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曾祖母の一周忌に行って

 先日、曾祖母の一周忌に行ってきた。出身も、嫁ぎ先も岡山だった曾祖母の法事は、岡山で行われており、一周忌もそうだった。嫁ぎ先の家が日蓮宗の檀家だったので、日蓮宗の方法で行われた。
 
 通夜なしで、葬式と初七日が一度に行われたが、その時に、僕は参加した。豪雪のために、四十九日には参加できなかった。三周忌からは、曾祖母の子の世代の人たちのみが法事に参加するとのことであり、僕が曾祖母の法事に参加するのは、今回が最後だった。

 また、四十九日に、墓に曾祖母の骨壺を収めることになっていたが、行くことができなかったため、曾祖母の嫁ぎ先の家の墓所や、曾祖母の墓に行くのは、今回が初めてで、また、最後になりそうだった。

 僕は母の運転する車で、兄と祖母とともに、一周忌のある前日に、岡山に向かった。祖父を合わせて、僕は五人で生活しているのだが、祖父は、当日入りするため、別行動をとった。車の中で、祖母と雑談していたが、曽祖母の話も出た。

祖母「おおばあ(曽祖母)は賢かったから、大学(御茶ノ水大学、当時は、女子向けの師範学校か)、特待生で、学費免除だったのよ」

僕「へぇ、すごいね」

祖母「まぁ、生活費はかかっただろうけど。卒業してから、東京で一度、先生(キリスト教系の女学校の先生)やってたでしょ?」

僕「そうだったね」

祖母「あれ、特待生で、都からお金をもらってたから、都で奉職しなくちゃいけなくて、三年間だったか、働いててね」

僕「うん」

祖母「それから、お姉さん(曽祖母の姉)の知り合いが岡山で学校に勤めてて、その縁で、岡山に帰って、また、先生やって。結婚したのは、岡山戻ってからだった気がするけど」

僕「先生って、中学?高校?」

祖母「高校。女学校でね、理科系の科目を教えてた。まぁ、おおばあは熱心でね。放課後も学生たちを教えてて、家にも、生徒たちを招いて」

僕「うん」

祖母「勉強会しててね。今からこの部屋に入っちゃダメよって。だけど、終わったら、お姉ちゃんたちに遊んでもらえたから、楽しかったわ」

 それから、話題がそれて、曽祖母の話は終わった。多少、ここで、故人を思って、述懐を挟ませてもらう。

 曽祖母は天才だった。源氏との戦いで、西方に逃れてきた平家のうち、岡山の奥地に潜んだ者がいて、それが、ひっそりと家を存続させていたのだが、曽祖母の出自は、その、伝統ある家であり、血筋や家筋の申し分ないサラブレットだった。

 曾祖母の天才は、学問全般から運動全般、そして、対人スキルまでに及んでいたそうだ。

 例えば、学問では、ほとんど常時学年一位を独占し、先に話題に出た通り、御茶ノ水女子大学に特待生で入学するレベル。運動では、どんな競技も一等で、大学では、体育教師の免許をとるよう、説得されるレベルだったそうだ。

 ただ、曽祖母の時代、旧帝大は女子に門戸を閉ざしていた。曽祖母は、後年、東京大学に入学できなかったことを悔しがっていた。大学時代、友人たちとともに、東京大学の男子たちよりも、私たちの方が優秀に決まっていると、よく話していたそうだ。

 これは、具体的には、曽祖母は理学部に入っていたので、実験施設や機械の差として現れ、研究者への道の有無にも関係があった。

 対人スキルでは、中学生に対して、高校をプレゼンするイベントがあったみたいで、その時、一番盛り上がっていたのが、曽祖母のプレゼンだったらしい。また、曽祖母は高校生の就職交渉に強く、成功率はほぼ百%。化け物と称するほかない。

 曾祖母は人柄も優れていた。おっとりしていて、マイペース。多少、時間にルーズで、手先が不器用。そして、人に何かをしてあげることに無上の喜びを感じるために、ワーカホリックで、よく時間の隙を見ては居眠りをする人だった。

