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在日に対する立場を「反差別から差別へ」と自身の思想をみずてんさせた「歴史修正主義」の先鞭者佐藤勝巳の問題

 ※-1 自分の人生に対しては誠心かつ忠実たりうるが,他者にはやたらきびしかった佐藤勝巳の,しかもその転身ぶり

 a) 本ブログ筆者は,2023年6月16日と17日に,「佐藤勝巳が書き残した在日批判論の偏屈ぶりに垣間見えた旧・大日本帝国的な意識の残滓(1)」「同稿(2)」 という題名の記述をおこなった。
 付記)冒頭の画像は後出する柏崎正憲の論稿「反差別から差別への同軸反転」2008年,417頁から借りた。

 本日も「本稿(2)」としてにかかげてみた「題名」から分かるように,佐藤勝巳という人物は,在日韓国・朝鮮人問題の歴史に深く食いこみ,しかもそれを引きまわすかっこうをとりながら,自身の狭量な関心事にのみ意味づける意向を強引に貫いてきた。

 彼は,けっして他者のためではなく,自分のイデオロギーの浮遊する方途にのみ,その種の行為を積み重ねてきたから,実際に彼が人生を終える時期が来たとき締められた総決算は,実はかなりみぐるしい結末を呈するほかなくなっていた。

 さらにいえばその結局が,「北朝鮮による日本人拉致被害者の問題」解決にわずかも寄与・貢献しえなかったどころか,その反面においての「日本における少数民族問題」のひとつである『在日問題』を,いたずらにひっかきまわすだけの顛末にもなっていた。まずかったのは,そのうえで,在日という存在に関連する差別問題をさらに深刻化,複雑化させる演技まで披露した始末を記録したことである。

 b) 佐藤勝巳(さとう・かつみ,1929年3月5日-2013年12月2日)の行動は,はたして拉致家族被害者たちの立場にとっても,またそれ以前からの関与があった在日韓国・朝鮮人の生活にとっても,味方ではないばかりか,有益であったことすらありえなかった。

 むしろ,佐藤個人のイデオロギー的な関心を中心に置くかたちでもって,日本の政治・社会における特定の問題を,やたらに引きずりまわすための撹乱に終始してきた軌跡を残しただけであった。とりわけその事実は,拉致問題の領域において,佐藤自身が深い関与をしてきた履歴を調査すれば,より明白になる。

 c) たとえばここに,柏崎正憲「反差別から差別への同軸反転-現代コリア研究所の捩れと日本の歴史修正主義」東京外国語大学海外事情研究所『Quadranteクァドランテ』第10巻,2008年3月,http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/52354/1/ifa010027.pdf という学術論文がある。

 それは,佐藤勝巳の政治活動家としての行状を客体的に分析した研究であって,この佐藤という人物が,いかに好き勝手に自分の嗜好中心にだけ振るまってきたかを,具体的・実証的に究明(糾明)していた。

 佐藤勝巳は『拉致家族「金正日との戦い」全軌跡』小学館(文庫),2002年11月を書いていた。この佐藤が書き下ろしたという本は,つぎのような宣伝の文句を謳い,販売されていた。

 信用できない金 正日の謝罪,矛盾ばかりの安否情報…。けっして北朝鮮に騙されてはならない。家族たちの敵は金 正日だけではなかった。弱腰の政府や外務省,北朝鮮に乗せられた政治家や文化人など,主権侵害に目をつぶる輩を糾弾する!

 「北朝鮮のいい分も,政府の調査も信用できない。」 北朝鮮による安否情報の矛盾に不信が募る拉致被害者家族たち。けっして金 正日の嘘に騙されてはいけない。そして,弱腰対応の政府や外務省,北朝鮮を擁護する政治家や文化人,マスコミや国民の無関心など,家族たちが長年戦ってきた相手は北朝鮮だけではなかった。

 本書は事件の経緯,家族の苦難の日々,日朝交渉の行方などを追う。被害者の生存を信じつづける家族が語った積年の悲憤。

佐藤勝巳は『拉致家族「金正日との戦い」全軌跡』宣伝文句から

 ここの『拉致家族「金正日との戦い」全軌跡』2002年11月は,いまとなってみれば,佐藤勝巳が自身のことばでそのように批判したはずの「ひとかたまりの諸人」なかに,本当のところでいえば,彼自身がそこに「登場する人物の1人」になっていた。ずいぶんな皮肉な経緯になっていた。

 d) 1997年3月に『家族会』(北朝鮮による拉致被害者家族連絡会)が結成された。1998年4月になると,この家族会を支援するために各地で救出組織が生まれていたのを受けて,全国的な組織として一体化するかたちで『救う会 全国協議会』が結成された。

