦争だけで 2,133,915名にもなってしまい,ものすごい数の〈戦争犠牲者:英霊〉を出していた。

 だが,この犠牲が「礎」となって,日本における敗「戦後のような社会を理想とし,究極の犠牲を払ったとの議論はとうていなりたたない」(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』277頁)。

 補注)前述において「靖国神社戦争別合祀者数」として借りた図表に付されていた説明を,次段に引用しておく。

            ★ 靖国神社略史 ★

 1869年6月  明治維新の志士と戊辰戦争の官軍戦没者の慰霊のため「東京招魂社」を九段に建設。設立の中心となったのは,旧陸軍創立者大村益次郎。

 1879年  靖国神社と改称。天皇忠臣を祭る「別格官幣社」として陸海軍,内務3省が管理。  

 1894年  日清戦争を契機に祭る対象が「賊軍と戦って死んだ人」から「外国と戦って死んだ人」に変化。
 
 1942年ころ  内規により陸海軍省審査委員会が部隊長らの上申にもとづき審査,天皇が裁可。

 1945年12月  GHQの「神道指令」により国管理から離れ宗教法人化。翌年登記完了。

 1953年  戦傷病者戦没者遺族等援護法の改正により戦犯の遺族も対象に。同法の戦没者を対象に「祭神名票」が作成される。

 1956年  厚生省(現厚生労働省)引揚援護局が各都道府県に未合祀者を合祀する事務に協力要請通知。厚生省の「祭神名票」にもとづき神社が合祀決定。その後も遺族の申し出などによりほぼ毎年合祀。

 1959年  BC級戦犯,合祀開始。

 1966年  A級戦犯14人が名票に載り,神社側に送付される。1970年崇敬者総代会で合祀が了承。

 1978年10月 神社がA級戦犯14人を「昭和殉難者」として合祀(79年4月判明)。

  ▼『合祀されていない人』--西郷隆盛(賊軍),戊辰戦争幕府軍側戦死者(賊軍),乃木希典(殉死者は戦死者でないため),東京大空襲犠牲者,広島長崎被爆犠牲者。

  ▼『合祀されている人』 吉田松陰,坂本龍馬(国事殉難者として),「ひめゆり学徒隊」女子学生,従軍看護婦,学童疎開船「対馬丸」犠牲学童。

靖国神社略史

 さて,ブリーンは「礎」論を,こう批判した。

 戦後の平和と繁栄は,日本軍の戦いぶりでなく-それがいかに勇敢であったにせよ-むしろその敗北および敗戦にともなう軍隊の解体や非軍事化,人権の保障を中心として民主化,国家機構の改革こそ,それを保証した。その総仕上げは,まさに明治憲法にとってかわり,国民主権,平和主義を基礎に置いた日本国憲法にほかならない(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』277頁)。

 3) 小堀桂一郎
 元東大教授の小堀桂一郎は,総理大臣のみでなく,天皇が靖国神社を公式参拝すれば,日本「国民のモラルに非常によい影響を与えることができる」と期待する。いまの若者は,日本の国に生を受けたことを少しもありがたく思っていない。

 だが,靖国神社問題が解決しただけで「青年層の国に対する考えかたが大きくかわる」し,「誇るべき日本という国」を道徳的にプラスの方向で思えるようになると主張する。靖国神社こそ,社会問題解決の糸口となりうると強調する(278頁)。

 1978年〔10月17日〕にA級戦犯が靖国に合祀されて以来,昭和天皇は参拝にいきたくともいけなくなった事情をしってかしらぬか,靖国擁護論者は「天皇の個人的な意思」をまったく忖度することもなく,自分たちの国家観・靖国観を天皇にまで押しつけている。

 ブリーンの記述に即していえば,小堀桂一郎のような論者は「天皇を中軸にした忠誠心,愛国心,自己犠牲そのもの」にこだわり,「そして総理も天皇も堂々と靖国にいけば必然的にそのモラルが全国民に広まる契機になると」「考えている」(279頁)。

 ということは,「天皇,首相による儀礼執行が国民の教化に直接つながるという観方は,まさに戦前に流行っていた祭政一致論の戦後版」である。しかし「問題は神社がこのようにモラルの昂揚をみずからの使命とする以上,純粋な慰霊,純粋な悲しみ,反省をもとにした追悼がはたして可能かというところにある」

 つまり「慰霊のための慰霊ではなく,ある特定の政治的思惑-モラルの普及-のための慰霊にしならないのなら」,これは靖国「神社が戦没者を政治的に利用していること」を意味する。

 そうであれば「靖国のもつ戦争の記憶は,客観的で複雑なそれではありえず,もっぱら現代社会の道徳,道義にみあった,それに役だつ『記憶』にならざるをえない」(279頁)。

 

 ※-10 「語りのフェティシズム」論

 1) エリック・サントナー:戦争記憶研究
 フランスの歴史家エリック・サントナーによる戦争記憶研究に聞こう。靖国神社の遊就館のごとき「戦争博物館・記念施設」に共通する特徴は,フランスなども体験した戦争のトラウマ,つまり「敗北⇒占領⇒それに協力」という精神的外傷を抑圧する働きにみいだせる。

