「現代詩の入り口」25 ー 詩の可能性について考えたかったら、伊藤比呂美を読んでみよう
伊藤比呂美さんの詩を読みましょう。
これは昨年(2023年7月)、ぼくの「Zoomによる詩の教室」に伊藤さんが対談で出てくれた時に、用意した資料です。
ところで、一昨日(2024年3月30日)に伊藤さんのイベントに行った時に、伊藤さんは、「自分がわからない言葉を使って詩を書きたくない」と言っていました。ですから伊藤さんの詩は、すべて伊藤さんの言葉で書かれています。そして自分の言葉だけで詩を書く、というのはとてもむずかしいことなのです。
読んだ詩は次の11編です。
「冬」
「歪ませないように」
「魚を食べる」
「カノコのしっしんを治す」
「悪いおっぱい」
「意味の虐待」
「ネコの家人(抄)」
「チョウチョユージ」
「助けてほしい、どーしたらいいのかわからない」
「河原を出て荒れ地に帰る」より
「良い死に方悪い死に方、詩人が死を凝視める事」より
それでは、読んでゆきます。
✳︎
「冬」 伊藤比呂美
冬になると、私たちの回りは、根菜類ばかりになる。秋に穫れるイモ類やニンジン、葱を私たちは厳重に布でくるみ、冷たい場所に置いておく。たとえば地下室。階段をおりてゆくと、空気は途端に冷たく単純になる。くらやみに慣れてくると、その棚いちめんに、でこぼこした麻の袋が置かれてあるのに気づく。階段の下もでこぼこの袋でいっぱいだ。懐中電燈にてらされて、袋は影をかかえている。ひょっとした拍子に、袋がもぞっと動いたような気もする。それほど、ならぶ袋たちは立体的にでこぼこである。私たちは二~三日に一ぺんくらいずつ、やさいを取りに来て袋をあける。
古い年のうちに、葱は食べつくされてしまう。葱はイモのようには長くもたないのだ。私たちは十二月にはいると、葱を急いで消費する。毎日、葱汁をのむ。十二月も半ばをすぎると、葱の青い部分からどろどろに溶けてくる。私たちは、残った葱をすべてざくんざくんに切り、あたらしくあけた袋からジャガイモを取って、いっしょくたに煮こむ。発酵した豆で調味されるこのスウプに、私たちは新鮮なイモのだしを味わって、満足である。それ以後、ニンジンとイモ類からヴィタミンをとり、四か月を暮らす。
雪というものがふらない冬である。ただ、大地から、木々から、家々から、すべてが温度を失っていく。空気が奇妙にひくく垂れこめて、景色は、空の下にぎっちり圧しつぶされた様子を見せる。冬も深まるにつれ、澱むようだった空気から湿度がひいていく。そこいらいったいぱりぱりに乾き、痛いくらいまで冷たくかたまる。道は空洞になったように思われ、表面を固いもので、カン、と叩くと、昔はカラコロカラコロ転がっていってしまう。道の行きどまりに立つ壁にぶつかってはね返る音が聞こえる。
そのころ、<じんのそり>とよばれる北西の風が吹くようになる。息のねににた絶えまない風は、なにもない路上に小さなたつまきをうみ、乾いた土や木のかけらをあつめ、私たちの衣服のすきまからはいりこんで皮膚をかすめる。<じんのそり>という名も、冬の尽きるころ=尽(じん)に吹く刃物のような風という意味だろう。あるいは、刃=じんを補って、そり(、、)をつけたのかもしれない。しかし、すべてを吹きはらう風は空を美しくする。昼間は蒼々として高いところにつづき、夜は星で埋めつくされる。冬には青白く瞬きの激しい一等星が多くなる。
私たちは、この寒さを<あざやぎ>とよんで、厚い毛織のオーヴァを着て道をあるく。
*
「冬」について 松下育男
この詩を読んだ時の驚きは忘れられません。一瞬、「ホントに完璧な詩というものがあるんだ」と思いました。なんと大ざっぱな感想かと言われるかもしれませんが、真に優れた詩に出会うと、どのように感想を言えばいいのか戸惑います。ただ圧倒されていました。ともかく詩から目を離して、溜息をつき、それからしばらく空を見て、再び詩に目を戻しました。
ぼくの人生の長い年月の途中の、幾度かの瞬間に、突如としてこの詩の中の「あざやぎ」という言葉が浮かんでくることがありました。そしてこの伊藤さんの詩の中の「あざやぎ」という言葉のかけらは、当時、詩をやめていたぼくにとっての、いつか戻るかもしれないまばゆい世界を表すものであったように思えたのです。この詩ほどに、言葉を一つずつ読み取りたいと思わせてくれるものはありません。ぼくたちは時に、母国語を堪能することができ、使い慣れた言語をあらためて、じっくり味わいたいとさえ思うことがあるのです。
*
この詩は、伊藤さんが若い頃の作品です。どこか私小説ふうな詩になっていますけど、そしてこの詩は、季節、つまり「冬」と植物について書いています。一見、伊藤さんによって多く書かれてきた性や人とのあからさまな関係の詩とは違った姿を示していますが、言葉をじっと見てみれば、当時のこの詩と、以降の詩には同じものが流れているのではないかと感じることができます。
おそらく今でもこの詩に見られる「言葉への鋭い接し方、言葉への触れ方は、性のことを書いても、娘のことを書いても、同じ手際でなされているのではないかと思うのです。
この詩でぼくがいいなと思ったことは6つあります。一つずつ書いてみます。
(1)言葉そのものの美しさや切れ味をナマのままで提供してくれていることです。具体的に言うならば<じんのそり>や<あざやぎ>という言葉です。こういった言葉の美しさを発見し、察知したら、その言葉を利用して詩を書こうなどと思わずに、言葉そのものを詩の中に置いてみる、どこか陳列ケースのガラスに入れているように私たちにそのまま見せてくれています。言葉を料理して出すのではなくて、刺し身で出している感じです。どうやってこうした言葉を発見し、察知することができるかといえば、日々を注意深く丁寧に生き、書物などからきちんと学んでゆくことであることなのかなと思うわけです。どんな日常を過ごしていても、どんな本を読んでいても、特別な言葉が出てきたらしっかり見極める感じ方が必要なのかなと思うわけです。
(2)いいなと思った二番目は現実の動作や実際に見えるものを書いていることの説得力の強さです。感想や感じ方を書いている部分よりも実際に見えているものをそのまま書いていっています。感じ方や感想はたまに、現実の描写の中にちょっと入れ込んでいます。それゆえに却ってその感じ方にドキッとするのです。例えば3行目、「空気は途端に冷たく単純になる。」の「単純」というのは感想ですね。空気が単純になると、普通はこんなふうには言いませんから、言われればいいなと感じてしまうのです。でもそれをこれ見よがしに言うのではなく、現実の叙述の中でさらっと言っているんです。それが奥ゆかしくて、その奥ゆかしさが、却って読み手には新鮮に映ってしまうわけです。同じような効果を出しているところは、
1連目6行目「袋がもぞっと動いたような気もする」
2連目4行目「ざくんざくんに切り」
3連目1行目「大地から、木々から、家々から、すべてが温度を失っていく」
3連目2行目行目「景色は、空の下にぎっちり圧しつぶされた様子を見せる。」
3連目4行目「湿度がひいていく」
4連目1行目「息のねににた絶えまない風」
4連目3行目「私たちの衣服のすきまからはいりこんで皮膚をかすめる
4連目4行目「刃物のような風」
4連目5行目「じんを補って、そりをつけた」