 しかし,蓮池 透の著書,『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』講談社,2015年12月が冷静になってあらためて批判していたように,拉致問題が政治家たちによって単に,存分に「政治利用される」だけの現象が生じていた。

 いわば「政治家にとってみれば〈拉致問題〉はとても都合のよい」,俗っぽくいえば「おいしい素材」「お得な話題」であった事実は,現時点になって回顧するまでもなく,たいそう明瞭な事情であった。

 e)『救う会』のホームページには,「超党派の国会議員」(5党,衆参議席の9割超)により拉致議連(北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟=平沼赳夫会長)が結成され」た,との記述されている。

 註記)「救う会について-家族会・救う会の拉致被害者救出運動」『救う会 全国協議会』http://www.sukuukai.jp/index.php?itemid=1102,2023年6月18日検索。 

 道理で猫も杓子も国会議員になると,例のブルーリボンバッジを着用(佩用)する仕儀にあいなっていた。しかし,その種の光景については,政治学者にいわせれば,日本における政治問題が拉致しかありえないのかという解釈もでき,国家の外国政策に関する基本姿勢をめぐり,いちじるしい疑念が浮上しているなどと指摘されている。

 ともかく立場こそ違え,佐藤勝巳も安倍晋三も北朝鮮による「日本人拉致被害者」の存在は,自分たちの政治的な利害(利用価値)にとって〈好餌〉になっていた。実際に,「彼ら」はその好餌を,いままでさんざんに食い散らかしてきた。

 f) 安倍晋三の場合,自分が首相である立場を長く維持するために,拉致問題をさんざんぱら悪用してきた。その意味では,拉致家族被害者たちこそいい面の皮であって,その事実経過は十分に強調しておく必要があった。

 安倍の第2次政権は,「核・ミサイル開発を続ける北朝鮮」に対して,この政策を変更させるため,米国とも連携して「圧力を最大限まで高めていく」方針を,ただひとつの対応策(つまり「バカのひつと覚え」?)として採っていた。

 そうであったから,北朝鮮問題に関してなにか打開の手がかりを模索し,新しい展開を期待することなど,彼の政治手腕としては,初めからまったくの不可能事であった。

 前段に挙げた論稿,柏崎正憲「反差別から差別への同軸反転-現代コリア研究所の捩れと日本の歴史修正主義」2008年3月から,佐藤勝巳の「識者としての生き様」について根本的な批判を表現した段落を引用しておきたい。画像資料を借りての引用となる。

佐藤勝巳の問題・1
佐藤勝巳の問題・2,最後の段落で尻切れ分は
次頁の上段に「う。」

 

 ※-2 佐藤勝巳という人物に対する「批評」を本格的にくわえるとどうなるか

 本日のこの記述は,佐藤勝巳という人物の全体像をえがきながら,この「政治運動屋」の生涯・履歴をたどり批評してみたい。

  ■ 事前の断わり ■

 この記述は実は,30年以上も前に本ブログ筆者が公表した稿文である。21世紀になって,より具体的な時期は2002年秋以降に始まっていたが,突如,日本社会を騒がせることになった「北朝鮮による日本人拉致問題」をめぐって,その露出度をきわだたせた人物がいた。それが,佐藤勝巳という元左翼であったがその転回して極右もどきの観念もないまぜにした,それこそハチャメチャの政治運動を記録してきた人物である。

 以下の論説は,佐藤勝巳(生死年,1929年3月5日-2013年12月2日)が現代コリア研究所長として活躍していた当時,つまり「1991年ころの所論:自説」を根本から解明し,批判的に追究していた。21世紀のいまごろにもなってもまだ,当時書いていた文章がそのまま,この人物の行跡を分析しなおす材料として生かせるとは,思ってもいなかったが,意外と賞味期限が切れてはいなかった。

 その間,この稿文で論じた中身についてはいろいろ進展もあるが,佐藤勝巳という人物が,他者に対する批判・非難をよく展開するわりには,自身の立論ならびに言動,実際の活動歴のなかに顕在していた矛盾点:支離滅裂性にまったく気づかない様子には,驚かされる。

