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日本の百済史は百済史の日本史

 ※-1 2024年2月7日のまえがき

 「日本の百済史は百済史の日本史」などといった表題をかかげたら,目を剥いて怒り出す御仁もいるかもしれない。しかし,13世紀以上もの大昔の古代史に関する歴史問題となれば,現在の天皇家だけが「当時の昔」に存在した王朝とはけっしていえず,むしろ,いまの京都,奈良付近に分布していた王族たちだけを考察したところで,日本古代史の実相がまともに解明できるわけなどない。

 連綿たる血統の「純粋」(?)性,万世一系的(?)神聖天皇を誇りたいこの国の一部の人びとが実在する。だが,この人たちの神経を逆なでするような歴史学者がいた。

 その研究者の1人が,日本古代史からの粉飾されてきたこの国の歴史を,自分なりに解明してきた津田左右吉であった。津田の古代史観に関した著書は,最近まで,新聞広告としてなんども繰りかえして大きく出されていたが,戦前において学問弾圧を受けたこの津田は,太平洋(大東亜)戦争が始まって間もないころ,つぎにように,時の政府から断罪されていた。

 昭和17〔1942〕年5月,『古事記及び日本書紀の研究』 など津田左右吉の著書4冊が発禁処分などに処された事由は,出版法第26条「皇室の尊厳を冒涜した」にあったと,当時の裁判所・裁判官が判断を下したところに求められていた。津田と出版元の岩波書店に対して有罪の判決が下されたのである。

 ほとんど,つまり98%以上が「神話の世界に立っていた大昔の物語」を,それも想像的にも語っていた(なかには完全に騙った部分も含まれるのは,古代史にとってみれば自明・当然の事情だが)内容について,いいかえれば明治謹製になる官許製の「神話物語」に立ち向かい,たとえ学問的に徹した立場からであっても,真っ向から「その真実の究明」のための研究に邁進しようとした者たちに対しては,国家側の密教的な必要性に応じて,それらの研究に対する弾圧がくわえられてきた事態(歴史の事実)は,ある意味それなりに,当然のなりゆきとして記録されている。

 明治26(1893)年に制定されていた「出版法」,すなわち,新聞紙以外の普通出版物の取り締まりを目的として制定されたその法律が,「言論の自由・表現の自由」などに対して「きびしい内容制限,禁止を規定していて」しかも事前に重大な制約を課するかたちで,なかでも,天皇・天皇制が関連する問題については格別に「神様あつかい(神格化)も同然の位置づけ」がなされていた時代であっただけに,津田左右吉の学問展開がその神格性のありかに疑義をもちこむ研究内容であったゆえ,権力側が恣意的に弾圧をくわねばならない経緯になってもいた。

 出版法は結局,敗戦後,昭和24(1949)年に廃止された。それは,民主主義がまともに機能している国家体制とは無縁の法制であった。

 以上,2014年11月9日に一度公表していたが,ブログサイトの移動があって未公表になっていた,以下に復活させるの一文を再掲するにあたり,「まえがき」として書いてみた文章である。以下の※-2から本論に入ることになる。

 

 ※-2 日朝古代史の謎解きは興味深い-天皇家は朝鮮から日本への贈り物-

 1)  捏造された日本古代史の内情・秘密

 以前,山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』角川書店,平成8(1996)年を読む機会があった。いまから28年前に発行されたこの書物は,「奇想天外(?)ともいえる仮説」をもって,古代史における日本と朝鮮・韓国の深い絆を解明している。 

 山科は同書〈あとがき〉で,「日本書紀は本文30巻と帝王の系図1巻からなる国家的事業」,それも「三韓の国々の影響や関係を抹消しながら」「40年間にわたり日本独自の歴史書を編纂しなければならなかった編集者の苦労は誠に頭の下がる努力だった」と,いまから1300年も昔に書かかれた古代史書の制作者を称賛している(205頁)。

 同書の末尾に解説を寄せた荒俣 宏は,こう記述している。

 神功皇后・聖徳太子推古天皇・雄略天皇・天武天皇に関する「きわめて衝撃的な真相を語っている」「5人の天皇には朝鮮半島との深い関係が認められる」,「もし仮に,かれら天皇クラスの “日本人” が朝鮮半島人そのものであったとしたら,どうだろうか?」「本書を読了されたあなたは,かならずや,『やられた!』と叫ぶことだろう」(201頁)。 