4連目6行目「風は空を美しくする」
こうして見てみると、事象に対する感じ方がどれも密やかで、デリケートで魅力的なのがわかります。
(3)三つ目のいいなと思ったのは、1編の構成がよくできているところです。先ほど見たように、淡々とした描写から始まって、その中に少しずつ切れ味のよい比喩や感覚が差し込まれてゆくわけですが、描写から感じ方へ、その濃さを詩は少しずつ濃い目にしてゆくわけです。さきほど見たように、いい感じ方だなと思ったのは1連目にひとつ、2連目にひとつですが、3連目には3つあり、4連目には5つもあります。
つまり、読む人は冬の描写を丹念に読んでいると思っていたら、少しずつ伊藤さんの感じ方に捕らわれてゆく、そういうふうな作り方をしているわけです。詩の始まりは自然な感じで始まって、読み手を取り込み、そののちに後半にいくに従ってドラマチックになっていくんです。
(4)それから、扱っているテーマが、つまり季節と植物ですが、作者にとって切実なものだということが感じられるところです。詩を書くためにとりあえず扱ったテーマとは感じられません。植物にしても穀物にしても、それが言葉を超えて、伊藤さんの生きて行くことそのものに深く関わっているという感じが文字から見えてくることです。書くべきことを書いていることの強さです。
(5)ある意味、読み手が知らないこと、それもこれ見よがしでなく、地に足がついている知識を得ることができます。知識欲を適度にくすぐってくれます。
(6)そして最後に全体の感想を言えば、「なんと清潔な詩だろう」、ということです。まさにこのテーマに向き合う姿の清潔さは、その後の伊藤さんのあらゆる詩に共通したものなのかなと感じるわけです。
*
「歪ませないように」 伊藤比呂美
白玉をつくってわたしの男に
持っていく
砂糖を煮て蜜をつくり
茹でた白玉を漬けて
ひやす
密閉して
持っていく
白玉はいれものの底にべっとりと付着する
白玉のへりが剥がれて
まるい
かたちが歪む
さじですくう
ア
ホラ
歪ませないように
すくってよ、
しらたまがいちばんすき
とわたしの男は白玉をくちにはこぶ
(オイシイ)と目をつぶってみせてくれる
おまえよりもすき、と
わたしは男の
白玉をのみくだすのを見ている
男はゆるくなった蜜まで啜りこんでしまう
密閉の容器を宙に振って布巾につつみ
これからわたしたち
おつゆいっぱいにくちをあわせ
てのひらをすべらせて
いとおしさをかたちにうごくのである
けれども
ねえ、
歪みたくない
歪んでいるままにいたくない
あたしはそうおもうのおとこよわたしの男よ
わたしはまるめて
白玉を茹でる蜜を煮つめるそしてひやす
とてもせつない
のぞみふくませて
とろとろの蜜
つるつるの白玉
わたしの男がそれをのみこむ
唾のようなとろとろ
尻のようなつるつる
そのあじわいはどうか?
歪ませたくないと
せつなく男もおもったのである
およんだな
わたしの分泌するわたしの食物
いとしい男に
ふかくふかく
*
「歪ませないように」について 松下育男
白玉を男に食べさせる、ということで、この白玉が途中から自分自身になっていて、男に私を食べさせる、ということに変化してゆきます。変化してゆくというよりも、重なってゆきます。「食」がそのまま「性」へ移行してゆきます。
伊藤さんの、言葉に対するなまなましい感じ方、発し方がとてもよく出ている詩です。読んでいてなんとも言えない気持ちになります。
「白玉をのみくだすのを見ている」「おつゆいっぱいにくちをあわせ」など、なんとも艶めかしい表現です。
「歪ませないように」というのは、もちろん白玉の丸さを壊さないように、ということではあるのですが、男と女(私)の関係をも壊したくない、歪ませたくないとも、言っているわけです。
どう考えても、この詩の中では、より多く惚れているのは女のようで、この関係が歪んで壊れないように、相手の心にこわごわ接している女性の、なんともけなげでかわいらしい様子が見て取れます。「とてもせつない」というのはホンネなのでしょう。
この詩でぼくがすごいなと思ったのは、最後から四行目の「およんだな」のひと言です。よくぞこのような言葉が出てくるなと思います。いろいろな意味に解釈できますが、おそらく、自分の思いが男に及んだ、男に影響を与えた、男にかぶさっていった、そんな意味なのだろうと思います。実にすごみの効いた、切れ味のよい言葉です。「およんだな」。こういう言葉が出てくるところはさすがにすごいなと思います。
最後、「わたしの分泌するわたしの食物/いとしい男に/ふかくふかく」とは、自分のすべてをかけて人を愛する切なさが、とてもよく出ています。人は人を、こんなにまで好きになれるものなのです。
*
「魚を食べる」 伊藤比呂美
いかを短冊に切りきゅうりを薄切りにして砂糖、酢、塩、醤油で和えて胡麻をふった。
小あじをまるのまま粉をまぶして揚げた。醤油、砂糖、酒、唐辛子につけた。上にねぎをのせておく。
さんまを筒切りにしてひねしょうがを入れ酢で煮て醤油で煮た。
いわしの腹に指を入れててびらきにした。
いかの足を目の下で切り落とすと足の中央に軟かい骨がはめこまれている。周囲を強く押すと出る。ねっとりとしている。
いかを細く切った。もりつけたてっぺんに卵黄を落とした。卵黄に口の中が粘った。
わかさぎを冷凍で買った。凍ったままビニールの袋に入れ粉を入れた。袋を振ると魚と粉がまんべんなく混ざり合った。
メルルーサのムニエルが残った。なまなの、ときくと、なまだ、という。食べてみると箸でちぎれない歯のうらにこびりつく。
ムニエルにつけあわせるために野菜を混ぜた。マヨネーズを卵黄とあぶらと辛子でつくった。
さばを味噌煮にした。
さばに粉をつけて揚げた。
塩で焼いた。
さばは臭いから嫌い。わたしはひとくちも食べたくない。血合いが白すぎてやわらかすぎる。つるつるの人間の腹。さばは男の腹であるがやはり毛がない。
ぶりのさしみを買った。
はまちのさしみを買った。皮も剥かれてあった。パックの中に魚の血がたまりラップフィルムをつたって洩れた。だいこんのつまは死んだ魚のにおいがした。漿液をたらしていた。いきのいいだいこんでつまをつくったがわたしは器用でないからいきのいいだいこんはぱりぱり折れていき短い千切りができあがった。
こんにゃくを薄く切った。こんにゃくはおいしくない。つるつるだけで食卓にえらぶ。醤油をつけて食べた。
毛深い魚の腹をえぐって内臓を出した。つながって出てきた。毛抜で一本一本の毛を抜かなければ食べられなかった。毛はどうしても食べるものじゃない。
ゆでたいかに赤味がさす。ゆでじるが赤く濁る。
いわしとひねしょうがを醤油で煮たが冷めたら臭くなった。くさいからすてようか、といったがくさくない、といった。くさいでしょう、とまたいったがくさくない、といった。ご飯をよそった。
こんもりしたご飯をつまんで口に入れていった。ちゃわんをひだりてでもった。生野菜をばりばり噛んだ。
いわしのうろこを尾から頭へこそげ落としていった。いわしのうろこは少ない。透きとおったのがとびちった。包丁にうろこ数枚と青く濁ったしるがたまった。これが背の青い魚の背を青くする要素である。
きんきを水の中でおさえて水の中でうろこをかき落とした。きんきのうろこはよくはねる。水の中にきんきのうすあかいうろこがばらばらと沈んでいってたまった。