 現代コリア研究所長の佐藤勝巳は,「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)の会長を務めていた時期(1998-2008年)がある。

 かつては,在日朝鮮人のよき理解者であったはずの佐藤勝巳が,在日朝鮮人をふくむ北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)を仇敵視するような立場に〈豹変〉した理由を,この稿文によって説明することになる。

 佐藤勝巳は「研究所の長」も務めた人物だから,すこしは学究的なセンスを備えている人物かと思いきや,まったく期待はずれであり,単なる政治的な運動家(より正確には運動屋)であった。

 したがって,彼が発言する内容は,政治的な行動のための性格しかもちえなかったゆえ,学術的にはなんら価値を発揮しえかったどころか,その逆方法に向かっていた。しばしば煽動的な主張をする事例や,社会的に害悪をまき散らす危険をもった発言がめだっていた。

 なお,本稿を公表してからすでに30年以上もの歳月が経過しているので,その時間差の関係で生じた必要として,若干の「注記」を付してもある。

 さらに,本日のこの記述をめぐっては,その趣旨を具体的に書いて公表した雑誌の抜刷を,佐藤勝巳に謹呈してあった。しかし,当人からそれへの応答はいっさいなかった。

 佐藤は,政治的な活動のために論著をものにしている傾向が強かったゆえ,その種の応答を期待したことが,そもそも無理であったのか,などと回想してみた。

 以下に紹介する佐藤勝巳の著書は,1993年に公刊されていた。2023年の現在,北朝鮮のミサイル保有状況はどうなっているか?

 

 ※-3 現代コリア研究所について

 a) 現代コリア研究所のあらまし

 1961(昭和36)年,日本人の立場から隣国である南北朝鮮の政治,経済,社会,文化,在日韓国・朝鮮人問題など各方面にわたる研究をすすめるために設立された。2007年11月,紙媒体の『現代コリア』は休刊とし,電子版に完全移行した。インターネット上では日韓の専門家の論文を掲載している。

 b) 現代コリア研究所所長を務めた佐藤勝巳の紹介

 1929年新潟生まれ,高等学校を中退後,1958年から1964年にかけて日朝協会新潟県連事務局長,在日朝鮮人の北朝鮮帰国運動に日本人として協力。1965年から1984年まで,日本朝鮮研究所事務局長。1984年から現代コリア研究所所長。1998年より,北朝鮮に拉致された日本人を救出する全国協議会会長。

 c) 著  書

 『なぜ急ぐのか日朝交渉 韓国・朝鮮を知るためのシリーズ 1』現代コリア研究所,1991年。

 『在日韓国・朝鮮人に問う』亜紀書房,1991年。
 『北朝鮮「恨」の核戦略』光文社,1993年。

 『北朝鮮崩壊と日本』(共著)光文社,1996年。
 『北朝鮮が戦争を起こす5つの根拠』(共著)光文社,1998年。

 『北朝鮮の「今」がわかる本』三笠書房,1999年。
 『北朝鮮情勢を読む』晩聲社,2000年。

 長谷川慶太郎・共著『朝鮮統一の戦慄 -呑み込まれる韓国,日本の悪夢』光文社,2000年。

 『日本外交はなぜ北朝鮮に弱いのか』草思社,2002年。
 『拉致家族「金正日との戦い」全軌跡』小学館文庫,2002年。

 『北朝鮮の「今」がわかる本』三笠書房,2002年。
 『日本外交はなぜ朝鮮半島に弱いのか』草思社,2002年。

 佐藤勝巳【監修】『北朝鮮による拉致を考える-中学生・高校生に知ってほしいこと』明成社,2004年。

 『「秘話」で綴る私と朝鮮』晩聲社,2014年。

 ※-4 佐藤勝巳「人物譚」

 a) この佐藤勝巳なる人物はかつて,朝鮮「半島問題では日本で第1人者でいらっしゃる,現代コリア研究所の佐藤勝巳氏を招いて講演会を開きます……」というふうに紹介されてもいて(注記参照),日本社会ではあたかも,朝鮮問題〔韓国ではない〕を一番よくしる権威者であるかのように誤解されていた。

 註記)「現代コリア研究所・佐藤勝巳所長講演会のお知らせ」 http://chogin.parfait.ne.jp/event_20020824.html

 前段で「朝鮮」という文字を使わず,「半島問題では……」という紹介のしかたがされていた。一見これは,朝鮮半島にある「北と南に位置する2国の存在」を認めないような表現に感じられる。そう感じるのは,筆者のうがちすぎたみかたであろうか。戦時中あった語法だが,朝鮮という地名・国名を冠せずに朝鮮人全体のことを「半島人」とよんだ時期もあった。