 僕が直接、曽祖母と関わっていた時と変わらない。曽祖母の人柄は生涯を通じて一貫している。

 曾祖母の大学時代や生涯について、多少憤慨する所があるとすれば、曽祖母が男子だったら、社会を革新する一廉の人物になっていただろう、と、祖父が残念がっていた所にある。やはり性別によって、個人の可能性が制限を受ける社会は間違っている。

 僕たち四人が法事の前日に岡山に向かったのは、法事が朝早くに行われるために、朝の移動がしんどいからだった。ただ、ついでにと、僕たちは空いた時間を使って、観光をすることにしていて、姫路城と岡山城、二つの城を巡った。

 姫路城は圧巻で、岡山城を後に見たので、少し岡山城は見劣りしたが、どちらも良かった。

 姫路城は保存にも、娯楽性にも力を入れていた。娯楽性については、城に動物園や子どもが遊ぶ遊園地があったことに驚いた。保存については、素晴らしいとしか言いようがなく、解説を加えて、城がどんな建物で、どんな作りなのかがよく分かったのが良かった。

 岡山城は、保存(再現を含めた)も、娯楽性も低いものだったが、天守閣の中の資料館はしっかりとしていた。限られた予算の中で、どのように城を保存し、残していくのか考えられていたように思う。岡山城の歴史を知れたのは良かった。

 城の話はまた今度にしよう。僕たちは城めぐりを終えて、途中、祖母と別れ、バラ寿司を食べた後、宿に泊まった。

 翌日、日蓮宗のお寺に向かった。寺に着き、控室に向かうと、一周忌に参加するほとんどの親類が集まっていた。曽祖母の法事なので、祖母と母の世代の、年配の方々が多かった。僕と兄、それから、まだ学生の女の子たち二人だけが、世代が違った。

 早速、控室から仏間に移動し、用意してあった腰の低いイスに座り、お経を唱えてもらった。大仰な仏壇や仏具、装飾や供物を見やり、華美に過ぎるような気がした。でも、亡くなった人を少しでも盛大に弔ってやりたい人の気持ちが、華美さの動機と思えば、悪いとも思えなかった。

 お経が始まる前に、仏壇の真正面に降ろされていたスクリーンが上がった。スクリーンの後ろから荒々しく字が書かれた掛け軸が現れた。見れば、仏壇に仏像はない。そして、次々に、供養のためのお経が書かれた冊子が配られた。

 そして、冊子のほとんど全部を読み上げる一時間ほどのお経が始まった。僕は意味を解さぬ冊子の文章が独特の声調で読み上げられ続けるのに集中できず、最近、筋肉や脂肪が衰えたせいで痛くなりがちなお尻や腰が気になり始めた。また、外をチラチラと眺めやり、時間を潰した。

 焼香を上げに、次々に人が前に行き、焼香を上げた。僕も周りの人に合わせて、焼香を上げ、元の自分の席に戻った。

 本当に長かった。もともと華厳経の供養のお経は長いらしく、時代のニーズに合わせて(忙しない現代人たちのニーズ)、短くした方だったらしいが、本当に長かった。こないだは、葬式と初七日を一気にやったので、もっと長かったが。

 お経の内容は、一切衆生を苦しみから救うとの発願をした菩薩の宣誓から始まる。大事なのは、如来と法華経と日蓮。それらに対して願を立て、法華経を通して真理の世界に入っていく。

 真理の世界で様々な偉人たちと対話する中で、真理に至る道を知り、真理とは何かを悟り、やがて菩薩は悟りに至る。この際、悟りのレベルに応じて名称が変更されて行く。

 そして、悟りに至った菩薩は最初の発願を叶えるとの意気を新たにする。供養のためのお経であることを考えるに、マァ、死んじまった人に悟りを施して、「苦しみなく夢心地で過ごしてや」、って、話なのだと思う。

 いや、ホンマのホンマに知らんけど。

 ただ、日蓮宗が法華経、経典をとても大事にしているのは分かった。信仰する上で、如来、日蓮、法華経を大事としているけど、法華経を大事にする加減は、他、二者を抜いている気がした。