自分の性器は見る機会がないのである。上から見おろすのでは毛にかくれて見えない。黒い毛がそのへんに集中して周辺には毛の抜いたあとがあかくふくらんでいる。
きんきは赤が褪せた。わたしは包丁を白い腹にあてた。きんきの腹の皮は弾力がある。わたしは包丁の先端を突き刺したが力が入らない。腹が破れるとその腸やうきぶくろを見ることになる。
さかなを食べたくない。わたしは魚のにおいを臭いと感じる。
入れた力は戻されてしまった。また力を入れた。突きすすむ感触に小さな裂け目ができたがきんきの腹は破れただけだった。何もはみだしてこなかった。
腰の骨が張り出しているところがある。その上へ包丁をつき立ててみた。千枚通しのようなものを打ちこんだ。あいくちのようなものを打ちこんだ。固いからすべった。すべって肉へのめりこんだ。
さわってみればわかる。わき腹の下に腰骨が張っている。ここに打ちこむのだ。すべって肉へのめりこんだ千枚通しはつるつるの腹の皮膚を破って突き出た。
下のはぐきの口内炎がうんでいる。唇の上からぐりぐり押すとねむたさに近い痛みが肩も腰も浸してそのまま固まった。
煮凝りを噛み切る。
血が出てかさぶたができてうんでしまった。かさぶたをはがしたらうみのなかに毛が生えていたのでひきぬいた。
牡蠣を吸う。にんにくの入った調味料をかけて牡蠣の肉をのみこむ。
羊羹のように女のつるつるの腹を切りさくが女の腹からは血とこめつぶのような脂肪があふれるのだ。腹を切られた女は苦しみを感じる。手足を長い間動かしているだろう。死んだ女のつるつるの腹は羊羹のように切れる。
死体から内臓を取り出すと表面に毛が生えている。こまかく血をはじきたいへん濃い毛である。てのひらを毛に垂直にそっておろすと毛の先がいっせいに押し返すほどの濃さだ。
*
「魚を食べる」について 松下育男
ひたすら食材としての魚を描いています。これでもかと言うほどに事細かに描いています。食材の説明、あるいは料理の説明というものはどうしても丹念に読んでしまいます。食べたことのあるものを想像しながら、文字を料理の映像に置き換えてしまうのです。この詩にはナマモノ、特に魚類の説明が多くあります。途中、時折に会話が入ってきます。
「なまなの、ときくと、なまだ、という」「くさいからすてようか、といったがくさくない、といった。くさいでしょう、とまたいったがくさくない、といった。」
と、このへんの会話はまさになまなましい。おそらく男、好きな男との会話で、どこか遠慮のようなものを感じます。多分この男が好きで、その好きな男と食べる食材や料理なので、二重の意味でナマなのでしょう。
後半に「性器」が出てきます。けれど、他のなまものの間に出てくるので、自分の性器も、あるいは自分の全体も、食材の一つのように感じられてきます。
そのあとで魚に包丁を突き立てることが書いてあって、深読みなのかもしれませんが、その前の、自分の性器を書いているところのイメージが抜けきれていないので、自分の腹に包丁を立てられることを想像してしまいます。男に包丁で刺されるような、そういった緊張した関係の瞬間もあるのだろうな、と思われます。人が二人、それも愛しただの、ずっと一緒にいたいだの、言っている人間が二人になれば、誰だってぶつかり合うこともあり、激しい行動に出ることも充分にありうるわけです。『固いからすべった。すべって肉へのめり込んだ』のところも、とても生々しい。
で、そんなことを考えながら読んでいると、案の定、最後のところでは、「腹を切られた女は苦しみを感じる」とあります。この女は自分のことなのだろうと思います。料理をしながら、魚を切りながら、男との関係を思い、ときにその関係に包丁を入れることを思い、男に包丁を入れられることを思っているのでしょう。そんな緊張感が、この詩には満ちています。精一杯料理をして、精一杯人との関係を保ち続け、精一杯生きようとしている、そういう切ない詩なのかなと思います。
*
「カノコのしっしんを治す」 伊藤比呂美
あまいうしのちちたちがわたしをふとらせる
むすうのたまごたちがわたしをふとらせる
にくずれるまめたちがわたしをふとらせる
わたしのちちが
わたしのあかんぼをふとらせる
ほとばしるわたしのちちでカノコがぬれる
カノコのほおがぬれる
カノコのくちびるがぬれる
カノコのあごがぬれる
カノコのあごにあるあざがぬれてわたしのちちがしたたる
あまいうしのちちでわたしがふとり
むすうのたまごでわたしがふとり
にくずれるまめでわたしがふとり
わたしがカノコをふとらせる
うしのちち
むすうのたまご
にくずれるまめの
タンパクシツはいしつ
いしつのタンパクシツがわたしをふとらせる
わたしがカノコをふとらせる
カノコのひたいにしっしんができる
カノコのほお
カノコのくびすじ
カノコのうで
カノコのあご
カノコのあごにあるあざ
カノコのあたま
カノコのはなのあたま
カノコのおなか
カノコのおしり
カノコのまゆげ
うしのちちのタンパクシツ
むすうのたまごのタンパクシツ
にくずれるまめのタンパクシツがアレルゲン
カノコのぜんしんにしっしんがひろがる
カノコいい子
カノコとてもいい子
カノコはあざがおおい
おしりにあおいあざ
せなかにあおいあざ
てのこうにもあおいあざ
うでにもあおいあざ
あしのゆびにもあおいあざ
あごにもあおいあざ、でもしんぱいはしない
あおいあざはいつかきえる
カノコはしょっちゅうちちをはく、でもしんばいはしない
はくちちよりもおおくのむ
カノコはべんぴ、でもしんぱいはしない
カノコのうんちはいつかはでる
でもカノコのすべすべのひふにしっしんはひろがる
うしのちちのタンパクシツがアレルゲン
むすうのたまごのタンパクシツがアレルゲン
にくずれるまめのタンパクシツがアレルゲン
アレルゲンがカノコのからだに
反応してカノコのひふにカノコのしっしんがふえる
カノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがこりかたまる
カノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがこりかたまりかわく
カノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがこりかたまりかわきたちあがる
カノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがこりかたまりかわきたちあがる
カノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがたちあがる
たちあがるカノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがたちあがりあるいていく
あるいていく
カノコのひたいの脂漏性のしっしんのあぶらがこりかたまりかわきたちあがり
たちあがりあるいていく
カノコのほおの脂漏性のしっしんのあぶらがこりかたまる
カノコのほおの脂漏性のしっしんのあぶらが (以下省略)
*
「カノコのしっしんを治す」について 松下育男