荒俣 宏

 山科『日本書紀は独立宣言書だった』の〈あとがき〉は,日本書紀の問題をとりあげた本書の狙いを,およそこのように説明している。

 それは,日本の古代史において権力者であり,編纂者でもあった天武天皇(第39〔あるいは40〕代,在位 673-686年)と持統天皇(第40〔あるいは41〕代,在位 686-697年)が意図的に塞いでしまったために,「すべてが消失」された「日本の古代史」「の道」「をまっすぐに舗装した作業」,

 いいかえれば,「日本が神代の時代から単一民族による自主独立国であったという創作で」もって,「大陸,特に朝鮮半島からの渡来,亡命人物をすべて否定し」,「日本の統治者は大陸からの渡来民族であるということを抹殺するために,日本書紀が書かれたといってもいい」史実を闡明することであった(202頁)。

山科『日本書紀は独立宣言書だった』〈あとがき〉

 このことを,荒俣 宏に別にいわせると,以下のようになる。

 日本古代史の真相は「天武天皇までの歴史は,日本の島を舞台にした歴史にまちがいないが,けっして,土着日本人の歴史ではない,人間の面からいえば,朝鮮半島の人びとがこの島に進出,あるいは亡命しつづけ,ついに故国と縁を断ち切り,新生の独立国として起つまでの歴史なのである。つまり日本史の主人公は半島の人たちなのだ」(199頁)。
 
 だから「戦前のように,古代日本は朝鮮半島に任那という植民地を所有していた,などと脳天気に考える者は,もはや少数派であろう。騎馬民族征服説が生まれ,古代日本の国際性(ペルシア人やキリスト教も流入していた!)も明らかにされ,そのイメージは一変したといってよい」(198頁)。

荒俣 宏

 さらに荒俣 宏は「本書の著者が提示する仮説は,まさしく度肝を抜かれるような大胆きわまりない発想にもとづいている。事実,ぼくもブッ飛んだ。だが,ブッ飛んだ次の瞬間,本書の虜になったのもたしかだ」と,山科の仮説・発想をべた褒めしていた(198頁)。

 荒俣の解説につづけてさらに聞いておく。

 壬申の乱〔じんしんのらん:672年に起きた日本古代最大の内乱といわれる〕で勝利を握ったのは,天智天皇(第38代,在位 661-671年)の弟に当たる大海人皇子,のちの天武天皇(第40代,在位 697-707年)である。

 この天武天皇は,兄の天智天皇が手を付けた日本国づくりを完成した人物と考えられる。大陸の律令制をそのまま倭(ヤマト)にも布き,国史である『日本書紀』編纂を命じ,王朝の祭神であるアマテラスを祀る伊勢神宮を整備し,とどめとして日本および天皇の呼称を創始した人物でもあった(196頁)。


 ※-3 山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』1996年の主張は,完全なる創見か?

 荒俣  宏(あらまた ひろし,1947年- )は,日本の博物学者であり(異論もあるとのことだが),図像学研究家・小説家・収集家・神秘学者・妖怪評論家・翻訳家であると同時に,タレント業もこなしている人物である。しかし,山科のこの書物を評価する当たっては,荒俣がまだ勉強不足であるという印象を受ける。

荒俣 宏・画像

 本ブログの筆者が勉強した範囲内でいえば,山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった-明かされた建国の謎-』1996年が,日本書紀をめぐって主張した論旨と重なる研究業績は,水野 祐(1952年)・鹿島 曻(1978年)・佐々克明(1980年)・〔事後には,林 順治(2009年)〕などがすでに,先行研究の成果を公表している。

 ということで,これら諸氏の研究成果との突きあわせて山科の書物を,あらためて評価する余地がある。 

 山科『日本書紀は独立宣言書だった』の論旨をくわしく引用・解説したいが,ここでは禁欲する。あまりにも参照を必要とする箇所が多すぎてきりがなくなるので,前述の荒俣のまとめ的表現をもって,ひとまず理解してもらうことにする。

 一言でいって,日本人・日本民族意識を強くもっている「現代のヤマト人」たちには,あるいは相当気に入らない,歴史分析を山科 誠の書物は成就させていた。

 前段に氏名の出た林 順治の著作『応神=ヤマトタケルは朝鮮人だった-異説日本国家の起源-』河出書房新社,2009年は,「騎馬民族は2回来た !! 石渡信一郎の研究をうけて,加羅と百済から渡来した新旧二つの朝鮮渡来集団による古代日本国家建国の,驚くべき史実を明らかにする」と謳われている(同書,帯より)。

 ここにさらに氏名の登場した石渡信一郎は,いままで主に,つぎの諸著作を公刊してきた。

◇『聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く-』三一書房,1992年。
  →『完本聖徳太子はいなかった-古代日本史の謎を解く-』河出書房新社,2009年。

