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【小説】空蝉のふたり

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わたしが書いた小説です。源氏物語の「帚木」「空蝉」のオマージュ作品です。 元校閲者の綴里が夫と別居し、雑誌編集者である双子の妹、日々記と一緒に生活することになります。そこに大学生…
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【小説】空蝉のふたり〈一〉

【小説】空蝉のふたり〈一〉

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一、半夏生 −はんげしょうず−

 キャラメルひと粒ぶんくらいの感傷は残るものの、わたしは蟻地獄のような夫と別居することになり、束の間だがほっとしていた。
 夫のオサムはわたしより十三歳年上だ。大学時代に仲の良かった友人、彩菜の兄である。彩菜の結婚式に招かれたときに出会い、連絡先を交換したのがはじまりだった。それから一年つき合って二十三歳で結婚した。
 結婚してからは、自

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【小説】空蝉のふたり〈二〉

【小説】空蝉のふたり〈二〉

二、桐始結花 ―きりはじめてはなをむすぶ―

 梅雨が明けたとある日、日々記がこの家に引越して来た。
 誰かから借りたトラックに荷物を積んでやって来たのだ。健吾と知らない男性に運転や荷物の積み下ろしを手伝わせていた。
 昔の日々記はこれほどタフではなかった。それに業者には頼らず、手近な人間に作業をまかせ、なかなかの倹約家だ。引越して早々、わたしは寝室のクーラー代の分割払いも請求された。
 数週間前

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【小説】空蝉のふたり〈三〉

【小説】空蝉のふたり〈三〉

三、大雨時行 ―たいうときどきふる―

 倒れてから三週間ほど経つが、あれから時々胃が痛む。病院の先生にまた診てもらったら、さらに多い項目の食事制限を言い渡された。わたしはなるべく胃腸に優しい弁当を作り、毎日職場でランチを取った。
 その日、職場の冷蔵庫で冷やしていた弁当を取り出し、レンジで温め直しているとき、スマートフォンがふるえた。珍しく健吾からのLINEだった。
――お疲れさま。今度、そっち

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【小説】空蝉のふたり〈四〉

【小説】空蝉のふたり〈四〉

四、涼風至 ―すずかぜいたる―

 あれから日々記は三日間帰って来なかった。わたしはその間に大宮の家にゆき、父に夫の浮気とDVについて話した。離婚する意志をつたえたら、家庭裁判所に調停を申し立てることになり、そのための金銭的援助も受けることになった。日々記が来ているかと思ったが、ここにもいなかった。
 帰りがけに玄関でサンダルを履こうとしていたら、背後から健吾の声がした。
「綴里姉ちゃん、璃人さん

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【小説】空蝉のふたり〈五〉

【小説】空蝉のふたり〈五〉

五、寒蝉鳴 ―ひぐらしなく―

 裏庭に水を撒いていたらエゴノキがつむじ風にゆれた。爽籟に空をあおぐと、澄んだ空には刷毛でひと塗りしたような雲が、うすく広がっている。太陽はじりじりと照りつけ、蝉の声がジージーと遠くから聞こえていた。
 今日一日、仕事にゆけば盆休みだ。洗面所で顔を洗い、鏡に映った自分を見る。少し頬がこけた気がして体重計に乗った。引越してくる前より1・5キロ近く減っている。朝ごはんの

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【小説】空蝉のふたり〈六〉

【小説】空蝉のふたり〈六〉

六、天地始粛 ―てんちはじめてさむし―

 手に持ち窓辺の光に翳すと、産衣のような蝉の抜け殻は、宙に浮いてきらきらした。蝉の子の置いて行ったものを、手作りで樹脂はくせいにしたのだ。手のひらくらいの透明な樹脂の塊の中央に、琥珀色の抜け殻があのときのまま閉じこめてある。殻は光に透けて儚げだけど、あの子は木蔭で力いっぱい生きているだろうか。
 わたしのバッグのすきまに落ち奇跡的に命びろいし、あの子が家で

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【小説】空蝉のふたり〈七〉

【小説】空蝉のふたり〈七〉

七、禾乃登 ―こくものすなわちみのる―

 離婚調停の期日が九月下旬に決まった。家庭裁判所から通知書が届いたのだ。
 つい先日、夫と義理の両親が大宮の両親のところへ押しかけたらしい。離婚したくないと居座られずいぶん揉めたらしいが、父が警察に通報すると怒鳴ったら帰ったそうだ。わたしの住んでいる家の場所はまだ知られていない。
 ゆうべ、健吾から読んでほしいと妙なLINEが来た。
――綴里さんのことがま

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【小説】空蝉のふたり〈八〉最終話

【小説】空蝉のふたり〈八〉最終話

八、款冬華 ―ふきのはなさく―

「障害者差別解消法のパンフ、突き合わせ終わりました」
「じゃあ次、これお願いできる? 『わかるWordPress』」
 今日もゲラと向かい合い赤ペンを走らせる。今朝は雪が降り肌を刺すような寒さだった。健吾の成人式の日も雪が積もり、会場へたどり着くまでに相当時間がかかって凍えたらしく、式中も震えっぱなしだったと言っていた。
 夫との離婚は先月の中ごろ成立した。元夫と

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