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言葉の額縁

はじめ

 感情を言葉にするのは酷く複雑な作業であると私は思っている。2023年の1月頃からこのnoteに私の感情やらエゴやらなんやらを書き連ねるようになったが、公開されているのも本当にほんの一部に過ぎなく、未公開の、書き途中の散らかったぼやきや叫び、泣き言がうんと眠っている。形のない曖昧な感情を、私が感じているニュアンスを他人に伝えるとすると酷く時間がかかり、そのうちに飽きてしまったり、別の感情を書いてみたりで気づいたら塵で小さな山をつくってしまった。そんな山のような保存リストを眺めていると、下書きにすら留めるのをやめてしまった題材があったことをふと思い出した。

好きの言語化

 私は映画やアニメや音楽などの作品だったり、好きなキャラクターに対して、なんで好きなのか、なんで良いと思ったのか、何に感動したのかなど、理由を明確にせずにいた。まあ、好きとか直感的な感情で十分では?それを言葉にする、誰かに伝える義理も無いしな、と考えていた。ただこちら10年来のツイ廃、Twitterをプラットフォームにして生きている以上、人の考えや感情を文字にして見る機会が非常に多いし、言葉にすることで価値を見出される。オタクコミュニティを作れば、希薄なはずのインターネットで疎外感を少しばかり感じていて、何度もコミュニティに入っては出て入っては出てを繰り返していた。最後にコミュニティを離れて3年ほど経った頃、Vtuberにハマるのだが、私のハマったVtuberたちは特に言語化が上手かった。言語能力の高さに感心したし、何より数年前の私と変わって言語化に“面白そう”という感情が芽生えてていて、それからこのnoteを開設して、現在に至る。

私の自慢“家長むぎ”

 私の好きなVtuberのひとりに、にじさんじ所属の家長むぎという方がいる。2018年デビューとにじさんじでもVtuber全体でも古株の彼女は主に雑談や単発ゲーム、Study With Me(=勉強配信、一定の時間設けて一緒に勉強や作業などする)配信を行っている。知識への探究心の強い彼女は美術への造詣が深く、クイズが得意で、マリオカートはジャイロ使いで、めしょ〜と鳴き、字は凛々しく柔らかく綺麗で、動画も作れる、可愛く聡明でセンス抜群の憧れるというか尊敬できる存在である。そんな彼女に惹かれたきっかけは実は配信ではなく、インスタグラムであった。彼女は時折インスタのストーリーで質問募集を行なっているのだが、彼女の聡明さ故か、結構深いお悩み相談が多い。恋について、進路について、人生について。人に相談するには重いし、答える側もだいぶ気を使うだろうと思うような質問も散見するが、それもまたインターネットの希薄さへの信頼故の質であろう。そんな質問者からの繊細な心に彼女は、質問者に対してもこの回答を見てる第三者に対しても、自分がある程度影響力があると理解したうえで配慮した丁寧な考えと言葉選びをするのだ。その冷静で聡明なところに感心し、今では彼女の活動を毎日楽しみにしている。おすすめの動画を何本か置いとくのでよかったら自慢の推し家長むぎを見ていただきたい。

にじさんじの公式番組「にじクイ」への出演。普段から勉学を励んでいると知っているからこそ、嬉しかった。普段家長を見ない層も多くいただろうから、その層含めみんなに、どうだ私の自慢の推しは!かっこいいだろ!可愛いだろ!と叫んでやりたくなった。

特に美術に造詣が深い家長むぎ。他の配信でも最近行った美術展や、印象派についてなど美術についての周知をしてくれるが改めて美術館ガイドを出してくれた。見やすいし私も参考にしているのでおすすめ。

聡明な彼女も好きだがやっぱりハピトリ(にじさんじの元2期生剣持刀也、伏見ガク、夕陽リリ、家長むぎによるグループ)でわちゃわちゃしている家長むぎも良い。暴言や断末魔も鳴き声(めしょ〜)も忘れてはならない…。

小説「夜なく蝉たち」を読んで

 さて、ここからが本題なのだが、彼女は2022年夏、一つのnoteを公開した。「夜なく蝉たち」。どこか空虚な2人のひと夏を描いた物語。彼女が長い時間執筆に費やし、ひとつの夢がかたちになった瞬間の喜びを私たちに共有してくれたことをよく覚えている。今は下書きに眠らせているらしいが、いつかまた表に出してくれたときは是非読んでほしい。
 私が読んだ感想としては、生ぬるく青く薄暗い湿度が私好みだったし、鏡の中のケーキを食べているような満足感/非満足感がよかった。
 酷く抽象的であるが、ここまでの感想ならまだどこの媒体でも伝えらる。しかし、彼女がかけた時間と膨大な言葉、ファンの方々の感想を読んでいると、私も膨大な言葉で詳細な感想を伝えたい、と少し思ったのだ。詳細な感想なんて書いたことなかったから、すごく言葉に迷いながらも少しずつ掬い上げ書き進めていた。