 ともかく,佐藤勝巳が〔朝鮮〕半島問題の第1人者というのには,恐れいる。佐藤のような政治的な運動家よりも,大学関係の研究者のほうで,北朝鮮の問題を本当の意味で専門的,本格的に観察・分析している人たちが,すでに少数だがちゃんといた。当時からテレビによく出ていた大学教員たちの姿もあった。関心のあった人であれば,当時のそうした状況を記憶する人もいる。

 現代韓国朝鮮学会という名称の学術団体が2000年11月18日に設立されている。この学会の役員・理事の姓名やその所属大学については,つぎの住所を閲覧してほしい。

 「北朝鮮〈攻撃〉アジテーターに堕した第1人者」が佐藤勝巳だというのであれば納得がいくけれども,「半島問題」の専門家・人士などといわれたら,本来,北朝鮮問題や韓国問題を専門とする学究のヒンシュクを買うのではないかと心配するしだいである。

 b) いまの佐藤勝巳に聞きたいことがある。本稿文のなかで主張していた「在日韓国・朝鮮人」には「日本国籍を与えよ」という点は,その後もかわりないかということである。

 付記)以上の指摘は,本ブログ内では2023年6月16日と17日に記述した文章で詳論していた。

 こういうことがあった。北朝鮮の諜報員が拉致あるいは誘拐した日本人の替え玉になりすまし,日本国内での諜報活動をした。だからここでは,「朝鮮」籍で北朝鮮を支持する「在日」朝鮮人に日本国籍を与えたらどうなるか,という懸念も生じるかもしれない。

 かといって,在日の朝鮮人が全員スパイになる可能性があると疑いだしたら,とんでもない過大評価の買いかぶり,あるいは「人をみたらドロボウ(スパイ)と思え」式の疑心暗鬼になる。それこそ,きりがない。

 そこまでいうならば,日本人全体に対しても同然であって,日本列島に住むすべての人びとも疑いの目でみなければいけない。実際,他国の諜報部員に協力する日本「国籍」人など,いくらでもいたのであるから。なんのためか? 金,女(男),イデオロギー,特定の正義感,そのほか欲求不満,et cetera ……。

 そういえばあるとき,この国のある首相が中国と外交するなかで相手がわの中国人女性通訳に惚れて〔気にいって〕しまい,国家機密の安全性保持を周囲に心配させるような危うい様相が発生したこともあった。日本では,国家の最高元首すらこの体たらくぶりである。まったくなってない……。似たような話は,ほかの国々でもときおり発覚する。

 c) もっとも,なんでも疑いだらけの社会になってしまったら,「壁に耳あり障子に目あり」というぐあいに,世の中:他人に対していつも,たがいに用心していなければならなくなる。

 ついこのあいだの,過去の日本にはたしか,そういう時代もあった。戦争をやっているときだったが。また,戦争の時代,アメリカでは日系人に対してどのような事態が起きたか。

 2001年の9・11事件以降,アメリカのイスラム〔アラブ〕系や韓国・朝鮮系の人たちに対する用心ぶりは,異様である。日本に留学している韓国人学生が研究のためアメリカに入国を申請しても,2か月以上も待たせるとかなんとかいって,つまるところ,入れてくれなかった事例もあった。

 日本に住む「朝鮮」籍の人たちがみな北朝鮮のスパイ要員だと夢想するのは,まったくの奇想天外である。ただ一般的に,どこかの〔日本人もふくむ〕誰かが北朝鮮のスパイになっている事実があるとの疑いそのものは,否定できない。

 北朝鮮による日本人拉致事件に関しては,特定の日本人からなる組織,あるいは個人としての日本人が協力している事例もあった。

 d) 筆者は結局,これまで佐藤勝巳がみせてきた立場の変転ぶりをしりえた者として,彼が生存中に再び,過去の見解を撤回するのではないかと懸念したこtもあった。

 この佐藤勝巳は,自分がやること・いうことを,その後の情勢変質に合わせてカメレオン的にかえるだけでなく,以前しめしていた考えをあとになって,十分反省したり再考したりすることもない人間であった。