◇『ヤマトタケル伝説と日本古代国家』三一書房,1998年。

◇『百済から渡来した応神天皇-騎馬民族王朝の成立-』三一書房,2001年。

石渡信一郎の著作

 以上に挙げてみた関連の文献は,今日紹介している山科『日本書紀は独立宣言書だった』が,日朝〔朝日〕古代史の秘密を初めて明らかにした書物ではなかった,という事実を文献史的にも明示している。

 もっとも,山科 誠にしても,また上掲の著作の執筆者たちにしてもそのほとんどが,通常の史学界で活躍する学者や研究者ではないために,単独で自身の挙げた研究成果を,学術書の体裁はとらない単行本として世に問うてきた。

 日本の史学界は旧帝大系の影響力の強い圏域では,以上に枚挙した著者たちの公表してきた研究成果は,水野 祐のものを除くと完全に無視されている。

水野 祐・画像

 「帝大」の教授〔教官〕ということばの印象からも理解できるように,日本帝国時代から引き継ぎ背負ってきた〈歴史的な残影〉の濃さために彼らは,自分たちの学的な権威を笠に着て,つまり,勝手に彼らが〈正史〉と規定した領域での研究業績しか認容していない。

 いわば,在野の歴史研究家たちが個人的に独自に挙げた創造的な研究成果は,官学の立場において正統派=歴史研究者を自認し,誇示する彼らにとってみれば,日朝古代史が地政学的な相対関係のなかで『朝鮮優位の関係史』となって,その実体が形成されていたなどとは考えたくもない。

 ましてや,金 錫亨『古代朝日関係史-大和政権と任那-』勁草書房,1969年が,朝鮮・韓国側の歴史研究者として,古代における日本史が本当は朝鮮史に服属したような関係=「分国」でもって存在していたとする見解などは,虫酸が走るほどに嫌な,聞きたくもない創見としての提言であった。

 しかし,前段に挙げた日本の,それも在野・民間の古代史研究家たちが,日朝古代史における史実=真相を,個々バラバラにではあっても,金 錫亨よりも以上に適確に解明してきている。


 ※-4 水野 祐(1952年)・鹿島 曻(1978年)・佐々克明(1980年)

 1) 水野 祐『日本古代王朝史論序説』1952年

 水野 祐『日本古代王朝史論序説〔新版〕』(初版は1952年,早稲田大学出版部,1992年。以下では,201-203頁参照)は,「日本古代王朝断絶」の状況を以下のようにまとめていた。

 イ) 「万世一系的神聖天皇」は伝説史的事実であり,神話における架空の天皇である。

 ロ) 初代天皇より推古天皇まで33代のうち,実在した天皇は全部で18代のみと推定される。

 ハ) 神武天皇より開化天皇まで9代の天皇,垂仁・景行・安康・清寧・顕宗・仁賢・武烈・宣化の8天皇,総じて17天皇は架空の天皇である。

 ニ) ハ) の17天皇のほかに「飯豊天皇」の即位を認め,初代を崇神天皇,推古天皇まで18代の天皇を,実在として数える。

 要するに,日本古代史は「3王朝の交替」を経て,実は途絶していた。したがって「万世一系的神聖天皇」観も虚説であった。これが水野「説」の要点である。

 これにもう少しくわしい事情を加味していえば,朝鮮半島では7世紀中頃までの三国統一の過程においても,多くの人たちを日本に押しだし,移入させてきた。

 そのなかでもとくに亡国百済の遺民が多く,その上層部の人びとは大和政権に流入して,1時期,奈良には百済文化の花がさきそろうような状況も生まれた。天皇家の根本が伽耶族の支配層と同種であった事実は,日本の建国神話が如実に物語っており,疑う余地もない(水野,前掲書,201-203頁,309頁)。

 2) 鹿島 曻『倭と王朝』1978年

 鹿島 曻『倭と王朝』新国民社,1978年は,日朝古代王朝史において「百済史と日本史が重複してきた実相」を,つぎのように書きつらねている。なお,1行空けたところは時代の区切りとなる箇所である。

 1代 神武天皇 - 尉仇台(扶余王子),罽 須(高句麗10代王弟),仇首王(百済6代)
 2代 綏靖天皇
 3代 安寧天皇 - 比流王(百済11代)
 4代 懿徳天皇 - 沙伴王(百済7代)

 5代 考昭天皇 - 肖古王(百済5代),赫居世(新羅1代),饒速日命
 6代 考安天皇 - 安日彦,天日矛,脱 解(新羅4代)
 7代 孝霊天皇 - 責稽王(百済9代),仇 鄒(新羅4代王子)
 8代 孝元天皇 - 汾西王(百済10代),伐 林(新羅9代)
 9代 開化天皇 - 契王(百済12代),伊 買(新羅9代王子)