 歴史的なトラウマの痛みを受けいれることを拒んだり,できなかったりするのは,戦後のフランスばかりではなかった。多くの戦後社会がある程度共有する現象であった。戦争記憶が耐えるにはあまりに痛すぎるためそれを抑圧し,抑圧するための記憶戦略が演じられるほかない。

 「神話形成」であるこの記憶戦略は「語りのフェティシズム」と名づけられる。この「語りのフェティシズム」は実は,歴史物語そのものがよって立つところの「トラウマ・喪失の痕跡」を消し去ることもできる。その結果,トラウマ以後の状況において自己確認を再構築するという責務から,人びとを解き放ち,彼方へと先延ばしされ,けっして到達することがない(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』279-280頁)。

 補注)ここでいわれた「神話形成」とは日本の英霊であり,アメリカのヒーローとなる。この英霊やヒーローということばは,批判や思索の全面的に拒絶しなければ,そう簡単にはうまく成立しえない,ひたすら神聖であるべき概念なのであった。

 2)「語りのフェティシズム」の実例:靖国神社「遊就館」
 靖国神社で演じられる宗教儀式は,勅使を登場させた「慰霊祭の力学」や「慰霊祭による戦時中の価値観の再生産」「遊就館の展示物の取捨選択やその整理」「発行物にみる『礎』論」などとして,まさしくサントナーのいうところの「語りのフェティシズム」の範疇である。

 注記)ここの記述については,ジョン・ブリーン(John Breen:ロンドン大学SOAS校),東健太郎訳「太平洋のトラウマ:靖国神社による戦争語りのフェティシズム」 http://21coe.kokugakuin.ac.jp/articlesintranslation/pdf/JohnBreen.pdf も参照。

 21世紀の靖国神社では,日本の戦争のトラウマが拠って立つところの敗北,敗北にともなう2百万以上もの戦死,敗北のもたらした恥辱の占領,占領がみちびいた戦後の繁栄と平和を保証した憲法,という歴史的な物語がみごとに抑圧され,その痕跡が神社および神社関係者の歴史的記憶からきれいに消し去られている(ブリーン『儀礼と権力 天皇の明治維新』280頁)。

 そしてそれにとってかわるものに,日本の兵士はみな天皇の名において生命を捧げ,忠誠心に満ちた英雄,英霊だ,戦争はアジアを憎むべき欧米人から解放する名誉ある戦争だ,特攻隊の戦死が戦後日本の平和と繁栄の礎をなす,というまさにフェティッシュ化された物語を天下するのみとなる。

 靖国神社の語りのフェティシズム〔「呪物崇拝」のこと〕は,追悼に欠かせない批判的反省の可能性を拒絶する。戦争のトラウマを直視しない靖国が,天皇,日本,みずからの家族のため,さまざまな動機をもって貴い命を捧げた戦没者を追悼する場となれるかはたいへんに疑問である(280頁,281頁)。


 ※-11 小 括

 ブリーンは「新たな追悼平和祈念施設が国家に利用され,『第2の靖国』になる恐れがある」「ことは,国家がかかわるかぎり否定できないが,新しい施設の利点は多くある」ことを理由に,つぎのような追悼施設の建設には反対していない。

  a) 戦争のトラウマを抑圧しない,フェティッシュ化された物語を許さない,複雑な戦争記憶をかかえる可能性を有すること。

  b) a) のことが,同時に,本当の意味における追悼,政治の絡まない追悼の前提条件なので,その施設は,十分追悼の場となりうること。

  c) 追悼の可能性はさらにトラウマ以後の,つまり戦争と無関係である戦後の自己確認(アイデンティティ)再構築の契機ともなりうること(281-282頁)。

 --前掲した注記中の文献,ブリーン(John Breen:ロンドン大学SOAS校),東健太郎訳「太平洋のトラウマ:靖国神社による戦争語りのフェティシズム」は,

 『ヤマザキ,天奥崎兼三表紙皇を撃て! - “皇居パチンコ事件” 陳述書-』新泉社,1987年の著者で,大東亜戦争中,ニューギニアに送りこまれた日本軍将兵16万人のうちわずかに生き残った6%の1人となった奥崎謙三が,つぎのように憤激した語った事実に言及していた。

  ◆-1「地獄を語らなくってね,戦友の慰霊なんかなるわけがない」!

  ◆-2「靖国神社いったら英霊が,その,救われると思うのか,貴様,えっ」!

 なお,奥崎謙三については,本ブログ内でつぎの題名で論述した。

 この記述は,「昭和天皇-奥崎謙三-靖国神社」という三角関係の中心部に集約された「昭和天皇戦争責任」を,「大日本帝国1兵卒」が「大東亜戦争」を生き抜いてきた観点から批判する立場に注目し,議論してみた。


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