 僕の祖父は両親の供養を浄土真宗に任せている。祖父の家の本元は、確か、関東で、農家らしいから、祖父の家が何を信仰していたかは、実際の所、不明だ。ただ、浄土真宗は仏壇に仏像を置くし、唱えるお経は日蓮宗と比べてとても短い。

 それに、唱える題目が、南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏とで異なる。つまり、「南無」は「~に帰依する」を意味するので、帰依する対象が「妙法蓮華経」と「阿弥陀仏」とで異なる。言葉に力を持たせるのか、聖人に力を持たせるのか。どちらにせよ、永遠の平安をどこに求めるのかだろう。

 仏教を学ばなければならない。日本に生まれ育った思想屋として。そして、僕にはもっと大切な理由があるから。

 お経が終わって、お坊さんの法話が始まった。曽祖母の長生きがすごいとか、家の断絶が多いとか、昔は、近くに住んでいるのは顔見知りばかり、親類ばかりだったけど、今は違うとか。

 最後は家族が頼りだから、血縁は大切にとか、結婚して、配偶者や子どもがいると、老後は安心だとか、今は、自由で開かれた社会で、性別に関係なく、頑張れば、国際的に活躍できる時代だとか。

 僕は話を聞きながら、苦笑していた。冷笑さえしていた。

 法話が終わって、墓所に向かった。その前に、母が女の子二人を連れてきた親類の叔母に話しかけて、子どもについて尋ねていた。墓所へと移動する車の中で、母は叔母の対応に抱いた違和感を吐露していた。

母「子ども2人の名前を聴いてるのに、賢い、賢いって。ちょっとおかしいと思う。やっぱりあの子(叔母のこと)変わってる」

祖母「そうよね。賢い、賢いって、賢いだけが人の取柄でもないでしょうに。昔っから、あの子(同上)はねぇ」

祖父「そう言ってやって、子どもを発奮しようとしてるんじゃないのか?いいことじゃないか」

 僕は喉元にとげが刺さったような感じになった。そのとげが何なのかはすぐには分からなかった。

 墓所に近づいてくると、祖母が昔のことを語り始めた。

祖母「この辺りに、昔、住んでいたんだけど、引っ越してね。ああ、あそこの池。あの池でよく遊んだ」

 入り組んだ道を抜けた先に見えてきたちょっとした池を、祖母は指さしながら説明してくれた。

祖母「でも、ほら、こんな囲われて、ブラックバスも放たれて、汚くなってね。昔みたいに遊べなくなって。でも、昔は川や池で、よく子どもが死んでたからね」

 祖母は懐かしそうな表情をしていた。僕はそれを聴きながら、何とも言えない気持ちになった。

 小さな村が見えてきた。自動車を空き地に止めて、外に出ると、よく晴れていて、日差しがきつかった。岡山は晴れの国とよばれるほど、晴れの日が多い県だ。祖母が遊んだ池も、降水量が少なく、日照る日が多いから、ため池として人工的に作られたものだった。

 自動車から外に出て、大名行列の如く、墓所に向かって、皆で歩いて行った。墓所はこじんまりとした様子で、墓石は多くなかった。

 墓所は森と村の境にある、少し盛り上がった場所の斜面にあった。墓碑銘を見ると、どれもこれも、曽祖母の嫁ぎ先の家名ばかりが書かれていた。墓石を順に見て行くと、古いものが多くあって、墓石は風化作用を受け、かつは、苔が表面を覆っていた。

 そして、南無妙法蓮華経と書かれているものも見つけた。

 墓所全体が森の木々によって、太陽の光を遮られて、ひんやりと静かな様子だった。そこが、村の中で、特異な場所として措定され、つまり、<他界>の場所として、村の人たちは、そこでの行為を特定し、故人や祖先を弔ってきたのだ。

 曾祖母の嫁ぎ先の家の墓に着くと、墓石が幾つか建てられていて、新しめの墓石の墓碑に、新しく彫られた曽祖母の名前があった。長々とした戒名も書かれていた。曽祖母は本当に亡くなったのだなと思った。だけど、もはや悲しさはなかった。