 繰りかえしていうことになる。佐藤勝巳--すでに故人になっていたが,生きていた時期おける話のかぎりとして--は,現在(最後)の段階にいたっても,「在日韓国・朝鮮人」には「日本国籍を与えよ」といった提唱において,変化はなかったのか。
 

 ※-5 佐藤勝巳著『北朝鮮「恨」の核戦略』光文社,1993年

 a) 筆者の手元に,佐藤勝巳著『北朝鮮「恨」の核戦略』光文社,1993年があったので,もう一度これをひもといてみた。この本の第5章「誰も語らなかったコリア問題の本質- “上か下か” の価値観,虚栄心と「恨」の論理-」が興味深かった。

 佐藤勝巳は,北朝鮮〔朝鮮民主主義人民共和国〕の真実を語りうる者は,自分以外にはいないとまで感じさせる調子で,非常に傲慢な態度で記述をおこなっていた。ちなみに本書は,光文社の〈カッパ・ビジネス〉新書版の体裁をとって公表されている。

 基本的にいって佐藤の公表する書物は,学術的なものでないことはむろんであって,客観的な論説を試みたものでもなかった。それは,自身の政治的な運動の目標を合理化し,達成させるためのものであり,そしてなによりも,一般大衆に対してその思想・イデオロギーを宣伝するためのものである。

 b) 筆者にいわせてもらうと,佐藤勝巳が〔ここでは1993年までの話〕30数年も「在日もふくめて韓国・朝鮮(人)関連の問題」と付きあってこなければ,本書に書いてある程度の中身についてすら,実はまともに認識できなかった,ということらしかった。これは,本当に驚かねばならない体たらく:ダラシナサであった。

 佐藤はそんなにも浅薄な認識水準でもって,政治的な運動の対象として当該の問題にとりくんできたのか。それでは,その対象になったほうが堪らない。北朝鮮への帰国事業によって送還された在日朝鮮人たちは,まさしく佐藤の被害者だったといってよい。

 そういう現実があったとすれば佐藤はもともと,「現代コリア研究所」など設置する能力・資格をもたなかった,といえる。もちろん,佐藤が自分の浅学非才を反省しており,これを徹底的に是正するため「同研究所をつくり勉強してきた」というのであれば,その気持も多少は理解できないわけではない。

 それにしても佐藤勝巳は,お粗末な人生の軌跡を描いてきたものである。今年〔ここでは2003年時点の話〕で佐藤は74歳になるお方であった。なお,佐藤は2013年12月2日に他界した。

 c)『北朝鮮「恨」の核戦略』光文社,1993年,第5章内の各項目見出し〔の文句,以下では◆を付した文句〕は,「コリア問題」にかかわってきた佐藤勝巳に固有の,浅はかさ・迂闊さ・愚鈍さを,もののみごとに羅列している。

 なお,「⇒以下」は筆者のコメントである。

 ◆-1 北朝鮮に幻想を抱いていた時代。

 ⇒佐藤はいまとなって,自己のオボコ性,世間しらずが腹立たしくてしかたないようである。
 
 ◆-2 後悔やまぬ「帰国運動」に関与した体験。

 ⇒日本共産党路線に立っていた佐藤が日赤のお先棒かつぎ,つまり,在日朝鮮人をやっかい払いするための事業に熱心に協力したのだから,まことに罪つくりなことだった。悔やんでも悔やみきれないくらいひどい仕打ちを,北朝鮮へ送還する事業をとおして在日朝鮮人にくわえてきたのが,この人佐藤であった。

 ◆-3 〔19〕60年代と同じ過ちを繰りかえす日本社会党。

 ⇒同じ過ちを繰りかえしてきたのは,日本社会党(現社民党の前身)だけとはいえなかった。1990年代に北朝鮮を数度訪問し,この国に対してオベッカを振りまき,いい顔ばかりしてきた自民党〔使節団〕の有力議員たちもいたではないか。

 ◆-4 北のウソがみえてきた青瓦台事件。

 ⇒1968年1月21~22日に起きたこの事件〔北朝鮮から韓国に侵入した暗殺部隊が大統領官邸を襲撃した未遂事件〕がなければ,それまでは北朝鮮の本質がまともにみえていなかったという,まことに非力で,やぶにらみでもあった「関係筋」の専門的運動屋の観察眼が情けない。