 10代 崇神天皇 - 近肖古王(百済13代)
 11代 垂仁天皇 - 近仇首王(百済14代)
  12代 景行天皇 - 辰斯王(百済16代)
  13代 成務天皇 - 阿莘王(百済17代)
  14代 仲哀天皇 - 腆支王(百済18代)
  15代 応神天皇 - 久爾辰王(百済19代)

  16代 仁徳天皇 - 讃,仁徳(駕洛7代王妃)

  17代 履中天皇 - 毗王(百済20代)
  欠  飯豊天皇 - 市辺皇子,蓋鹵王(百済21代)

 18代 反正天皇 - 済
 19代 允恭天皇
  20代 安康天皇 - 興
  21代 雄略天皇 - 武
 22代 清寧天皇
 
  23代 顕宗天皇 - 昆支王(百済22代王弟)
  24代 仁賢天皇 - 文周王(百済22代)
 25代 武烈天皇 - 平群真鳥,三斤王(百済23代)

 26代 継体天皇 - 大伴金村,安(安羅王)
 27代 安閑天皇
 28代 宣化天皇

 29代 欽明天皇 - 東城王(百済24代)
 30代 敏達天皇 - 武寧王(百済25代)
 31代 用明天皇 - 聖王・明(百済26代)
 32代 崇竣天皇 - 恵王・季(百済28代)
 33代 推古天皇
 34代 舒明天皇 - 義慈王(百済31代)

 35代 皇極天皇 - 善徳(新羅27代)

  36代 孝徳天皇 - 孝 (百済31代太子)

 37代 斉明天皇 - 真徳(新羅28代)

 38代 天智天皇 - 豊 (百済32代)

 39代 天武天皇 - 金多遂(新羅29代王弟)

  註記)なお,明治3〔1870〕年に追贈された弘文天皇を〔39代に〕入れれば,天武天皇は40代になる。

百済史と日本史の重複

 実は,山科 誠『日本書紀は独立宣言書だった』が解明している日本史と百済史との融合的な史実関係は,この鹿島の分析した「朝日古代王朝関係史」の枠組のなかで議論すると,より理解がすすみ,研究上の相乗効果もえられるものである。

 3) 佐々克明『「日本国」以前「倭韓連邦から日本国へ-』1980年

 佐々克明『「日本国」以前「倭韓連邦から日本国へ-』學藝書林,1980年も,「天皇家の王朝交代表」をつぎのように整理している。 左から「天皇 ⇔ 本拠地 ⇔ 備 考」(なお「空白幅あり」の箇所には を挿入しておいた)もあり)。

 1) 神武~ 9) 開化 ⇔ ◇ ⇔ 金官加羅の首露王から鉗知王-9代の投影か-

 10) 崇神~13) 成務 ⇔ 新羅系 ⇔ 征服王朝の祖

 14) 仲哀・15) 応神
    ~25) 武烈  ⇔ 百済系 ⇔ 百済貴姓,真氏の出 -辰王朝の裔か-
 26) 継体~28) 宣化 ⇔ 新羅系

 29) 欽明~38) 天智 ⇔ 百済系 ⇔ 欽明は任那王・仇衡か(鈴木武樹)

 39) 天武 ◇ ⇔ ◇ ⇔ 天武は新羅貴人・金多遂か

 40) 持統~ ◇ ⇔ ◇ ⇔ 日本国初代天皇

天皇家の王朝交代表

 以上,こまかい点では異同も出ているが,水野・鹿島・佐々や石渡のいわんとする「日本古代史の真相」は明白である。日朝古代王朝史は「百済史の日本史〔ヤマト史としての表面史〕」であり,日本史は「百済史の裏面史」である。これに尽きるのである。

 平成天皇が自分の祖先の1人として,桓武天皇の母が朝鮮〔百済〕系がいる事実に言及したことがある。しかし,日本の天皇家が由緒正しい血統を本当にもっているという歴史を正直に告白したら,「日本史=百済史」即「百済史=日本史」に逢着せざるをえないのである。

 ※-5 平成天皇がコクってみた「ご先祖様には朝鮮の王族がいる」

 平成天皇のこの発言に触れて,今日の結論の記述としておく。

 平成天皇は「2002年の日韓ワールドカップ共同開催を契機に,両国民の理解と信頼感が深まることを願う」と述べた。そのさい,とくに「古代日韓間における交流の事実,韓国との縁を強調していた」。