 墓石の開閉部分を開けて、新たに納めるべきものを納めた後、皆で線香をあげ、何故かお経が読める祖母の弟、家の長男にあたる大叔父が、日蓮宗の供養のためのお経の一部を読みあげた。皆、悲しげな様子はなく、和気あいあいとしていた。

 僕はぼんやりとしていた。何をやっているんだろうとふと思った。こんなことに意味はないような気がした。

 近くを眺め渡すと、無縁仏となった墓が幾つかあった。手入れされず、植物が繁茂し放題で、墓石は丸みを帯び、ざらざらになっていて、字が読みづらく、やはり苔が表面を覆っていた。僕はそれを見て、何だかざわついた気持ちになった。

 家があったこと。家があって、誰かが死んで、日蓮宗のやり方で、弔いをやったこと。弔う人たちと弔われる人がいて、それを、手伝った人たちや宗教があったこと。それが、何代かに渡り、墓や弔いの儀式が受け継がれ、そして、忘れ去られたか、家自体が亡くなってしまったこと。

 どこか切なかった。切なくて、やりきれなかった。

 墓所を後にした。後ろ脚が引っ張られることもなく、軽快に、その斜面から降りた。僕はもう家に帰りたかった。帰って、休んで、誰に言われるでもなく、僕が僕に課した、他人にとってはどうでもいい仕事を、幾らかでもこなしたかった。それだけだった。

 昼食の会場に移動して、僕と兄は下座の端に座っていた。他の人たちはめいめいに盛り上がっていたが、僕らはしんとしていた。黙々と、見た目がよく、新しさのある、しかし、味があまり良いとは言えない料理の数々を口にしていた。

 僕はぼんやりと考えていた。

 お坊さんの話を思い出し、お坊さんに世代を感じた。普段、祖父との会話で聴くことと同じで、何ら新しさも、ありがたさも感じなかった。人間の世界観は個人の現実や時代性に強く制約を受ける。僕も年を取れば、時代遅れの化石扱いになるだろう。でも、あまりにも滑稽だった。

 だって、あなたたちの世代がそれを望んだのだろう?ナァ、お坊さん、爺さん、婆さん。それに、叔父さん、叔母さん、母さん。

 伝統もない、信仰もない、地縁もなく、血縁もない、不便と自然とを友としない、個人がしきたりやしがらみから離れて、個人が自分の可能性を自由に実現できる、安心安全で、物質的に豊かで、均質的な都市ー郊外空間がどこまでも拡張された、便益とシステムに囚われた日本社会を。

 個人はポツンと何ものからも切り離され、圧倒的な孤独の中、生きていくための内発的な動機の、集合的な知恵の、道徳的な感覚の、充実(生きがい)の土壌を失っているのに、可能性と自由だけが無制限であり、かつは、個人の境遇が能力と努力に帰属される日本社会を、だ。

 ナァ、この空っぽをどうしてくれる?

 フィリピンの刑務所に実行役の男たちがいて、協力者を作り、スマホを使い、SNSを駆使して、闇バイトを募集、日本の若者を釣って、日本各地で、強盗傷害事件を席巻した例の事件を思い出す。あの時、相当、日本の若者が叩かれた。

 あの事件。国際化が進み、インターネットが普及し、若者に道徳観がなくなり、ネットリテラシーが身についていない結果との見立てがあるが、それは、表層的な理解だ。あれは、日本社会が何を目指し、今、どの地点にいるのかの写し絵だ。

 僕は少くなからず憤慨した。

 自分たちで葬ったものに哀惜を残しつつ、かと思えば、そのデメリットを克服してきたのだと語り、下の世代には、自分たちで葬ったもののメリットを忘れて、ほら、物質的に豊かで、個人が自由に活躍できる、切り開かれた社会を作ってやったのだから、お前たちも頑張れとほざく。

 冗談じゃない。

 会場では、親類の叔父が祖父に、最近立ち上げたスタートアップ企業について熱心に語り掛けたり、別の叔父の、まだ小さな息子たちに、例の叔母が可愛い、可愛いと、何度も呪文のように唱えたりしていた。お経を唱えていた大叔父も、自分の経験に照らしたヘタな人生訓をつらつら述べていた。