ずっとひらがなとカタカナだけの詩で、そのまま最後までいくのかなと思っていたら、最後の方に「脂漏性」という言葉だけが複雑な漢字として出てきます。これはおそらく「しろうせい」とひらがなにしても、意味が伝わらないからなのだろうと思います。でも、こうして「脂漏性」という言葉がいくつも並んでいると、この文字の部分が炎症を起こしているような気持ちになって、この漢字をかきむしりたくもなるから不思議です。
で、書いてあることは娘(赤ん坊)にできた湿疹のことで、確かに子供を育てていると、子供というのはしょっちゅう病気になって、皮膚の病気も多いわけで、そのたびに親は病院に連れてゆき、家に帰っても手当てをし、と、そういうことをよくしたなと、ぼくも思いだすわけです。
「カノコのぜんしんにしっしんがひろがる」なんてところを読むと、心が痛みます。それから「でもしんぱいはしない」と繰り返し言っているのは、心配で仕方がないからその気持ちを押さえつけるように自分に言っているわけで、ここも涙なしに読めません。
詩としては、とにかく言葉が奔放にあふれてきているんだなということに驚きます。こんなふうに自由に書くと、大抵の人はだらしない文章になってしまうのですが、伊藤さんは、自由に言葉を出るだけ出している感じがしていても、こちらの心にずしりと重いものを届けてくれます。それは何故だろうと思うことがあります。生来のものなのか、何か秘密の技術を知っているからなのでしょうか。
たくさん出てきた言葉は、我が子に対する心配の数そのものです。この詩でぼくが一番好きな行は「カノコいい子/カノコとてもいい子」のところです。なんとほっとする美しい眼差しに満ちた言葉かと思います。
*
「悪いおっぱい」 伊藤比呂美
熱風が吹いた
植物が繁茂する
昆虫が繁殖する
高温と多湿
植物が繁茂する
昆虫が繁殖する
熱帯性低気圧に
雨が白い渦をまく
植物が繁殖する
引越のために縛りあげる
縛りあげたままのわたし
縛られたわたしのあらゆる部分
乳房に
変化する
昆虫が繁茂する
朝は張って飲みきれない乳房が
ひっきりなしに吸うから
夜になるとしなびてしまって何も出ない
不信を
わたしを
ひっきりなしに吸うから
しなびてしまって何も出ないわたしを
不信を
わたしのおびただしい乳房を
よいおっぱいから
悪いおっぱいへ
悪いおっぱいに
赤ん坊たちは復讐を企てている
雨が降るので乳房を食いたい
雲が走るので乳房を食いたい
風が荒れくるうので乳房を食いたい
雨が渦をまくので乳房を食いたい
雨がやんだら
おいしいやむいもが拾える
おいしいたろいもが拾える
おいしいむかごが拾える
おいしいあんこが
おいしいみのむしが
おいしいしいのみが
おいしい澱粉質が
両手に余るほど拾える
雨がやんだらおいしいたろいもが
両手に余るほど拾える
中尾佐助『農耕植物と栽培の起源』、メラニー・クライン『羨望と感謝』から引用・参照箇所あり
*
「悪いおっぱい」について 松下育男
二つのことが同時に書かれている詩なのかなと思います。
育児と農耕の二つです。その二つが結びついてでき上がった詩です。
一つ目の中心は、自分と自分の赤ん坊です。夜になるともう出のよくないおっぱいを赤ん坊が責めているように感じる、赤ん坊に申し訳ないという気持ちが、「赤ん坊たちは復讐を企てている」という一行になったようです。
それとともに、引用、参照の本を見ると、農耕の起源の本も入っていて、この辺から詩の最初の「植物が繁茂する」というところに繋がってきているようです。食物を栽培する、という発想から、自分が乳を出す、というところへ連想して、自分も赤ん坊の食物を栽培する農耕の大地と同じではないかと結びつけたのではないかと思われます。だから自分にも「昆虫が繁茂する」のです。
2連目の「不信」というのは赤ん坊が身をまかせている親が乳を充分に出してくれないことへの不信なのでしょうが、それが過激なところへ移って行って「乳房を食いたい」というところまで行ってしまいます。
「やむいも」「たろいも」「むかご」。実際に口に出したくなるような新鮮な日本語です。読んでいて楽しい。
自分を植物と発想して、自分に栄養を与えて、その栄養を子供に与える、という連鎖の中で、詩は書かれています。
必死に育児をするとは、そこまで考えさせるものかと感動をします。
*
「意味の虐待」 伊藤比呂美
あなたはニホン語が話せますか
いいえ話せません
はい話せます
はい話せますけど読めません
はい話せて読めますけど書けません
はい話せて読めて書けますけど聞きとれません
わたしはよい子でした
あなたはよい子でした
わたしたちはよい子でした
それはよい
わたしはわるい子でした
あなたはわるい子でした
わたしたちはわるい子でした
それはわるい
言葉の習得のためには置換し反復しなければならない
わたしはみにくい子でした
あなたはみにくい子でした
わたしたちはみにくい子でした
それはみにくい
わたしは退屈です
あなたは退屈です
わたしたちは退屈です
それは退屈だ
わたしは憎い
あなたは憎い
わたしたちは憎い
それは憎しみだ
わたしは食べる
あなたは食べる
わたしたちは食べる
それはよい食欲だ
わたしは食べない
あなたは食べない
わたしたちは食べない
それはわるい食欲だ
わたしは意味する
あなたは意味する
わたしたちは意味する
それはコトバの伝達だ
わたしはニホン語を使う
あなたはニホン語を使う
わたしたちはニホン語を使う
それはニホン語だ
わたしは意味を剥がしとりたい
あなたは意味を剥がしとりたい
わたしたちは意味を剥がしとりたい
それは意味を剥がしとる欲望だ
わたしはいっそコトバをただの素材におとしめたい
あなたはいっそコトバをただの素材におとしめたい
わたしたちはいっそコトバをただの素材におとしめたい
それはいっそコトバはただの素材だ
わたしは機械的に置換していって現実にはありえない文を作る
あなたは機械的に置換していって現実にはありえない文を作る
わたしたちは機械的に置換していって現実にはありえない文を作る
それは機械的に置換していって現実にはありえない文を作るんだ
意味を剥がす
音が残る
それでもわたしたちは意味をさぐる。指をさしだせばそれを吸う新生児の原始反射
わたしは指をさしだせばそれを吸う新生児の原始反射です
あなたは指をさしだせばそれを吸う新生児の原始反射です
わたしたちは指をさしだせばそれを吸う新生児の原始反射です
新生児のそれは指をさしだせば吸う原始反射だ
わたしは意味が
あなたは意味が
わたしたちは意味が
意味だ、それは
伝達するな
わたしは伝達するな
あなたは伝達するな
わたしたちは伝達するな
それするな、伝達だ
切り裂かれて血まみれの意味はきっとみじめでうれしい
わたしは血まみれの意味はみじめでうれしい
あなたは血まみれの意味はみじめでうれしい
わたしたちは血まみれの意味はみじめでうれしい
血まみれのそれの意味の血まみれのみじめさだ、それうれしい
(*ブルース・ノーマン 「GOOD BOY BAD BOY」から引用参照箇所があります。)
*
「意味の虐待」について 松下育男
詩を書くものにとっては、言葉の意味とどのように付き合うかというのはとても重要なことです。言葉の意味をそのままつかって、詩を書く人がいます。一方、言葉の意味を、その意味から引き剥がして使おうという人もいます。どちらかを選ぶ、というよりも、その選択は、詩そのもののあり方に関わっていますから、あらかじめその詩人に埋め込まれているものなのかもしれません。