 例えば、食事のシーン。この物語において私は、食事は孤独の象徴のようだと感じた。大前提、食事はコミュニケーションツールのひとつである。“同じ釜の飯を食う”という言葉は、同じサークルにいるもの同士が同じものを食べることによって帰属意識を育む、またそれを強化することを意味する。一緒に食事を取るということは見えないところで意思疎通を生むのである。学生の頃給食を班で食べたり、社会人になって鬱々と参加する懇親会で酒を飲んだり、進撃の巨人でハンジやマガト隊長らが焚き火を囲ってスープを食べたりするのは、コミュニケーションを目的とした“共食”であるのだ。そして、「夜なく蝉たち」でも何度か登場する食事シーン。その中でも蛍と母親、倫と姉との食事はとてつもなくもどかしかった。どんなに同じ時を共にし、どんなに言葉を交わそうとも、彼らの元にあった溝は埋まらない。おそらく彼らも彼女らも食事の力を借りながら一瞬でも希望を持ちたかったのかもしれない。しかしそれは歩み寄りというかたちでは叶わず、でもどこか自分や相手を確かめられた瞬間のように感じた。共食といえども必ずしも真っ直ぐ機能するとは限らない。それもこの小説、彼らの境遇含めた複雑な現実性なのだろう。

言語化と葛藤

 というような感想をつらつら用意したかったのだが、心半ばに諦めてしまった。というのも根拠づけされたまるで現代文のテストのような感想に違和感を覚え、自分の言葉で自分の感情に制限されたように感じたからだ。人の感情に共感できることと文章が読めることは大いに違う。ということに実はつい最近まで気が付いてなかったし、なんなら今もよくはわかってないが、ただ、根拠と結びついたものが、本当に必要なのか?という疑問が書けば書くほど湧いてくるのだ。型にはまった感想だけが、いやもっと言えば言語化された感想だけが感想とみなされ、繊細な感想が取りこぼされていく。これを書き進めていけば、私はこの作品に対して一面的な見方しかできなくなってしまうのではないか、私=このかたちの印象の作品として認識している人になってしまうのではないか、感性の自由を奪われてしまうんじゃないかと考えたのだ。
 そして、根拠に基づいた感想はどこか浅はかではないだろうか、とも思う。先にも述べたが、人の感情に共感できることと文章が読めることは全くの別物だ。文章を読むことはただの仕組みである。大学受験の現代文もこの文章と対になるものは?どこからが反対意見?例は省いて根管はどこ?と、文章に現れる事実を探す。その方が述べるのに丁度いい“都合のいい解釈”、“問題として最適な解釈”、“個人差の少ない解釈”になるのだ。だから私の根拠に基づいた正解は答えを導き出すための感想であり、そこに何の同感も共感もない。それを人に見せつける押し付けるなんて到底できなかった。
 加えて、こんなに根拠をつけて感想立てても作者が意図してないものだったらどうしよう?とも考えてしまう。この根拠だって私の見聞したものや主観から立てたものだし、作者はそこまで意図してないかもしれない。もし、意図してなくてもあなたがそう感じ取ったならそれはあなたの感想だ、と思うし私が感想を受け取る側だったらそう言うだろうし、彼女も頭の回る人だ、無理解とはならないと思う。だけどその主観を彼女に、誰かに送りつけるのは少し傲った部分がないだろうか?と私が私に囁くのだ。
 これらの結果、書き上げることも誰かの感想を覗くことすらやめて、自分の言葉に責任を持てず下書きを消したのだ。

さいごに

 正直書き上げてみたものの、いつも以上に公開に勇気がいるような気がする。結局のところやはり無理に言語化する必要がないように思ってしまったからだ。胸の内にしまっていれば良い。でも、どこかで私はその小説を読んで、何かを感じたと言う証が欲しくて今こう至っているのかもしれない。けどよく考えれば、今言語化で葛藤を繰り返しているが、その葛藤を言葉で表現しているのもまたおもしろい現象だ。それは私が詳細に出力できるフォーマットがたまたま言語かつ書面であったから仕方がないのだ、というのはまたいつか別のブログで書きたい題材。温めておきます。

 初めて目次をつけた長いブログ。ここまで読んでくれたひとはありがとう。オタクの自慢話と勝手な葛藤に付き合ってくれてありがとう。こんな形ではあるが、1年半越しに感想を話せて良かった。

 そして、家長むぎへ。Vtuberで活動してくれてありがとう。続けてくれてありがとう。貴方の素敵な活躍が言葉が考えが、ひとりでも多くの人に伝わりますように。そして貴方の夢が叶う日を私はいつまでも待っています。𝑩𝑰𝑮 𝑳𝑶𝑽𝑬______

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