 どうでもいい。全て、どうでもいい。

 昼食が終わって、解散の運びとなった。僕は母の車で、兄と祖父と一緒に家へ帰ることに。祖母は岡山にもう一泊して、家に帰るらしく、そこから、別行動をすることになった。帰りの車では疲れていて、ほとんどぼーっとしていた。

 その途中で、やっぱり誰も曽祖母のことなんて話してなかったなと思った。曽祖母をだしにして、ただわいわいやりたいだけじゃないかと思ったりもしたが、行きがけに、祖母が話していたことが思い出された。

祖母「でも、死んでから、こういう形で、親戚が集まって、久々に会ったり、それまでのこと、最近のことを話したりできるって、いいね」

僕「そうだね」

祖母「死んでからも、人は、良いことができるって、ことだし。それって、何だか、心地いいことだと思うから」

 曾祖母はもう亡くなっているのだから、何をどうするかは生きている者の都合に過ぎないと思う。だけど、曽祖母は人に何かをすることが好きな人だったから。亡くなった後も、家族のために何かできたことを、もし死後の世界があって、こちらを覗いていたら、喜んだかもしれない。

 また、その帰りの車の中で、最近、祖父が何度か話題にし、それについての感慨を述べていたことを、祖父がまたぼそぼそと呟いていた。

祖父「いや、何べんか話したかもしれんが、寺も、墓のアパートを作っちゃってね、言っちゃ悪いが、靴箱を、それぞれの部屋にしちゃって」

僕「うん」

祖父「骨なんか色々と入れちゃってね、それで、時間が経ったら、共同の部屋に入れるわけ。もちろん、最初から、共同の、ってのもあるが」

僕「そうだね。地元から離れちゃったり、家が途絶しちゃったりで、墓を管理する人がいなくなって、無縁仏が増えてるからね」

祖父「そうそう。とても合理的というか」

僕「今のニーズに合ってるってことだね」

祖父「無縁仏なんかも、ある寺では、一定の期間が立っちゃうと、一か所に集めちゃう所があるらしいね。そこを、新しく墓所として売り出して」

 僕は深々と頷いた。墓のアパートだったら、墓所も、墓石も不要で、管理の手間も省けて、安く済むだろう。最初から共同の部屋に入れれば、もっと安く済む。無縁仏も、一定期間が経過すれば、撤去して、墓所の空きを作り出して、商売の道具にする。

 墓事情も、現代人の合理性や経済合理性に呑み込まれつつある。多分、この新たな潮流が主流になってくるだろう。そして、墓というものもいつかはなくなるかもしれない。仏壇を置かない家も増えている。仏間を作ったり、仏壇を置いたりすることの非合理性。

 もうこの流れは止められないし、単純な回帰は不能。僕の、それらに対いする懐かしいという感情さえ、きっと、世代が下ればなくなる。

 家に帰ってきた。ようやくほっとした。肩から力が抜けた。僕は母と兄に、気になっていた例の叔母のことについて話題を振った。

僕「賢い、賢いって、成績が悪くなった時、どうするのかな。子どもの自己肯定感とか、親子の関係とか、悪くなりそうだけど」

母「あまり褒めすぎるのも良くないと思うけど。褒めるのって、難しいよ。褒められて、嬉しくないことだってあるし。ほら、勘違いして、痛々しい人になるかもしれないし」

兄「褒めること自体はいいんじゃない?あの人(叔母のこと)なら、何でも褒めてそうじゃん。家族仲が良いってのが、良いってこと」

 僕は二人の話を聴いて、考えた。

 母は自分の子育てで、思う所があったのかもしれない。母は人の人生を自分が左右してしまうのを嫌う。後々、自分のせいにされたくないし、自分の人生は自分で決めるべきだと思っているからだと思う。そんな価値観を持っている人もいていい。