この詩は、言葉に意味があることについて考えています。感じています。そんなこと、感じなくても人は暮らしてゆけます。でも、詩人にとっては大切なことなのです。
伊藤さんは、外国で日本語を教えていたことがあります。この詩は日本語を教えることを書いていて、では今教えている日本語とは何か、日本語の言葉ひとつひとつに意味があるのはなぜか、ということに思いを及ばせてゆきます。
この詩には「繰り返し」が多くつかわれています。リフレインです。「言葉の習得のためには置換し反復しなければならない」とありますが、言葉の反復は、奇しくも伊藤さんの詩に多くみられるものです。それは時に呪文のように繰り返されます。繰り返していると、言葉からその意味が剥がれてゆくような感覚を持つことがあると思います。時に、言葉の意味を考えないで単に繰り返すことが、特別な意味を持つことになるのかもしれません。
この詩の中で日本語の習得に使われている例文が、本当に教科書に載っていたものかどうかはわかりません。ただ、意味のある例文そのものが、日本語の意味を否定する方向へ向かっているところを見ると、どうもこれは教科書には載っていない、伊藤さんの作った例文のようです。
「わたしはニホン語を使う」
「わたしは意味を剥がしとりたい」
「わたしはいっそコトバをただの素材におとしめたい」
のところは、詩を書いたことのある人が読めば、とても感じ入る発想です。言葉の伝わり方、言葉の伝わりづらさ、に日々悩んでいる詩人にとっては、言葉をどうにかしたいと言う気持ちは、読んでいてよくわかります。
「コトバをただの素材におとしめたい」と言っているコトバ自体が素材なんかのおとしめられてはおらず、、正面から格闘しているそのものであることが、苦しみでもあり、不思議さでもあり、めぐりめぐって詩が書かれることの意味にも繋がっているから皮肉なものです。
でも、伊藤さんの詩を読めばわかるように、伊藤さんの詩のほとんどは言葉の意味そのものには手をつけずに詩を書き続けています。それだけに、これらのことに、伊藤さんは多くの思いを寄せていたのだなということがわかります。その辺、とても興味深く感じます。
「それでもわたしたちは意味を探る。」というわけです。
最後に「わたしは血まみれの意味はみじめでうれしい」という奇妙な日本語が出てきます。この奇妙さは、伝達を阻むことなく、その向こうにしっかりみじめでうれしい詩人の姿を見せてくれるのです。
*
「ネコの家人(抄)」 伊藤比呂美
はっと窓を見ると、そこにネコがいて、口を大きくあけてこっちを見つめて鳴いているが、サッシの窓は閉まっているので、声はなにも聞こえない。口のあくのだけが見える。こっちを見ている目と表情も見える。どのくらいそこで辛抱づよく鳴きつづけていたのか知らない。あけてやると、遅かったじゃないか気づくのがほんとに遅かったじゃないかと言いたげなようすで入ってきて、 そのへんを点検し、ひとしきり鳴いて、すうっと、トイレの窓から外に出ていって、はっと気がつくと、窓ガラスに顔を押しつけてネコが鳴いていて、声は聞こえないから無声映画でも見てるような気になる。あけてやると、長い間待ってたんだよほんとに待ってたんだよと言いたげなようすで入ってきて、そのへんを歩きまわり、ひとしきりからだをこすりつけて、またすうっと、トイレの窓から外に出ていって、はっと気がつくと……というくりかえしを一日に何回やってるのだろう。わたしは、家の中にいるかぎり、いつもいつも窓を、ネコに開けさせられているという被害妄想におちいりそうになるが、しかし冷静に考えてみれば、そういえばもう半日もネコの姿を見ていないじゃないかということにもしょっちゅう気がつくのだ。そうなると、轢かれて死骸になってるんじゃないかしら、その死骸を発見したときはどんなきもちかしらと、したくもない想像をむりやりさせられているというべつの被害妄想におちいりそうになる。つまりネコは、一日中、窓から入ってトイレから出る窓から入ってトイレから出るをくりかえしているわけじゃない。そのしょうこに、誰もいないときに、ネコは、二階の窓を勝手にあけて入りこみ、子どものベッドで寝ている。またここにいたあ、とベッドをとられた子どもがさけんでいるのをたびたび聞く。そういう民話があったっけ。だれだ、おれのベッドに寝たやつは、と大きいクマと中くらいのクマと小さいクマが交互にさけぶのである。二階の窓を開けられるんなら、どうでしょうか、いつもそこから出入りしてくれませんか、とわたしはネコになんどか頼んでみたが、頼まれごとをされているネコは、何もできない何もわからないふりをする。トイレの窓だっていつもあいているわけだし、こっち側から出ていくだけの技量があるなら、向こう側から入る技量だってあるはずだが、どうも、てまひまかけてこそネコの飼い甲斐があると心のどこかでわたしは思っているらしく、ちっとも矯正しないまま、あいかわらずはっと気がつくと、ネコは窓の向こうにいて口をあけて鳴いている。家人はいないよりいた方が絶対いい、とネコは確信している、とわたしは思う。とくに家人がいないときにそう思う、と思う。しかし、家人が家に帰ってきさえすれば、もう、そんなことはどうでもよくなる。こんなとこにいたってしょうがない。あああ、息がつまるじゃないか、この家庭というやつは、とネコは思う、とわたしは思う。 それより、一人っきりの時間がほしい。自由もほしい。で、外に出ていく。雨が降ってようが陽が照ってようが、かまうことじゃない。しかし外に出るとたちまち、家人が家にいるかいないか気になりだして、確認しないうちはおちおちテリトリーのみまわりもできやしない。で、それを確認しに帰ってくる。家人が家にいたからって、たいしたことをしてくれるわけでもないけれども、どういうわけか、いた方がこころよい。いや、いるかいないかよりも、自分のために窓をあけてくれるかくれないかだけでも、確認したい。ついでに、自分のために、缶づめをあけてくれるかくれないかも、確認できたらもっとうれしい。缶づめの肉が食べたくて、帰ってくるわけじゃない。まちがってもらっちゃこまる。自分はそんなにいやしくはない。たしかにあれはおいしいが、そんなことはどうだっていいのだ。問題は、家人がそれを、自分のためにあけてくれるかどうかだ。自分の存在に気づいてくれる。窓をあけてくれる。缶づめをあけてくれる。それさえ確認できれば、何もかも捨てて外に出ていける。じっさい中に入るやいなや、ネコはたちまちすうっと外に出る。もらった肉を食べもしない。あああ、息がつまる。だから家庭は性にあわない、イヌやウマなんて奴隷根性の活発なやつらならいざ知らず、自分らみたいな、根っから自由をもとめる動物にとっちゃ、どーもね。でも出ていけば、五歩も歩かないうちに、たちまち気になってくる。確認したくなる。気づいてくれるかどうか。窓をあけてくれるかどうか。缶づめをあけてくれるかどうか。それで窓ぎわにやって来てガラスに顔を押しつけてにゃあと鳴く。ほらほらほら、鳴いているんだよここで鳴いているんだよ、どうして気がつかないんだとネコは真剣である。気づいてくれるか、あけてくれるか、 それさえ知られるなら、もうあとは何もかも捨てて外にでていったっていいんだ。(チューブについて)