 具体的には,いまでは平安神宮の祭神に祭られている「桓武天皇(第50代,在位 781-806年)の生母が百済の武寧王の子孫である」ことや「武寧王の子である聖明王が仏教を日本に伝えた」ことなどに触れていた。

 さらに,『日本書紀』などには,日本と韓国との人々のあいだに昔から深い交流があった事実が詳述されており,要は「韓国から日本へ移住したり招聘されたりした人々がさまざまな文化・技術を伝えた」という日韓関係の歴史を,いまさらのように,しかもあえて話題にしたわけである。

 平成天皇のこうした「歴史的な発言」は,2002 年日韓ワールドカップ開催を目前に控えた時期だったけれども,日本のマスコミには不評だったらしく大きくとりあげられなかった。ただ,3か月経ったころ,『 Newsweek 日本語版』2002年3月20日号が「天皇が結ぶ日韓の縁」という見出しを立てて,その話題をとりあげたに過ぎない。

 註記)2006年8月17日検索。『ニューズウィーク 日本版』2002年3月20日号「天皇が結ぶ日韓の縁」18-23頁。

一番近い国同士なのだからこのような史実があるのは
当然といえば当然でなおかつ必然だったかも?
 

 その記事の内容は「日本人はみな同質で,人種的にも混じり気がないという『自画像』を真っ向から打ち砕く」かのように,「日本人の3分の1から半分が,朝鮮人と血縁関係にあると指摘する学者もいる」と述べていた。

 註記)前掲『ニューズウィーク日本版』2002年3月20日号「天皇が結ぶ日韓の縁」21頁,22頁。

 明仁天皇はわざわざ,「万世一系」「単一民族」の神話に浸っていたいかのような日本国民たちには,とても衝撃的な,そしてまた「家父長的天皇制」を支持するはずの右翼国粋主義集団には,相当に不満の大きい話題を,故意にとりあげた〈節〉がある。なにせ,日本の皇室関係者が「韓国・朝鮮との縁」を公に認める発言をしたことは,いままでなかった。

 明治維新以来,日本帝国は「日鮮同祖論」を盛んに流布させ,日本が朝鮮・韓国を植民地支配・統治する正当な歴史的事由として利用したが,いまとなっては恥ずかしいくらい「やぶへび」であった事実が,明治天皇の曾孫の口から飛び出てきた。

 そうなっただから,天皇や皇室が日本独自にとてつもなくすばらしい歴史とその伝統を有すると自慢できる人びとにとっては,まったくもって余計なことを,明仁は暴露してくれたと苦り切っていたはずである。

 ともかくこれでは,日本帝国の優秀性・卓越性を,わざとらしく,かつくだくだしく高揚させてきた国粋主義者にとっては,まったくもって,けしからぬ妨害的な発言を,なんと明仁天皇自身が宣明したことになる。

 かといって,まさかこの天皇を,畏れ多くも「非国民,国賊呼ばわりする」わけにもいかず,彼らの抱いているつもりの国家思想・イデオロギーの地点にとってみれば,まったくもって非常に面白くない事実が,現職(当時)の天皇によって告白されていた。

 一般的にいえば,天皇家の人間たちにかぎらず日本人はほとんどが,「悠久の昔から朝鮮人の血を引くなどという」「古代の歴史的な真実」を想像すらしたくないのである。

 21世紀になって急に日本ではやりだした現象として韓流ブームが記録されていた。当時,韓国KBSで2002年に放送され,日本では2003年に初めて放送され大反響を呼び,これをきっかけに日本での韓流ブームに火が点き,韓国ドラマ『冬のソナタ』の主人公となったペ・ヨンジュンやチェ・ジウなどを初め,韓流スターたちがとても好きになった日本人たち(中年女性が多かった)はさておいて,

 北朝鮮の,その姓はゴールド,名はジョンイル(この金 正日はすでに死亡しており,2024年現在では,その息子ジョンウン:正恩が北朝鮮王朝3代目の王様だが)といった,20世紀から21世紀にかけて登場したあの国の独裁者たちとも,こちらの日本国の人びとがもしかすると,はるか遠い昔における話にまでさかのぼるそれに過ぎないにせよ,なんらかの縁者の関係があったらしい同士だという話題など, “ツユほどにも思いたくもない” 日本人が,圧倒的な多数派である。

 以上,冗談にもならないような話題であったけれども,この種の指摘は,狭窄的で卑小だが “山よりも高く海よりも深い” 皇室崇敬意識をもっている,一部の日本の人びとの正直な(?)気持を,いくらかはえぐっているかもしれない。

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