 だから、母は、親である自分が子の何かを褒めることによって、子どもの人生を左右してしまうのを、本当の所、嫌うから、褒めるということに対して、消極的なのだと思う。それは、その子が、勘違いして、天狗になるかどうかにも、どのような道を進むかにも関係するから。

 兄は相変わらず鋭いなと思った。確かに、ここで、褒めていることよりも、家族仲が良いことの証拠ととるのは、正しいと思った。例の叔母は二人の娘たちとともに、子どもが欲しいと言い合っている、乳児院から子どもを引き取ろうかと話していると、口にしていたから。

 それは、家族仲が良いからこそ、認識の上で、家族が増えることが一直線に愛情の累乗と繋がっているということを意味している。

 一概には言えないが、生まれつきの頭の良さもあるのだろうし、本人たちの努力もあるのだろうが、実の所、家族仲の良さが、子どもたちが自分の可能性を最大限発揮する土壌を提供しているから、好成績を修められているのかもしれない。

 僕たちは休んで、夜ご飯を軽く食べた。瓦蕎麦だった。山口県の特産品。僕たちの家では時々食卓に出る。美味しかった。

 一泊二日に及ぶ、曽祖母の一周忌の旅程はここで全て消化されたのだと思う。その後、祖母も無事、岡山から帰って来た。少し時間が経って、今、この記事を書くに至っている。今、僕が思うのは、僕と曽祖母の思い出、そして、僕の未来についてだ。

 幼少期の話。

 母が父と別居し、姉と兄と僕は母とともに母の実家に身を寄せることになった。そこには、祖母と祖父と、祖父の弟(この方も先日亡くなった)、曽祖母が住んでいた。正直な話、祖父と祖母は自由人で、あまり面倒を見てくれなかった。祖父の弟さんは身体に障害があって、難しいようだった。

 そんな中、曽祖母は僕たちの面倒をよく見てくれた。特に、曽祖母は僕を可愛がってくれた。

 思い出すのは、幼稚園の帰り道だ。家から近くの路肩に止まった園バスから降りると、押し車を押して、曽祖母が僕を迎えにやってくる。僕は曽祖母と共に、家に向かって帰る。時に、その押し車に乗ったりして、二人で、ニコニコしながら、家に帰った。

 途中にあるスーパーに寄ることもあった。曽祖母はいつも真剣な表情で買い物をしていた。大量に買って帰る癖があって、僕は少し慄いていた。ただ、ある時、毎回、買っていくものがほとんど同じであることに気づいて、悲しくなった。

 家に帰ると、家遊びをした。ブロックを使って、遊んだ。でも、曽祖母はすぐに昼寝に向かった。亀がひっくり返ったようにして、口を開けて、自分の寝室で寝ていた。僕にはそれが不満だったけど、こっそり見に行っては、笑っていた。

 曾祖母は家の洗濯をしていた。僕たちが帰ってきて、人数が増えたのに、一人で洗濯し、ベランダに洗濯物を干していた。あの身体のどこにそんな力が隠されているのか、不思議でならなかった。夜になれば、多少、料理を作った。カレイの煮つけが上手だった。

 幼稚園の時は、本当に、僕と曽祖母は仲良しだった。相思相愛も良い所で、僕は曽祖母からの愛を独占し、曽祖母も、僕から求められる以上の愛を注いでくれた。僕は曽祖母に甘やかされて育った。僕たちは本当に幸せだったのだ。

 でも、やっぱりどこか不穏さがあった。ある日、曽祖母が、今日は疲れただろうから、足をもんであげると、僕を玄関に座らせようとした。僕は咄嗟にやらなくていいと言った。曽祖母を玄関にしゃがませて、足をもんでもらうことに、何だかとても申し訳なく思ったからだ。

 だって、曽祖母は年老いていて、それは、身体にも、認知にも及んでいて、いつ死んでしまうのだろうと怖かったから。少しでも曽祖母に無理させたくなかったし、それが、自分のためともなれば、僕は心苦しく思うからだった。