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「ネコの家人」について 松下育男
伊藤さんの詩には動物が頻繁に、それもかなり重要な役割として出てきます。この「ネコの家人」はまさにネコとの顛末が細かく書かれているわけですが、『とげ抜き』では犬の存在がとても大きく感じられます。
自分の居場所を喪失していると感じる時に、ネコや犬がそばにいてくれることが、自分の在り処を確かめさせてくれるようなものなのかと思われます。
雑草も生き物ということであれば、あるいは人の男も生き物ということであれば、雑草や男や娘や犬やネコに取り囲まれて常に奮闘している感じがします。それこそが、伊藤さんが生きるということなのかと思われます。
この詩はネコの出入りに関する考えがとても面白くて、おかしくて「てまひまかけてこそネコの飼い甲斐があると心のどこかでわたしは思っているらしく」とあるところなんかは、ネコのことだけを言っているのでなく、伊藤さんが関わるいろんな人や出来事も、なぜか伊藤さんにとって手間ひまかかるものになってしまうようです。それは相手方だけの問題ではなく、ここに書いてあるように、「てまひまかけてこそ人やものごとに対処する甲斐があると心のどこかでわたしは思っているらしく」と感じているようなところがあるのではないかと思われます。どうも生きていることにさらっと向き合う、なんてできないようなのです。そんなのは生きているとは言えないのだと。
それから、「自分の存在に気づいてくれる。窓をあけてくれる。缶づめをあけてくれる。それさえ確認できれば、何もかも捨てて外に出ていける。」この部分こそが、伊藤さんの根底にあるテーマなのかなと思います。この言葉は、人との関係、信頼性、自分の居場所、世界との関係ということを如実に語っていると思えます。途方もなく独立心があるのに、途方もなくサビシガリヤでもある。
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「チョウチョユージ」 伊藤比呂美
十年このかたチョウチョの世話ばっかりしてきた。このごろ白髪がずいぶんふえた。体重はもともと少ない。一時期普通の男のような体型になりかけて、もう若くないから若くないからと人にいわれたけれども、その直後にチョウチョがいろいろと心配をかけてくれたので、たちまちもとの体重、もとの体型にもどった。なにもユージは、その体型に固執しているわけではない。だからタバコも吸いたいだけ吸うし、油っこいものもご飯も、食べたいだけ食べる。 それでも首まわりは十代の男の子のように弱々しく、手足も十代の男の子のように細長く、胸板も十代の男の子のように薄い。十代の伸長しかけた男の子がアンバランスな手足、肉体、精神を持っているのと同じようにだ。白髪だけふえた。むかしは、禿げる禿げると人にもいわれたし、自分でも思っていたけれども、生えぎわはたいして後退せずにすんだ。でも髪の量はみるみる少なくなってきて、風がふいて髪の毛を逆立てると、地肌が大きく透いて見える。こうやって、全体的に、じょじょに、じょじょに、禿げていくのかもしれない。
ユージはチョウチョの世話を焼くために、かなりの手間もひまも、金もかけてる。ガラスケース3個、プラスチックのケース1個、何鉢もの植物、蜜の入った皿。ぜんぶユージが揃えてやった。もういくつもサナギにしたし、羽化もさせた。だから、チョウチョの正体はしっかりつかんでいる。
チョウチョは音痴なんだ、とユージはいった。
チョウチョはハモることができない。あなた、子どもたちに伝えてやってという曲を知ってますか?とユージはいった。
いいえ。
(この部分略します)
でも、ある晴れた秋の日、チョウチョに、うたえる歌が一曲できた。 それはほとんどうたわずにすむ歌だった。口の中でもごもごつぶやいていればいい歌だった。感傷的で主体的な歌だった。こういうのです。わたしが若かったころ、今よりずっと若かったころ、わたしはだれかの助けを必要とするなんてとうてい考えてもみませんでした。でももうそういう時期はすぎてしまいました。わたしはふらふらゆれています。考えをあらためました。人に心をひらいて助けをもとめようと思います。助けてください。地に足がついてないんです。これをなんとかもとに戻したいんです。
ユージにむかってうたってるんじゃないんですから、誤解しないでください、とチョウチョはいった。この歌もユージなら自由自在にハモることができるの。もともと声の甲高いユージなら、どんな高音だってらくにうたえる。のびのびと高音をのばせる。
甲高い声をしているユージの声の、その甲高さとはなにか、チョウチョは考えている。それはあまりに高い声だった。チョウチョのはそれはせまい音域かもしれないけれど、その音域より一オクターブはゆうに高い声を出した。かるがると、ユージは。あるいはユージは、いつか、チョウチョにはだまって、去勢手術を受けたのかもしれない。可能性はある。今まで、去勢しているかどうか、疑ったこともなかったから確かめなかっただけだ。
あの高い声はどうしたってそんな気がする。
なにいってるんだ、去勢手術なんかするはずないでしょう、ネコやイヌじゃあるまいし、とユージはいった。わかんないわ、証明できないじゃないの、子どもでもつくらないかぎり。子どもなんて、とユージはいった。ほとんどため息だったけれど。そんなものをつくってどうなるんですか。ばかばかしい。もっと世話するものが殖えるんですよ。ガラスケースだってこれじゃ足りなくなる。ぼくは一生身の潔白を証明できなくってもいいとしよう。いくら高音部をうたってやっても、おまえはそれをぼくの愛情と受けとらず、ぼくの生理的な結果だと思うんですね。
ええそうよ、とチョウチョはいった。去勢雄はきらいじゃないから、気にしなくていいのに、いいえむしろ、去勢してない雄より去勢雄の方が好きだったのに、今までも。あなたはきっとあたしの理想的な存在なのかもしれない、といってチョウチョは一曲だけ覚えた例の歌をうたいはじめた。うたうというより、つぶやく。かたる。となえる。
男の低音にははるか及ばないけれど、人をのろうくらいはできる低いつぶやきでもって、チョウチョはうたう行為の代償にする。
あなたがもし、わたしを助けてくれたら、わたしはとてもそれをうれしく思います。助けてください。ちょうどあなたみたいな人にそばにいて、助けてもらいたいんです。
ユージはそのことばに、高音部をつけていった。それはうたう行為ではないとチョウチョには認識されているので、いつもならたちまちゆらぐはずの高音部をつけられても、今はなにもゆらがない。ゆらぐものがない。うたってると思いさえしなければ、ただのかたり、おしゃべり、まじない、のろい、そんな行為だと思いさえすれば、あたしだって音痴じゃなくなる、とチョウチョは思った。これからずっとこういう歌だけうたっていけばいいのだ、とユージも思った。かたる(となえる) (のろう)だけにして、そこにユージが出しゃばって上から自分のことばをかぶせていけばいいのだ。それをチョウチョはちっともうっとうしいとは思わないし、むしろチョウチョはユージの雑音をちからにして、自分のいいたいことをいいつづけられる。やっと、ひとつ問題は解決した。チョウチョはずっとうたいつづけられる。ずっと一本調子の、高い低いの欠如した音程のまま、去勢雄のようなユージの高音といっしょにうたいつづけていくことができる。