 ◆-5「文化大革命」と日中国交は,国家の無定見を露わにした。

 ⇒国家の無定見はなにも中国の専売特許ではない。それでは,日本がその中国を完璧にみくだせるほど立派な定見をもちつづけてきた国といえるか。イギリスだって,フランスだって,ソ連だって,アメリカだってみな,同じような無定見=政治的無謀を犯してきたではないか。2003年3月イラクを攻撃しはじめたアメリカ帝国の無茶苦茶は,その好例である。

 ◆-6 “ 地上の楽園” から「チリ紙,歯磨き粉を送れ」と頼む手紙。

 ⇒そこ,“地上の地獄” へ在日朝鮮人を一生懸命に送りこんだのは誰だったか。アナタ,佐藤勝巳である。ともかく佐藤は,北朝鮮に移住してから悲惨な生活をはじめた在日朝鮮人たちに向けに「救援物資」を送ったことはないのだろうか。いきがかり上,あなたもそういう事後の責任を相当負っているように思えたのだが。

 ◆-7 植民地支配の負い目が,南北をみる目を曇らせる。

 ⇒この指摘は外れていた。むしろ,日帝時代における植民地時代を負い目に感じてきた日本人・日本民族のほうが少数派なのであるから……。しかも最近は,その負い目もなにもあったものではなくなっている疑似極右的なネット風の脳細胞の持主が増殖している。

 例のブルーリボンバッジは,そのもっとも代表的な小道具であった。このバッジさえ上着にブラ避けておけば,過去の日本が隣国を植民地しておこなった無数の暴虐など,すべて帳消しにできるという寸法であった。たいしたお守り的な効用が期待できたのが,このバッジなのであった。
 
 ◆-8 偉い人に丁重,実務者に冷淡な朝鮮赤十字団長から学んだもの。

 ⇒これについては,下記(次項)で併せて説明することにしたい。

 ◆-9 世界で衝突を起こす “上か下か” の価値観。

 ⇒日本社会では上下関係の秩序・価値観はないのか。あちこちでまだやっているのではないか。やくざ組織,体育会系クラブをはじめ,会社企業のなかではその典型が現象している。官尊民卑の風潮もまだまだである。

 安倍晋三の第2次政権の時期においては,その上下の価値観はいかように現象していたか。上から下までアベのあの政権は,この国の民主政を破壊してきた「成果」しか挙げえていなかった。2010年代を経て,この日本国の政治も経済も社会も非一流化,つまり先進国落ちを確定的にした。

 彼我〔北朝鮮と日本のこと〕において,どこがどういうふうに決定的に違いうるといえるのか。自国の酷似した政治的な諸問題を棚上げして論じるや思考回路は,視野狭窄ならびに短絡経路をうかがわせる。

 また,最近の子どもたちの「上・下感覚」の喪失・混乱は,また別問題として,深刻な重要な社会問題でもあるから,ひとます指摘のみ……。
 
 ◆-10 金 日成の「現地指導」と酷似する金 泳三の威張りかた

 ⇒先日〔といってもすでに20年前の話題だが〕,責任をとって辞職した埼玉県土屋知事も,埼玉県=「彩の国」では自分の王国のように振るまってきた。日本では,いばらない政治家のほうが主流だと断言できる証拠でもあるのか。日本の国会ではやたら声ばかり張りあげるばかりで,実際にはたいしたことをやらなかったK首相よりは,金〔韓国〕大統領のほうがいくらかましだったのでは?

 補注)この◆-10の話題は分かりにくいので,つぎの記事を参照されたい。当時,各紙が報道していたが,ここでは『しんぶん赤旗』2003年7月12日掲載の記事を挙げておく。

 ◆-11 いつでも日本より上でありたい,南北の虚栄心と苛立ち。

 ⇒日本とて,いつでも南北〔韓国と北朝鮮〕より上でありたいと思っているのではないか。国際政治の世界は「猿の世界」と似ている面もある。

 補注)北朝鮮は格が違いお話にもなりえないが,社会経済面では最近,つぎのような比較が必らず,なされるようになった。しかし,時々,韓国だけは外す比較表がよく登場する。

 以下の2表は,上が連合,下が『ダイヤモンド online』から借りた賃金の国際比較である。なお,G7とはカナダ,フランス,ドイツ,イタリア,日本,イギリス,アメリカのことである。