 でも、結局、曽祖母の提案を断れなかった。

 僕は言われるがままに玄関に座り、曽祖母は玄関にしゃがんで、僕の足をやはり力強く、しかし、適切な加減でもんでくれた。曽祖母はしわくちゃな顔をもっとしわくちゃにして、嬉しそうだった。僕は心地良さを感じながら、表面では笑っていたが、内心はずっと冷や冷やしていた。

 僕は傷ついていた。そして、同時に、何か、言葉にしがたい感動を覚えていた。どうして曽祖母は、人に何かを与えることに、しかも、自分の老体に鞭打って、自分を犠牲にしてまで、こんなに嬉しそうなのだろうか?僕は、曽祖母が嬉しがるから、自分が傷ついてでも、与えるだけ与えられた。

 小学校に入った。

 小学校に入っても、曾祖母との関係は良好だったが、僕の交流関係が広がり、僕の心身が成長していく一方で、曾祖母は少しずつ衰えて行った。そうして、段々と、僕は曾祖母と遊ぶのが退屈になり、話を覚えてもらえないことに不満だった。

 僕が中学年になると、近所の子たちとよく僕の家で遊ぶようになった。もっぱらゲームをしてばかりで、僕の兄が主催者として君臨していた。曽祖母の出る幕はなくなった。僕は友だちと遊ぶツールとしてのゲームには惹かれていたが、ゲーム自体は下手くそで、少し退屈する所があった。

 でも、僕が大きくなったことで、曽祖母との新しい繋がりを作ることができた。それは、夕飯の後に、曽祖母の昔話を聴くというもの。

 曾祖母は僕が大きくなって、ある程度、長々とした話を聴けるようになってくると、曽祖母のご自慢の武勇伝を語るようになった。それは、曽祖母の作為だったのか、無意識だったのかは分からない。だけど、僕には、それが、半分半分であったのだと思う。

 学問でずっと一等だったこと、図書室の本は全部読んでしまっていたこと、人にノートを貸したら、試験期間が終わるまで帰って来なかったが、満点をとったこと、運動も一等で、マラソンも、短距離も、器械体操も、全てでできたこと、男になんか負けるかと意地を張ったことなど。

 曾祖母の話はほとんど全て、学生時代の話だった。多分、曽祖母の中で一番楽しかった時期なのだろう。僕はいつもワクワクしながら聴いた。

 最初の頃は良かったが、何度も同じ話を繰り返されるうちに辛さの方が増してきた。僕の記憶力はそこそこだが、十回も、二十回も同じ話を聴けば、だいだい話の全容は頭に入ってくる。だけど、僕は曽祖母が嬉しそうに話すから、付き合っていた。

 そうして、何か曾祖母に返したかった。

 高学年になると、学校生活と友だちとの遊びに夢中になって、曽祖母のことは頭の外に押しやられて行った。我ながら最低だったけど、仕方のないことだった。誰も、子どもが新しい世界に飛び出していくことを停めることはできないし、するべきでもないのだから。

 中学校に入ると、曾祖母も動きに制限がついて回り、祖母が入浴の手伝いをするようになっていたが、いつも祖母の怒鳴り声が響いていた。

 僕の心はどうにかなりそうだった。色々曾祖母に与えてもらいながら、ほとんど何も返せずにいて、祖母が曾祖母を怒鳴っているのを、聴いて聴かぬふりをしていなければならない。だって、自分が曾祖母の介護をするなんてできっこないと思っていたから。

 そして、ある時、祖母の姉に当たる大叔母と母の弟にあたる叔父が近くのマンションに泊まったので、曽祖母が祖母と外泊した折、曽祖母は夜中のトイレの1㎝程度の段差に引っかかり、転倒。怪我をして、入院、施設での生活が始まった。

 突然の凶報に、ただただ呆然とするしかなかった。

 そんな中、僕は家で孤立し、学校でも孤立し、クラブ活動でも孤立していた。曽祖母のことを想って、泣くことがあっても、すぐに会いに行ける距離にいなかったし、会いに行こうとも思えなかった。そして、それは、曽祖母が亡くなるまでの間、ほどんどそうだった。