助けてください(助けてください) むりはいいません(いいません)でももし助けてくれたら (くれたら) わたしはきっととてもうれしいと思うでしょう (きっとうれしいと思うでしょう) どうか(どうか) 助けてくださいか(ください、 どうか)どうか(どうか) どうか(どうか)。
(*Teach Your Children/Crosby, Stills, Nash & Young
Help!/Lennon & McCartney から参照箇所あります。)
*
「チョウチョユージ」について 松下育男
今回、伊藤さんの詩を読んできて、この詩が一番難しく感じられました。
この詩集『手・足・肉・体 Hiromi 1955』(筑摩書房 1995)は写真家の石内都さんと二人で作り上げた詩集です。写真と詩でできあがっています。交互にお行儀よく詩と写真が並んでいるというよりも、どこか暴力的な並べ方です。唐突に長い詩が出てきたり、唐突にたくさんの写真が連続して出てきます。
写真を撮ったのは当然、石内都さんですが、撮られたのは伊藤比呂美さんです。詩集の題にもあるように伊藤さんの手や足や肉や体が至近距離で撮られています。確かに肉体、というよりも肉や体なのです。
伊藤さんは写真を撮られているというよりも、みずからをさらしている感じです。なぜこれほどまでに伊藤さんはさらそうとするのか。それは伊藤さんにとっての詩のあり方ともつながっているように感じられます。
詩も、伊藤さんによってさらされたものです。さらされるものはいつも唐突です。「チョウチョユージ」という言葉自体も、そこに描かれてゆく出来事も、すべては唐突に読み手の前にさらされたものです。それは伊藤さんの頭の中に去来したもので、その有様や出来事の意味を問われる以前に、そのまま詩にさらされます。
読む側はこの唐突感と、非常に個人的な感じ方のあとを、とぼとぼと追ってゆくことになります。
ぼくは、逐語的にこの詩を解釈しようとするよりも、伊藤さんのさらされた頭の中を、ただ一枚の写真のように、微細に眺めようとするばかりです。
生き物に関わることを書いています。生き物の面倒をみる、ということであれば伊藤さん自身のことを思います。ユージというのは男の人の名前ですが、ぼくにはユージは伊藤さんのことではないかと思われます。そしてチョウチョは伊藤さんに深く面倒を見られてきた、犬やネコや娘や父母や、男のことではないかと思うのです。さらに言えば、チョウチョは、時に伊藤さん自身のことでもあるのではないか。
そして後半、チョウチョが歌をうたうことが延々と語られています。この歌は、伊藤さんの詩であると、どうしても読んでしまうのです。
「わたしが若かったころ、今よりずっと若かったころ、わたしはだれかの助けを必要とするなんてとうてい考えてもみませんでした。でももうそういう時期はすぎてしまいました。わたしはふらふらゆれています。考えをあらためました。人に心をひらいて助けをもとめようと思います。助けてください。」チョウチョのこの言葉は、伊藤さんの奥底から絞り上げられた心の声以外のなにものでもないと感じられるのです。
書かれているものは理解の外にまで突き進んでしまうこともあります。それでも、どの一行からも、心底から両腕を伸ばした「助けてください」が、その意味をきちんと携えて聴こえてくるのです。
*
「助けてほしい、どーしたらいいのかわからない」 伊藤比呂美
高いところに登るとつい飛びおりてみたくなる
薬があると一箱飲んで眠ってしまおうかと思う
切れそうな刃物を持つと手首切ったときの痛みを想像して
もちろん駅だって
誘惑にかられずにホームを歩くのがむずかしいくらい
そしていつも考える
危機一髪のところで男が助けに来て
白雪姫みたいに
わたしは抱きかかえられて
男の胸に顔をうずめる
ただの妄想にはちがいないけど
昔から妄想がだいすきだった
男に依存するのもだいすきだった
でも昔は
こんなじゃなかったはずだ
月経だって乳房だってぴちぴちしてたあのころは
もっと自分自身を持ってたし
意地も意気地もあった
男なんかいなくたってやっていけるぐらいの啖呵は切ってたような気がする
いつから
こんなになっちゃったんだろう
愛なんてちんぷなコトバはぜったい使わないから
せめて
わたしの存在が必要だとか
大切だとか
せめて、わたしの存在が自分の日常を
とても刺激しているとか言ってほしい
所有したいなんて思ってない
ただそこにいてほしい
多少距離をおいたそこ
すぐそばにいてくれと言ってるんじゃない
わたしを見ていてほしい
わたしの存在を認めて
わたしに情欲を感じて
そこにいてほしい
自殺を助けに来いなんて言わない
愛してくれとも頼まない
破壊力の強い感情を必死で抑えて
そっちへむかっていかないように
抑圧してるんだけど
どーも足が地につかない
自分が自分じゃないみたい
ここにいるわたしは
あの
健康でたくましかったわたしじゃない
助けてほしい
どーしたらいいのかわからない
いいおとなが
いまさら男に依存したがって
じだんだ踏んで
みっともないったらない
*
「助けてほしい、どーしたらいいのかわからない」について 松下育男
すごく率直な詩です。その率直さに胸を打たれました。何を言ったらいいかとか、どう書いたらいいかとか、そういう策略を抜きにして、無防備に出てきた言葉を並べています。それって、できるようでなかなかできないものです。
最初に自殺願望があることが書かれていて、でもその願望は、自殺ではなくて、男に助けてもらいたいということなのだということが、すぐに白状されます。
「白雪姫みたいに/わたしは抱きかかえられて/男の胸に顔をうずめる」とあります。なんと率直な言葉だろうと思います。普通こういう言葉は人には言わずに隠しておきます。こういうところにも、自分の甘ったれな様子をそのまま書く勇気と覚悟を感じます。
「所有したいなんて思っていない/ただそこにいてほしい」なんてところを読むと、なんと健気なんだろうと思うわけです。でも、そのあとで「わたしに情欲を感じて」とあり、男が女に情欲を感じているのに「多少距離をおい」て、「ただそこにいてほしい」というのは、男にとってはなんとも残酷な状況ですが、そうか、女性というのはそんなことを考えるものなのかと、納得もするわけです。
でも、この詩はとても真面目で、真面目に悩んでいるわけで、「どーしたらいいのかわからない」という言葉は、まさに叫び声のようにも聞こえるわけです。
伊藤さんでなくても、若い頃にはなんでもなかった感情が、ある年齢になると耐えられなくなってきて、人に縋りたくなることはあります。生きていくっていうのは、大人になって生きてゆくというのは、並大抵のことではありません。
その辺の感情を、飾らずに、率直に表しているこの詩を、ぼくはこよなく好きなのです。
*
「河原を出て荒れ地に帰る」より (『河原荒草』) 伊藤比呂美
(ここまで略)
係りの人はむずかしい顔をしてコンピュータをみつめ
どれほど長く、と私にききました
どれほど長く、この国を離れていたか?