この図表にはG7のうちカナダは比較されていない
日本はいつの間にか低賃銀の国になっていた

 ◆-12 日韓両国での特権的選挙権を要求する在日韓国人の意識。

 ⇒この論点は本文で論じたごとく,佐藤の倒錯した論理であり,話にならない「いいがかり」的誤謬。最近,韓国は「二重国籍で在住する外国籍の人びと」に対して,国内において自国国籍〔韓国籍ではない〕の勝手な〔抜け駆け的な〕利用は許さないという方針を打ち出していた。

 「日韓両国での特権的選挙権の要求」というのは,まるで「幽霊の正体見たり枯れ尾花」に似ていた。在日韓国籍人が以前,地方参政権を与えよと日本政府や地方自治体に要求した事情を,もっと歴史的な経緯に即して議論すべきところを,これを「特権的選挙権」と誇大に形容したかった佐藤勝巳の発言は,もっぱら扇動を目的にする語り方に終始していた。
 
 ◆-13 金丸〔信〕-海部〔俊樹〕に「謝罪」させた北朝鮮,もはや日本の兄貴分?

 ⇒日帝時代の朝鮮支配を悪いなどと思ってもいない日本の政治家もたくさんいるのだから,北朝鮮に対してそのことを「謝罪」することなど滅相もないというわけか。そのまえに北朝鮮は,例のブルーリボンバッジを「葵の紋章」と同等視する『家族会』や『救う会』の価値観を認めよ,とでもいいたいのであった。

 ◆-14 “恨” はあっても勝ち目のない中国には謝罪要求せず。

 ⇒それでは日本は,民主制的世界帝国主義のアメリカ合衆国:親分にまともに口をきいてきたことがあったか。昔もいまも,U. S. A. のいいなり。もちろん,1945年8月15日以降の話となるが,こちらの事実は棚上げしたまま,隣人の顔についている目くそ・鼻くそに向かい,その汚らしさを大声で指摘・強調するがごとき言動は聞き苦しい。

 ◆-15 50年後の価値観で歴史を裁く,従軍慰安婦の非論理。

 ⇒従軍慰安婦は戦争の時代に必然だったから,問題なしとする理屈が不可解である。1993年以降もこの問題は大いに関心をよび,日本社会を騒がせてきた論点でもあることは,周知のとおりである。それとも絶対にいつまでも目を覆っておきたい問題なのか。

 日本では敗戦後の一時期,関係方面の協力をえて,一挙に特殊慰安施設協会(RAA;Recreation and Amusement Association)という,連合国軍兵士向けの「慰安所」が設営され,実際に運営されていた。これには日本政府の支援がなされていた。

 ◆-16 矛盾する証言,韓国政府を無視する賠償要求。

 日帝植民地時代について北朝鮮は当然,日本に対してそれなりの賠償責任を請求できる立場にある。韓国政府との関連する問題点はさておいても,実質的な問題としてみるとき,それを交渉する立場が北朝鮮側にありえないわけがない。

 日本と北朝鮮とのあいだで,2002年9月17日に交わされた「日朝平壤宣言」を指摘するまでもないが,日本は賠償問題に対しては,真正面より応えなくてもよい方向性が出ていた。韓国政府に対しておこなったのと同じように,「経済援助」名目での妥協的な賠償をすることにとりきめがなされたからである。

 ただし,その後における日朝関係は,佐藤勝巳が強力に応援している「北朝鮮による日本人拉致問題」に関したその後の交渉で完全にもつれてしまい,ゆきづまった。膠着状態のまま今日まで推移するほかない基因を提供した。

 もっとも,日本人拉致被害者のとりあつかいに限定していえば,日朝間のやりとりに関して問題をこじらせる根本の原因は,日本政府が最初に作ったたのである。

 日朝間では当初,拉致被害者5名が日本に〔一時〕帰国するかたちでの約束があった。だが,日本政府がそれを反故にした。日本政府関係者はこの事実については口を濁しているが,明確にあった約束であった。

 どれほど気に入らない当初の約束事であっても,それを破れば外交としての拉致問題の進捗に支障が出るのは,分かりきった話であった。北朝鮮側は約束どおりきちんと戻ってくると自信を抱いていたその拉致被害者5名を,当時,日本に送りこんできた。

 しかし,北朝鮮に戻ることはなかったその5名のうち蓮池 薫の問題ついて,本ブログは,つぎの記述で関説していた。ともかく,その後における両国間のの交渉はゆきづまった。

 本日のこの記述も長くなっているゆえ,ひとまずここで,いったん終わりにしておきたい。

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