 僕は曽祖母が急速に衰えていく様子を見たくなかった。苦しかった。それは、僕の勝手な都合だって、分かっていたけど、どうしようもなかった。

 そして、亡くなった。

 最後まで曾祖母は僕のことを恨んだりせず、いつも温かく迎えてくれたし、「大丈夫、大丈夫」と励ましてくれた。いつも、いつも。

 僕は曽祖母のようになりたかった。それは、曽祖母のことが大好きだったからで、曽祖母の武勇伝を聴いて、ワクワクしたからで。そして、老いていき、最後には、死んでしまう曾祖母の、何かをこの世に残したいと思ったからだった。

 でも、僕は天才ではなかった。

 僕は勉強もそこそこ、運動もそこそこ、芸術もそこそこ、対人面は壊滅的な、単なる凡人に過ぎなかった。孤立しがちで、孤独症ではあっても、特別な何かを持っているわけではなかった。僕はちょっと哲学肌な所があって、風変りでも、ほとんど凡人に過ぎなかった。

 でも。でも、だから、どうした?

 僕自身の人生の、内発的な動機は曽祖母のことに限らないけど、僕が天才でないことと、曽祖母から何がしかを受け継がないこととは、関係がない。僕は天才ではないかもしれない。だけど、僕は曽祖母から受け取ったものを大切にしたいし、できると思うし、やってやるのだ。

 僕はただのフリーターだ。明日のことも、今日のことも分からぬ、社会の底辺だ。見知っている人たちからは、甘えるなと叱責され、お前ならもっとできるはずだと励まされる。僕は、期待しないでくれと拒絶する。僕は、本当に対人関係に弱く、ストレスを抱えやすい。

 だけど、僕は、諦めたくない。

 僕は生命思想を始めようと思う。それは、僕個人の経験に基づく志向でもあるが、曽祖母が生物と数学を教えていたことに関係する。だから、僕は生命思想を始める。そして、全てを統一する不遜な取り組みを開始する。数学思想なる、ピュタゴラスやプラントもやった、危険な思想にも手を出す。

 思想計画はすでにある。川本英夫のオートポイエーシス論と、A.ベルクソンの生命論を基礎にした、新たな思想や新たな学問の基礎を案出する。今の取り組みは、吉本隆明の思想を取りまとめ、一歩も、二歩も、先に進み出ること。これが、僕の思想の始めになる。

 吉本隆明の『共同幻想論』から独自に開発した、交差型の折り紙図式を使った上で、吉本隆明の思想水準に合わせて、ユクスキュルの生命観を援用しつつ、より細密でより統一のなった、吉本隆明の思想を手に入れる。思想の水準を上げて、現代レベルの学問や思想に接続していく。

 僕は頭がおかしくなったのか?

 何度も思った。まともに就労せず、日がな一日、金にならない無益なことに時間を費やしているのは、人間として、間違っているのではないか?家族に迷惑をかけて、自分の真っ当な人生を投げ捨てて、僕は、一体、何をやっているのか?

 だけど、もう諦めた。

 僕はもう諦めた。まともな就労を果たすことも、家族に迷惑をかけることも、時間の浪費を続けることも、全て。僕は僕の道を行くしかないから、僕の道を行くのだ。どんなに馬鹿にされようが、罵られようが、もう仕方ないのだと思う。

 曾祖母の一周忌は、僕の決定的な諦めに繋がった。状況が変わって、追い詰められれば、人生の航路を変更せざるを得なくなるだろうが、知ったことではない。僕は僕の空っぽを埋めるために、僕が僕であるために、僕は僕の道を進むのだ。

 ごめんなさい。だけど、僕には無理です。

 最後に、言明しておくが、「人間」という問題の解除について、安易な想定は良くないと思う。もちろん、全く効果がないわけではないと思う。だけど、「人間」という問題の対処について、古き良き処方のリメイクもしていかなければならないと思う。

 全体最適を考えるのもいいけど、個別解も考えていいし、もっと選択肢やビジョンが合っていいと思う。僕の場合は、曾祖母を、彼女の想いや、彼女との思い出を引き継ぐ形で、自分の「人間」と戦っている。その古き良き個別解に、目を開いてもいいだろう。


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