私は答えました
係りの人はコンピュータをみつめ、スタンプを押しました
あなたのパスポートには汚点がある、
汚点は取り除けないから、
不都合をなくすためには、
あなたはこの国に、
もともとは自生しないが自生するものであるように、
あらためる(本来の自生地から他地域にはこばれ、野生化し繁殖する)、
しか方法がない、
と係りの人は私にいいました
タチスズメノヒエ
アレチハナガサ
オオアレチノギク
私は妹を抱いて弟を
こづいて外に出ました
外は雨上がりで、まるであの河原のように蒸し暑く
光にみちみち
生い繁るものは輝く緑でした
ぞろぞろぞろぞろ出てきました
カワラアレクサ
ヒメムカシヨモギ
セイバンモロコシ
もともとは自生していないが自生しているものとしてあらためたものたちが
外に出てきました
たんなる通りすがりのものたちも行って帰るものたちも
外に出てきました
なんと湿っていることか、こんなはずはない、ここでは、
と私たちの脇で
オオアレチノギクがアレチハナガサにぎこちない言語で話しかけました
ずっと雨でした、私たちは冬じゅう雨を持っていました、百年ぶりの雨の年、
とアレチハナガサがさらにぎこちない言語で答えました
雨がっ、雨がっ、雨がっ、
と、アレチハナガサは激しいアクセントでどもりはじめ
どもりおえないうちにこんなことばを吐き出しました
故郷のように、
荒れ地に、かえろうと
思って帰ってきたのでした
弟と妹も連れてこないわけにはいきませんでした
母のやり方を見ていましたからどうすれば帰れるか私にもわかりました
歩いていけといわれたらできるかどうか自信はないが
乗り物を利用すれば
あっという間に遠いところに行ける
空港の建物から出て、雨を避けながら長い間バスを待ちました、そのバスに乗って長い間揺られました、情けなくなるほど窓ガラスの汚れたバスでした、人がぽつりぽつりと乗り降りしていきました、どの人もみな、もともと自生していた場所を離れてここに住み着いたものたちでありました、このあたりに生えてるものといったらイキル、イキテル、イキルカシ、ライブ、オーク、セージのやぶとサボテンとリュウゼツラン、セージのやぶとサボテンとリュウゼツラン、汚れきった窓の外を目を凝らしてみていると、ところどころにイキルカシの木が焼けこげて立ち枯れていました、まっくろでした、どうと横倒しに倒れているものもありました
(このあと略)
*
「『河原を出て荒れ地に帰る』より」について 松下育男
長編詩『河原荒草』(思潮社2005)から。
「河原荒草」というのはかなり変った詩で、なんともすごい長編詩というか、これまで読んだことのない変った物語が延々と続きます。物語の初めは、人のことを延々と書いているのですが、そのうちに雑草のことが出てきます。そうか、雑草も人も、生息地があり、そこから別の国、別の場所に移るということがあるのだなと、そんなふうに読むことができました。雑草に喩えて、人の居場所のなさ、帰属ということの辛さ、やるせなさ、手の差し伸べ方、そんなことを書こうとしているのかなと思っていたのです。
ところがこの詩は、喩える、ということの範囲を超えて書かれてゆきます。途中から、雑草が人のことのようであり、人が雑草のことであるようになってゆくのです。双方が食い込んでいって、お互いの寄るべなさをせり上げてゆくような格好になってゆくのです。
「アレチハナガサは激しいアクセントでどもりはじめ」と雑草が話し始めもするのです。というのも、ここまでくると、雑草のことを書いているのか、人のことを書いているのか、皆目わからなくなってきているというか、どちらでも同じだという感じになっているのです。
ですから「このあたりに生えているものと言ったらイキル、イキテル」と、いうことになっていて、人も生えていて、全ての「生きる」は生えているものになっているのです。
雑草と人間がまじりあっています。いえ、まじるというよりも、両方のものになっています。自分の居場所が不明であるということの心細さ、苛立たしさ。外来種の雑草の心細さをまさにひとつの家族、あるいは自分に照らし合わせて描いている、とても壮大で、寂しくも見事な長編詩になっています。
「イキル、イキテル、」という植物の葉先のことを考えながら、つい自分の老いた指先を見てしまうのです。そしてそれから、植物と私の違いは何だったろうと思いを馳せ、もともといた場所、いるべきであった場所をきれいに忘れて、どこにもいないだれでもない私として、この詩を読み終えることができるのです。
*
「良い死に方悪い死に方、詩人が死を凝視める事」より 伊藤比呂美
(ここまで略)
そうしているうちにも次の歌です。
暁静かに寝覚めして
思へば涙ぞ抑へあへぬ
儚くこの世を過しては
いつかは浄土へ参るべき、と詩人は読み上げました。
いつかは浄土へ参るべきといいますから、なんていうか、涙にもなんとなく救いがあるんですよね、と詩人がいいました。
わたしは納得しかねて申しました。
いつかは浄土へ参るだろうという意味でしょうか。
「べき」だから、かなり強いですよ、参るべき、参るのである、という、と詩人はいいました。
この歌を、わたしはもっと否定的に、こんなにいい加減に生きていたんではいつになったって浄土へなんぞ行かれるものではないと読んでいました、とわたしは申しました。
いや、これはそうじゃない、と詩人はいいました。この思いというのは、例えば親が恋しいとか、夫に別れた、生き別れか死に別れか知りませんけど、好きな人に別れた、もう帰ってこないとか、あるいは子供を失ったとか、なにかひどい運命に陥っているとか、いろいろでしょうけれど、「思へば涙ぞ抑へあへぬ」というのは、その無量の思いがあって、暁というのは、寒かったりするじゃないですか。
ええ、寒いですね、とわたしはうなずきました。
詩人はこのようにつづけました。
寒さと悲しさでね、
自分の一生は儚かった、と、
この先も儚いであろう、と、
だけれども、自分も仏様になるのか、仏様がお迎えに来てくださるのかわからないけれど、
この現世の苦労もいつかは終わるんだ、と、
そして終わった先には浄土があるんだ、と、
「いつかは浄土へ参るべき」と思うことで、今ここで救われたわけじゃないけれど、やっぱり救いの道はあるんだ、と。
それでわたしは申しました。
前におかきになったお経、お経みたいな詩、あれを読んだとき、誰そ彼さんがおかきになる世界、そこには「死」というのがやっぱり抗いがたくあるんだけれど、死よりもっと生きているものがいっぱいあって、あそこにもここにも、生きているものが、ちっちゃいものもいっぱい生きていて、その裏っ返しに全部死が影のようにくっついていてという、そういう世界がぱっとあらわれてきたんですよね、あれをね、読んでいただきたいの、折角ですしね、朗読していただきたいんです、どうでしょう、お願いをいたします。」
(このあと略)
*
「『良い死に方悪い死に方、詩人が死を凝視める事』より」について 松下育男
長編詩『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』(講談社2007)からの一篇です。
『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』というのは、本当に見事な詩集です。というか、詩集かどうかはわからないのです。でもジャンルはどうあれ、すごい書き物です。ジャンルはどうあれというものの、詩集以外にくくる場所はないかなとも思えるわけです。これでもない、これでもないと、どこのジャンルでもない書き物は詩集にしていいのだと思うのです。それが本来の詩集なのではないかと。
この詩集は、作者の日々をそのまま書き表しているようです。亭主のこと、亭主とのこと、娘たちのこと、娘たちとのこと、両親のこと、両親とのこと、アメリカのこと、熊本のこと、移動するということ、どうしてこんなに忙しいのかと思われるほどの日々が事細かに書かれてます。忙しいだけではなくて、ひとつひとつが厄介なことばかりです。そんな渦中に巻き込まれているのか、あるいは伊藤さん自身が渦中の中心にいて、渦を作り出しているようにも見えてきます。
ともかく、家族のとんでもないゴタゴタが描かれていて、それがそのまま人が生きることとは何かということを考えさせてくれます。そうすると自然に、自分の死を見つめるところまで考えは進んでゆき、最後のところで石牟礼道子さんと会話するところに行って、ここではまさに、死について語り合っています。ぼくはここのくだりが一番好きです。そうか、この長い詩はここに流れ着くんだなってことがわかります。お母さんのことも、お父さんのことも、娘さんのことも、犬のことも、あらゆるものが、いろんなとこから流れきて、ここにくるんだなってわかって、この辺を読んでいて泣きそうになりました。
あれだけたくさんの出来事に正面から向き合って、戦ってきたからこそ、ここの石牟礼さんとの会話が、無性に美しく、神々しく感じられるのです。
「死よりもっと生きているものがいっぱいあって、あそこにもここにも、生きているものが、ちっちゃいものもいっぱい生きていて、その裏っ返しに全部死が影のようにくっついていて」
この個所には真に感動しました。この詩集は、現実というもののすごさ、恐ろしさをじかに感じますし、それに対峙できる言葉が確実にここにあります。こんなに真っ直ぐで「分厚い言葉」の詩集は他にはないと思います。
*
ということで、伊藤比呂美さんの詩を読んできました。伊藤さんの詩も、詩の中に出てくる人も、すごいな、いつも全力で頑張っているなと、思いながら読んでいました。頑張るって美しい。頑張るってひとつの能力です。その能力を使いきろうとするのも能力です。と、頑張ってこなかった僕は、あと少しの人生を、伊藤さんのように美しく頑張ってみようかと思えたというわけです。ありがとうございました。いつもながらの迷読、誤読、ご容赦を。
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