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孤独者の存在論

ここに苦悩する存在がある。

存在は――自らの内に押し寄せて来る、自分を圧迫する感情の適切な処理が出来ない。しかし、閉じている世界では手を差し伸べる存在は無い。自分は一人ぼっちで、いてもいなくても良い存在だと思い込んでいる。むしろ、いないほうが周りのためになると思っている。自分のことなのに、自分のことをうまく言えない。自分が邪魔な存在であると信じ、そのまま深く沈潜する。暗闇の中で、この静寂だけが自分を包んでくれる。何も無く、ただひたすら静かに時間だけが過ぎて、遮る物も無い。幻滅されること、疎まれることを恐れる必要も無い。自分を悲しませたり、苦しませることも無い。自らの存在が内側から消滅しようとしている――。

世界を分節する単位が複雑化したために、存在も小分けにされ、繋がりが意識されづらくなっている。役割は多様化しているが、それらの多くが取り換え可能であり、失われればすぐに代わりが「補充」される。簡単で便利になるということは、存在自体も軽くなるということだ。

自分の代わりがいくらでもいる世界では、当然自己の存在の意味について考えるようになる。あるいは、代わりが来るまでの間ひたすらに自己の役割を全うしようとする。

しかし、「存在」は繋がっている。それは精神的なことだけをいうのではなく、具体的にその人が「いる」ということが、連鎖しているということである。つまり、もしその人が「孤独」だったとしても、その人が存在している限り、存在の連鎖の中には必ず「いる」ということである。自分の身の周りから「孤立」していたとしても、「存在」としての繋がりは、絶えず自分の傍らにあるということである。

なぜ自分が存在しているのかと問えば、それは祖先が存在していたからである。自分の今の具体的な生活は、祖先の生活から繋がっているのである。確実に存在しているということは、根拠があるということである。単純に裏返すと、偶然に存在しているということがもしあるとすれば、それは根拠がないということであり、つまり空虚、中身が無く、明確に存在していないということを示す。

根拠がないということは、曖昧ということである。今あなたがこの文章を読んでいるときの、その眼の動きは、曖昧なことだろうか。そうではなく、あなたは自分の眼が動いていることを確信しているはずである。つまり、あなたは確かに存在し、存在の連鎖の中に位置している。

あなたの眼が動いているという事実は、あなたの祖先が存在していないと成り立つはずは無い。これは紛れもなく存在が切り離されたものではなく、連鎖していることを表している。

存在の精神の繋がりにも同じことを考えることができる。神学者のトマス・アクィナスは、「神の存在証明」について次のように述べた。一人の精神は、自然発生的に生じるのではない。それは連鎖であり、元は母体に存在しているとき、母親との繋がりの中で与えられ、受け継がれたものである。それは母親も同様である。その連鎖を延々と遡っていくと、必ず最初に精神を授けた一点に辿り着く。それは神であると。

おそらく人は、苦悩する時、このような壮大な繋がりが、目に入らなくなってくる。苦悩することは自己と向き合うことであり、必然的に世界を閉じる。だから自分が何にも繋がっていないように感じる。

存在が個別化され、代わりがいくらでもいる。また、身近な人間関係も軽薄になりがちであり、必然的に一人でいる時間が増えることは、余計に閉じた世界の時間を増やし、本当は繋がっているにも関わらず、自分は一人ぼっちなのだという思い込みを強くさせる。

誰からも必要とされない自分、代わりがいくらでもいる自分、そんな自分に、存在する意味はあるのか、どうしても考えてしまいがちであり、実際「存在」の中身に意味は無いのかもしれない。

しかし、「存在」自体には確かに意味があると考えるべきだ。それは必然的な「存在」であり、繋がりの中に位置しているのだ。つまり、大局的な見方をすれば、「存在」の居場所が無いということは、決して無いということだ。

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